カウントフリート

和名:カウントフリート

英名:Count Fleet

1940年生

黒鹿

父:レイカウント

母:クイックリー

母父:ヘイスト

米国競馬史上最高の2歳馬という評価を得た後、ベルモントSを25馬身差という記録的大差で圧勝して第6代目の米国三冠馬に輝く

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績21戦16勝2着4回3着1回

史上6頭目の米国三冠馬であり、米国競馬史上においても五本の指に入る名馬中の名馬である。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ストーナークリークスタッドファームにおいて、父レイカウントの所有者でもあった事業家ジョン・ダニエル・ハーツ氏により生産された(生産者名義は妻のファニー・ハーツ夫人になっている)。

幼少期から本馬は非常に気性が荒い馬で、周囲の人々をてこずらせた。それを嫌ったハーツ氏は、1歳になった本馬を売りに出した(日本語版ウィキペディアには、ハーツ氏は本馬をとても気に入っていたという出典不明の記事があるが、筆者が確認した海外のいかなる資料においてもそのような話は見当たらない)が、本馬の激しい気性は、どのような買い手をも落胆させるものだった。しかしストーナークリークスタッドファームの従業員サム・ラムセン氏のみは本馬を評価しており、牧場マネージャーに対して「彼はいつか素晴らしい競走馬になります。いったん走ろうとすれば、飛ぶように走る事が出来るでしょう」と述べた。牧場マネージャーに対する弁護だけでは本馬の売却を止められないかも知れないと考えたラムセン氏はハーツ氏を直接説得しようともした。結局買い手が現れなかった事もあり、本馬は売却されること無く、ファニー夫人名義で競走馬となり、ドン・キャメロン調教師に預けられた。主戦はジョニー・ロングデン騎手で、本馬の全レースに騎乗した。

競走生活(2歳前半)

2歳6月にベルモントパーク競馬場の直線コースで行われたダート5ハロンの未勝利戦でデビュー。単勝オッズ5倍で16頭立ての2番人気に推された。しかしスタートで他馬と衝突して50ヤードも出遅れてしまい、勝ったダヴシュートから1馬身半差の2着に敗れた。2週間後にアケダクト競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦で2戦目を迎えたが、ここでもスタートで同じ失敗を繰り返し、後のトレモントS勝ち馬スーパーモントから1馬身半差の2着に敗れた。

ちょうどこの時期は第二次世界大戦の最中であり、馬主としての活動を縮小しようと考えていたハーツ氏は、今度こそ本馬を売却しようとした。そんなある日、本馬の主戦だったロングデン騎手は、たまたま道で出会った調教師から4500ドルで本馬の購入を考えていると聞いて初めて、本馬が売却される予定であることを知った。彼はすぐに自転車に飛び乗ると近くの店にあった電話ボックスに駆け込んでハーツ氏に電話を掛け、売却を思い留まるように説得した。ハーツ氏は「あの馬は危険です。いつか貴方に大怪我をさせるかもしれませんよ」と懸念を示したが、ロングデン騎手は「私は恐れていません。あの馬は走るのが大好きです」と応じた。ハーツ氏はロングデン騎手の気持ちを汲んで、本馬の売却を中止した(この逸話は本馬のデビュー前の事であるとする資料もあるが、デビュー戦で敗れた後の話と考えたほうが整合性は取れる)。

前走から4日後に同コースで行われた3戦目の未勝利戦では、4馬身差で圧勝して初勝利を挙げた。続いて翌7月にエンパイアシティ競馬場で行われたダート5.5ハロンの一般競走に出走して、2着サムハーに5馬身差で圧勝した。次走のイーストビューS(D5.75F)では、ゴールドシャワーという馬の大駆けに遭って、1馬身差の2着に敗れた。しかし次走のウェークフィールドS(D5.75F)では、イーストビューSで3着だったルラルスを4馬身差の2着に、ゴールドシャワーを3着に破って勝利した。

その後は8月にワシントンパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走して、後に何度も本馬と戦う事になるブルースウォーズを首差の2着に抑えて勝利した。次走のワシントンパークフューチュリティ(D6F)では、ブルースウォーズに加えて、アーリントンフューチュリティ・ワシントンパークジュヴェナイルSを勝ってきたオキュペイションとの対戦となった。しかし本馬は道中で進路を失って仕掛けが遅れてしまい、ゴール前で猛追するも、先に抜け出したオキュペイションに首差届かずに2着に敗れた。その後は9月にアケダクト競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出て首差で勝利。同月にベルモントパーク競馬場で出たダート6ハロンの一般競走では、2着ブルズアイに2馬身半差で勝利した。

競走生活(2歳後半)

そしてベルモントフューチュリティS(D6.5F)に駒を進めた。ここではオキュペイションとの再戦となったが、本馬が勝つことは確実視されていた。それは何故かというと、本馬はレース4日前に行われた調教において、ダート6ハロンを1分08秒2という驚愕のタイム(4名の計時担当者が計っていたためタイムが誤っていた可能性はないようである)を出し、その様子を見ていた全ての競馬関係者を仰天させたからだった。同じダート6ハロンで施行されている現在の米国短距離王決定戦BCスプリントでも、これより速いタイムで決着する事のほうが少ないくらいだから、当時としては前代未聞の好タイムだった。「サルヴェイター」の筆名で知られる米国の伝説的競馬作家ジョン・ハーヴェイ氏の著書“American Race Horses”によると、この後の数年間は「8と1(8秒と1/5秒)」が米国競馬関係者の朝の調教における合言葉になったのだという。ところが肝心のレース本番では、終始主導権を握ったオキュペイションが勝ってしまった。2着にはセリマSの勝ち馬アスクメノウ(この年の米最優秀2歳牝馬で、翌年にはアメリカンダービー・ピムリコオークス・アーリントンメイトロンHなどを勝っている)が入り、本馬はオキュペイションから5馬身差の3着に敗れてしまった。この敗戦を受けてロングデン騎手は思案を巡らせた末、本馬をスタートから先頭に立たせる戦術を採る事にした。これ以降の本馬は一部の例外を除いて逃げに徹底することになる。

1週間後のシャンペンS(D8F)では、この年に米国で計時されたダート1マイルのタイムでは最速となる1分34秒8の快タイム(1930年のメトロポリタンHでジャックハイが樹立した1分35秒0のコースレコードを更新しただけでなく、2歳馬の全米レコードでもあった)を計時して、2着ブルースウォーズに6馬身差をつける圧勝劇を演じた。それから10日後にジャマイカ競馬場で出走したダート8ハロン70ヤードの一般競走も、2着タウザーに6馬身差をつけて圧勝。

そしてピムリコフューチュリティ(D8.5F)で、オキュペイションとの3度目の対戦に臨んだ。ブリーダーズフューチュリティを勝ってきたオキュペイションが1番人気に支持され、本馬はデビュー戦以来2度目(かつ最後)の2番人気だった。ここでもオキュペイションがスタートからレースを引っ張り、本馬に3連勝するかと思われたが、今回は本馬が残り2ハロン地点手前でオキュペイションをかわして引き離し、最後は5馬身差をつけて圧勝した。勝ちタイム1分43秒6はコースレコードタイだった。

次走のウォルデンS(D8.5F)では、単勝オッズ1.1倍という断然の1番人気に支持された。そしてレースではそれでもオッズが高く見えてしまうほどの圧倒的な走りを披露し、2着アンクルビリーズに30馬身差、3着タウザーにはさらに15馬身差をつけて大圧勝。

2歳シーズンを15戦10勝の成績で締めくくった本馬は、ほんの少し前まではオキュペイションが受賞することが確実視されていた米最優秀2歳牡馬のタイトルを奪取した。この年の本馬に対して、米国ジョッキークラブの公式ハンデキャッパーだったジョン・ブランクス・キャンベル氏は、2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)において132ポンドの評価を与えた。これは米国ジョッキークラブの公式ハンデキャッパーだったウォルター・ヴォスバーグ氏が1933年にエクスペリメンタルフリーハンデを考案した以降における最高値であっただけでなく、それから70年以上が経過した今日においてもこれより高い数値を得た馬は1頭も出現しておらず、2015年現在でも米国競馬史上最高の数値という地位を保っている(後の1972年に2歳にしてエクリプス賞年度代表馬に選ばれたセクレタリアトに与えられた評価は129ポンド。1997年にやはり2歳にしてエクリプス賞年度代表馬に選ばれたフェイヴァリットトリックは128ポンドだった)。

競走生活(3歳初期)

米国三冠競走を目指す有力馬は3歳時をフロリダ州から始動することが多いのだが、この年は第二次世界大戦の影響でフロリダ州における冬季開催が中止になったため、本馬の復帰戦は4月にジャマイカ競馬場で行われたセントジェームズパース(D8F70Y)となった(当初はウッドメモリアルSが復帰戦として予定されていたが、キャメロン師の判断によりその4日前に一戦することになったという)。初めて経験する不良馬場となったが関係なく、3馬身半差で危なげなく勝利した。

次走のウッドメモリアルS(D8.5F)では、ブルースウォーズ、カウディンSの勝ち馬スライドルールといった実力馬と対戦した。しかし単勝オッズ1.25倍の1番人気に支持された本馬が、上記2頭がまるでクレーミング競走に出るような安馬に見えるほどの実力差を見せ付けて、ゴール前は流す余裕を見せて2着ブルースウォーズに3馬身半差で快勝した。ところがこのレース中に本馬は後突のため左後脚を負傷してしまった。怪我の度合は重く、ケンタッキーダービー出走が危ぶまれたが、ロングデン騎手は本馬の負傷部分を氷で冷やしながら共にチャーチルダウンズ競馬場に向かった(氷ではなく硫酸マグネシウムによる治療を行ったとする資料も複数ある)。

ケンタッキーダービーからウィザーズSまで

この年のケンタッキーダービー(D10F)は、第二次世界大戦の影響で燃料を節約するために自動車による国内移動が厳しく制限される中で施行された。チャーチルダウンズ競馬場の代表者マット・ウィン大佐は、タクシーや自家用車で同競馬場に乗り付ける事を禁止したため、競馬場に移動する手段は電車だけだった。そのため、この年のケンタッキーダービーは「路面電車ダービー」と呼ばれた。それでも、4万5千人とも6万人ともされる多くの観衆がチャーチルダウンズ競馬場に詰め掛けた。そんな中で本馬は、ブルースウォーズ、スライドルールなど9頭を抑えて、単勝オッズ1.4倍という圧倒的な1番人気に支持された(2番人気のブルースウォーズが単勝オッズ10倍)。ハーヴェイ氏の“American Race Horses”には「(この年の)第69回ケンタッキーダービーはワンマンショーになる事が明白であり、コンテストの体裁を成していませんでした」と記載されている。このような大多数の事前予想どおり、終始先頭を走り続けた本馬は、残り1ハロンで流す余裕を見せて、2着ブルースウォーズに3馬身差をつけて楽勝した。

本馬の強さに恐れをなした他馬陣営の回避が相次いだために僅か4頭立てとなったプリークネスS(D9.5F)でも、単勝オッズ1.15倍という断然の1番人気に支持された。ここでも前走と同様のレースぶりを披露した本馬が圧勝。例によってゴール前では流す余裕を見せたにも関わらず、直線入り口では5馬身あった2着ブルースウォーズとの差は、ゴールでは8馬身まで広がっていた。米ブラッドホース誌は本馬とブルースウォーズの実力差に関して「この年の競馬界を天空に例えると、カウントフリートは壮観なる彗星で、ブルースウォーズは彗星の尾だ」と表現した。

その後はベルモントSまで4週間の間隔があったため、ウィザーズS(D8F)に出走した。ケンタッキーダービーで3着した後にプリークネスSを回避して臨んできたスライドルールが対戦相手となった。しかし単勝オッズ1.05倍の1番人気に支持された本馬が馬なりのまま、スライドルールを6馬身差の2着に破って圧勝した。勝ちタイムの1分36秒0は23年前の同競走においてマンノウォーが樹立したコースレコードに0秒2及ばないだけだった。

ちなみに、2歳時におけるシャンペンS以降の4戦と、3歳時におけるウィザーズSまでの5戦は、全て1マイル通過時点において各競馬場の同距離コースにおける当時の最速ラップを刻んでいる。コースレコードがこの9戦中2戦のみなのは、勝負が決したと判断したロングデン騎手がゴール前で手綱を緩めることが殆どだったためである。そのため、最後まで普通に追っていれば一体どれだけのタイムを本馬が出していたのかは議論の的だったという。

ベルモントS:25馬身差で圧勝して米国三冠を達成

しかし今まではタイムに拘らなかった本馬陣営も、ベルモントS(D12F)では、対戦相手が未勝利戦と一般競走を勝っただけのフェアリーマンハーストと、未勝利戦を勝っただけのデズロントの僅か2頭だけだった事もあり、試みにゴールまで本馬を全力疾走させてみる事で合意していた。ちなみにベルモントSの歴史上においては、この年より少ない2頭立てで行われた事も何度かあったが、それらは全てパリミューチュエル方式(投票総額から経費を控除した残額を払い戻す方式で、販売主は必ず儲かる。日本はこの方式である)で行われていた。しかしこの1943年時点ではブックメーカー方式で行われており、ニューヨーク州の法令により的中者に最低5%は払い戻さなければならなかった(単勝元返しというものは無く、単勝オッズは最低でも1.05倍になる)。本馬は当然のように単勝オッズ1.05倍の1番人気に支持されたが、上記の法令のおかげでブックメーカー側は結果的に損をすることになる。

さて、ちょうど30年後のセクレタリアトと同様に、スタートから問答無用で先頭を飛ばしまくった本馬は、最初の半マイル通過時点で後続馬に8馬身差、直線入り口で20馬身差をつけ、最後は25馬身までその差を広げてゴールラインを通過。1941年のワーラウェイ以来2年ぶり史上6頭目の米国三冠馬の栄誉を手にした。米国三冠競走に加えてウィザーズSも制した馬は、今日に至るまで本馬とサーバートンの2頭のみであり、ウィザーズSの地位が著しく低下した事を考慮すると、今後も登場する事は無いであろう。勝ちタイム2分28秒2は前年のマンハッタンHでボーリングブロークが計時した全米レコード2分27秒6には0秒6及ばなかったが、1937年に先輩三冠馬ウォーアドミラルが樹立したレースレコード2分28秒6を更新するものだった。

デズロントとの激しい叩き合いを3/4馬身制して2着になったフェアリーマンハーストは、この年のローレンスリアライゼーションSを勝ち、トラヴァーズSやジョッキークラブ金杯で2着するほど長距離得意の馬だったが、本馬にはまったく歯が立たなかった。この30年後にセクレタリアトがベルモントSを31馬身差で優勝してしまったために、本馬の25馬身差は影が薄くなってしまったが、それでも非常識極まりない着差である事に変わりは無い。ロングデン騎手はレース前から「道中で一度転倒して再騎乗したとしても勝つ自信があった」そうである。また、レース後もスタミナは有り余っていたようで、日課となっていた45分間の歩行訓練を平然とこなしたという。

故障のためベルモントSを最後に競走馬を引退

しかし本馬はこのベルモントSの最中に左脚首を負傷していた事がそれから数時間後に判明した(負傷したのは左前脚とする資料と、左後脚とする資料に大別されている事から、おそらく左の前脚と後脚の後突が原因であろう)。ロングデン騎手が「(ベルモントSの)最後の直線で負傷した事が分かったので速度を緩めようとしたが、彼は止まろうとしなかった」と語ったとする資料もあるが、それが事実ならレース後に歩行訓練をさせるのは考えづらいから、歩行訓練の話かロングデン騎手の話のいずれかが創作であるか、話が誇張されていると思われる。

負傷は軽微なものと考えられたため、その後は7月にハーツ氏の地元シカゴで行われるヤンキーHやアーリントンクラシックSに出走することが予定されていた。しかし怪我の状態がその後悪化したため、この年のシーズン後半は1度もレースに出ることは無かった。それでも3歳時6戦全勝の成績を収めた本馬は、143票中135票という前例が無い得票数で、米年度代表馬に選ばれている(もちろん米最優秀3歳牡馬にも選出)。

4歳時も現役を続けたが、脚の負傷が癒えなかった為に、結局ベルモントSが最後のレースとなった。

ロングデン騎手は本馬について「キャデラックに乗っているような気分でした。ただし、決して操作は容易ではありませんでした。怖くて鞭を使う気にはなりませんでした。もしレースという縛りが無ければ、彼は他馬の上を飛び越えて外側に飛び出していたかもしれません。もし貴方が彼の近くにいたら、きっとトラブルに見舞われるでしょう」と語っている。ハーヴェイ氏の“American Race Horses”には、「(本馬が米国三冠を達成した)1943年は、年齢や性別を問わず他の全ての馬が日陰者でした。知識を有する多くの競馬関係者は、マンノウォーとカウントフリートは同一の範疇にあると考えていました」と記載されている。

血統

Reigh Count Sunreigh Sundridge Amphion Rosebery
Suicide
Sierra Springfield
Sanda
Sweet Briar St. Frusquin St. Simon
Isabel
Presentation Orion
Dubia
Contessina Count Schomberg Aughrim Xenophon
Lashaway
Clonavarn Baliol
Expectation
Pitti St. Frusquin St. Simon
Isabel
Florence Wisdom
Enigma
Quickly Haste Maintenant Maintenon Le Sagittaire
Marcia
Martha Gorman Sir Dixon
Sallie Mcclelland
Miss Malaprop Meddler St. Gatien
Busybody
Correction Himyar
Mannie Gray
Stephanie Stefan the Great The Tetrarch Roi Herode
Vahren
Perfect Peach Persimmon
Fascination
Malachite Rock Sand Sainfoin
Roquebrune
Miss Hanover Hanover
Miss Dawn

レイカウントは当馬の項を参照。

母クイックリーはハーツ氏がジョセフ・D・ワイドナー氏から2500ドルで購入した馬で、勝ち星は全て短距離戦であり大競走勝ちこそ無かったが、85戦して32勝を挙げた活躍馬だった。ハーツ氏がクイックリーに関して重視していたのは、彼が高く評価していた快速馬ザテトラークの血を引く点(クイックリーの母父ステファンザグレートがザテトラーク産駒)だったという(参考資料にはクイックリーがザテトラークのインブリードを有していたためだと記載があるが、クイックリーに入っているザテトラークの血は一本だけなので、誤りである。それともヘロドの直系の同系配合という趣旨なのだろうか。それであれば正しい)。もっとも本馬以外のクイックリー産駒にはそれほど活躍馬はおらず、牝系子孫もほとんど発展はしていない。

クイックリーの半弟シルヴァースピア(父シックル)は、当初英国で走ってクリアウェルS・ユニオンジャックSを勝った後に南アフリカに輸出されて、同国最大の競走ダーバンジュライを勝っている。

クイックリーの祖母マラカイトはアラバマSの勝ち馬。マラカイトの半兄ワースはバッシュフォードマナーSなどを勝って1911年の米最優秀2歳牡馬に選ばれた馬で、翌年のケンタッキーダービーも制覇したが、同年暮れに故障のため夭折している。マラカイトの半姉フェアアタランタの子にはデンジャラス【トラヴァーズS】が、マラカイトの半姉ミスプレイの牝系子孫にはサマースキャンダル【ベルデイムS・トップフライトH・マスケットH】などがいるが、牝系としては目立たない。→牝系:F6号族①

母父ヘイストは現役成績12戦5勝、ウィザーズS・グランドユニオンホテルS・サラトガスペシャルSなどを勝っている。さらに遡ると、競走馬としては不出走だったメントナン、仏ダービー・リュパン賞・仏共和国大統領賞・ロワイヤルオーク賞・サブロン賞・オカール賞・ユジェーヌアダム賞2回・ドーヴィル大賞・コンセイユミュニシパル賞・ロンシャン賞・ラクープドメゾンラフィットなどを勝った20世紀初頭仏国の歴史的名馬で仏首位種牡馬にもなったメントノン、モルニ賞・仏グランクリテリウム・リュパン賞・イスパーン賞・サブロン賞・グレフュール賞・ロンシャン賞の勝ち馬ルサジテール、イスパーン賞・サブロン賞・ダリュー賞・ドーヴィル大賞2回・エドヴィル賞の勝ち馬ルサンシー、英2000ギニー・アスコットダービーの勝ち馬アトランティックを経てトーマンバイに至る血統。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は5歳時から生まれ故郷のストーナークリークスタッドファームで種牡馬入りした。本馬は種牡馬としても優秀で、生涯に出した産駒433頭のうち8.8%に当たる38頭がステークスウイナーとなった。1951年にはベルモントSなどを勝ち米年度代表馬に選ばれたカウンターポイント、ケンタッキーダービー馬カウントターフ、米最優秀3歳牝馬キスミーケイトなどの活躍により、北米首位種牡馬を獲得。ちなみにカウントターフのケンタッキーダービー勝利は史上初の同レース親子三代制覇の快挙だった(その後ペンシブ、ポンダー、ニードルズが2例目を達成)。この時期には英国の著名な保険組合ロイズオブロンドンに対して、馬としてはおそらく当時の世界記録となる55万ドルの保険金が掛けられていたという。1963年には母父としての代表産駒ケルソの活躍により北米母父首位種牡馬にも輝いている。1961年に米国競馬の殿堂入りを果たした。1966年に種牡馬生活からも引退。1973年12月に33歳で天寿を全うし、遺体はストーナークリークスタッドファームに埋葬された。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第5位。

本馬は繁殖牝馬の父としても優秀で、ケルソの他にもプリンスジョンクイル、ラッキーデボネアなど合計119頭ものステークスウイナーを出した。また、祖母の父としてはミルリーフミスタープロスペクターという両巨頭を出している。そのため、本馬の直系は廃れたが、血統表内に本馬の名を持つ馬は現在も世界中に存在している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1946

Count-A-Bit

ファウンテンオブユースS

1946

Ennobled

ガルフストリームパークH

1946

Our Fleet

フリゼットS

1947

Be Fleet

ワシントンバースデイH・サンフアンカピストラーノ招待H・アーゴノートH・サンパスカルH

1947

County Delight

ディキシーH・マンハッタンH・ギャラントフォックスH・クイーンズカウンティH

1947

Fleet Rings

ハリウッドラッシーS

1948

Atalanta

スカイラヴィルS・スピナウェイS・メイトロンS・ブラックヘレンH・ベルデイムH・スワニーリヴァーH

1948

Count Turf

ケンタッキーダービー

1948

Counterpoint

ベルモントS・ピーターパンS・ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯・サンフェルナンドS・ホイットニーS

1948

Kiss Me Kate

エイコーンS・アラバマS・ガゼルH・デラウェアH・フィレンツェH

1949

Bella Figura

モデスティH

1949

One Count

ベルモントS・トラヴァーズS・ジョッキークラブ金杯

1949

Sub Fleet

ケンタッキージョッキークラブS・ホーソーン金杯

1950

By Zeus

サンフェルナンドS・サンフアンカピストラーノ招待H

1950

Straight Face

ブリーダーズフューチュリティS・ケンタッキージョッキークラブS・フラミンゴS・ディキシーH・サバーバンH

1951

Countess Fleet

ミレイディH・ヴァニティH

1952

Portersville

カーターH・ブルックリンH

1953

Count of Honor

ウェスターナーS

1954

General Arthur

ブーゲンヴィリアH・ドンH

1955

Carrier X

サンフェリペS

1956

Tritoma

サンタマリアH

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