ダークミラージュ

和名:ダークミラージュ

英名:Dark Mirage

1965年生

黒鹿

父:パーシャンロード

母:ホームバイダーク

母父:ヒルプリンス

超小柄な馬体ながら圧勝に次ぐ圧勝で史上初のニューヨーク牝馬三冠馬に輝き、レース中の事故で散った米国の悲劇の名牝

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績27戦12勝2着3回3着2回

“black lightning(黒い稲妻)”の異名を取った米国の名牝ラフィアンの話を知っている日本の競馬ファンは多いと思う。デビューから圧勝に次ぐ圧勝で史上4頭目のニューヨーク牝馬三冠馬に輝き、10戦無敗で迎えたケンタッキーダービー馬フーリッシュプレジャーとのマッチレース中に故障して命を落とした悲劇の名牝である。また、1990年のBCディスタフで故障して命を落とした“ラフィアンの再来”ゴーフォーワンドについても日本で語られる事は少なくない。

しかし、本馬について日本で語られる事は何故か殆ど無く、知名度は大きく劣っている。他2頭のようにデビューから圧倒的な強さを誇っていたわけではないが、3歳時には無敵同然の強さで史上初のニューヨーク牝馬三冠馬に輝き(ケンタッキーオークスも勝っている)、そしてその結末もレース中の故障で命を落とすというものであり、他2頭より知名度が低い理由は見当たらないはずである。本馬はもっとスポットライトを当てられるべき存在であり、ラフィアンが“ダークミラージュの再来”と呼ばれるべきなのかもしれない。以下、本項は本馬とラフィアンを比較する事が多いが、不当に低い本馬の評価をラフィアンに近づけるためであり、別にラフィアンを貶める意図は無いので容赦されたい。

誕生からデビュー前まで

大柄だったラフィアンとは異なり、本馬は成長しても体高15.1ハンドと非常に小柄な馬だった(ラフィアンの最終的な体高は16.1ハンド)。本馬を生産したデュヴァル・A・ヘッドリー氏(トムフールの生産者で、トムフールの父メノウを手掛けた調教師でもあった)により、1歳時のキーンランドサマーセールに出品されたが、本馬の小柄な馬体はセリの参加者達の間で「ポニーのように小さい」と失笑を買ったという。結局、シンシナティ交通社の代表取締役ロイド・I・ミラー氏の代理人テキサス・トム・ヘイスティ氏により購入されたが、価格は6千ドルで当セールにおける最低落札価格であった。

競走生活(2歳時)

ミラー氏の所有馬としてエヴェレット・W・キング調教師に預けられた本馬は、2歳時にデビュー。デビュー戦は大敗し、2戦目は単勝オッズ102倍という超人気薄で2着だった。その後も地道に未勝利戦や一般競走に出走を続けて2勝を挙げた。ステークス競走には暮れのガーデニアS(D8.5F)に出走している。ガーデンステート競馬場で行われるこのレースは、2歳牝馬限定競走としては当時世界最高賞金を誇っていた大競走であり、ナショナルスタリオンSの勝ち馬でファッションS・ポリードルモンドS・アストリアS・メイトロンS・フリゼットS・セリマS2着のゲイマテルダを筆頭とする有力馬が集結していた。本馬は単勝オッズ114倍という超人気薄だったが、道中で馬群に包まれて出られない不利を受けながらも、勝ったゲイマテルダから2馬身半差の5着と健闘した。

本馬の2歳時の成績は15戦2勝2着3回3着2回だった。「15戦して2勝?たいした事は無いじゃないか」などと思ってはいけない。「アメリカン・レーシング・マニュアル1969年版」によると、本馬の2歳時の馬体重は710ポンド(約323kg)しかなかったという。仮にこの体重の馬が日本の競馬に出てきたとしたら、ほぼ全ての競馬ファンは体重を見た瞬間に馬券対象から切るだろう。日本中央競馬会の記録に残る史上最軽量出走馬は2011年4月9日阪神競馬場3歳未勝利戦におけるグランローズの330kgなので、本馬はそれより軽い。ちなみにグランローズはこのレースで14着だった。日本中央競馬会の記録に残る史上最軽量勝ち馬は1972年8月26日小倉競馬場三歳未勝利戦におけるジャンヌダルクの350kgである。ちなみに、2歳時ではないので単純比較は出来ないが、ラフィアンの最終的な体重は1125ポンド(約510kg)だった。常識的には、本馬の2歳時における馬体重は競走馬としてデビューできるようなものではなく、それで15戦もして2勝を挙げたというのは非常に立派な事なのである。

なお、2歳時だけで本馬は1万9906ドルを稼いでおり、購買価格6千ドルはこの段階で既に上回っている。あまりにも小さいために周囲からの評価は低かった本馬だが、その小柄な馬体全てをフル活用して一生懸命に走る本馬を見たキング師は「もしかしたらこの馬は何か特別な馬になるのかもしれない」と感じたそうである。

競走生活(3歳初期)

3歳時は3月中旬にアケダクト競馬場で行われた一般競走から始動して、単勝オッズ14倍の評価で4着。しかしこのレースが、本馬が他馬の後方でゴールした最後となる。同月下旬には同じくアケダクト競馬場で一般競走に出走。ここでは単勝オッズ2倍の1番人気に応えて勝利を収めた。翌4月にはサラトガ競馬場でプライオレスS(D6F)に出走。ガーデニアSで本馬に先着する3着だったプレザントネス、ブルーヘンS・ジャスミンS2着のゲストルームなどが出走していたが、本馬がゲストルームを2着に、プレザントネスを3着に破って、ステークス競走初勝利を挙げた。同月末にはチャーチルダウンズ競馬場に移動して、ラトロワンヌS(D7F)に出走。オースザンナS・アルキビアデスSを勝ってきたレディトランプを2着に破って勝利した。

そしてそのままチャーチルダウンズ競馬場に留まり、翌月のケンタッキーオークス(D8.5F)に参戦した。この段階になると本馬の実力を疑う人は少なくなっており、出走14頭中の1番人気に支持された。そして、カリフォルニアオークスの勝ち馬でサンタイネスS2着のミスリボーを4馬身半差の2着に、レディトランプを3着に破って圧勝した。

その後はニューヨーク州に戻り、ニューヨーク牝馬三冠競走に参戦。まず出走したエイコーンS(D6F)では、前年のガーデニアSで本馬を破ったゲイマテルダ、ポリードルモンドS・アーリントンラッシートライアルS・ミモザSの勝ち馬アナザーネルなどが待ち構えていた。しかしアナザーネルとゲイマテルダの2着争いを尻目に馬なりのまま走った本馬が、2着アナザーネルに6馬身差をつけて圧勝。勝ちタイムの1分34秒8はコースレコードタイだった。ちなみにコースレコードは1942年のシャンペンSにおいて後の米国三冠馬カウントフリートが樹立したものだった(斤量はカウントフリートが5ポンド多かったものの、牡馬と牝馬は通常この程度の斤量差はあるものである)。この時に本馬に騎乗していたマヌエル・イカザ騎手は「インコースを走っていましたが、周囲に他の馬が多くいて、前が開かず、外に持ち出す事も出来なかったので、直線に入ってもしばらくは我慢していました。そして前が僅かに開いた次の瞬間、彼女は楽々と先頭に立っていました。切れる脚とはまさしくあの事でした。」と述懐している。

翌6月にはマザーグースS(D9F)に出走した。この年のマザーグースSは6月8日に施行されたが、実は開催中止に追い込まれる危機的状況に置かれていた。その理由は、6月6日にニューヨーク州の上院議員ロバート・ケネディ氏(言うまでもないだろうがジョン・F・ケネディ元米国大統領の実弟である)が暗殺される大事件が勃発(正確には狙撃されたのが5日で死去したのが6日)しており、6月8日までその告別式が施行されたため、ニューヨーク市内で行われる各種スポーツ競技に対して自粛要請が出されていたのである。しかしニューヨーク競馬協会はその要請を拒否してマザーグースSを挙行した。こういう騒がしい雰囲気の中で行われたレースだったが、本馬には何の精神的影響もなかったようで、プライオレスS2着後にベッツィーロスHを勝っていたゲストルームを10馬身差の2着に破り、1分49秒4の好タイムで圧勝。ゲストルームに乗っていた騎手は「誰もあの馬には敵わない」と語っており、他馬の騎手は既にお手上げ状態だった。このレースでは本馬にあまりにも人気が集中していたため、アケダクト競馬場やブックメーカーは合計1800万ドル以上もの損失を蒙ったという。

競走生活(3歳中期):史上初のニューヨーク牝馬三冠達成

マザーグースSが1957年に創設されてニューヨーク牝馬三冠路線が成立した以降に、この3競走のうち2競走を勝った馬は、1959年のクイル、1960年のバーロ、1961年のボウルオブフラワーズ、1962年のシケーダ、1963年のスパイシーリビング、1966年のレディピット、1967年のファールセイルと前年までの11年間に7頭もいたが、3競走全てを制した馬はいなかった。

本馬は次走CCAオークス(D10F)でその偉業に挑んだ。本馬の三冠を阻止すべく出走してきた挑戦者は、ゲイマテルダ、コリーンS・アスタリタS・セリマSの勝ち馬でナショナルスタリオンS・ブラックアイドスーザンS2着のシリアンシー(セクレタリアトの全姉である)など5頭。何とか本馬を打ち負かすべく、本馬の前を走り本馬の進路を塞ごうとした騎手もいたようだが、鞍上のイカザ騎手が慌てずに本馬に少しばかりの合図を出すと、本馬は前の馬をするりとかわして先頭に立った。あまりに簡単に先頭に立ったので、イカザ騎手が後ろから何かが来るかと思ったが、テスコガビーの桜花賞と同じく、「後ろからは何にも来ない」状態だった。最後は馬なりのまま走った本馬が2着ゲイマテルダに12馬身差、3着シリアンシーにはさらに6馬身差もの大差をつけて優勝し、史上初のニューヨーク牝馬三冠馬となった。

勝ちタイムは2分01秒8で、ウィスクブルームが1913年に樹立した2分フラットには及ばなかったが、最後まで追っていればウィスクブルームの記録を破っただろうと多くの人が思ったという。レース後の本馬は疲労の色も見せず、観衆にお辞儀をして去っていったという。レース後にキング師は「彼女は確かに全てにおいて小さいです・・・その能力を除いては」と語った。このレースでも本馬にあまりに人気が集中していた上に、対抗馬と見られて複勝がたくさん売れていたゲイマテルダとシリアンシーがいずれも入着したため、ベルモントパーク競馬場やブックメーカーは合計2200万ドル以上もの損失を蒙ったという。もっとも、本馬陣営も損失は蒙っていた。1961年以降、ニューヨーク牝馬三冠競走を全勝した馬に対しては2万5千ドルのボーナスが支給される制度があった。ところが3競走を全勝する馬がなかなか現れなかったために、この1968年にはボーナスが廃止されており、本馬陣営はボーナスをもらえなかったのである。

ところで2015年現在、ニューヨーク牝馬三冠馬となった馬は本馬を含めて8頭いる。この8頭が三冠競走で2着につけた合計着差は以下のとおりである。本馬:28馬身差。1969年のシュヴィー:6馬身1/4差。1974年のクリスエヴァート:4馬身3/4差。1975年のラフィアン:24馬身半差。1979年のダヴォナデイル:20馬身1/4差。1985年のモムズコマンド:11馬身差。1989年のオープンマインド:4馬身半差(CCAオークスは2位入線繰り上がりなので含めず)。1993年のスカイビューティ:10馬身3/4差。見てのとおり本馬がラフィアンを上回り堂々の1位であり、着差だけで見ればニューヨーク牝馬三冠馬の中で史上最も強いパフォーマンスを見せたのは本馬なのである。

競走生活(3歳後期)

さて、CCAオークスを圧勝した本馬は、それから12日後のモンマスオークス(D9F)に出走した。本馬の鞍上イカザ騎手は、モンマスオークスの約1時間前の午後4時48分に発走となったサバーバンHでダマスカスに騎乗(結果はドクターファーガーの3着)すると、その後ヘリコプターに搭乗してニューヨーク州からニュージャージー州に飛んできて、午後5時51分発走のこのレースに無理矢理に間に合わせていた。その疲労が影響したかどうかは定かではないが、道中でイカザ騎手は鞭を落としてしまい、満足に本馬を追えなかった。さらには道中で進路を失い、外側を大きく回るロスまで蒙った。しかし馬なりで走っても勝てる本馬には鞭など要らなかったようで、ブラックアイドスーザンS・ポストデブSを勝ってきたシンギングレインを4馬身差の2着に破り、1分51秒4の好タイムで快勝した。

それから23日後に出走したデラウェアオークス(D9F)では、デラウェアパーク競馬場の新記録となる3万335人の大観衆が同競馬場に押し寄せた。アケダクト競馬場やベルモントパーク競馬場が本馬のせいで大赤字を出したことを知っていたデラウェアパーク競馬場は馬券発売を中止してしまったにも関わらず、本馬見たさにこの人数が集まったのである。レースではスタート後1ハロンで先頭に立つと、そのまま2着セールデイ(後にこの年のスピンスターSを勝っている)に2馬身差をつけて逃げ切り、連勝を9まで伸ばした。ちなみに同じ日にラフィアンの父レヴュワーがサプリングSを勝っている。

その後はアラバマSを経てガゼルH、牡馬相手のローレンスリアライゼーションSへと向かう計画だった。しかしデラウェアオークスのレース中に脚を故障したために、3歳時はこの後にレースに出ることは出来なかった。しかしこの年10戦9勝の成績を残した本馬は、文句無く米最優秀3歳牝馬に選出された。例年であれば米年度代表馬に選ばれても不思議ではなかったが、この1968年はドクターファーガーが異常な強さを発揮した年であり、本馬は次点だった(3位がダマスカス)。この時点ではもはや本馬の小さな馬体を酷評する者はおらず、小柄な身体にスピード、スタミナ、精神力という3要素を完備していると評された。

競走生活(4歳時):レース中の故障で落命する

7か月の休養を経た本馬は米国西海岸に送られ、4歳時は2月中旬にサンタアニタパーク競馬場で行われたサンタマリアH(D8.5F)から始動した。本馬には当然トップハンデが課され、小柄な馬体には厳しかったはずだが、エディ・ベルモンテ騎手を鞍上に、11ポンドのハンデを与えたデザートロウ(後にこの年のヴァニティH・ミレイディHを勝利する)を首差の2着に抑えて勝利した。

続いて3月1日のサンタマリガリータH(D9F)に出走した。しかしサンタアニタパーク競馬場に詰め掛けた観衆が見たものは、130ポンドを課された本馬がレース中に失速して競走中止する姿だった。レースは前年に牡馬を蹴散らして勝ったハリウッド金杯の他にミレイディH・サンタバーバラHを勝っていた前年2着馬プリンセスネシアンがゲストルームを2着に抑えて勝利した。

前年の故障箇所に近い部分である右前脚の球節を脱臼した本馬は、フロリダ州タータンファームに搬送された。何故タータンファームに搬送されたかというと、本馬はこの年の繁殖シーズン前に競走馬を引退して、タータンファームで種牡馬入りしていたドクターファーガーと交配される予定だったからである。タータンファームに到着した本馬には手術が施された。そしていったんは一命を取り留めたものの、右前脚を庇った事が原因で左前脚に蹄葉炎を発症。7月9日に安楽死の措置が執られ、4歳の若さで他界した。「巨大な心臓を備えた小さな雌の虎」と評された本馬は、予定されていたドクターファーガーとの交配も実現することなく、天に召されていった。

何故か低い後世の評価

獲得賞金総額は36万2789ドルで、購買価格の60倍だった。1974年に米国競馬の殿堂入りを果たしたが、米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選からは漏れている(ラフィアンは牝馬最上位の第35位に選出)。圧倒的強さでニューヨーク牝馬三冠を制するなど10連勝した後にレース中の事故で他界という点ではラフィアンと本馬は全く同じなのだが、この扱いの違いはどこから来ているのだろうか。故障したレースを除いて無敗ではなかったためか。故障したレースを除いて2敗しているゴーフォーワンドが20世紀米国名馬100選において第72位に選出されているところからすると、勝率の違いと、故障したレースの注目度の違い、それに故障して即予後不良にならなかった点が大きいような気がする。勝率はまだしも、他2つが原因だとすれば不公平である。数多くの中から100などのキリが良い数だけを選ぼうとすると、このように選ばれて然るべき者が選ばれないという問題は必ず生じる。競馬を題材にしている女性漫画家のよしだみほ氏は、日本中央競馬会が2000年に実施した20世紀の名馬大投票においてシーキングザパールが選外となったのに異議を唱えている。この名馬大投票は近年の馬に偏り過ぎている等の批判があるのは周知のとおりであるが、ファン投票による結果である以上は止むを得ないだろう。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選は、各方面から集まった7人の専門家による選定であり、20世紀の名馬大投票より遥かに正確かつ妥当だが、それでも本馬が漏れているのには異議を唱えざるを得ない。筆者がこの世界の名馬列伝集を作成するに当たって、掲載頭数の上限設定をしなかったのは、そのためである(そのせいで1000頭以上を書く羽目になったのだが)。本馬に限らず、もっと多くの人に知ってもらうべき馬は大勢いる。この名馬列伝集がその一助になれば幸いである。

血統

Persian Road Persian Gulf Bahram Blandford Swynford
Blanche
Friar's Daughter Friar Marcus
Garron Lass
Double Life Bachelor's Double Tredennis
Lady Bawn
Saint Joan Willbrook
Flo Desmond
One for the Road Watling Street Fairway Phalaris
Scapa Flow
Ranai Rabelais
Dark Sedge
Sundae Hyperion Gainsborough
Selene
Bachelor's Fare Tredennis
Lady Bawn
Home by Dark Hill Prince Princequillo Prince Rose Rose Prince
Indolence
Cosquilla Papyrus
Quick Thought
Hildene Bubbling Over North Star
Beaming Beauty
Fancy Racket Wrack
Ultimate Fancy
Sunday Evening Eight Thirty Pilate Friar Rock
Herodias
Dinner Time High Time
Seaplane
Drowsy Royal Minstrel Tetratema
Harpsichord
Lazy Susan St. Germans
Idle Dell

父パーシャンロードはパーシャンガルフ産駒で、現役時代は英国で走り、メルローズH・グレートヨークシャーH・マンチェスターC・ベスボローS・エボアHを勝っている。競走馬引退後は米国に輸入され、種付け料500ドルの無名種牡馬として活動していた。本馬の大活躍を受けて、1969年の種付け料は2000ドルに跳ね上がった。それでも40頭の繁殖牝馬の交配予約があり、人気種牡馬になる事が出来そうだったが、本馬が他界するより前、1968年のクリスマスの翌日に13歳で他界してしまった。

母ホームバイダークは耳が不自由だったため不出走のまま繁殖入りしていた。本馬が1歳時のセリで低評価だったのは、小柄な馬体以外にも母の耳が不自由だった事も一因であるらしい(多分父が無名種牡馬だった事も)。ホームバイダークも本馬の大活躍を受けて評価が跳ね上がり、1968年に30万ドルで取引されている。その後は、本馬が他界した年に産まれた半妹グレイミラージュ(父ボールドビダー)【ピナフォアS】、半弟プリンスオブリーズン(父ヘイルトゥリーズン)【2着シャンペンS】、半弟ボールドインパルス(父ボールドビダー)【サンマテオS】なども産んでいる。本馬の半妹タイムリータミー(父ティムタム)の孫にはイムリーライター【ホープフルS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)・フラミンゴS(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)】、タイムリーアサーション【サンタアニタオークス(米GⅠ)】が、本馬の半妹ダスキーイヴニング(父ティムタム)の子にはジャヴァマイン【ダイアナH(米GⅡ)・アーリントンメイトロンH(米GⅡ)・ロングアイランドH(米GⅢ)・ニッカボッカーH(米GⅢ)】、孫にはジャワゴールド【レムセンS(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)】、ブルーバード【キングズスタンドS(英GⅠ)】が、グレイミラージュの孫にはインディアンスキマー【サンタラリ賞(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)・イスパーン賞(仏GⅠ)】、ミッシーズミラージュ【シュヴィーH(米GⅠ)・ヘンプステッドH(米GⅠ)】、クラッシーミラージュ【バレリーナH(米GⅠ)】、曾孫にはタッチオブザブルース【アットマイル(加GⅠ)】、ダブリン【ホープフルS(米GⅠ)】がおり、ホームバイダークは夭折した本馬の代わりに牝系を着実に伸ばしている。

ホームバイダークの半姉プレイヤーベル(父ベターセルフ)の子には1969年の米最優秀2歳牡馬サイレントスクリーン【アーリントンワシントンフューチュリティ・カウディンS・シャンペンS】、ベラドラ【ポインセチアS(米GⅢ)】、曾孫にはスワッガージャック【カーターH(米GⅠ)】、玄孫世代以降には、ドルフィンストリート【フォレ賞(仏GⅠ)】、ヘンリーザナヴィゲーター【英2000ギニー(英GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)】、ロンザグリーク【サンタアニタH(米GⅠ)・スティーヴンフォスターH(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)】、マジシャン【BCターフ(米GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)】などが、ホームバイダークの半姉ロイヤルソサエティ(父ロイヤルチャージャー)の牝系子孫には、メダグリアドーロ【トラヴァーズS(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)・ドンH(米GⅠ)】などがいる。ホームバイダークの母サンデーイブニングはスピナウェイSの勝ち馬。→牝系:F9号族③

母父ヒルプリンスは当馬の項を参照。ヒルプリンスは本馬の近親とは言えないが同じ牝系の出身である。

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