シルキーサリヴァン

和名:シルキーサリヴァン

英名:Silky Sullivan

1955年生

鹿毛

父:サリヴァン

母:レディエヌシルク

母父:アンブローズライト

他馬から数十馬身後方を追走しながらゴールでは差し切ってしまうレース内容で人気を博した米国カリフォルニア州の伝説の追い込み馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績27戦12勝2着1回3着5回

レース序盤は馬群の最後方を進み、レース終盤で他馬が止まって見えるような豪脚を繰り出して勝つ追い込み馬は、古今東西の競馬ファンを魅了し続けてきた。日本ではヒカルイマイ、シービークロス、ミスターシービー、ヒシアマゾン、ブロードアピール、デュランダル、ディープインパクト、オルフェーヴルなど。欧州ではベイヤードアレフランスダリアトリプティクダンシングブレーヴなど。米国ではワーラウェイスタイミーギャラントマンキャリーバックフォアゴーアリダーゼニヤッタなど。しかし、同じ最後方追走でも、本馬ほど極端に他馬から離れた位置を進んだ上で勝つ馬は珍しく、そのレースぶりは伝説となっている。ダート競走でラスト2ハロンを22秒で走り、最大瞬間速度は1ハロン10秒未満だったとも言われる本馬の通称は“California Comet(カリフォルニアの彗星)”である。

誕生からデビュー前まで

米国カリフォルニア州の歯科医ライリー・H・ロバーツ氏とネル・フランシス・ロバーツ夫人により生産された本馬は、燃えるような赤い栗毛の持ち主だった。幼少期の綽名は「ジョン」であり、これは19世紀米国の名ボクサーだったジョン・ローレンス・サリヴァン氏と父サリヴァンの名前をかけて名付けられたものである。幼少期に、11ヘクタール(11万平方メートル)の牧場を横断する際、先に出発した他馬達が目的地までの半分まで進んでから出発したにも関わらず、先頭で目的地に着いたという逸話があり、この頃から既に追い込み馬だったようである。

1歳時のデルマーセールにおいて、引退した牧場主フィル・クリプスタイン氏と製材業者トム・ロス氏の両名により1万700ドルで購入され、レジー・コーネル調教師に預けられた。コーネル師は加国オンタリオ州の出身で、元々は加国のトロントで開業していたが、1940年代半ばから米国カリフォルニア州に拠点を移していた。ちなみに後に名馬ジョンヘンリーを手掛けることになるロン・マッカナリー調教師は彼の妻の姉妹の息子に当たっており、幼少期に母を亡くしたマッカナリー氏を引き取って調教技術を教え込んだのはコーネル師である。

競走生活(2歳時)

2歳5月にハリウッドパーク競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦でデビューした。スタートから行き脚が付かず、他馬から15~20馬身も離されてしまい、レースを見ていたコーネル師が「これは廃馬だな」と思ったほどだった。ところがレース中盤で、コーネル師曰く「まるで蜂に刺されたように」加速し、全馬を抜き去って鼻差で勝利した。騎乗していたジョージ・タニグチ騎手は「この馬は最初からレースを捨てているように見えました。まるで逆走しているような遅さでした。この馬は何をしているのだと思いました。レースの半分まで好きなように走らせ、そこで試しに仕掛けてみました。すると突如ギアが切り代わったのです。とても追いつけるとは思えないほど後方だったのに、勝ってしまいました。こんな馬に乗ったのは初めてです。まるで空を飛んでいるようでした」とコメントしている。コーネル師は「私は過去にこんなに速い馬を見たことは無いし、聞いたことさえも無いです」と驚きのコメントを残した。

その後に出走したバークレーH(D6F)では、ファイアアラームの3着だった。さらにカリフォルニアブリーダーズトライアルS(D7F)に出走したが、この年のデルマーフューチュリティ・カブリロS・スターレットSを勝つオールドプエブロの4着に敗れた。

12月にはゴールデンゲートフューチュリティ(D8F)に出走した。名手マヌエル・イカサ騎手が騎乗した本馬は、一時は他馬から27馬身も置かれてしまったが、イカサ騎手が仕掛けると「ロケットか機械のように」加速して、全馬を「稲妻のように」抜き去って、2着ハーコール以下に勝利した。2歳時の成績は7戦4勝だった。

競走生活(3歳初期)

3歳時は1月のマイル競走から始動。このレースでは後にデルマーダービーを勝つザシューとサークルリーという2頭の馬がゴール前で激しく競り合い、勝敗は写真判定に持ち込まれた。サークルリー鞍上のレイ・ヨーク騎手は勝利を確信し、ザシュー鞍上のウィリー・シューメーカー騎手に「今回は私が勝ったよ」と話しかけた。するとシューメーカー騎手は「そうですね。でも外から来た馬には勝てなかったようですよ」と答えた。写真判定の結果はヨーク騎手が気付かないような位置から飛んできた本馬が2頭を首差で下していた。

その後はカリフォルニアブリーダーズCS(D8.5F)に出走。ここでは他馬から40馬身後方から追い込んで、サンヴィンセントHを勝ってきたオールドプエブロの首差2着した。このときにオールドプエブロに騎乗していたエディ・アーキャロ騎手は本馬を「走る事しか眼中に無い馬」と評した。このレースで本馬はラスト1ハロンを10秒フラットかそれ未満のタイムで走ったとされている。次走のダート6.5ハロンの一般競走では、他馬から最大で41馬身差をつけられた最後方から追い込んで3馬身差で勝利した。

3月にはサンタアニタダービー(D9F)に出走した。対戦相手は、カリフォルニアブリーダーズCSで本馬を破ったオールドプエブロ、カリフォルニアブリーダーズCSで本馬に続く3着だったザシュー、サンフェリペHを勝ってきたキャリアーエックス、本馬が3着だったバークレーHとサンフェリペHで2着だったアリウォー、ゴールデンゲートフューチュリティで本馬の2着だったハーコール、同3着だったフューリーヴァン、後のローレンスリアライゼーションSの勝ち馬マーティンズルーラなどだった。オールドプエブロと本馬が並んで1番人気に支持されていた。サンタアニタパーク競馬場には本馬見たさに大観衆が詰めかけ、同競馬場史上最多入場人員となる61123人を記録した。レースでは最初の5ハロンで本馬は他馬から26~28馬身差をつけられた。しかしシューメーカー騎手が最終コーナー手前で仕掛けると瞬く間に前の馬との差を縮めていった。そして直線入り口で10頭立ての6番手から一気の末脚で他馬をごぼう抜きにして、2着ハーコールに3馬身差をつけて勝利した(オールドプエブロは4着だった)。シューメーカー騎手は「この馬に乗るときに騎手が出来る事は一つだけです。レース序盤は馬の好きなように走らせる事。後は馬に掴っていれば良いのです」と語った。その後、本馬を35万ドル(50万ドルとも)で購入したいという申し出があり、クリプスタイン氏は心を動かされたが、ロス氏はそれを拒否した。

ケンタッキーダービー

そして本馬はケンタッキーダービーを目指してカリフォルニア州からケンタッキー州に移動し、まずは前哨戦としてチャーチルダウンズ競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走に出走。ここでも他馬から30馬身後方を追走したが、生憎の不良馬場に脚を取られたか、4着までだった。

そして迎えたケンタッキーダービー(D10F)では、カウディンS・シャンペンS・トレモントS・ピムリコフューチュリティ・ウッドメモリアルSを勝っていた前年の米最優秀2歳牡馬ジュエルズリワード、エヴァーグレーズS・フラミンゴS・ファウンテンオブユースS・フロリダダービー・ダービートライアルSなど6連勝で臨んできたティムタム、ルイジアナダービー・ウッドメモリアルS2着のノウレディン、ダービートライアルS2着馬エボニーパール、ウッドメモリアルS3着馬マーティンズルーラ、フロリダダービー2着馬リンカーンロード、ブルーグラスS・ダービートライアルS3着のフラミンゴなど12頭が対戦相手となった。ジュエルズリワードとエボニーパールのカップリングが1番人気に支持され、本馬とティムタムが並んで単勝オッズ3.1倍の2番人気となった。

CBS放送はこの年のケンタッキーダービーをテレビ放送するに当たって、本馬の姿を映し出すために画面の右下に本馬だけを写すコーナーを用意した。レースでは相変わらず本馬は他馬から30馬身も後方を追走した。実況アナウンサーも他のどの馬よりも本馬の名前をたくさん叫んだ。そしてレース終盤で位置取りを上げて行ったが、直線ではばたばたとなり、勝ったティムタムから20馬身も後方の12着と惨敗した。本馬にとっては距離が長過ぎた上に、苦手の重馬場だった事も敗因として挙げられている。また、後に本馬を所有するジェル・クヴェール氏は「ダービー前に発熱していたらしいけれども、それが本当かどうかは私には分からない。もしかしたら仕掛けが早かったかもしれない」と語っている。

競走生活(ケンタッキーダービー以降)

その後のプリークネスS(D9.5F)にも出走したが、ティムタムの8着に終わっている。その後の本馬の競走成績については、資料不足で詳細は不明である。この年のベルモントS出走馬一覧に本馬の名前は無かったから、ベルモントSに不参加だったのは間違いない。本馬で米国三冠競走を獲ることが出来なかったコーネル師だが、翌1959年にロイヤルオービットでプリークネスSを制覇して生涯唯一の米国三冠競走制覇を成し遂げている。一方の本馬は3歳時にはプリークネスSの後にステークス競走の入着は無く、この年の成績は12戦5勝だった。

4歳時も走ったが、ビングクロスビーBCH(D6F)では、コースレコードで勝ったサンヴィンセントS・ウィルロジャーズSの勝ち馬オーレフォルスの3着。ゴールデンステートブリーダーズH(D8.5F)でゴールドカバーの3着した程度で、ステークス競走を勝利する事は無かった。そして4歳の夏に心臓疾患のため、この年8戦3勝の成績で競走馬を引退したという。

本馬がこのような極端なレースをした理由については、呼吸器疾患のため一定程度進んでからでなければ全力で走れなかったという説が有力らしいが、真相は不明である。短距離馬だったからという理由を唱える人もいるが、同じ理由で追い込み馬になったとされるミスターシービーと異なり、騎手が意図的に抑えた訳ではないようなので、それは当たらないだろう。もっとも、短距離馬であった事自体には筆者も異論は無い。本馬の名前は米国のスポーツ界及び政界において「とても勝てそうになかったが最後に逆転して勝利する」という意味で、各種のセリにおいて「ぎりぎりまで粘って最後に高値を言って勝つ」という意味で使用されているという。

血統

Hard Sauce Ardan Pharis Pharos Phalaris
Scapa Flow
Carissima Clarissimus
Casquetts 
Adargatis Asterus Teddy
Astrella
Helene de Troie Helicon
Lady of Pedigree
Saucy Bella Bellacose Sir Cosmo The Boss
Ayn Hali
Orbella Golden Orb
Mistaken
Marmite Mr. Jinks Tetratema
False Piety
Gentlemen's Relish He
Bonne Bouche
Toute Belle Admiral Drake Craig an Eran Sunstar Sundridge
Doris
Maid of the Mist Cyllene
Sceptre
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Chatelaine Casterari Fiterari Sardanapale
Miss Bachelor
Castleline Son-in-Law
Castelline
Yssel Kircubbin Captivation
Avon Hack
Yvonne Sheen
Phosphine

父サリヴァンは、最初は英国と愛国で走り、後に米国に移籍している。欧州では4戦してレパーズタウンプロデュースSの1勝。米国では8戦5勝の成績を残しているが、ウィルロジャーズSで3着した程度で、これといった勝ち鞍は無かった。引退後はカリフォルニア州で種牡馬入りして、同州の繋養種牡馬としては優秀な部類に入る成績を収めた。遡ると、英シャンペンS・コヴェントリーSの勝ち馬パノラマ、ジュライC・リブルスデールSの勝ち馬サーコスモを経てザボス、オービーに至る完全な短距離血統である。

母レディエヌシルクは現役時代4戦したが勝てないまま、脚の故障で引退している。レディエヌシルクの母フォックスホールの従兄弟には米国顕彰馬トップフライト【アーリントンラッシーS・サラトガスペシャルS・メイトロンS・ベルモントフューチュリティS・ピムリコフューチュリティ・エイコーンS・CCAオークス・アラバマS】が、フォックスホールの母コーヒーカップの半兄にはザナット【ローレンスリアライゼーションS】、全兄にはトゥデイ【ウッドメモリアルS】が、コーヒーカップの祖母マチネーの全兄には史上初のニューヨークハンデキャップ三冠馬ウィスクブルーム【メトロポリタンH・ブルックリンH・サバーバンH】がいる。→牝系:F4号族③

母父アンブローズライトはファロス産駒の仏国産馬で、現役成績は43戦9勝、ダフニ賞・ジョンシェール賞・アイソノミー賞・バイエニアルドメゾンラフィット賞2回の勝ち馬。競走馬引退後は米国に種牡馬として輸入されていたが、それほど成功できなかった。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、カリフォルニア州で種牡馬入りした。8歳時に売りに出され、後に英国の自動車会社ジェンセン・モーターズの筆頭株主となる自動車業者ジェル・クヴェール氏に購入され、その後の余生をクヴェール氏の元で過ごした。クヴェール氏は負傷した騎手や競走馬の支援を惜しまなかった人物だった。競走馬を引退した後も本馬の大衆人気は衰えず、毎年聖パトリックの祝日にはゴールデンゲートフィールズ競馬場で、サンタアニタダービー当日にはサンタアニタパーク競馬場で本馬のパレードが行われた。また、本馬に送られてきた手紙の返事を書くために、本馬には人間の秘書がいたという。誕生日やクリスマスには本馬に多くのカードが送られてきたという。1977年11月、本馬は睡眠中に22歳で他界した。本馬の死を聞いたクヴェール氏は「彼のような馬はいませんでした。彼は紳士でした。彼は子どもをお腹の下で歩かせ、子どもを背に乗せ、お馬さんごっこをさせてあげました。大人が同じ事をしようとしてもさせてくれませんでしたが、その場合でもやはり紳士的に断っていました。とても面白い馬でした。いなくなって寂しいです」と語った。本馬の遺体はゴールデンゲートフィールズ競馬場に埋葬された。墓碑には「レース序盤はのんびりと最後方を歩き、ファンが応援しても聞こえないかのようにだらだらと進み、そして突如高速化してゴールまで駆け抜けた赤い弾丸」と刻まれた。後にロストインザフォグが本馬の隣に埋葬されるまで、同競馬場に埋葬された唯一の馬だった。

本馬はサラブレッド種牡馬としてはあまり成功しなかった。しかしその驚異的な速度に魅せられたクォーターホースの生産者達は、本馬の元に積極的に繁殖牝馬を送ってきており、現在でも本馬の血を引くクォーターホースは少なからずいるようである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1961

Son of Silky

オマハ金杯

1962

Mr. Payne

ラホヤマイルH

1964

Blazing Silk

コーンハスカーH

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