ユアホスト

和名:ユアホスト

英名:Your Host

1947年生

鹿毛

父:アリバイ

母:ブードワール

母父:マームード

非常に見栄えが悪い上に気性も激しい欠点だらけの馬ながら快速競走馬として活躍し、致命的な怪我を強い精神力で乗り越え、後に名馬ケルソの父となる

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績23戦13勝2着5回3着2回

誕生からデビュー前まで

ルイス・バート・メイヤー氏が米国カリフォルニア州に所有する牧場で誕生した。メイヤー氏は米国の大映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(通称MGM。全盛期には星の数よりも多いスターを擁すると評された)の創設者の一人で、ハリウッドの最高権力者として長年に渡り君臨し、米国映画史上で最も重要な人物の一人とされている。この時期には馬主業にも精を出しており、本馬の両親アリバイとブードワールは当時共にメイヤー氏の所有馬だった。

本馬は子馬の時期から非常に見栄えが悪い馬だった。まず、右の眼と耳が、左の眼と耳より1インチ(約2.54cm)も高い位置にあったという異相の馬だった。また、産まれて間もない時期の怪我が原因で首が曲がっていた。しかも、肩から背中にかけて右側が窪んでいた。さらには、四本脚全てにストッキングを履いていた。これは四白と呼ばれ、米国だけでなく他の国においても昔から不吉であるとされていた(例えば、中国の有名な小説「三国志演義」に出てくる劉備玄徳が乗っていた的盧も四白で不吉であると指摘されている。もっとも、劉備玄徳は暗殺されかかったところを的盧に乗って険しい谷の檀溪を超えて命拾いしている)。もっとも、本馬の父方の祖父ハイペリオンも四白であり、そんなものは迷信であるのは間違いないのだが、当時はそれを信じる人間も少なくなかったようである。そして身体は小柄であり、気性も激しく、全てにおいて欠点だらけの馬だった。

それでも本馬はメイヤー氏が主催した2歳馬のセリに出され、メイヤー氏の娘婿である映画監督ウィリアム・ゲーツ氏の指示を受けたハリー・L・ダニエルス調教師によって2万ドルで落札された。そして本馬はゲーツ氏の所有馬として、ダニエルス師の管理馬となった。しかし本馬は神経質で頑固な気性の持ち主で、調教は上手く進まなかった。しかもデビュー前にはウイルス性疾患に罹り、生命の危機に晒された。獣医の看護と本馬自身の頑張りにより幸いにも一命を取り留めているが、上述したように欠点だらけの本馬は、デビュー前の評価は非常に低かった。本馬はその外観と走り方から、“Old Sidewinder(「老いたヨコバイガラガラヘビ」の意味。この蛇は身体を斜め前に移動させる)”、“The Twister(ねじれた者)”などと呼ばれていた。調教助手のタフィー・モーラン氏は「ユアホストは誇り高い馬で、常に人の好意を求めていた」と語っており、愛情に飢えた幼少期を送っていたのかもしれない(書いていると何となくサンデーサイレンスに似ている気がしてきた)。しかし2歳時にデビューすると、素晴らしいスピード能力と、強い気性に裏打ちされた高い闘争心を発揮し、予想外の活躍を見せた。

競走生活(2歳時)

7月にサンタアニタパーク競馬場で出走したダート6ハロンの未勝利戦では着外に敗れてデビュー戦を飾れなかったが、それから8日後に同コースで出た未勝利戦では名手ジョニー・ロングデン騎手を鞍上に4馬身差で勝ち上がった。その後はデルマー競馬場に場所を移して一般競走に2回出走。1戦目は鼻差2着に敗れたが、2戦目は勝利した。

そして次走となった9月のデルマーフューチュリティ(D6F)では、2着ブルーリングスに4馬身差をつけ、後の本邦輸入種牡馬スターディワンを3着に破ってステークス競走初勝利を挙げた。翌月のホームブレッドS(D6F)では125ポンドのトップハンデを課された影響もあり、後のラホヤH・ビングクロスビーH・サンディエゴH・デルマーH・サンカルロスH勝ち馬ブルーリーディングの2着に敗れた。11月のサリナスH(D8F)では、直線で他馬に進路妨害を受けて2着となった(本馬を邪魔した馬は降着になったが、1位入線馬は無関係だった)。年末のカリフォルニアブリーダーズチャンピオンS(D8.5F)では、進路妨害を受けないようにしたのか、スタートからゴールまで先頭を走り続け、ブルーリーディングを2着に破ってホームブレッドSの借りを返した。

2歳時の成績は8戦4勝2着3回だった。主戦のロングデン騎手は本馬の滑らかな走り方を、かつて自身が主戦を務めた米国三冠馬カウントフリートになぞらえるほど高く評価したし、米国の名門カルメットファームの専属調教師ジミー・ジョーンズ師も、カルメットファームとは全く無関係の本馬を「同世代の他馬より10ポンド斤量が重くても勝負になる」とデイリーレーシングフォーム紙上で評価したが、見栄えが悪い本馬に対する偏見を有する人間もまだいたようである。

競走生活(3歳前半)

3歳になっても活躍は続いた。手始めに1月のサンフェリペS(D7F)に出走すると、ブルーリーディングや後のシネマH・デルマーダービー・サンタアニタマチュリティS・サンセットH勝ち馬グレートサークルを蹴散らして勝利した。さらに翌月に出たサンタアニタダービー(D9F)では、スターディワンを2馬身半差の2着に、グレートサークルを3着に破って、1分48秒8のレースレコードで勝利。

この段階で米国西海岸最強3歳馬としての地位を確立した本馬は、ケンタッキーダービーを目指して東上。まずは前哨戦としてキーンランド競馬場において新規創設されたフォアランナーS(D7F)に出走。ピムリコフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティS・エヴァーグレイズS・フラミンゴSなどを勝ってきたオイルキャピトル、ブルーグラスSでオイルキャピトルを2着に破って勝ってきたミスタートラブル、シャンペンS勝ち馬でベルモントフューチュリティS・エヴァーグレイズS2着のセオリー、アーリントンフューチュリティ勝ち馬ウィスコンシンボーイ等の実力馬達が相手となった。しかし本馬が2着ミスタートラブルに6馬身半差をつけて、1分22秒4のコースレコードを計時して圧勝。これらのメンバー相手にこの勝ち方だったため、今まで本馬を軽視してきた人達もさすがに脱帽し、「カリフォルニア州が生んだ史上最高のサラブレッド」「ローズベン(筆者注:20世紀初頭の米国短距離路線で大活躍した馬で、米国競馬の殿堂入りも果たしている)以来最も速い馬」と評価するようになった。こうした活躍により、本馬はケンタッキーダービーの最有力候補として認知され、“The Magnificent Cripple(堂々とした障害者)”という渾名で呼ばれるようになった(ただし中には“The Freak(奇形の者)”と評するマスコミもいた)。

そして迎えたケンタッキーダービー(D10F)では、ロングデン騎手が騎乗した本馬が、ワールズプレイグラウンドS・バビロンH・カウディンS・ウッドメモリアルSを勝ってきた前年の米最優秀2歳牡馬ヒルプリンス、ミスタートラブル、ホープフルS勝ち馬でダービートライアルS2着のミドルグラウンド、ブルーグラスS3着馬オンザマーク、オイルキャピトル、ダービートライアルSを勝ってきたブラックジョージ、チェサピークSを勝ってきたサングロウ(名馬ソードダンサーの父)などを抑えて、単勝オッズ2.6倍の1番人気に支持された。本馬はスタートから逃げを打ったものの、ミスタートラブルやブラックジョージといった他馬に延々と競りかけられた。そのために同競走史上当時2番目のハイペースでレースは進んだ。その結果、本馬は直線に入る前に失速し、ミドルグラウンドの13馬身1/4差9着に敗れた。敗因については、ハイペースになった他に、元からスタミナが不足していた、本馬の身体に折れた注射針が何故か刺さっていた等が挙げられているが真相は不明である。ただ、本馬の快速はどちらかと言えば短距離向きである事は確かだったようで、基本的にその後は10ハロンより短いレースを走る事になる。また、主戦はロングデン騎手からジョニー・ギルバート騎手に交代となった。

競走生活(3歳後半)

この後は地元の米国西海岸に戻り、6月にデラウェアパーク競馬場で行われたケントS(D8.5F)に出走して勝利。それから18日後にはアーリントンパーク競馬場に姿を現し、ディックウェルズS(D7F)に出走。ウィスコンシンボーイを2着に、オイルキャピトルを3着に破って勝利した。さらに17日後にはアーリントンクラシックS(D10F)に出走したが、ドワイヤーSを勝ってきたグリークソング、メイトロンS・セリマS・デモワゼルSなどを勝っていた後の米国顕彰馬ベッドオローゼズの2頭に後れを取り、グリークソングの3着に敗れた。引き続きワシントンパーク競馬場に場所を移してシェリダンH(D8F)に出走すると、126ポンドのトップハンデを克服して勝利。次走のアメリカンダービー(D10F)では、ケンタッキーダービー2着後にウィザーズS・プリークネスSを連勝していたヒルプリンス、前走シェリダンHで2着だったオールブルーの2頭に屈して、ヒルプリンスの3着に敗れた。

その後は地元に戻り、11月のプレミエールH(D7F・現シューメーカーマイルS)で、アーリントンラッシーS・アッシュランドS・モデスティH・ヴァインランドH・ブラックヘレンHなどを勝っていた2歳年上の名牝ビウィッチと対決。しかしハリウッドジュヴェナイルCSS・デルマーフューチュリティを勝っていた1歳年上の騙馬スターフィドルが勝利を収め、スターフィドルより17ポンド重い125ポンドを背負っていた本馬は2着、114ポンドのビウィッチは4着に敗れた。プレミエールHの僅か4日後にはゴールデンステートブリーダーズH(D8.5F)に出走。このレースではビウィッチに代わって、CCAオークス・ガゼルH・ベルデイムHを勝っていたこの年の米最優秀3歳牝馬ネクストムーヴという名牝が対戦相手となった。また、本馬より3歳年上のサンタアニタダービー馬オントラストも出走してきた。しかし本馬がネクストムーヴを2着に破って勝利した。

それからさらに12日後にはサンクスギビングデイH(D8.5F)に出走。このレースには、アメリカンダービー勝利後にジェロームH・ジョッキークラブ金杯も連勝していたヒルプリンス、前年のケンタッキーダービーを筆頭にピーターパンH・アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯・サンタアニタマチュリティS・サンアントニオH・アーリントンHを勝っていたポンダーという強敵が2頭出走していた。しかし本馬がゴール前の大接戦を制し、ポンダーを鼻差2着に、ヒルプリンスをさらに首差の3着に破って勝利した。3歳時の成績は12戦8勝2着1回3着2回で、着外はケンタッキーダービーのみだった。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続け、まずは元日のサンカルロスH(D7F)に出走。ここでは5ポンドのハンデを与えたボレロの2着に敗れたが、勝ったボレロの勝ちタイム1分21秒0は当時の世界レコードだった。

本馬は引き続いて5日後のサンタカタリナH(D9F)に出走した。このレースは伝説の一戦とされている。本馬は130ポンドのトップハンデを背負って出走したが、レース中の残り5ハロン地点の辺りで本馬の鞍がずれ落ちてしまい(肩や背中が右側に窪んでいたのが原因と思われる)、乗っていたエリック・ゲリン騎手(4歳時から本馬の主戦になったため、あまり乗り慣れていなかったらしい)は危うく落馬するところだった。それでもゲリン騎手は何とか本馬の鬣にしがみついて落馬を免れた。そのような状況ながら本馬は馬群の間を縫うようにして先頭に立ち、1分48秒4のコースレコードを樹立して勝利し、サンタアニタパーク競馬場に詰め掛けた観衆を驚嘆させた。

しかしそれから1週間後に出走したサンパスカルH(D8.5F)のレース中に本馬を奇禍が襲った。スタートから先頭に立って馬群を牽引していた本馬だが、四角で本馬に並びかけようとしたレナウンという馬に接触された本馬はバランスを崩した。ゲリン騎手の手腕では体勢を立て直すことは出来ず、本馬は右側に転倒して競走中止となった(前走サンタカタリナHで2着だったムーンラッシュが勝利。ムーンラッシュはこの勢いでサンタアニタHも勝利した)。

本馬の調教助手モーラン氏が駆けつけた時には、本馬の右前脚の尺骨が四箇所で折れてしまい、右肩や右脚の上部も損傷を受けているという状況で、本馬は想像を絶する苦痛の中で頭だけを上げて弱い声でいなないていた。モーラン氏は「ユアホストが初めて私に助けを求めている」と感じたが「私にはどうする事も出来ない。私は彼を失う事になるだろう」と思い、ただ涙するだけだった。サンタアニタパーク競馬場に詰め掛けた群衆は静まり返っていた。誰もが本馬の死を予感していた。本馬を診察した獣医も安楽死を検討せざるを得ない程の絶望的な状況だった。

しかし本馬は倒れる事を拒絶し、生き延びようとしていた。その様子を見たゲーツ氏と義父メイヤー氏は本馬の治療を決断し、本馬はジョージ・ストラットン氏という人物が所有するサークルエス農場へ送られ、獣医のジョン・ウォーカー博士による治療を受けた。また、メイヤー氏は英国の著名な保険組合ロイズオブロンドンに対して、保険金の支払を請求した。事情を知ったロイズオブロンドンは本馬の所有権を入手する事と引き換えに、25万ドルの保険金を支払った。この保険金は本馬の治療費に充てられた。ウォーカー博士は本馬の故障箇所を固定するために様々な方法を試みた。吊るした三角巾で患部を固定し、さらに本馬があまり動かないように砂を集めて身体をパッキングした。非常に不安定な状況だったが、本馬は暴れもせず、痛みに耐えながらじっとしていた(この事から、本馬が単なる気性難の馬ではなく、利口な馬であった事が分かる)。そして本馬は、右前脚が短くなり、競走馬続行は不可能となったものの、奇跡的に一命を取り留める事が出来た。本馬の負傷状況と、当時の獣医学の発達状況を考慮すると、まさに奇跡的だったと言える(現代獣医学においても、これほどの重傷で助かるのは難しいはずである)。そして、デビュー前は評価されていなかった本馬は、いつの間にか周囲の人間から愛されるようになっていた事も分かる。

血統

Alibhai Hyperion Gainsborough Bayardo Bay Ronald
Galicia
Rosedrop St. Frusquin
Rosaline
Selene Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Serenissima Minoru
Gondolette
Teresina Tracery Rock Sand Sainfoin
Roquebrune
Topiary Orme
Plaisanterie
Blue Tit Wildfowler Gallinule
Tragedy
Petit Bleu Eager
Letterewe
Boudoir Mahmoud Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Mah Mahal Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine
Kampala Clarissimus Radium Bend Or
Taia
Quintessence St. Frusquin
Margarine
La Soupe Prince Palatine Persimmon
Lady Lightfoot
Hermosita Ajax
Tribonyx

父アリバイはハイペリオンの直子で、アガ・カーンⅢ世殿下が生産・所有した英国産馬。デビュー前の調教中に両前脚に屈腱炎を発症したため、不出走のまま競走馬引退となった。血統的には母がグッドウッドC・ジョッキークラブSなどを勝ったテレシナで、11歳年上の半姉に愛オークス馬テレジナ、テレジナの息子に愛ダービー・愛セントレジャー馬ターカンとアスコット金杯勝ち馬ウジジがいるという、優れたものだった。それも評価されたようで、引退後はメイヤー氏に購入されて米国に輸入され、メイヤー氏が米国カリフォルニア州に所有する牧場で繋養されていた(メイヤー氏は、本当はハイペリオンを購入するつもりだったが、ハイペリオンの所有者第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿に断固拒否されたために、代わりにアガ・カーンⅢ世殿下と交渉してアリバイを購入したらしい)。アリバイは後に種牡馬として評価され、50万ドルのシンジケートが組まれてケンタッキー州スペンドスリフトファームに移動した。最終的には54頭のステークスウイナーを出し、北米種牡馬ランキングの10位以内に11回入る成功を収め、1960年に22歳で他界した。

母ブードワールも英国産馬で、競走馬としては12戦して僅か1勝だったが、愛1000ギニーで2着した実績があり、平凡な馬では無かった。競走馬引退後は米国に輸入されて繁殖牝馬になっていた。メイヤー氏以外にもスペンドスリフトファームの創設者レスリー・コムズⅡ世氏など何人かの所有者の間を転々として、1963年にケンタッキー州カンタナファームにおいて25歳で他界している。

本馬以外に特筆できる直子の活躍馬は出せなかったが、12頭の産駒のうち11頭が競走馬となり、うち本馬を含む9頭が勝ち上がっている。

本馬の1歳年上の半姉フラワーベッド(父ボーペール)の娘フラワーボウル【デラウェアH・レディーズH】は、米国顕彰馬ボウルオブフラワーズ【フリゼットS・エイコーンS・CCAオークス・スピンスターS】、名種牡馬グロースタークヒズマジェスティ【エヴァーグレイズS】の3姉弟の母となった。また、フラワーベッドの孫には米国顕彰馬ギャラントブルーム【メイトロンS・モンマスオークス・デラウェアオークス・ガゼルH・マッチメイカーS・スピンスターS・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H】、曾孫にはルーテントゥーテンウーテン【デモワゼルS(米GⅠ)】、玄孫にはアワポエティックプリンス【コックスプレート(豪GⅠ)・ライオンブラウンスプリント(新GⅠ)・タンクレッドS(豪GⅠ)・AJCクイーンエリザベスS(豪GⅠ)】、プロルトリ【伊ダービー(伊GⅠ)】、牝系子孫にはグルーピードール【BCフィリー&メアスプリント(米GⅠ)2回・ヴァイネリーマディソンS(米GⅠ)・ヒューマナディスタフH(米GⅠ)】、ソングバード【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・デルマーデビュータントS(米GⅠ)・シャンデリアS(米GⅠ)】などがいる。

本馬の1歳下の全弟マイホストは、競走馬としても種牡馬としてもあまり活躍しなかったが、牝駒ガラホストがマヤノトップガンの曾祖母となっている。

本馬の2歳下の全妹ユアホステスの牝系子孫は大きく発展している。ユアホステスの子にはティーヴィーコマーシャル【アーリントンワシントンフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティS・サンディエゴH】とコラッジオソー【レディーズH(米GⅠ)】の兄妹が、孫には米国顕彰馬マジェスティックプリンス【ケンタッキーダービー・プリークネスS・サンタアニタダービー】とクラウンドプリンス【デューハーストS(英GⅠ)】の兄弟が、曾孫にはヒポダミア【クリテリウムデプーリッシュ(仏GⅠ)】、カラコレロ【仏ダービー(仏GⅠ)】が、玄孫にはセクレト【英ダービー(英GⅠ)】とイスタブラク【愛チャンピオンハードル(愛GⅠ)4回・英チャンピオンハードル(英GⅠ)3回・エイントリーハードル(英GⅠ)・ハットンズグレイスハードル(愛GⅠ)2回・ロイヤルボンドノービスハードル(愛GⅠ)・ロイヤルサンアライアンスノービスハードル(英GⅠ)・スタンリークッカーチャンピオンノービスハードル(愛GⅠ)・パンチェスタウンチャンピオンハードル(愛GⅠ)】の兄弟、それにリアルクワイエット【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)・ハリウッドフューチュリティ(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)】がいる。さらにユアホステスの曾孫で日本に繁殖牝馬として輸入されたスカーレットインクの牝系子孫からは、ダイワメジャー【皐月賞(GⅠ)・天皇賞秋(GⅠ)・マイルCS(GⅠ)2回・安田記念(GⅠ)】とダイワスカーレット【桜花賞(GⅠ)・秋華賞(GⅠ)・エリザベス女王杯(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)】の兄妹、それにヴァーミリアン【川崎記念(GⅠ)2回・JBCクラシック(GⅠ)3回・ジャパンCダート(GⅠ)・東京大賞典(GⅠ)・フェブラリーS(GⅠ)・帝王賞(GⅠ)】など多数の重賞勝ち馬が出ている。こうしてブードワールの牝系子孫からは活躍馬が続出し、最終的には世界的名牝系となった。→牝系:F4号族①

母父マームードは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ロイズオブロンドンの所有馬として、最初はカリフォルニア州で種牡馬供用された。後にニュージャージー州のメドウビューファームに移動して、引き続き種牡馬生活を送った。ニュージャージー州は本馬が本拠地としたカリフォルニア州とは北米大陸を挟んで真逆の位置にあるのだが、それでも本馬の姿を見るために訪問してくるファンは後を絶たなかったという。

本馬はカリフォルニア州繋養時代から、複数のステークスウイナーを出して成功を収めていたが、その名を一躍高めたのは、メドウビューファーム移動後に送り出したケルソの大活躍であった。ケルソは1960年から1964年まで5年連続で米年度代表馬に輝き、米国競馬史上でも五本の指に入る名馬とされた。本馬はケルソが活躍する最中の1961年に、父の後を追うように14歳で他界した。

本馬の直系は、ウインディサンズが後継種牡馬として一定の成功を収めたものの、代表産駒のケルソが騙馬だった影響もあり、現在は残ってはいない。しかし、本馬の血は、牝駒ソシアルバターフライを通じて日本の名馬トウショウボーイなどに受け継がれ、21世紀に入った現在でも影響力を有している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1953

Blen Host

デルマーフューチュリティ・ラホヤH・マリブS

1953

Miss Todd

ハリウッドラッシーS・デルマーデビュータントS・ラスフローレスH

1953

Social Climber

サンフェリペS・シネマH・カリフォルニアンS

1955

Prize Host

アメリカンH

1957

Kelso

ジョッキークラブ金杯5回・メトロポリタンH・サバーバンH2回・ブルックリンH・ワシントンDC国際S・ジェロームH・ホイットニーH3回・ウッドワードS3回・ディスカヴァリーH・ローレンスリアライゼーションS・ホーソーン金杯・セミノールH・ガルフストリームパークH・ジョンBキャンベルH・ナッソーカウンティH

1957

Windy Sands

サンディエゴH

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