シルヴァースプーン

和名:シルヴァースプーン

英名:Silver Spoon

1956年生

栗毛

父:サイテーション

母:シルヴァーフォグ

母父:マームード

サンタアニタダービーを快勝してケンタッキーダービーにも挑戦するなど牡馬相手に健闘し米国競馬の殿堂入りも果たした米国三冠馬サイテーションの最高傑作

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績27戦13勝2着3回3着4回

誕生からデビュー前まで

エクワポイズトップフライトなど多くの名馬を所有した米国の実業家兼馬産家コーネリウス・ヴァンダービルト・ホイットニー氏により、ホイットニー一族が米国ケンタッキー州に所有する牧場において生産・所有された。父は米国競馬史上最強馬の誉れ高かった米国三冠馬サイテーションであり、母方に代々交配されてきた馬達も、近い順にマームード、エクワポイズ、マンノウォーブルームスティックと名競走馬・名種牡馬が並んでいた。母系も母シルヴァーフォグの伯父にブルックリンH・サバーバンH・ジョッキークラブ金杯を勝ったクラヴァト、伯母にセリマSを勝ったジャボット、ジャボットの子にベルモントS・ジョッキークラブ金杯を勝ったカウンターポイントがいるなどかなり優秀だった。

こうした豪華な血統から、裕福な出自を象徴する慣用句である“Silver Spoon(銀の匙)”と命名された。体高は16.2ハンドと牝馬としては大柄なほうで、しかも筋骨逞しい馬で、競走馬全盛時代の馬体重は1135ポンド(約516kg)に達したという。長い脚を大きなストライドで伸ばしながら走るその姿は見る者に目を見張らせた。生誕直後に他の牝馬に尻を蹴られたため、幼少期は左後脚をひきずっており、成長しても時折気にする場面が見られたが、それがレースに影響する事は殆ど無かったという。

競走生活(3歳初期まで)

しかしこういった高い評価は本馬がデビューした後の話だったようで、デビュー前の本馬がそれほど高い評価を受けていたとは考えづらい。その理由は、シルヴェスター・ヴィーチ調教師に預けられた本馬のデビュー戦が、2歳9月にベルモントパーク競馬場で行われた売却額8千ドルのクレーミング未勝利競走だったからである。エルドン・ネルソン騎手が騎乗して6馬身差で圧勝した本馬には幸いにも買い手が付いておらず、ホイットニー氏はすぐに本馬の売却方針を撤回した。そして本格的に本馬を鍛えるために、後に米国競馬の殿堂入りも果たすカリフォルニア州のロバート・L・ウィーラー調教師の下に本馬を送り出した。

この輸送中の列車内で本馬は少し体調を崩してしまったらしいが、サンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走に出走すると2馬身差で楽勝した。2歳時は2戦2勝で終え、3歳時は主戦となるレイモンド・ヨーク騎手と共に1月のラセンティネラS(D6.5F)から始動して楽勝。次走のサンタイネスS(D6.5F)でも勝利を収めた。

それまでは短距離戦ばかり走ってきた本馬だが、ここでウィーラー師は本馬のスタミナ能力を試すため、サンタスサナS(D8.5F・現サンタアニタオークス)に出走させた。ここで本馬は驚愕の走りを見せた。レース序盤はヨーク騎手が距離を意識したのか抑え気味に進んだが、中盤になってヨーク騎手が本馬の脚を解き放つと一気に他馬達をちぎり捨て、2着ミスアッピティに10馬身半差をつけて、1分41秒8のレースレコードを計時して圧勝した。レース後の体調検査で熱発していた事実が判明したとは思えないほどの強さだった。

サンタアニタダービー

熱発がすぐに収まると、ウィーラー師は5千ドルの追加登録料を支払って本馬を牡馬相手のサンタアニタダービーに向かわせ、その後はケンタッキーダービーを目指す旨を明らかにした。これはウィーラー師の意思というよりも、所有者ホイットニー氏の意思だったと思われる。ホイットニー氏はケンタッキーダービーになかなか縁が無く、かつて所有した最高傑作エクワポイズは裂蹄のため不参戦、1947年のベルモントS・ジョッキークラブ金杯などを勝って同年の米最優秀3歳牡馬に選ばれたファランクスはウッドメモリアルSを勝って1番人気で本番に臨んだがジェットパイロットの頭差2着に惜敗、ベルモントS・ジョッキークラブ金杯を勝って1951年の米年度代表馬及び米最優秀3歳牡馬に選ばれたカウンターポイント(先に触れたように本馬の母の従兄弟に当たる)は本番前にスランプに陥りカウントターフの11着に惨敗という状況だった。ホイットニー氏は何が何でもケンタッキーダービーを勝ちたかったはずであり、本馬であればその夢を果たしてくれるかも知れないと考えたほどサンタスサナSの本馬は強かった。

この決定については疑問を呈する意見もあり、競馬作家のオスカー・オーティス氏はウィーラー師に直接疑問をぶつけたが、ウィーラー師は「彼女は距離1マイルの調教を1分36秒で走破しました。彼女は年を経るにつれて良くなっており、現在の体高は16ハンドですがまだ高くなるでしょう。その素晴らしい馬体からしても、彼女が牡馬相手の米国三冠競走で好勝負することは可能だと考えます。」と応えた。

そして迎えたサンタアニタダービー(D9F)では、前年のカリフォルニアブリーダーズS勝ち馬ロイヤルオービット、同2着馬ファイティンインディアン、サンヴィンセントSを勝ってきたオレフォルズなど9頭の牡馬が対戦相手となったが、本馬が堂々の1番人気に支持された。レースでは道中でファイティンインディアンやオレフォルズといった馬達に回りを囲まれてしまい行き場を失う場面があったが、直線に入ると馬群を突破して抜け出し、2着ロイヤルオービットに2馬身半差で勝利した。勝ちタイム1分49秒0は、1950年のユアホストと1954年のディターミンが計時したレースレコード1分48秒8に僅か0秒2及ばないだけという見事なものだった。

サンタアニタダービーを牝馬が勝ったのは1939年のシエンシア以来20年ぶり史上2頭目。サンタアニタオークスとサンタアニタダービーを両方勝った馬は本馬が初めてで、これ以降にも1988年のウイニングカラーズしか登場していない(本馬以降にサンタアニタダービーを牝馬が勝った事例自体がウイニングカラーズのみである)。レース後にヨーク騎手は「最初から最後まで窮屈で厳しいレースでした。彼女はオレフォルズに何度も馬体をぶつけられましたが、それでも闘争心を失いませんでした。残り半ハロン地点まで私はロイヤルオービットが勝つと思っていましたが、彼女は見事に抜き去りました。私は自分が乗ってきた中で最高の牝馬に今現在乗っている事をそこでようやく確信しました」と語った。

この勝利により本馬はカリフォルニア州の枠を超えて、全米中の競馬ファン達の注目の的となった。それどころか平素は競馬に興味を持たない人々の間でも話題となり、スポーツ紙だけでなく一般紙までも、ケンタッキーダービーで本馬が勝てるかどうかについて盛んに議論を行った。その多くは本馬の能力を賞賛し、過去に登場した優秀な牡馬(牝馬ではない)と比較する論調だったが、中には冷静な意見もあった。例えば、かつて名馬スタイミーなどを手掛けたハーシュ・ジェイコブス調教師は、本馬がサンタアニタダービーで負かした牡馬達は、温暖なフロリダ州でなくカリフォルニア州で越冬した馬ばかりであり、フロリダ州越冬組よりレベルが低いのではないかと指摘した(ジェイコブス師はスタイミーをフロリダ州で越冬させていた)。もっとも、ジェイコブス師はそう前置きした上で「シルヴァースプーンは本当に優れた牝馬です。体格も良いし何より勇敢です。レースごとに進化し続けていますので、もしかしたら勝てるかもしれません」と本馬を応援する気持ちを述べた。もちろん最も本馬に声援を送ったのはカリフォルニア州の競馬ファン達だった。前年のケンタッキーダービーでカリフォルニア州の星シルキーサリヴァンが惨敗していたため、一層本馬に対する熱の入れ方に拍車がかかっていた。

ケンタッキーダービー

そして全米中が注目する中で本馬はケンタッキー州に向かい、本番1週間前にチャーチルダウンズ競馬場で行われた距離7ハロンの一般競走に出走した。しかしこのレースを勝ったのはフロリダダービー2着馬ソードダンサーだった。2着にはファウンテンオブユースS・フロリダダービーを勝ってきたイージースパーが入り、本馬は3着に敗れた。この敗戦で本馬を熱狂的に見ていた人達の心は少し冷めたようである。

冷静になって考えてみると、牝馬がケンタッキーダービーに出走するのは1945年のミスウィート以来14年ぶりで、しかもミスウィートは試しに出てみましたという泡沫候補であり、結果もフープジュニアの12着に敗れ去っていた。本気で出走した最後の例は1936年、サンタアニタダービー3着後にチェサピークSを勝って挑んだゴールドシーカーだったが、結果はボールドヴェンチャーの9着。その前年1935年には米最優秀2歳牝馬ネリーフラッグ(1924年のプリークネスSを勝った牝馬ネリーモスの娘)が1番人気で挑んだが、オマハの4着止まり。牝馬がケンタッキーダービーを勝った最初にして当時最後の例は1915年のリグレットだったが、その時代はケンタッキーダービーの格がそれほど高くなかった(そもそも、当時牡馬を含めても全米最強と言われていたリグレットがニューヨーク州からケンタッキー州まで遠征して参戦したからこそケンタッキーダービーの格が向上した側面があった)。

そんなわけで本番のケンタッキーダービー(D10F)では、サラトガスペシャルS・ホープフルS・シャンペンS・エヴァーグレイズS・ダービートライアルSを勝っていた前年の米最優秀2歳牡馬ファーストランディングが1950年のケンタッキーダービーで2着した名馬ヒルプリンスの半弟という血統も評価されて1番人気に支持され、ハリウッドジュヴェナイルCSS・デルマーフューチュリティ・ブルーグラスSを勝ってきた英国産馬トミーリーが2番人気、フラミンゴS勝ち馬トロイラスなど5頭のカップリングが3番人気、イージースパーが4番人気、ウッドメモリアルS3着馬アワダッドが5番人気、ソードダンサーが6番人気、サンフェリペS・カリフォルニアダービー勝ち馬フィネガンが7番人気と続き、本馬は単勝オッズ11.8倍の8番人気に留まった。

スタートが切られるとトロイラスが先頭に立ち、トミーリーが先行、スタートで躓いた本馬は中団、ファーストランディングは後方の位置取りとなった。本馬は徐々に位置取りを上げていき、直線入り口では3番手まで順位を上げたものの、前を行くトミーリーとソードダンサーに追いつけず、後方から来たファーストランディングと、サンタアニタダービーで一蹴したロイヤルオービットに差された。優勝はトミーリーで、鼻差2着がソードダンサー、さらに2馬身1/4差の3着がファーストランディング、さらに1馬身差の4着がロイヤルオービットで、本馬はロイヤルオービットから頭差の5着だった。なお、ホイットニー氏は本馬を含めて最終的に15頭をケンタッキーダービーに送り込んだが、遂に勝てずじまいに終わった。また、本馬の敗戦以後にケンタッキーダービーに出走する牝馬は1980年のジェニュインリスクまで21年間現れなかった。トミーリーの姪の娘に当たるジェニュインリスクも単勝オッズ14倍の評価だったが、見事に優勝を成し遂げ、65年ぶり史上2頭目の牝馬のケンタッキーダービー馬という栄冠を手にしている。本馬の敗戦により、ケンタッキーダービーに出走させた陣営を非難する論調も一部には出たが、勝ち馬トミーリーから3馬身半差の5着という結果はそれほど悪いものではなく、本馬自身の評価はあまり下がらなかった。

競走生活(3歳後半)

本馬は米国三冠競走の残り2戦には出走せずにカリフォルニア州に戻った。トミーリーもレース間隔が短すぎるという陣営の考えにより同じく残り2戦には出走せずにカリフォルニア州に戻った。そのためケンタッキーダービーの敗者復活戦の様相を呈したプリークネスSは、ロイヤルオービットがソードダンサーを2着に破って優勝。ロイヤルオービットをサンタアニタダービーで破った本馬は、米国三冠競走を戦うのに十分な能力を持っていたという事が改めて示された。その後のベルモントSではソードダンサーがロイヤルオービットを3着に破って優勝している。

そのベルモントSと同日にハリウッドパーク競馬場で行われたシネマH(D9F)では、本馬とトミーリーの西海岸における初対決が実現し、カリフォルニア州ではベルモントS以上に注目を集めた。本馬はレース前に3度の調教を走った。その内容は非常に素晴らしかったために、好勝負が期待された。本馬の鞍上はヨーク騎手から、サンタアニタダービーでは3着馬ファイティンインディアンに、ケンタッキーダービーではソードダンサーに騎乗していたウィリアム・ボランド騎手に乗り代わっていた。ボランド騎手は本馬を後方から進ませると、レース中盤で合図を送った。するとすぐに反応した本馬は爆発的な末脚を繰り出して直線で突き抜けた。ゴール前では馬なりのまま走り、2着フライアーローチ(牡馬だが斤量は本馬より9ポンド軽かった)に4馬身3/4差(資料によっては3馬身差となっている)をつけて圧勝。主戦のウィリアム・シューメーカー騎手がベルモントSでソードダンサーに乗ったためにドン・ピアース騎手に乗り代わっていたトミーリーは、管理するフランク・チャイルズ調教師を激怒させるほどの駄騎乗(具体的な内容はよく分からない)のために6着に沈んだ。いずれにしてもトミーリーを撃破したことで、本馬はケンタッキーダービー敗戦の借りを返したことになり、第二次世界大戦以降における米国最高の牝馬として賞賛された。

その後はハリウッドダービーに出走予定だったが、ハンデが重くなる事が判明したため回避。そして今度は牝馬限定競走路線を目指すことになり、ニューヨーク州に向かった。しかし、幾度に及ぶ長距離輸送で本馬の馬体重は大幅に減ってしまったという。本馬がニューヨーク州に到着した頃には、既にニューヨーク牝馬三冠競走は終わっており、本馬はデラウェアオークス(D9F)に出走した。このレースには、エイコーンS・マザーグースSを勝った前年の米最優秀2歳牝馬クイルと、CCAオークスでクイルを2着に破ってニューヨーク牝馬三冠馬の夢を打ち砕いたレサカという2頭の強敵との対戦となった。レースは良馬場発表で行われたが、実際には湿った馬場状態で行われており、特に内埒沿いは前のレースで走った馬達により深く抉られていた。そのために本馬は内埒沿いを避けて外側を走ったのだが、コースロスが大きくなり、直線で先に抜け出したレサカに届かず2馬身差の2着に敗れた(クイルは5着だった)。

それから13日後にはモンマスパーク競馬場で一般競走に出走。本馬の馬体重は戻っておらず明らかに本調子では無かった上に、126ポンドという3歳牝馬としては厳しい斤量が課せられた。しかし、インディアンメイド(後にフォールズシティHを3連覇、モデスティHを2連覇)とロイヤルネイティヴ(翌年にブラックヘレンH・モリーピッチャーH・アーリントンメイトロンH・トップフライトHなどを勝って米最優秀ハンデ牝馬に選出)という同世代の有力牝馬2頭(いずれも斤量は本馬より軽かった)をそれぞれ2・3着に破って勝利した。しかし、次走モンマスオークス(D9F)では1番人気に応えられず、8ポンドのハンデを与えたロイヤルネイティヴとインディアンメイドに敗れて、ロイヤルネイティヴの3着に終わった。その後も本馬は疲労が癒えず、サラトガ競馬場で出走した一般競走で5着に敗れた1戦のみで3歳シーズンを終えた。

それでも3歳時11戦6勝の成績を残し、米最優秀3歳牝馬の座を、秋シーズンに急上昇してスピンスターSやページェントHを勝利したロイヤルネイティヴと分け合う形で受賞した。正確には、全米競馬記者協会がロイヤルネイティヴを、全米サラブレッド競馬協会が本馬を選出した。デイリーレーシングフォーム紙は85票対73票でロイヤルネイティヴを米最優秀3歳牝馬に選出したが、そのデイリーレーシングフォーム紙が評価したフリーハンデでは、本馬がロイヤルネイティヴより1ポンドだけだが上だった。

競走生活(4歳時)

ケンタッキー州で冬場を過ごした本馬はカリフォルニア州に戻り、3月にサンタアニタパーク競馬場で行われた分割競走ラスフローレスH(D6F)から始動した。しかし道中で馬群に包まれて抜け出すのに手間取り、5歳牝馬マーガレッテ、ハリウッドラッシーS・デルマーデビュータントS・デモワゼルSを勝っていた同世代馬カリタ、インディアンメイドの3頭に屈して、マーガレッテの4着に敗れた。しかし2週間後のサンタモニカH(D7F)では、3ポンドのハンデを与えたマーガレッテを2着に、インディアンメイドを3着に破って勝利した。次走のサンタマリアH(D8.5F)では127ポンドが課せられたが、2着ラプリュムに1馬身3/4差をつけて勝利(インディアンメイドが3着だった)。そのために次走のサンタマルガリータH(D8.5F)では130ポンドを背負わされた。それでも2着インディアンメイドに1馬身3/4差をつけて勝利。サンタアニタパーク競馬場で行われたレースで、牝馬が130ポンド以上を背負って勝ったのは史上初の快挙だった。

そうなると再び牡馬相手のレースに出したくなるのは当然であり、次走はサンタアニタH(D10F)となった。しかしここでは何の見せ場も無く、リンモルドの着外に終わった。短期休養を経て、ハリウッドパーク競馬場で行われた一般競走で復帰したが、ここでもレース中に不利を受けて3着に敗退。次走のセコイアH(D6F)では10ポンドのハンデを与えたリベラルレディの2着に敗退。次走のカリフォルニアンS(D8.5F)は牡馬相手のレースとなり、サンタアニタHで1番人気に支持されながら4着に終わっていたハリウッドダービー・サンアントニオH勝ち馬でベルモントS2着のバグダッド、サンパスカルH勝ち馬でサンタアニタH2着のフリートナスルーラ、サンディエゴH・ギャラントフォックスH・ナッソーカウンティH・イングルウッドH勝ち馬エディシュミットなどが対戦相手となった。しかし結果は上記3頭全てに敗れて、フリートナスルーラの4着に終わった。しかしミレイディH(D8F)では2着ハニーズジェムに2馬身3/4差をつけて勝利。次走のヴァニティH(D9F)も、再度の130ポンドを克服して勝利した。

その後はイリノイ州シカゴのアーリントンパーク競馬場に向かった。まずは距離1マイルのハンデ競走に出たが、17ポンドのハンデを与えたウィーフリートの鼻差2着に敗れた。次走のアーリントンメイトロンS(D9F)では、ロイヤルネイティヴと1年ぶりに顔を合わせた。しかしスタートで出遅れて後方からの競馬となってしまい、ウッドローンという無名馬にも後れを取り、ロイヤルネイティヴの3着に敗退。その後は再びニューヨーク州に向かい、ベルデイムS(D9F)に出走したが、マザーグースS・CCAオークス・ガゼルHを勝ってきたこの年の米最優秀3歳牝馬バーロの着外に敗退。ロイヤルネイティヴが2着しており、この年の米最優秀ハンデ牝馬の座をロイヤルネイティヴに譲る一因ともなってしまった。その後はケンタッキー州に戻り、キーンランド競馬場で一般競走に出たが着外に終わり、4歳時14戦5勝の成績で引退した。

血統

Citation Bull Lea Bull Dog Teddy Ajax
Rondeau
Plucky Liege Spearmint
Concertina
Rose Leaves Ballot Voter
Cerito
Colonial Trenton
Thankful Blossom
Hydroplane Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Toboggan Hurry On Marcovil
Tout Suite
Glacier St. Simon
Glasalt
Silver Fog Mahmoud Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Mah Mahal Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine
Equilette Equipoise Pennant Peter Pan
Royal Rose
Swinging Broomstick
Balancoire
Frilette Man o'War Fair Play
Mahubah
Frillery Broomstick
Petticoat

サイテーションは当馬の項を参照。

母シルヴァーフォグは現役成績19戦5勝。本馬の半妹シルヴァーブライト(父バルビゾン)【アーリントンワシントンラッシーS】、半妹シルバートゥルー(父ヘイルトゥリーズン)【スピナウェイS】も産んでいる。本馬の半姉イエローミスト(父ヒエロクルズ)の曾孫にはガトデルソル【ケンタッキーダービー(米GⅠ)】とテルサ【モルニ賞(仏GⅠ)】、玄孫にはロックハードテン【サンタアニタH(米GⅠ)・マリブS(米GⅠ)】が、本馬の半姉ミセスキャット(父ゴヤ)の孫にはベルデイルボール【メルボルンC(豪GⅠ)】が、シルヴァーブライトの子にはバンケットテーブル【ホープフルS(米GⅠ)・サラトガスペシャルS(米GⅡ)】とステートディナー【センチュリーH(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅡ)】が、シルバートゥルーの子には名馬シルバーチャームの父として知られるシルヴァーバック【サバーバンH(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)】がいるなど、シルヴァーフォグの牝系子孫は一大勢力を築いており、アメリカンファミリー1号族の中でも屈指の繁栄を見せている。

シルヴァーフォグの半弟にはディナーゴング(父エイトサーティ)【サンアントニオH・ラホヤH】がいる。シルヴァーフォグの母エクイレットの半姉にはジャボット【セリマS・サンカルロスH】、半兄にはクラヴァト【ジェロームH・サンフアンカピストラーノ招待H・ブルックリンH・サバーバンH・ジョッキークラブ金杯】がいる。ジャボットの子には本文中でも少し触れた1951年の米年度代表馬及び米最優秀3歳牡馬カウンターポイント【ベルモントS・ピーターパンS・ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯・サンフェルナンドS・ホイットニーS】、曾孫には本邦輸入種牡馬トンピオン【ホープフルS・サンタアニタダービー・ブルーグラスS・バーナードバルークH・トラヴァーズS・マリブS】がいる。→牝系:A1号族

母父マームードは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はケンタッキー州ゲインズウェイファームで繁殖入りした。母としてもインカクイーン(父ヘイルトゥリーズン)【デモワゼルS・コロンビアナH・トップフライトH・シープスヘッドベイH】という活躍馬を出して成功した。1978年に米国競馬の殿堂入りを果たしたが、同年に22歳で他界し、遺体はゲインズウェイファームに埋葬された。

本馬の牝系は代表産駒インカクイーンにより発展した。インカクイーンの子にはエグザイルキング【ラトガーズH(米GⅡ)】、ヘイルボールドキング【ペガサスH(米GⅡ)】、メットフィールド【シェリダンS(米GⅢ)】が、孫にはジャーマニー【ダルマイヤー大賞(独GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)】とカティンカ【ラフィアンH(米GⅠ)】がおり、本馬の牝系子孫は今世紀に入っても残っている。また、牝駒シルバーコイン(父ネヴァーベンド)の子にはコインドシルバー【フロリダダービー(米GⅠ)】がいる。コインドシルバーは18戦3勝の成績で引退した後に日本で種牡馬入りして、テツノカチドキ、ビンゴカンタ、アサヒエンペラー、マイネルグラウベン、ダイゼンシルバー、タカラフラッシュ、エーコーシーザー、トウカイタローなど多くの活躍馬を出し、少し渋めの中堅種牡馬として活躍した。

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