ミンティング

和名:ミンティング

英名:Minting

1883年生

鹿毛

父:ロードリオン

母:ミントソース

母父:ヤングメルボルン

「英ダービーに10回出れば9回は勝った」と言われた高い素質を有しながら、同世代にオーモンドがいたために不遇をかこった史上最古の「偉大なるナンバー2」

競走成績:2~5歳時に英仏で走り通算成績12戦9勝2着3回

非常に優れた競走能力を有しながら、同時代にあまりにも卓越した競走馬がいたために、頂点に立てなかった馬はしばしば存在する。セクレタリアトと同世代に産まれたシャムなどはその筆頭格で、別の世代であれば米国三冠馬になれていたのではと言われる。そういった「偉大なるナンバー2」の中でおそらく最も古い時代の存在が本馬ミンティングである。その素晴らしい競走能力は、“Minting could have won the Derby nine years out of ten(英ダービーに10回出れば9回は勝った)”とまで評された。しかし本馬は不運にもその残りの1回の世代に当たってしまったのである。

誕生からデビュー前まで

英国の馬産家ロバート・チャールズ・ヴァイナー氏により、彼が所有していたヨークシャー州フェアフィールドスタッドにおいて生産・所有された。体高は16ハンドと当時としては背が高い馬で、その巨大な体格は見る者を圧倒する威圧感があったという。長い脚を豪快に伸ばして大跳びで走る馬で、その速度もまた素晴らしかった。気性は紳士的と評されたほど落ち着いており、欠点らしきものが見当たらない馬だった。ニューマーケットに厩舎を構えていたマシュー・ドーソン調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳6月にニューカッスル競馬場で行われたシートンデラヴァルS(T5F)でデビューして勝利。7月にグッドウッド競馬場で出走したプリンスオブウェールズSも勝利を収めた。本馬のこのレースの勝ち方は素晴らしかったそうで、当時の競馬記者は当時のスポーツ紙ベルズライフの中で「彼は最も優れた馬の1頭として、誰もの記憶の中に残る存在となるでしょう」と賞賛した。

9月にはドンカスター競馬場で英シャンペンS(T8F)に出走。後にグレートヨークシャーS・ロイヤルハントCを勝つゲイハーミットなど5頭が対戦相手となったが、ドーソン師の姪ヘレン嬢の夫だったフレッド・アーチャー騎手(「だった」は過去完了形である。ヘレン夫人はこの前年に長女出産時に23歳で死去していた。この一件がアーチャー騎手の人生を暗転させる)が騎乗する本馬が、単勝オッズ1.36倍という圧倒的な1番人気に支持された。レースではゴール前で完全に馬なりのまま走り、2着ゲイハーミットに1馬身半差をつけて勝利した。その後は10月にニューマーケット競馬場で行われたトリエニアルプロデュースSに出走して、難なく勝利を収めた。

そして2歳戦の大一番ミドルパークプレート(T6F)に出走した。このレースには、アスコットバイエニアルS・ニューS・ハーストボーンS・ブリーダーズプロデュースS・ロウス記念Sを勝っていたサラバンドという強敵も参戦してきた。しかし単勝オッズ1.57倍という断然の1番人気に支持されたのは、アーチャー騎手が騎乗する本馬のほうだった。レースは重馬場で行われ、巨大な身体のため体重が重く大跳びで走る本馬にはあまり適していないのではと言われた。しかし本馬がゴール前の接戦を制して、翌年にコロネーションS・ヨークシャーオークスで2着・英オークスで3着するブラウラスを首差の2着に、サラバンドをさらに頭差の3着に抑えて勝利。

2歳時の成績は5戦全勝で、主要競走の勝ちは無かったが2歳時16戦全勝の成績を誇ったザバード、デューハーストプレート・クリテリオンSなど3戦全勝のオーモンドなどと並び翌年の英ダービーの有力候補として挙げられた。これらの有力馬がひしめきあっていたこの世代は、英国競馬史上最高の世代になると言われた。本馬はその中でも最も評価が高く、英ダービーの前売りオッズでは5倍の評価を受けた。セントサイモンなど数々の名馬を手掛けたドーソン師も本馬を非常に高く評価しており、オーモンドは本馬に匹敵する素質を有すると言われた事に関して「オーモンドは確かに良い馬です。しかし彼は2番目です」と主張していた。

競走生活(3歳時)

3歳になった本馬は、英2000ギニー(T8F17Y)から始動した。レース前月の同競走前売りオッズでは、本馬が単勝オッズ3倍の1番人気で、オーモンドが単勝オッズ3.5倍の2番人気だった。しかしレース当日にはその差がさらに広がり、本馬が単勝オッズ2.1倍の1番人気、オーモンドが単勝オッズ4.5倍の3番人気だった。本馬とオーモンドの間に割って入ったのはサラバンドで、単勝オッズ4倍の2番人気だった。ここではアーチャー騎手がサラバンドに騎乗したため、本馬にはジョン・ワッツ騎手が騎乗した。

レースは当初各馬が横一線になって進んだが、2ハロン経過地点でサラバンドが遅れ始め、先行していた本馬とオーモンドの2頭がレース中盤で抜け出した。最後はこの2頭による一騎打ちとなり、いったんは本馬が首差ほど前に出る場面もあったが、ゴール前で差し返されてしまった。結果はオーモンドが勝利を収め、2馬身差の2着に敗れた本馬は初黒星を喫した。3着に入ったメフィストにはさらに10馬身差、4着に終わったサラバンドにはさらに4馬身差をつけていたが、それでも本馬がオーモンドに敗れてしまった現実を突き付けられたドーソン師は非常に動揺した。

その後は英ダービーに向かい、オーモンドに再戦を挑むと思われた。実際にドーソン師は、本馬が英ダービーに出れば今度はオーモンドを負かすことが出来るはずと思っていたという。しかし所有者のヴァイナー氏は、動揺していたドーソン師より冷静な判断を下し、本馬の英ダービー出走を自重した。そのために冒頭に書いたように「英ダービーに10回出れば9回は勝った」と言われた本馬は、実は英ダービーには出走していないのである。

その代わりに出走したのは、パリ大賞(T3000m)だった。対戦相手は、英1000ギニー・英オークスを勝ってきたミスジャミー、仏ダービー・オカール賞の勝ち馬ウパス、仏ダービーでウパスと同着優勝していたシコモールなどだった。英ダービーではオーモンドに騎乗して勝利を得ていたアーチャー騎手が鞍上に戻ってきた本馬が、単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。

スタートが切られると人気薄のポリュークトという馬が先頭に立ち、アーチャー騎手が抑えた本馬は馬群の後方を進むことになった。人気薄のポリュークトだったが、重馬場を味方につけて快調に先頭を飛ばした。そのために後続馬は大きく引き離され、かなりの大逃げとなった。そのままの態勢で直線に入ると、後続各馬は重馬場に四苦八苦して、ポリュークトを追撃する事が出来なかった。しかし唯一例外がいた。重馬場は向いていないのではと言われていた本馬だった。良馬場を走っているかのような素晴らしい末脚を繰り出すと、ゴール前でポリュークトを並ぶ間もなく差し切り、最後は2馬身差をつけて勝利した。「少なくとも外見上は、努力したようには見受けられなかった」「アーチャー騎手がゴール前でミンティングを走らせるのではなく歩かせて勝利した」とまで評されたほどの楽勝だった。勝ち戻ってきた本馬は、ロンシャン競馬場まで詰めかけていた英国の応援団から盛大な歓迎を受けた。

その後はエクリプスSに出走する予定だった。この年に創設されたエクリプスSは、英国競馬史上初の1万ポンド競走として絶大な注目を集めていた。オーモンド、英ダービーでオーモンドの2着に敗れたザバードといった面々は別路線を目標としたため不参加だったが、英ダービー・英セントレジャー・アスコット金杯・アスコットゴールドヴァーズ・シザレウィッチH・ニューマーケットフリーH・ジョッキークラブC2回・クイーンアレクサンドラプレートを勝っていたセントガティエン、ケンブリッジシャーH・リンカンシャーH・ハードウィックSを勝ちケンブリッジシャーHで2年連続2着していたベンディゴという当時の英国古馬2強とでも呼べるべき存在が出走表明しており、本馬を含めた3強対決になると目されていた。ところがレース前日の調教中に本馬は脚の健を痛めてしまった。怪我の具合は深刻で、エクリプスSには当然出走できるわけもなかった。本馬不在のエクリプスSはベンディゴが勝利を収め、記念すべき第1回の覇者となった。本馬の負傷はかなり重篤なもので、3歳シーズンの残りは完全に棒に振ってしまった。3歳時の成績は2戦1勝だった。

競走生活(4歳時)

ヴァイナー氏は本馬を引退させて種牡馬入りさせようとしたが、ドーソン師が必死になって彼を説得したため、現役を続けることになった。本馬が休養している間に、オーモンドは英セントレジャーを勝って英国三冠馬に輝き、他にもジェームズパレスS・ハードウィックS・グレートフォールS・ニューマーケットセントレジャー・英チャンピオンS・ニューマーケットフリーHなどを無敗のまま勝ち続けた。ザバードはグッドウッドC・ドンカスターCを勝ち、本馬とは1度も戦わないまま競馬場を去っていた。そして本馬の主戦だったアーチャー騎手は、妻の死と減量苦に起因する精神疾患のために11月に拳銃自殺を遂げてしまっていた。

4歳になっても本馬はなかなか競馬場に姿を現さず、そのために本馬は二度と競走馬として復帰できないのではないかと言われた。しかし本馬は競馬場に帰ってきた。初戦は前走のパリ大賞からちょうど1年が経過していた4歳6月のアスコットジュビリーS(T8F)だった。アーチャー騎手の死により、ジョン・オズボーン騎手が新たに本馬の主戦となった。この復帰初戦では、ベンディゴ、アスコットダービーの勝ち馬で英セントレジャー・サセックスS・ケンブリッジシャーH2着・英ダービー3着のセントミリンが主な対戦相手となった。斤量は本馬とベンディゴがいずれも134ポンドで、セントミリンは124ポンドだった。しかし結果は単勝オッズ6倍止まりだった本馬がセントミリンを1馬身差の2着に、ベンディゴを3着に破って勝利を収め、復帰戦を飾った。

次走は3日後のハードウィックS(T12F)となった。このレースには、ベンディゴ、この年の英2000ギニー2着馬フィルに加えて、シーズン初戦のロウス記念Sを勝って14戦無敗としていたオーモンドも出走してきた。しかしオーモンドは前年暮れに発症した持病の喘鳴症が非常に悪化していた。そしてオーモンドの喘鳴症は公然の事実として知れ渡っていた。そのためにドーソン師は、今度は本馬がオーモンドを負かすことが出来ると確信していたという。それでもオーモンドが単勝オッズ1.8倍の1番人気(ただし英ダービー以降では最も高い数値)に支持され、本馬が単勝オッズ2.75倍の2番人気、ベンディゴが単勝オッズ13.5倍の3番人気、フィルが単勝オッズ15.29倍の4番人気となった。

スタートが切られると本馬が即座に先頭に立ち、そのまま逃げを打った。一方のオーモンドは、フィルが徹底してその進路を塞ぎにかかっていたため、なかなか本馬を追撃できないでいた。本馬とフィルは所有者も調教師も異なるから、両陣営が示し合わせて採った作戦とは思われない(少なくともドーソン師はそのような姑息な手段を採る人物ではない)が、状況的にはフィルが本馬の援護をしているような雰囲気だった。本馬の逃げはかなりのハイペースだったが、これはドーソン師の作戦だったようで、喘鳴症のため持久力に不安があるオーモンドの体力を消耗させるためだったようである。しかし直線に入ると、フィルを振り切ったオーモンドが本馬に並びかけてきた。そして2頭の壮絶な一騎打ちが展開された。最後は「生涯最初で最後の全力疾走を見せた」オーモンドが競り勝ち、本馬は首差の2着に敗退。3着ベンディゴには3馬身差をつけていたが、これだけ打倒オーモンドのお膳立てが揃っていながら、本馬はオーモンドを負かすことは出来なかった。

またしても厳しい現実を突き付けられたドーソン師の心中は察するに余りある。そしてオーモンドはその後に1戦だけして16戦全勝の成績で競馬場を去っていったため、本馬がオーモンドに雪辱する機会は二度と訪れなかった。それでも本馬とオーモンドの大激闘は、英国競馬史上に残る名勝負として長く語り継がれることになった。なお、オーモンドは明らかに本調子ではなかったが、ここで本馬に騎乗したオズボーン騎手が「ミンティングも最善の状態では無かったように感じました」とレース後に語った事も追記しておく。オーモンドと大激戦を演じた本馬の消耗は激しく、元々故障による長期休養明けだった事もあり、4歳時は無理をせずにそのまま再び長期休養入りした。4歳時の成績は2戦1勝だった。

競走生活(5歳時)

本馬が5歳時になって間もなく発表された前年の英国フリーハンデでは、英ダービー馬メリーハンプトンや英セントレジャー馬キルワーリンといった1歳年下のトップクラスの馬より15ポンドも上の評価を受けた。そして5歳5月にケンプトンパーク競馬場で行われたグレートジュビリーH(T8F)で復帰した。前年の主戦はオズボーン騎手だったが、この年の主戦はフレッド・ウェブ騎手が務めることになった。このレースで本馬に課せられた斤量は140ポンドの大台に達していた。そのために本馬の評価は単勝オッズ4.5倍止まりだった。それでも本馬は強かった。ゴール前では馬なりのまま走り、斤量94ポンドの同世代の牡馬タイロンを3馬身差の2着に、斤量92ポンドの4歳牡馬コブラーにはさらに短頭差をつけて勝利した。この勝利は、オーモンドが競馬場を去った後の英国最強馬は本馬である事を証明するものだった。オークランドスター紙の競馬記者は「こんなに大きなハンデを他馬に与えたのに楽勝した馬を私は見たことがありませんし、今後も見ることは無いでしょう」と賞賛した。

次走は前年にオーモンドと激戦を演じた舞台であるハードウィックS(T12F)となった。前年はかなり盛り上がったこのレースも、この年の出走馬は本馬と、今までは特にこれと言った実績が無かった3歳牝馬ラヴインアイドルネス(後にロウス記念Sを勝ちナッソーSで2着している)の2頭だけという寂しい状態だった。本馬の斤量は138ポンドで、ラヴインアイドルネスは102ポンドに設定されたが、前走で46ポンドやら48ポンドやらのハンデを与えた牡馬を一蹴していた本馬だけに、ここでは単勝オッズ1.06倍という断然の1番人気に支持された。結果は本馬が半馬身差で勝利。着差は小さかったが、マッチレースだけにラヴインアイドルネスの前の位置を維持しさえすれば勝てるという状況だったから、着差などは問題では無かった。

その後はロイヤルハントCに出走する計画だったが、156ポンドという過去に例がない非常識な斤量が課されることが決定したために回避となった。その後は引退レースとして英チャンピオンS(T10F)に向かった。ミドルパークプレート・デューハーストプレート・ニューS・ハーストボーンS・ジュライS・リッチモンドS・モールコームSを勝っていた3歳牡馬フライアーズバルサム、サセックスS・ナッソーSの勝ち馬で英セントレジャー3着の3歳牝馬ザンジバルなどが対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ1.06倍という圧倒的な1番人気に支持された。しかし結果は口内の膿瘍のため3歳時は好成績を収めていなかったフライアーズバルサムが復活勝利を挙げ、本馬は半馬身差の2着に敗退。オーモンド以外の馬に初めて先着されてしまい、引退レースの花道を飾ることは出来なかった。5歳時の成績は3戦2勝だった。

オーモンドは現役当初から今日まで、全時代を通じて最も偉大なサラブレッド競走馬の1頭であると一般的に言われ続け、“Horse of the Century”の異名で呼ばれている。しかしオーモンドの評価が高いのは、同世代に本馬という強豪がおり、それを2度に渡って打ち負かしたからでもある。本馬の卓越した競走能力は皮肉にもオーモンドの名声を高める一助になってしまい、本馬は「オーモンドの陰に隠れた存在」と言われてしまっている。オーモンドと別世代に産まれていれば本馬はどのような競走結果を残しただろうか。英2000ギニーは勝っていただろうし、距離3000mのパリ大賞を勝っていることから英ダービーや英セントレジャーの距離も問題なしであり、故障などのアクシデントさえ無ければ絶対ではないにしても英国三冠馬になっていた可能性は高そうである。

血統

Lord Lyon Stockwell The Baron Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Echidna Economist
Miss Pratt
Pocahontas Glencoe Sultan
Trampoline
Marpessa Muley
Clare
Paradigm Paragone Touchstone Camel
Banter
Hoyden Tomboy
Rocbana
Ellen Horne Redshank Sandbeck
Johanna
Delhi Plenipotentiary
Pawn Junior
Mint Sauce Young Melbourne Melbourne Humphrey Clinker Comus
Clinkerina
Cervantes Mare Cervantes
Golumpus Mare
Clarissa Pantaloon Castrel
Idalia
Glencoe Mare Glencoe
Frolicksome
Sycee Marsyas Orlando Touchstone
Vulture
Malibran Whisker
Garcia
Rose of Kent Kingston Venison
Queen Anne
England's Beauty Birdcatcher
The Prairie Bird

ロードリオンは当馬の項を参照。

母ミントソースは競走馬としては1勝だけ挙げている。牝馬としてはかなり大柄な馬だったらしい。ロードリオンは体高15.3ハンドと小柄だったから、本馬の巨体は母譲りである可能性が高い。繁殖牝馬としては非常に優秀で、本馬の半兄ザラムキン(父カンバロ)【英セントレジャー】、半妹ミンザ(父カンバロ)【英1000ギニー・パークヒルS】も産んだ。本馬の半妹マルキオナイト(父マルキオン)の娘にはラパロマ【愛セントレジャー】がおり、ラパロマの息子オデンプシーも愛セントレジャー馬。

ミントソースの半兄にはスウィフト(父キングクラフト)【モルニ賞・サラマンドル賞・仏グランクリテリウム】がいる。このように近親には多くの活躍馬がいるのだが、ミントソースの牝系子孫はそれほど発展しなかった。

ミントソースの祖母ローズオブケントの全姉シルヴァーヘアーの子にはシルヴィオ【英ダービー・英セントレジャー】が、ローズオブケントの全妹ノンパレイユの牝系子孫には、ドクターファーガー【カウディンS・アーリントンクラシックS・ヴォスバーグS2回・カリフォルニアンS・サバーバンH・ホイットニーH・ユナイテッドネーションズH】、タウィー【プライオレスS・テストS・ヴォスバーグS】、アンブライドルド【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・BCクラシック(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)】、リアムズマップ【BCダートマイル(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)】、日本で走ったタヤスツヨシ【東京優駿(GⅠ)】などがいる。→牝系:F1号族④

母父ヤングメルボルンは初代英国三冠馬ウエストオーストラリアンと同じくメルボルン産駒だが、競走馬としては1戦未勝利に終わった。しかし種牡馬としてはメルボルンの後継の1頭として活躍した。もっとも、父よりも母系に入っての活躍のほうが顕著で、ヤングメルボルンを母系に有する馬は少なくない。例えば19世紀英国最強牝馬の最有力候補ラフレッチェの祖母の父はヤングメルボルンであるし、大種牡馬ポリメラスの曾祖母の父もヤングメルボルンである。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷のフェアフィールドスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は100ギニーに設定された。しかし種牡馬としてはそれほど好成績を残せなかった。晩年は脚を痛めてしまい、最後は立つことも出来なくなったため、1909年7月に26歳で安楽死の措置が執られた。繁殖牝馬の父としては、英ダービー・パリ大賞を勝ったスペアミントを輩出。このスペアミントが、大繁殖牝馬プラッキーリエージュネアルコの祖母キャットニプを出したことにより、本馬の血が後世に受け継がれることになった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1892

Dingle Bay

エボアH

1892

Ugly

ジュライC

1894

Minstrel

アスコットダービー

1895

Royal Mint

フォレ賞

1899

Minstead

ミドルパークS

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