ヴェロシペード

和名:ヴェロシペード

英名:Velocipede

1825年生

栗毛

父:ブラックロック

母:ジュニパーメア

母父:ジュニパー

脚部不安が祟って大競走制覇には無縁だったが「北方の魔術師」ジョン・スコット調教師が高く評価したため、19世紀前半英国有数の名馬として語り継がれる

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績9戦7勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

英国ヨークシャー州において、父ブラックロックの生産者でもあるフランシス・モス氏により生産された。ブラックロックと同様に頭の形が悪い馬だったそうだが、やはり父と同様に強靭な筋肉の持ち主でもあった。背も当時としては高く、体高は最終的に16ハンドに達した。しかし脚が細く、明らかに脚部不安を発症しそうだった。

1歳時にウィリアム・スコット騎手により120ポンドで購入された。スコット騎手は英国保守党所属の政治家トマス・ハウルズワース氏の代理人として本馬を購入していた。しかし本馬を見たハウルズワース氏は「脚の力強さと頑丈さに欠けている。こんな細い脚の馬には6ペンスの価値も無い」として本馬の所有者となる事を拒絶した。行き場を失った本馬は、スコット騎手と彼の知人ウィリアム・アーミテージ氏の共同所有馬となる事になった。

本馬を管理する事になったのは、ヨークシャー州に厩舎を構えていたスコット騎手の3歳年上の兄ジョン・スコット師だった。スコット師も元々は騎手を志していたが体重が増えたために断念し、調教師だった父の跡を継ぐ事を決めた。後に「北方の魔術師」の異名で呼ばれ、英国競馬史上最高の調教師の1人となるスコット師も、本馬が1歳時の1826年時点では英国クラシック競走未勝利(1827年にマチルダで英セントレジャーを勝ったのが初勝利)の身であり、この段階ではまだそこまでの名声を得ていたわけでは無かった。一方で弟のスコット騎手は既に騎手としての名声を得ていたが、重度のアルコール中毒だった事でも悪名高く、酔った状態で騎乗して負けたレースも少なくなかったという。この兄弟は二人三脚で馬を手掛けており、いずれかが探してきた馬を兄が管理し、それに弟が騎乗するというスタイルを採っていた。当然本馬の主戦もスコット騎手となった。

競走生活(2・3歳時)

2歳4月にカテリックブリッジ競馬場で行われた距離1マイルの20ソヴリンスウィープSでデビューした。スコット騎手が騎乗する本馬は6頭立ての1番人気に応えて、馬なりのまま走り、2着ゲームボーイ以下に勝利を収めた。次走は5月にヨーク競馬場で行われた360ポンドスウィープSとなった。単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持された本馬は、他の対戦相手8頭を蹴散らして、楽々と勝利を収めた。その後はしばらくレースに出ず、次走は9月にドンカスター競馬場で行われたスウィープSとなった。単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持された本馬だったが、ここでは牝馬ベッシーベッドラムの2着に敗れてしまった。翌10月にノーサラートン競馬場で出走した距離9ハロンの380ポンドスウィープSでは、単勝オッズ1.57倍で7頭立ての1番人気に応えて、再び2着となったゲームボーイ以下に勝利を収め、2歳時の成績は4戦3勝となった。

本馬は英ダービーの登録は無かったが、英セントレジャーには登録があったため、2歳終了の段階で英セントレジャーの有力候補の1頭として評価された。3歳時は5月にヨーク競馬場で行われたヨークセントレジャー(T14F)から始動した。単勝オッズ1.5倍で6頭立ての1番人気に支持された本馬は、2着馬に100ヤード(30馬身差程度に相当する)もの大差をつけて勝利を収めた。

その後はしばらくレースに出ず、3歳2戦目が英セントレジャー(T14F132Y)となった。しかしこのレースで本馬に騎乗したのはスコット騎手では無かった。その理由は、この英セントレジャーにはもう1頭、スコット厩舎から有力馬が出走しており、スコット騎手はそちらに乗ることになったからだった。その馬の名前はザコロネルといい、英シャンペンSの勝ち馬で、英ダービーでは英2000ギニー馬キャドランドと1着同着になるも、その後の決勝戦を回避したために2着扱いにされていた。本馬は英セントレジャー前に右前脚を負傷しており、その負傷をおして走ったザコロネルとの非公式の試走で先着されていたため、スコット兄弟が勝つ確率が高いと見ていたのはザコロネルのほうだったのである。負傷した脚に包帯を巻きつけてレースに出た本馬はスタートから先手を取って馬群を牽引するも、残り2ハロン地点から徐々に失速。ザコロネル、同父の牝馬ベリンダの2頭に差されて、ザコロネルの3着に敗れた。3歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は2戦1勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳時は5月にヨーク競馬場で行われたヨーク金杯(T16F)から始動した。対戦相手は3頭だけだったが、その中には前年のドンカスターCの勝ち馬で一昨年の英セントレジャー3着のローレルという実力馬がいた。他の2頭であるノンプラスとアクタイオンも、知名度の高い競走の勝ちはないが当時の有力馬として知られている馬だった。レースはローレルが先頭を引っ張り、ここではジョージ・ネルソン騎手が騎乗した本馬がその後方を追走する展開となった。そして残り1ハロン地点でネルソン騎手が合図を送ると、即座に反応した本馬が「驚くべき速度の爆発」を見せて、内側からローレルを一瞬にしてかわした。後は無駄に差を広げることが無い余力残しの走りで、2着ローレルに半馬身差で勝利した。このレース後に当時のスポーティング・マガジン紙は「ヴェロシペードはこの1戦で自分が間違いなくこの年の最強の馬であることを自ら証明しました」とまで評しており、半馬身差という着差からは想像できないほどの強い内容だったようである。

ヨーク金杯の翌日には、一昨年のスウィープSで本馬を破った牝馬ベッシーベッドラムとの300ポンド(200ソヴリン)を賭けたマッチレースに出走。ここでは半馬身差よりずっと大きな着差で容易に勝利を収めた。7月にはリヴァプール競馬場でリヴァプールサマーC(T16F)に出走。ローレルに加えて、チェスターCの勝ち馬ハルストンなども出走していたのだが、本馬が単勝オッズ2.5倍で10頭立ての1番人気に支持された。そして2着ドクターファウスタス以下をあっさりと破って勝利した。この翌日にはチェスター競馬場でスタンドCに出走しようとしたが、レース前の返し馬で脚を痛めてしまい、出走を回避。そのまま4歳時3戦3勝の成績で競走馬を引退した。

競走馬としての評価

本馬は英セントレジャーで負けているし、他の著名な競走には殆ど出走していない。したがって、主な勝ち鞍を見ただけでは、それほどの名馬には思えない。ところが、本馬が競走馬を引退してから約57年後の1886年6月に、英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、本馬は第30位にランクインしている。本馬はこの企画でランクインしている42頭の中で最も時代が古い馬である。

本馬の評価がこんなに高い理由の1つには、本馬を管理したスコット師が本馬を非常に評価していた事も一因としてありそうである。スコット師は、英1000ギニーを4勝、英2000ギニーを7勝、英オークスを8勝、英ダービーを5勝、英セントレジャーに至っては現在でも単独史上最多の16勝を挙げ、最終的に英国クラシック競走を40勝もした、英国競馬史上においても間違いなく五本の指に入る名調教師である。彼はタッチストンザバロンニューミンスターウエストオーストラリアンなど数々の名馬を手掛けたが、彼が自分の家の食卓に飾っていた馬の絵は、英国クラシック競走を1つも勝っていない本馬のものであった。スコット師の弟スコット騎手は本馬を「脚を1本切り落としたとしても、残った3本の脚で他馬と戦える素質の持ち主」と評した。そしてスコット師はその言葉を裏付けるように「ヴェロシペードが万全の状態であれば、ザコロネルは20ポンド以上のハンデを貰っても敵わなかったでしょう」と常々語っていた。偉大な競馬人が絶賛したからこそ、本馬は伝説的存在として後世まで語り継がれた一面は否めない。しかし現役当初から前述のスポーティング・マガジン紙のように非常に高い評価を下した第三者もいたことからすると、その実力は実際にレースを見た人でないと分からない類のものだったのかもしれない。

血統

Blacklock Whitelock Hambletonian King Fergus Eclipse
Creeping Polly
Grey Highflyer Highflyer
Monimia
Rosalind Phoenomenon Herod
Frenzy
Atalanta Matchem
Young Lass of the Mill
Coriander Mare Coriander Pot-8-o's Eclipse
Sportsmistress
Lavender  Herod
Snap Mare
Wildgoose Highflyer Herod
Rachel
Co-Heiress Pot-8-o's
Manilla
Juniper Mare Juniper Whiskey Saltram Eclipse
Virago
Calash Herod
Teresa
Jenny Spinner  Dragon Woodpecker
Juno
Eclipse Mare Eclipse
Miss Spindleshanks
Sorcerer Mare Sorcerer Trumpator Conductor
Brunette
Young Giantess Diomed
Giantess
Virgin Sir Peter Teazle Highflyer
Papillon
Pot-8-o's Mare Pot-8-o's
Editha

ブラックロックは当馬の項を参照。

母ジュニパーメアは本馬やブラックロックと同じくモス氏の生産馬だが、競走馬としての経歴は不明。生涯で合計16頭の子を産み、複数のステークス競走で入着した本馬の全兄マレク、本馬の全妹モスローズ【リヴァプールセントレジャー】なども競走馬として活躍した。しかしそれ以上に素晴らしいのが牝系子孫の活躍ぶりである。ジュニパーメアがいなければ20世紀以降のサラブレッド血統地図は全く変わっていた事が確実(セントサイモンの父ガロピンが誕生しないから)であり、根幹繁殖牝馬の1頭と言える存在である。

本馬の半妹エステル(父ブルタンドルフ)の子にピクニック【英1000ギニー】、孫にマヨネーズ【英1000ギニー】がいる他、その牝系子孫には、米国三冠馬サイテーション、ニューヨーク牝馬三冠馬ダヴォナデイル、エクリプス賞年度代表馬エーピーインディ、芦毛の名馬シルバーチャーム、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSなどの勝ち馬デュークオブマーマレード、エクリプス賞年度代表馬ハヴァードグレイス、それに日本最高級の名牝系の祖フロリースカップ(コダマ、キタノカチドキ、カツラノハイセイコ、ニホンピロウイナー、スペシャルウィーク、メイショウサムソン、ウオッカ達の先祖)などがおり、世界的名門牝系を形成している。

本馬の半妹メローぺ(父ヴォルテアー)の孫にはモスレム【英2000ギニー】、セントサイモンの父ガロピン【英ダービー】がおり、その牝系子孫もエステルほどではないが発展しており、名障害競走馬レスカルゴなどが出ている。

モスローズも母としてローザビアンカ【ナッソーS】を産み、しばらくは牝系が続いたが、現在は途絶えている模様である。また、本馬の全妹エナジーの孫にゴントラン【仏2000ギニー・仏ダービー】が出たが、この牝系も長くは続かなかった。→牝系:F3号族④

母父ジュニパーの競走馬としての経歴は不明。ジュニパーの父ウイスキーはエレノアの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はヨークシャー州を始めとするイングランド北部の州で種牡馬生活を送った。当初はアーミテージ氏が所有するノースヨークシャー州アインダーバイスティープルの牧場で暮らした。後にホブソン氏という人物に購入され、ウエストヨークシャー州リーズの近郊にあるシャドウェルレーンに移り住んだ。さらにイングランド西北端にあるカンバーランドのコーニーホールに移動した。本馬は種牡馬としては3頭の英国クラシック競走の勝ち馬を送り出し、水準以上の成績を収めた。1850年6月にコーニーホールにおいて25歳で他界した。

種牡馬として成功したと言える本馬だが、後継種牡馬には恵まれなかったため、直系は残らなかった。本馬の血を受け継ぐ馬として真っ先に挙げられるのは、19世紀最大の種牡馬セントサイモン(その曾祖母の父ホーンシーが本馬の息子)と、19世紀豪州最高の名馬カーバイン(その直系4代前のイズリエルの母の父が本馬)の2頭であり、この2頭を経由して本馬の血は現在世界中にいるサラブレッド全ての中に残ることになった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1832

Hornsea

グッドウッドC

1832

Queen of Trumps

英オークス・英セントレジャー

1835

Amato

英ダービー

1836

Mickleton Maid

パークヒルS

1838

Knight of the Whistle

ロイヤルハントC

1839

Meteor

英2000ギニー

1840

Amorino

アスコットダービー

1840

La Stimata

コロネーションS

TOP