フォアゴー

和名:フォアゴー

英名:Forego

1970年生

鹿毛

父:フォルリ

母:レディゴルコンダ

母父:ヘイスティロード

過酷な負担重量と脚部不安を克服して米国ハンデ路線の大競走を勝ちまくり3年連続でエクリプス賞年度代表馬に輝いた米国競馬史上有数の名馬

競走成績:3~8歳時に米で走り通算成績57戦34勝2着9回3着7回

米国競馬においては、強い馬は重い斤量を背負って他馬を迎え撃たなければならないという思想が当たり前である。一昔前までは、強い馬に130ポンド以上の厳しい斤量が課せられることなどざらだった。最近はあまり無茶な斤量を課せられるケースは減ってきているが、それでもハンデ戦として施行されているGⅠ競走が山のように存在する事実が、その思想が現在でも息づいている事を如実に示している。そんな米国競馬界において、今日でも「史上最強のハンデキャップホース」と讃えられているのが本馬である。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州クレイボーンファームにおいて、エドワード・マーサ・ファリッシュ・ジェリー夫人により生産された。ジェリー夫人は米国石油協会の会長を務めたウィリアム・スタンプス・ファリッシュⅡ世氏の娘であり、ファリッシュⅡ世の孫であるレーンズエンドファームの所有者ウィリアム・スタンプス・ファリッシュⅢ世氏は彼女の甥に当たる。ジェリー夫人は父の死後に、父がテキサス州に設立していたレイジーエフ牧場を母と共に受け継いで馬主活動を続けていた。後の1983年に、米国ジョッキークラブが初めて女性の会員を認めた際に、最初に加入が認められた女性3人のうちの1人でもある(残りの2人はケルソの所有者リチャード・アルーレ・デュポン夫人と、セクレタリアトの所有者ヘレン・“ペニー”・チェネリー女史)。

ジェリー夫人はクレイボーンファームの経営者ブル・ハンコック氏とは友人だったため、馬産はクレイボーンファームに委ねていた。本馬の母レディゴルコンダの交配相手として、自身が亜国から連れてきた名馬フォルリを推薦したのもハンコック氏だった。父フォルリ(Forli)と母レディゴルコンダ(Lady Golconda)の馬名から一部分ずつを採ってフォアゴー(Forego)と命名された本馬は、レイジーエフ牧場の名義で、シェリル・W・ワード調教師に預けられた。

空腹になると干し草やオート麦だけでなく人間の指や手まで食べようとするほど食欲旺盛だった本馬は非常に身体が大きな馬であり、成長すると体高17.1ハンド、体重1225ポンドに達したという。巨漢馬として知られる同世代のセクレタリアトは、全盛期に体高16.2ハンド、体重1175ポンドだったから、本馬はセクレタリアトよりさらに大きい馬であった。3歳時の本馬の身体検査を実施したニューヨーク競馬協会の獣医師マヌエル・ギルマン博士(バックパサーの馬体を完璧と評した事で有名)は「これほど立派な体格を持つ馬は他に見たことがありません」と米ブラッドホース誌上で語っている。

しかしあまりに巨大すぎて、速く走れないのではないかと周囲の人間は心配したという。しかもその巨体が災いしたのか、四肢の球節や種子骨に慢性的な問題を抱えており、脚部不安と戦いながらの競走生活を送ることになった。また、非常に神経質で扱い辛い気性の持ち主であり、人や物を蹴ろうとしたり噛もうとしたりは日常茶飯事だった。さらには牝馬が近くにいると興奮して叫んで暴れるような女好きの馬だった。こうした気性を和らげるために、8か月間に及ぶ気性緩和のトレーニングが施されたが失敗に終わったため、ジェリー夫人の指示によりデビュー前の2歳夏に去勢されて騙馬になった。ワード師は本馬が3歳12月のときに発行されたブラッドホース誌のインタビュー中において「牡馬を去勢してもそれほど効果が無いことはしばしばありますが、フォアゴーの場合は劇的に効果がありました。今の彼は耳をぴんと立てて人に擦り寄ってくるようなシャイな馬になっています」と語っており、去勢による気性面の改善という目的が最大限に発揮された好例だったようである。デビュー前調教から「稲妻のような」と評された卓越した加速力の一端を垣間見せていた本馬だったが、巨漢馬だけに仕上がりは遅く、実戦でその能力を発揮できるようになるには少し時間を必要とすることになる。

競走生活(3歳前半)

3歳1月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの未勝利戦で、主戦となるピート・アンダーソン騎手を鞍上にデビューしたが、勝ち馬バッファローラーク(後にガヴァナーズカップH・アーリントンパークH・パームビーチS・パンアメリカンH・スターズ&ストライプスHに勝利してアメリカンダービー・ガルフストリームパークH・オークツリー招待Sで3着するなど、米国の上級ハンデキャップホースとして活躍する)から7馬身差の4着に敗れた。しかし12日後に出走したハイアリアパーク競馬場ダート6ハロンの未勝利戦を8馬身差で圧勝して勝ち上がった。翌月に出走した同コースの一般競走も、2着ボリジに2馬身半差で勝利した。

ガルフストリームパーク競馬場に場所を移して3月に出走したハッチソンS(GⅢ・D7F)では、この年にさらにファウンテンオブユースS・セレクトH・ケルソHなどに勝ってエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるアーリントンワシントンフューチュリティの勝ち馬シェッキーグリーンがコースレコードタイで勝利を収め、本馬は3馬身1/4差の2着に敗れた(同月末のルイジアナダービーを勝つレオズピシーズが3着だった)。その17日後にはガルフストリームパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走に出走して、後のオイルキャピトルHの勝ち馬カーデスコーヴを2馬身差の2着に抑えて勝利した。さらに1週間後にはフロリダダービー(GⅠ・D9F)に出走。エヴァーグレイズS・マイアミビーチHの勝ち馬レストレスジェット、デイドターフS・バハマズSを勝ってきたロイヤルアンドリーガルを抑えて1番人気に支持されたが、ロイヤルアンドリーガルの3馬身差2着に敗れた。

その後はケンタッキーダービーを目指してケンタッキー州に向かい、ブルーグラスS(GⅠ・D9F)に出走した。フラミンゴS・ホーソーンジュヴェナイルSの勝ち馬でエヴァーグレイズS2着のアワーネイティヴ、アーカンソーダービーの勝ち馬インピキューニアス、フラミンゴS2着馬マイギャラント、アーカンソーダービー3着馬ウォーバックスなどを抑えて1番人気に支持されたが、上記に挙げた4頭全てに後れを取り、2着アワーネイティヴを頭差抑えて勝ったマイギャラントから5馬身差の5着に敗れた。

それでもケンタッキーダービー(GⅠ・D10F)には出走した。対戦相手は、前年に2歳にしてエクリプス賞年度代表馬に選ばれていたサンフォードS・ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・ローレルフューチュリティ・ガーデンステートS・ベイショアS・ゴーサムSの勝ち馬セクレタリアト、サンタアニタダービー・サンタカタリナSの勝ち馬でウッドメモリアルS2着のシャム、ウッドメモリアルSでセクレタリアトを3着に破ってきたアングルライト、マイギャラント、アワーネイティヴ、ブルーグラスS3着馬ウォーバックス、ロイヤルアンドリーガル、フロリダダービーで3着だったレストレスジェット、ファウンテンオブユースSを勝ってきたシェッキーグリーン、ファウンテンオブユースS2着馬トゥワイスアプリンス、ルイジアナダービー2着馬ナヴァホなどだった。スタートが切られると、シェッキーグリーンが先頭に立ち、シャムなどがそれを追走、本馬は馬群の中団後方につけ、セクレタリアトは最後方からの競馬を選択した。向こう正面でセクレタリアトが外側を通って上がってくると、本馬も進出しようとしたが、三角で不利を受けて柵に激突してしまうアクシデントがあった。それでもなんとか外側に持ち出して追い上げようとしたが、既に本馬の遥か前を走っていたセクレタリアトとシャムの2頭には全く届かず、アワーネイティヴとの3着争いにも敗れて、勝ったセクレタリアトから11馬身差の4着に終わった。

プリークネスSは回避して、ウィザーズS(GⅡ・D8F)に向かった。しかし、2歳時のサンフォードSでセクレタリアトを生涯唯一の2番人気に落とした馬として知られるユースフルS・ジュヴェナイルS・トレモントS・サンミゲルS・サンハシントS・サンフェリペS・カリフォルニアダービーの勝ち馬でサンタアニタダービー2着のリンダズチーフ、2歳時のシャンペンSでセクレタリアトの降着により繰り上がり勝利馬となったサラトガスペシャルSの勝ち馬でベルモントフューチュリティS・カウディンS・ローレルフューチュリティ2着のストップザミュージック(いずれもケンタッキーダービーだけでなく米国三冠競走には結局全て不参加だった)の2頭に後れを取り、勝ったリンダズチーフから5馬身差の3着に敗戦。

競走生活(3歳後半)

結局本馬はベルモントSも回避することになり、その後は背伸びをせず、一般競走に黙々と出走することになる。まずはベルモントパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走に出走。ここではエリオドロ・ガスティネス騎手を鞍上に、2着アダプティブエースに9馬身差をつけて圧勝した。しかし同日に同じベルモントパーク競馬場で行われたベルモントSにおいて、2着トゥワイスアプリンスに31馬身差をつけて米国三冠馬に輝いたセクレタリアトの勝ち方に比べると、たいした事が無いように見えてしまった。この日の時点で既にセクレタリアトは米国競馬史上10指に入る名馬としての地位を確立したが、本馬もまた米国競馬史上10指に入る名馬になろうとは、当時いったい誰が想像していただろうか。

1月から休み無く走ってきたために、少しだけ夏休みが与えられ、次走は8月にサラトガ競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走となった。アンダーソン騎手鞍上の本馬は1番人気に支持されたのだが、この年のウッドワードSやジョッキークラブ金杯を勝つ事になる4歳馬プルーヴアウト(ウッドワードSではセクレタリアトを負かしている)の7馬身1/4差3着に敗れた。このレースを最後に、本馬の主戦はアンダーソン騎手からガスティネス騎手に交代となった。次走のベルモントパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走では、後に種牡馬として活躍するカットラスを頭差の2着に抑えて勝利した。2週間後に出たベルモントパーク競馬場ダート8ハロンの一般競走は、2着となったデラウェアバレーHの勝ち馬でドワイヤーH・ジムダンディS2着のアービーズボーイに2馬身半差をつけて勝利した。さらに10月に出走した同コースの一般競走も、2着となった6歳馬ルールバイリーズンに5馬身半差で完勝した。その後はジェロームH(GⅡ・D8F)に出走したが、レースレコードで走破したカウディンSの勝ち馬でサラトガスペシャルS2着・シャンペンS・ジャージーダービー3着のステップナイスリーの頭差2着に敗退した(3着リンダズチーフには先着している)。11月に出走したアケダクト競馬場ダート7ハロンの一般競走でも、ウエストチェスターH・ポーモノクHを勝っていた4歳馬ノースシーの4馬身差3着に敗れた。

ところで、このレースの4日前にセクレタリアトが引退レースであるカナディアン国際CSSを勝利して競馬場を後にしていた。するとまるでセクレタリアトから米国最強馬の地位を受け継いだかのように本馬の素質が目覚めるのだった。もっとも、それはオカルティック的な観点であり、実際には本馬の素質が目覚めるきっかけとなる出来事が現実的にあったのである。この時期に本馬を管理していたワード師が健康を害して療養に入る事になったため、ワード師の調教を手伝っていたエドワード・“エディ”・C・ヘイワード調教師が代理で本馬を管理することになったのである。ヘイワード師はかつてネイティヴダンサーに生涯唯一の黒星を付けたケンタッキーダービー馬ダークスターを手掛けた人物だった。ワード師のそれまでの調教が本馬に合わなかったのかどうかは定かではないが、ヘイワード師が調教を実施するようになってから本馬がいきなり強くなったのは確かである。

次走のローマーH(GⅡ・D9.5F)では、ケンタッキーダービー9着後にベルモントSで3着していたマイギャラント、ケンタッキーダービー12着後にベルモントSで2着していたトゥワイスアプリンスが主な対戦相手となった。しかし2頭ともベルモントSで入着したと言ってもセクレタリアトからは31馬身差をつけられていたから、あまり自慢できる結果ではなかった。レースでは、本馬は最大で先頭から14馬身も離された後方を進んでいた。しかし瞬く間に逆転して、マイギャラントを5馬身差の2着に、トゥワイスアプリンスを3着に破って圧勝した。12月のディスカヴァリーH(GⅢ・D9F)では、マイギャラント、アービーズボーイとの対戦となった。本馬にはローマーHより4ポンド重い127ポンドの斤量が課せられたが、2着マイギャラントに3/4馬身差で勝利。勝ちタイム1分47秒2はコースレコードだった。3歳時はこれが最後のレースとなり、この年は18戦9勝の成績を残した。

競走生活(4歳前半)

4歳時は2月のドンH(GⅢ・D9F)から始動した。ジェロームH・ローマーH・セミノールH・クイーンズカウンティHを勝っていた5歳馬トゥルーナイト、ゴールデンビートH・シティオブマイアミHの勝ち馬で翌年のドンHを勝つプラウドアンドボールドなどが対戦相手となった。本馬の斤量は124ポンドと比較的穏当なほうであり、2着トゥルーナイトに鼻差、3着プラウドアンドボールドにはさらに半馬身差で勝利した。2週間後のガルフストリームパークH(GⅡ・D10F)では127ポンドを課せられたが、トゥルーナイトを半馬身差の2着に、ミシガンマイル&ワンエイスH・ホーソーンダービー・クラークHの勝ち馬でアメリカンダービー2着のゴールデンドンを3着に抑えて勝利した。

その1か月後には、久しぶりのGⅠ競走登場となるワイドナーH(GⅠ・D10F)に出走した。ここでは129ポンドが課せられたが、向こう正面だけで5番手から先頭まで押し上げると、ガルフストリームパークH2着後にジョンBキャンベルHを勝ってきたトゥルーナイトを1馬身差の2着に退けて勝ち、ようやくGⅠ競走初勝利を挙げた。

一間隔空けて出走した5月のカーターH(GⅡ・D7F)でも129ポンドが課せられた。このレースには、プリンストンS・スポートページSの勝ち馬タイムレスモーメント、シトラスH・スプリントH・ハリケーンH・ルネッサンスH・ロイヤルポインシアナHの勝ち馬ローンツリーに加えて、地元ニューヨーク州の快速馬として鳴らしていた同世代馬ミスタープロスペクターも出走していた。ミスタープロスペクターの斤量は124ポンドで、本馬のほうが5ポンド重かったが、単勝オッズ2.4倍の1番人気に支持されたのは本馬のほうだった。スタートが切られると、最内枠発走のミスタープロスペクターが猛然と先頭に立ち、本馬は最後方からレースを進めた。ミスタープロスペクターが先頭を維持して四角に入ってきたが、ここで本馬がかなり離れた後方から外側を通って一気に位置取りを上げてきた。そしてミスタープロスペクターと本馬の2頭が並んで直線を向くと、本馬が着実にミスタープロスペクターを引き離していき、最後は2馬身1/4差をつけて勝利した。これが最初で最後の対戦だった本馬とミスタープロスペクターの2頭は、逃げと追い込みというレースぶりも対照的だったが、歴史的名競走馬となりながらも騙馬であるために子孫を残せなかった本馬と、競走馬としては大成できなかったが歴史的大種牡馬として世界中に子孫を残すことになるミスタープロスペクターとでは、その生き様もまた対照的である(とは言っても2頭とも結構長生きしており、寿命という点ではそれほど大きな差は無い)。

競走生活(4歳後半)

次走はメトロポリタンH(GⅠ・D8F)となった。毎年5月末頃に施行されるこのメトロポリタンHは、いずれも毎年7月頃に施行されるブルックリンH・サバーバンHと共にニューヨークハンデキャップ三冠競走に位置付けられているレースの第1戦である。過去にこの3競走を同一年に全て制したニューヨークハンデキャップ三冠馬は、1913年のウィスクブルーム、1953年のトムフール、そして1961年のケルソの3頭だけであった。本馬より13歳年上のケルソは本馬にとって騙馬の大先輩であり、本馬自身が意識しているわけはなくとも、本馬の陣営にとっては当然意識すべき対象であり、そのケルソが戴冠したニューヨークハンデキャップ三冠馬の栄誉を本馬も目指すことになる。しかしこのメトロポリタンHで134ポンドを課せられた本馬は、22ポンドのハンデを与えたアービーズボーイの2馬身差2着に敗れてしまい、この年はいきなり三冠達成不可能になってしまった(カーターHで3着だったタイムレスモーメントがここでも3着だった)。

次走はナッソーカウンティH(GⅢ・D7F)となったが、ここでも132ポンドを課せられて、タイムレスモーメントの半馬身差2着に敗れた(ノースシーが3着だった)。しかし次走のブルックリンH(GⅠ・D9.5F)では、129ポンドまで斤量が下がった事もあり、2着となったマサチューセッツHの勝ち馬ビリーカムレイトリーに3/4馬身差で勝利した(アービーズボーイは3着だった)。

131ポンドを背負って出た次走のサバーバンH(GⅠ・D10F)では、1週間前のエイモリーLハスケルHでGⅠ競走初勝利を挙げていたトゥルーナイト、アメリカンHを勝ってきたプランクの2頭に後れを取り、勝ったトゥルーナイトから1馬身半差の3着に敗退した。その後は9月のガヴァナーS(GⅠ・D9F)に向かった。しかし128ポンドを背負って出たこのレースでは、ビッグスプルース、アービーズボーイ、プランクの3頭に屈して、勝ったビッグスプルースから2馬身半差の4着に敗退した。勝ったビッグスプルースは、日本はもちろん米国でも今では殆ど紹介される機会も無いが、サンルイレイS・ギャラントフォックスHなどに勝ち、前年のカナディアン国際CSSでセクレタリアトの2着、同じくワシントンDC国際Sでダリアの2着と、芝とダートを問わずに活躍し、サラブレッド・タイムズ誌をして「1970年代初頭における北米屈指の競走馬の1頭」と言わしめた当時の強豪馬である。次走のマールボロCH(D9F)では斤量が125ポンドまで下がったが、初の不良馬場に戸惑った本馬は、ビッグスプルース、アービーズボーイの2頭に届かず、勝ったビッグスプルースから4馬身差の3着に終わった。

しかし次走のウッドワードS(GⅠ・D12F)では、直線入り口9番手から大外を豪快に追い込み、2着アービーズボーイをゴール前で計ったように差し切って首差で勝利を収めた。続くヴォスバーグH(GⅡ・D7F)では、前年のウィザーズSで本馬に先着する2着だった後にドワイヤーHを勝ちトラヴァーズSで2着していたストップザミュージック、この年のサンタアニタH・サンアントニオHの勝ち馬でチャールズHストラブS3着のプリンスダンタンが出走してきた。本馬には131ポンドが課されたが、2着ストップザミュージックに3馬身半差をつけて完勝した。

次走は一気に距離が2倍以上になるジョッキークラブ金杯(GⅠ・D16F)だった。ヴォスバーグHとジョッキークラブ金杯の両競走に勝利した馬など過去に1頭たりとも存在しなかったのだが、本馬はあっさりとその難題をクリア。2着コプトに2馬身半差で勝利を収め、4歳時を締めくくった。ヴォスバーグHとジョッキークラブ金杯の両競走に勝利した馬は、ジョッキークラブ金杯の距離が短縮された今日に至っても本馬以外には存在しない。ウッドワードS・ヴォスバーグH・ジョッキークラブ金杯の3連勝は、人間の陸上競技における100m走、1500m走、1万m走の全てで金メダルを獲得したのに等しい快挙であると評された。

4歳時は13戦8勝の成績で、この年のエクリプス賞年度代表馬・最優秀古馬牡馬騙馬・最優秀短距離馬のタイトルを獲得した。

競走生活(5歳前半)

5歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたセミノールH(GⅡ・D9F)から始動した。本馬には129ポンドが課せられたが、クラークHの勝ち馬ミスタードアを3/4馬身差の2着に、カウディンSの勝ち馬ロードリビューを3着に抑えて勝利した。2週間後のワイドナーH(GⅠ・D10F)では前年勝利時より2ポンド重い131ポンドが課されたが、ロングブランチHの勝ち馬ハットフルを1馬身1/4差の2着に、ソールシルバーマンHの勝ち馬でブルーグラスS3着のゴールドアンドミルラを3着に抑えて2連覇を達成した。その後はしばらく休養に充て、5月のカーターH(GⅡ・D7F)に出走。本馬には134ポンドが課されたが、2着ストップザミュージックに頭差で勝利して2連覇を飾った。

さらにメトロポリタンH(GⅠ・D8F)に出走して、前年に続きニューヨークハンデキャップ三冠馬のタイトルに挑んだ。しかしここで136ポンドを課せられた本馬は、ワイドナーH3着後に本馬不在のガルフストリームパークHやグレイラグHを勝っていたゴールドアンドミルラ(斤量121ポンド)とストップザミュージックの2頭に屈して、勝ったゴールドアンドミルラから1馬身差の3着に敗退。前年に続いて第1戦でタイトル挑戦権を失ってしまった。

しかし続くブルックリンH(GⅠ・D10F)では、132ポンドのハンデを跳ね返して、23ポンドのハンデを与えた2着モネタリープリンシプルに1馬身半差で勝利を収めて2連覇を達成(ストップザミュージックが3着だった)。勝ちタイムの1分59秒8は、1913年にウィスクブルームがサバーバンHで樹立した2分フラットを62年ぶりに更新するコースレコードだった。そのサバーバンHでウィスクブルームは139ポンドを背負いながら勝利して史上初のニューヨークハンデキャップ三冠馬に輝いたわけだが、その斤量でそのタイムは速すぎるとして、当時も今もウィスクブルームの勝ちタイムには疑問の声が投げかけられている。そんな怪しいコースレコードも、本馬のおかげでようやく塗り替えられたのだった。

次走のサバーバンH(GⅠ・D12F)では、134ポンドを背負いながらも、アービーズボーイを頭差の2着に、トラヴァーズS・ガヴァナーS・エクセルシオールHを勝ちジムダンディS・ローレンスリアライゼーションS・マンハッタンH・マンノウォーS・ジョッキークラブ金杯2回で2着していた8歳の古豪ラウドを3着に抑えて勝利を収めた。

競走生活(5歳後半)

次走のガヴァナーS(GⅠ・D9F)では、チャールズHストラブS・カリフォルニアンS・ハリウッド金杯・イングルウッドS・マリブS・サンフェルナンドS・ロサンゼルスH・サンカルロスH・ホイットニーH・サンヴィンセントS・パロスヴェルデスHなどを勝ちサンタアニタH・カリフォルニアンS・ハリウッド金杯で2着していた米国西海岸の強豪5歳馬エインシャントタイトルに加えて、ケンタッキーダービーを筆頭にサプリングS・ホープフルS・シャンペンS・フラミンゴS・ウッドメモリアルS・カウディンS・ドーバーS・トレモントSを勝ちプリークネスS・ベルモントSで2着していたフーリッシュプレジャー、モンマス招待H・トラヴァーズSを連勝してきたワジマという2頭の有力3歳馬も参戦してきた。このガヴァナーSから約2か月前に同じベルモントパーク競馬場で行われた、フーリッシュプレジャーとニューヨーク牝馬三冠馬ラフィアンの運命のマッチレースにおける悲劇的結末に涙したニューヨーク州の競馬ファンも、本馬、エインシャントタイトル、フーリッシュプレジャーの対戦とあっては見逃すわけには行かず、気を取り直して注目していた。しかしこのレースにおける本馬の斤量は134ポンドであり、130ポンドのエインシャントタイトル、125ポンドのフーリッシュプレジャーとの差はまだ許容範囲内であるとしても、115ポンドのワジマとの19ポンド差は相手もGⅠ競走2連勝中である事を考慮するといくらなんでも問題があり、とてもフェアなレースとは言えなかった。結果はワジマが2着フーリッシュプレジャーに頭差で勝利を収め、エインシャントタイトルが2馬身差の3着、本馬はエインシャントタイトルからさらに3/4差の4着に敗退。結局は斤量の軽い順にゴールするという結末だった。

次走のマールボロC招待H(GⅠ・D10F)でも、エインシャントタイトル、フーリッシュプレジャー、ワジマとの顔合わせとなった。本馬の斤量は129ポンド、エインシャントタイトルは125ポンド、フーリッシュプレジャーは121ポンド、ワジマは119ポンドで、ガヴァナーSに比べると遥かに妥当な斤量設定となった。レースでは本馬とワジマの一騎打ちとなったが、ワジマが勝利を収め、本馬は頭差の2着、エインシャントタイトルはさらに7馬身半差の3着、フーリッシュプレジャーはさらに2馬身半差の5着だった。

次走のウッドワードS(GⅠ・D12F)では、西海岸に帰ってしまったエインシャントタイトルは不在であり、フーリッシュプレジャーも回避したが、ワジマに加えて、この年のベルモントS・サンタアニタダービーの勝ち馬でケンタッキーダービー2着のアバターも参戦してきた。定量戦であるこのレースにおける斤量は、本馬がワジマやアバターより6ポンド重いだけとなった。今回の本馬はいつもよりかなり早めに仕掛けて、向こう正面では既に先頭のワジマに並びかけていた。そのまま2頭が並んで直線に突入。しばらくは一騎打ちが続いたが、直線半ばで本馬がワジマを競り落とし、最後は1馬身3/4差をつけて同競走の2連覇を達成。真の実力馬は誰なのかを証明してみせた。前年のウッドワードS・ジョッキークラブ金杯でいずれも本馬の3着だったホーソーン金杯H・スタイミーHの勝ち馬グループプランが3着に入り、アバターはワジマから10馬身後方の着外に敗れ去った。その後はジョッキークラブ金杯に向かう予定だったが、負傷のために回避してそのまま休養入りした。本馬不在のジョッキークラブ金杯は、グループプランがワジマを首差の2着に抑えて勝っている。

5歳時は9戦6勝の成績で、2年連続のエクリプス賞年度代表馬・最優秀古馬牡馬騙馬に選出された。なお、病気療養中だった本馬の本来の管理調教師ワード師がこの年限りで正式に調教師を引退したため、本馬はワード師の代役として管理していたヘイワード師の手元から離れて、かつてトムロルフダマスカス、ラフィアンなどを手掛けたフランク・ホワイトリー・ジュニア厩舎に転厩。ホワイトリー・ジュニア師と息子のデヴィッド・A・ホワイトリー師の調教を受けることになった。

競走生活(6歳前半)

6歳時は過去3年と異なりフロリダ州のレースには出走せず、5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走がシーズン初戦となった。この復帰初戦は特に斤量面の問題も無く、2着ウィッシングストーンに1馬身1/4差で難なく制した。その後は三度ニューヨークハンデキャップ三冠馬を目指すことになり、次走はメトロポリタンH(GⅠ・D8F)となった。過去2年連続で負けているレースだけに今回はハンデキャッパーも少しは考慮してくれたのか、過去2年より軽い130ポンドでの出走となった。その代わりに、前年のプリークネスSでフーリッシュプレジャーを2着に破って勝利したマスターダービーが対戦相手となった。マスターダービーは、ブルーグラスS・ルイジアナダービー・ドラグーンS・キンダーガーテンS・ニューオーリンズH・オークローンHを勝ちベルモントSでも3着しており、3歳以降の成績ではフーリッシュプレジャーにそれほど引けをとらない実力馬だった。レースはこの2頭の接戦となったが、本馬が2着マスターダービーに頭差で勝利を収め、3度目の正直で同競走を制覇した(前年のセミノールH3着後にニューオーリンズH・ローズベンHを勝っていたロードリビューが3着だった)。

サバーバンHまで1か月以上あったために、その間隔を利用して一昨年に勝ち損なったナッソーカウンティH(GⅢ・D9F)に出走した。ここでは132ポンドを課せられたが、レムセンSの勝ち馬エルピティレを2馬身3/4差の2着に、ワイドナーH・ドワイヤーHの勝ち馬ハチェットマンを3着に破って勝利した。

次走がサバーバンH(GⅠ・D9.5F)となった。ここにはフーリッシュプレジャーも出走してきた。レースでは134ポンドの本馬と125ポンドのフーリッシュプレジャー、それにロードリビューの三つ巴の勝負となり、3頭が殆ど並んでゴールインした。写真判定の結果はフーリッシュプレジャーが勝ち、本馬は鼻差2着に惜敗。この年もニューヨークハンデキャップ三冠馬の栄冠を手にすることは出来なかった。

それでも次走のブルックリンH(GⅠ・D10F)では同じ134ポンドを背負いながら、126ポンドのフーリッシュプレジャーを3着に沈め、前走で本馬から鼻差の3着だったロードリビューに2馬身差をつけて勝利を収め、1934~36年にかけて3連覇したディスカヴァリー以来史上2頭目の同競走3連覇を達成した。

競走生活(6歳後半)

次走のエイモリーLハスケルH(GⅠ・D10F)では135ポンドを課せられてしまい、ハチェットマン、ハリウッドダービー・セクレタリアトS・ボードウォークH・バーナードバルークHの勝ち馬でモンマス招待H2着のイントレピッドヒーローの2頭に後れを取り、勝ったハチェットマンから1馬身差の3着に敗れた。

次走のウッドワードS(GⅠ・D9F)からは、主戦がガスティネス騎手からウィリアム・シューメーカー騎手に交代した。このレースには、ワシントンフューチュリティ・シャンペンS・ローレルフューチュリティ・フラミンゴS・フロリダダービー・ブルーグラスS・トラヴァーズS・カウディンSの勝ち馬オネストプレジャーが出走してきた。オネストプレジャーは、ケンタッキーダービーこそ単勝オッズ1.4倍という同競走史上最高クラスの支持に応えられずにボールドフォーブスの1馬身差2着に敗れていたが、紛れも無くこの年の3歳馬世代ではトップクラスの存在だった。オネストプレジャーはフーリッシュプレジャーと同じワットアプレジャー産駒で年齢は1歳年下、馬主は異なっていたが管理調教師はフーリッシュプレジャーと同じリロイ・ジョリー調教師だった。この時点では既に競走馬を引退していたフーリッシュプレジャーに代わってジョリー師が打倒本馬のために送り込んできたのだった。

このウッドワードSは基本的には定量戦(又は馬齢戦)で施行されているレースなのだが、年によっては例外的にハンデ競走として施行されていた。具体的にウッドワードSがハンデ競走として行われたのは2015年現在で7度あり、レース創設最初の2年である1954・55年、及び1976・77年、それに1988~90年である。つまり、この年のウッドワードSは21年ぶりにハンデ競走となったのである。というわけで本馬に課せられた斤量は135ポンドで、オネストプレジャーは121ポンドだった。前年のように定量戦であれば6ポンド差で済んだのになんと言う不運。というよりも、定量戦のままでは本馬が勝ってしまうに決まっており、盛り上がりに欠けるからハンデ競走にしてしまったような雰囲気がひしひしと伝わってくる。それでも本馬は強かった。サラナクS・ジェロームHの勝ち馬でシャンペンS2着・ローレルフューチュリティ・トラヴァーズS3着のダンススペル(斤量114ポンド)を1馬身1/4差の2着に退けて、1963年のケルソ以来13年ぶり史上2頭目の同競走3連覇を達成。オネストプレジャーは本馬から4馬身差の3着に敗れた。

2週間後のマールボロC招待H(GⅠ・D10F)でも、オネストプレジャーとの対戦となった。このレースにおける斤量は、本馬が自己最高の137ポンド、そしてオネストプレジャーは119ポンドであり、前走の14ポンド差から18ポンド差に広がっていた。しかもレース当日の馬場状態は本馬が過去に1度しか経験したことが無い不良馬場だった。その1度とは2年前のマールボロCHだったのだが、そのときは125ポンドの斤量でありながら3着に終わっていた。前年に同じベルモントパーク競馬場でラフィアンを失っていたホワイトリー・ジュニア師は、本馬をレースに出すべきかどうか迷いに迷ったらしいが、結局は出走に踏み切った。ベルモントパーク競馬場の秘書官だったトミー・トロッター氏は、この過酷な斤量と馬場状態が本馬の脚を破壊するのではないかと心配していたという。

雨天にも関わらず詰め掛けた3万1千人のファンが見つめる中でスタートが切られると、オネストプレジャーが快調に先頭を飛ばし、11頭立ての6~8番手でレースを進めた本馬との差は最大10馬身まで広がった。本馬は三角手前で仕掛けて追い上げてきたが、先頭を走るオネストプレジャーの手応えも良く、なかなか差が縮まらなかった。直線に入ってもオネストプレジャーの脚は止まらず、残り1ハロン地点で本馬とオネストプレジャーの差は4馬身ほどあった。ところがここから本馬は外側を猛然と追い込み、ゴール直前でオネストプレジャーをかわして頭差で勝利した。この馬場状態と斤量にも関わらず、勝ちタイム2分フラットは、前年のブルックリンHで自身が計時したコースレコード1分59秒8に僅か0秒2届かないだけという素晴らしいものだった。

シューメーカー騎手はこのレースを振り返って「直線に入ったときには入着も出来ないだろうと思っていました。彼は猛然と追い上げ始めましたが、それでも私は勝つつもりではいませんでした。残り1ハロン地点でもまだ勝つのは不可能に見えましたから。もしかしたら勝てるのではないかと思ったのは、残り1ハロン地点を過ぎてからです。それこそ過去に私が経験した最高のレースでした」と述懐している。

これが6歳時最後のレースとなったが、この年は8戦6勝の成績で、3年連続のエクリプス賞年度代表馬・最優秀古馬牡馬騙馬に選出された。この年のデイリーレーシングフォーム社による古馬フリーハンデでは、史上最高記録となる140ポンドが与えられた(それ以前の記録は136ポンドで、トムフール、ネイティヴダンサー、ケルソ、ガンボウ、バックパサー、ドクターファーガー、前年のフォアゴー自身の7頭が保持していた)。この頃になると本馬の人気は不動のものとなっており、“Forego Forever(フォアゴーよ永遠なれ)”とプリントされたTシャツが大流行した。

競走生活(7歳時)

7歳時は5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走から始動して、2着ダンススペルに半馬身差で勝利した。そして4年連続でニューヨークハンデキャップ三冠馬のタイトルに挑む事になり、まずはメトロポリタンH(GⅠ・D8F)に出走した。ここでは133ポンドが課せられたが、レース序盤の最後方待機から、三角から四角にかけて外側を上がっていくという得意の戦法を披露し、直線では容易に差し切って2着コホストに2馬身差で勝利した。

この年もサバーバンHの前にナッソーカウンティH(GⅢ・D9F)に出走した。ここでは136ポンドを課せられたが、コホストを半馬身差の2着に、クイーンズプレート・加プリンスオブウェールズS・コロネーションフューチュリティを勝っていた後の加国顕彰馬ノークリフを3着に抑えて勝利した。

そして迎えたサバーバンH(GⅠ・D10F)だったが、しかしここで本馬に課せられたのは138ポンドという常識外れの斤量。それでも本馬は頑張り、ゴール前では、ドワイヤーH・カーターHの勝ち馬クワイエットリトルテーブル、ナシュアSの勝ち馬でフロリダダービー2着のニアリーオンタイムとの三つ巴の勝負に持ち込んだ。しかしニアリーオンタイムは首差抑えたものの、クワイエットリトルテーブルに首差で敗れて2着に敗退。三冠達成は4年連続で失敗し、結局はケルソ以来史上4頭目のニューヨークハンデキャップ三冠馬にはなることは出来なかった。

次走のブルックリンH(GⅠ・D12F)でも137ポンドを課せられてしまった。史上初の4連覇が懸かっていたレースだったのだが、勝ったグレートコントラクターから11馬身差をつけられた2着に敗れた。グレートコントラクターは前年のジョッキークラブ金杯・ローレンスリアライゼーションSの勝ち馬でフロリダダービー2着・ベルモントS3着の実績があった実力馬だったのだが、近走が不振だったためにこのレースにおける斤量は僅か112ポンドで、本馬とは25ポンドもの差があった。

136ポンドを課せられた次走のホイットニーH(GⅡ・D9F)では不良馬場の中を燃え尽きたかのように走り、勝ったニアリーオンタイムから18馬身差をつけられた7着最下位と、本格化以降では初めての惨敗を喫した。

次走のウッドワードS(GⅠ・D9F)は前年に続いてハンデ競走となり、本馬には133ポンドが課せられた。対戦相手も手強く、この年の米国三冠馬シアトルスルーこそ不在だったが、ブルックリンHで11馬身差をつけられたグレートコントラクターに加えて、前走のスワップスSでシアトルスルーに最初の黒星を付けたリッチモンドS・英シャンペンSの勝ち馬ジェイオートービン、ホーソーンダービー・オハイオダービー・アメリカンダービーの勝ち馬でトラヴァーズS3着のシルヴァーシリーズといった有力3歳馬勢が対戦相手となった。しかも斤量面で見ると、ジェイオートービンの121ポンド、シルヴァーシリーズの114ポンドは3歳馬であるからまだ止むを得ないにしても、4歳馬グレートコントラクターは115ポンドであり、本馬とは18ポンド差だった。これは前々走で11馬身差をつけられた相手に与えるハンデとしては不適当だった。さらには本馬にとって不得手な不良馬場と、あらゆる悪条件が重なっていたと言っても過言ではない。本馬は一応1番人気には支持されたが、単勝オッズは過去2年間で最高の2.8倍であり、単勝オッズ3.5倍の2番人気にジェイオートービンが続いた。

スタートが切られると、スワップスSで先頭を爆走することによりシアトルスルーのペースを乱して粉砕に成功したジェイオートービンがやはり先頭をひた走り、本馬は大胆にも馬群の最後方に陣取った。しかし当のスワップスSでジェイオートービンに騎乗していた本馬鞍上のシューメーカー騎手は、ジェイオートービンの能力を把握しており、冷静に本馬の仕掛け所を計っていた。そして三角手前という抜群のタイミングでスパートをかけると、大外を駆け上がって5番手で直線に入ってきた。そして失速するジェイオートービン以下を瞬く間に抜き去り、2着シルヴァーシリーズに1馬身半差で勝利。史上初(現在でも唯一)の同競走4連覇を達成した。これは前年のマールボロC招待Hと並ぶ本馬のベストレースと言っても良いだろう。

この年は7戦4勝の成績で、エクリプス賞では年度代表馬こそ逃した(シアトルスルーが受賞)が、4年連続の最優秀古馬牡馬騙馬に選出された。

競走生活(8歳時)

8歳時も現役を続け、6月にベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走から始動して、この年のヴォスバーグSを勝つドクターパッチェスとの接戦を制して首差で勝利を収めた。しかし132ポンドを課せられた次走のサバーバンH(GⅠ・D10F)では不良馬場にも泣いて、ナッソーカウンティHなど3連勝してきた上がり馬アッパーナイル、ニアリーオンタイム、グレートコントラクターなどに屈して、勝ったアッパーナイルから14馬身差の5着に敗退。レースから1週間後の検査で脚に骨片が発見されたため、このサバーバンHを最後に遂に競走馬を引退することになった。

引退表明からちょうど2か月後の1978年9月16日、2年前に自分が137ポンドを背負って勝利したマールボロC招待Hの当日にベルモントパーク競馬場で引退式が挙行され、このマールボロC招待Hで実現したシアトルスルーとアファームドによる史上初の米国三冠馬対決を見に来た大勢の観衆から拍手喝采で見送られながら競馬場を後にした。

競走馬としての評価

通算成績は57戦34勝2着9回3着7回で、勝率は59.6%、入着率は87.7%に達した。130ポンド以上を背負ってステークス競走に出たのは24回あり、その成績は13勝2着6回3着2回で、勝率は54.2%、入着率は87.5%だった。斤量が重くなってもそれほど成績が下がっていないのは凄いの一言である。

こうして数字上の競走成績を眺めてみると本馬は非常に頑丈な馬という印象を受けるが、実際にはその巨体が災いして慢性的な脚部不安に悩まされていた。ホワイトリー・ジュニア師は毎日のように本馬の脚にマッサージを施し、水で綺麗に洗浄していた。レースに出る際には四肢全てを厳重なバンテージで保護していた。それでも引退直前には、種子骨の石灰変性が進んで、いわゆる骨瘤を発症しており、いつ粉々に砕けてもおかしくない状態だったという。地元米国では「競馬場において最も健康状態に問題があった馬の1頭」「比較的健全な左後脚の1本だけで走っていた」とまで評されているほどである。作家の菊池寛が言ったとされる(実際には違うらしい)「無事之名馬」は競馬界における至言であり、筆者もまったくもって同感であるが、過酷な斤量だけでなく脚元の弱さというハンデまで抱えながらこれほどの成績を残した本馬もまた真の名馬と呼ぶにふさわしいだろう。

馬主のジェリー夫人は「強い馬はハンデを覚悟の上で挑戦を受けなければなりません。だからハンデキャップレースというのです」と語り、それに賛同する人々の圧倒的支持を受けた本馬には現在でも多くのファンがいる。もっとも、頑丈な馬ならまだ良いが、脚部不安を抱えていた本馬に関しては、ジェリー夫人のこの考えには筆者はやや賛同しかねる。もっとも、ジェリー夫人のこの考えがあったからこそ本馬は歴史的名馬になったわけであり、全面的に否定する事も出来ない。

本馬の競走馬引退を報じた米ブラッドホース誌は「市場にしろ、娯楽にしろ、戦争にしろ、競争である以上は必ず勝者と敗者が生まれます。それを分けるものは、決断力であり、勇敢さであり、雄雄しさです。それらを総称して武勇と呼びます。武勇を持つものは、敵味方、人間と馬を問わずに尊敬の念を抱かれます。フォアゴーはその武勇を持っていました」と惜別の言葉を添えた。

ケルソとの対比

本馬とケルソは米国競馬史上における騙馬の双璧であり、しばしば比較される。獲得賞金総額は、ケルソが197万7896ドルで、本馬が193万8957ドルであり、本馬の競走馬引退時点でこの2頭が米国競馬賞金ランキングトップ2である。タイトル面では、ケルソは5年連続で米年度代表馬を獲得しているが、本馬は3年連続である(もっとも、米年度代表馬に3回以上選ばれたのはこの2頭のみであり、本馬の記録も誇れるものである)。ケルソは3歳時に既に米年度代表馬を獲っているが、本馬の3歳時はあまり目立たなかったから、出世の早さではケルソが上である。

勝ったステークス競走の距離で見ると、ケルソは1マイルから2マイルまで、本馬は7ハロンから2マイルまでである。ケルソは米最優秀短距離馬のタイトルに縁が無かったが、本馬は受賞しているから、ここでは本馬に一日の長がある。しかしケルソは芝競走でも活躍したが、本馬は芝競走に1度も出ておらず、その点ではケルソが上である。

戦法で見ると、ケルソは先行も差しも出来る自在型であるのに対して、本馬は後方からレースを進めて稲妻のような末脚で差し切る典型的な追い込み馬(セクレタリアトもそうだが、米国競馬の巨漢馬はスタートダッシュに欠けるのか、追い込み馬になりがちである)タイプの馬であり、臨機応変な対応力ではケルソに分があったようだが、一概にどちらの走り方がより優れていると確定する事は出来ない。

重馬場適性で見ると、ケルソは重馬場を得意にしていたわけでもないが特段苦にはしていなかったのに対して、本馬は明らかに重馬場を苦手としていた。それほど大きい馬ではなかったケルソに対して、本馬は非常に大きな馬だったから、脚が地面に沈むような馬場では走りづらかったという理由の他に、慢性的な種子骨の炎症も雨で湿った馬場には良くなかったと評されている。健康面で見ると、ケルソもしばしば脚を負傷して休養した事があるから、ずば抜けて丈夫な馬では無かったようだが、慢性的な脚部不安を抱えていた本馬よりはケルソのほうが健康な馬だったのは間違いないだろう。

同一競走連覇記録で見ると、ケルソにはジョッキークラブ金杯の5連覇、本馬にはウッドワードSの4連覇がある。一見するとケルソが上のように見えるが、前述のように本馬のウッドワードS4勝のうち2勝はハンデ競走として厳しい斤量を背負ってのもの(ケルソが勝ったジョッキークラブ金杯は全て定量戦)であり、内容的には本馬が上と言っても差し支えないだろう。ケルソはウッドワードSを3連覇しているが、4連覇を狙った1964年にはガンボウの鼻差2着に惜敗している。ケルソが出走したウッドワードSは4度とも定量戦だったから、ウッドワードSにおける成績では本馬が断然上位である。しかしケルソはニューヨークハンデキャップ三冠馬になっているが、本馬は結局達成できなかったから、この点ではケルソが上である。

負担重量で見ると、ケルソは最大136ポンドを背負って勝っているが、本馬は最大137ポンドを背負って勝っている。ケルソは130ポンド以上を背負ってステークス競走に出たことが24回あり、その成績は13勝2着5回3着1回着外5回だった。本馬は130ポンド以上を背負ってステークス競走に出たことが同じ24回あり、その成績は13勝2着6回3着2回着外3回だった。勝率は同じ54.2%だが、入着率はケルソが79.1%、本馬が87.5%であり、負担重量に対する強さでは僅かに本馬が上位だろうか。

要するに筆者は何が言いたいのかというと、2頭ともレベルが高すぎて優劣をつけられないという事である。

筆者はかつてケルソの項において「筆者の個人的意見では、ケルソが米国競馬史上最強馬である」と書いたが、本馬もまた米国競馬史上最強馬候補として捨てがたい気がしてきた(シアトルスルーの項でも同じ表現を使ったような気がする)。くどいようだが、斤量が軽い3歳馬が、斤量が重い古馬相手に勝ったところで、将棋で言えば駒落ちで勝たせてもらったようなものであり、平手戦で勝っているわけではない。ギャンブルとして競馬を見ると3歳馬と古馬に斤量差を設けないといけない事は理解できるが、競技として競馬を見ると、筆者的には好きではないのである。自分が駒を落としてそれでも勝つのが本当の強者であり、それは将棋だけでなく競馬にも当てはまるのではないだろうか(さっきジェリー夫人の考えにやや賛同しかねると書いておいて、ここでジェリー夫人と同じ事を言うのかと怒られそうだが、筆者がジェリー夫人を批判したのは脚部不安を抱える馬を厳しい斤量が課せられるレースに出し続けた点であって、強い馬が弱い馬にハンデを与える事まで否定しているわけではない)。

血統

Forli Aristophanes Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Commotion Mieuxce Massine
L'Olivete
Riot Colorado
Lady Juror
Trevisa Advocate Fair Trial Fairway
Lady Juror
Guiding Star Papyrus
Ocean Light
Veneta Foxglove Foxhunter
Staylace
Dogaresa Your Majesty
Casiopea
Lady Golconda Hasty Road Roman Sir Gallahad Teddy
Plucky Liege
Buckup Buchan
Look Up
Traffic Court Discovery Display
Ariadne
Traffic Broomstick
Traverse
Bull Lea Bull Lea Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Rose Leaves Ballot
Colonial
Whirling Girl Whirlaway Blenheim
Dustwhirl
Nellie Flag American Flag
Nellie Morse

フォルリは当馬の項を参照。

母レディゴルコンダは現役成績14戦2勝、ミスイリノイSの勝ち馬。ジェリー夫人により2万ドルで購入されて、クレイボーンファームで繁殖入りしていた。本馬を含めて7頭の子の母となっているが、本馬以外にはこれと言った産駒はおらず、牝系子孫も発展していない。レディゴルコンダの母ガーレアは現役成績5戦未勝利で、繁殖牝馬としても活躍していない。ガーレアの母ワーリングガールは現役成績12戦5勝で、これといった勝ち鞍は無い。

ここまでの本馬の牝系はあまりぱっとしないが、ワーリングガールの近親に至ってようやく活躍馬が目立つようになる。ワーリングガールの子には、ガーレアの半弟であるジョヴィアルジョーヴ【ブリーダーズフューチュリティS】がいる。ワーリングガールの母ネリーフラッグはメイトロンS・セリマS・ケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬で、1934年の米最優秀2歳牝馬に選ばれている。ネリーフラッグの子には、ワーリングガールの半姉である1943年の米最優秀ハンデ牝馬マーケル【ベルデイムH・トップフライトH】、同じく半姉のネリーエル【ケンタッキーオークス・エイコーンS】、半妹のサンシャインネル【トップフライトH】と活躍馬がごろごろいる。そしてネリーフラッグの母ネリーモスは、牝馬として20世紀最後のプリークネスSの勝ち馬となり、1924年の米最優秀3歳牝馬に選ばれた名牝である。ネリーエルの孫には、本馬と同時代を走りながら1度も対戦機会が無かった1976年のエクリプス賞最優秀3歳牡馬ボールドフォーブス【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・ウッドメモリアルS(米GⅠ)】がいる。他にもこの牝系からは数々の活躍馬が出ているが、その詳細はネリーモスの項を参照してほしい。→牝系:F9号族②

母父ヘイスティロードは、現役成績28戦14勝。2歳時にアーリントンフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティ・ケンタッキージョッキークラブS・ワシントンパークフューチュリティなどを勝って1953年の米最優秀2歳牡馬に選ばれ、3歳時にはプリークネスS・ワイドナーH・ダービートライアルSなどを勝ち、ケンタッキーダービーで2着した一流馬。種牡馬としては普通の成績だったが、母父としては本馬の他にノノアルコを送り出した。ヘイスティロードの父ローマンはトムロルフの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、引退翌年の1979年からケンタッキーホースパークに移り住み、そこで余生を送ることになった。この1979年には早くも米国競馬の殿堂入りを果たした。1983年10月15日、本馬が9年前に1度だけ出走して勝利したジョッキークラブ金杯の当日に、引退競走馬財団の資金調達行事の一環として特別招待を受けた本馬は久々にベルモントパーク競馬場に来場した。同じ日にはケルソも余生を過ごしていたメリーランド州ウッドストックファームから来場しており、本馬とケルソの最初で最後の対面が実現した。そして本馬とケルソはジョッキークラブ金杯のレース前に行進を行ったのだが、このジョッキークラブ金杯に出走するために来ていた当時の最強騙馬ジョンヘンリーも現役馬でありながらこの行進に参加したそうである。この3頭の揃い踏みは、ベルモントパーク競馬場に詰め掛けていた3万2493人の観衆から拍手喝采で迎えられた。この3頭は馬だから自分の現役時代に関して語り合ったような事は多分無いだろうが、擬人的に3頭が語り合う光景を想像してみると何だか楽しそうである。本馬やジョンヘンリーに会って満足したのかは定かではないが、ケルソはこの翌日16日に26歳で他界している。

一方の本馬はその後もケンタッキーホースパークで余生を送った。翌年1984年に競走馬を引退したジョンヘンリーもケンタッキーホースパークで余生を送ることになり、2頭はケンタッキーホースパークの目玉として数多くの競馬ファンの訪問を受けた。ケンタッキーホースパークにおける本馬の好物はバナナだったという。本馬は1997年8月、放牧中の事故により左後脚(各種資料には左後脚と明記されているのだが、ニューヨクタイムズ紙の記事では右後脚となっている。いずれが正しいのかはっきりしない)の種子骨を骨折したために27歳で安楽死の措置が執られた。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第8位。

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