ザテトラーク

和名:ザテトラーク

英名:The Tetrarch

1911年生

芦毛

父:ロイヘロド

母:ヴァーレン

母父:ボナヴィスタ

抜群のスピード能力と奇妙な斑点模様がある芦毛の馬体から「驚異の斑点」の異名で呼ばれ近代競馬のスピードの源泉ともなった稀代の快速馬

競走成績:2歳時に英で走り通算成績7戦7勝

2歳戦しか走ってはいないが、底の知れない尋常ならざるスピード能力と、奇妙な斑点模様がある芦毛の馬体から、“The Spotted Wonder(驚異の斑点)”の異名で呼ばれた稀代の快速馬である。

誕生からデビュー前まで

愛国の馬産家エドワード・ケネディ氏により、彼が所有する愛国ストラファンスタッドにおいて生産された。ケネディ氏は元々牛の生産家だったが、馬も好きであり、自身が所有していたニュータウンスタッドを拡張してストラファンスタッドと改名して本格的な馬産も開始していた。本馬以前の代表的な生産馬は後に独国の大種牡馬となるダークロナルドである。

本馬の母ヴァーレンは栗毛馬だったが、本馬は父ロイヘロドから受け継いだ芦毛の馬体を有していた。それも単なる芦毛ではなく、灰色の馬体全身に異様とも思える白い斑点模様が撒き散らされていた。この斑点模様は、19世紀末の大種牡馬ベンドアに顕著に現れていた事から、通称ベンドア斑(別名バードキャッチャー斑)と呼ばれるものである。本馬の母父ボナヴィスタはベンドア産駒であるから、そこを経由して遺伝したのではないかと思われる(本馬の父ロイヘロドも血統表上はベンドアの半妹の孫であるから、それによりベンドア斑の発現遺伝子が活性化された可能性も指摘されているが、ベンドアの牝系は血統表上のものとは異なるという説もあるし、何とも言えない)。この見栄えの悪さに加えて、本馬は骨太で馬体が大きすぎたため、周囲の人は本馬を去勢して障害競走馬にするようにケネディ氏に勧めた。しかしストラファンスタッド内で走る本馬の優れたスピード能力を見ていたケネディ氏はそれを拒否した。

ケネディ氏が本馬を1歳時のドンカスターセールに出品したところ、ヘンリー・シーモア・“アティー”・パース氏という人物が現れて本馬を1300ギニーで購入した(これ以前に、数人の馬主が本馬の購入を断ったという話もある)。パース氏は馬主兼調教師であり、やはりケネディ氏の生産馬で本馬の半姉でもあるニコラの管理調教師だった。パース氏が本馬を購入したのは、ケネディ氏の強い薦めがあったからだとされている。当初、パース氏は本馬を単独所有するつもりだったが、資金難のために断念し、自分の従兄弟であるダーモット・マッカルモント少佐に援助を求め、マッカルモント少佐と折半で本馬を所有する事になった。

本馬を自身で調教することになったパース師は2歳馬の育成に定評がある調教師だったが、馬体が大きすぎた本馬に対する当初の期待は低いものだった。ところが4月初めになって、本馬を他の同厩馬と一緒に走らせてみると、あまりにも抜きん出たスピードを発揮したために、他馬が駄馬に見えたほどだった。そこでパース師は本馬の能力を測るために、その2日後に今度は古馬のキャプテンシモンズを含む4頭の馬と一緒に距離5ハロンの試走に出した。結果は本馬の楽勝であり、そのまた1週間後に行われたキャプテンシモンズや同世代馬のランドオブソングとの試走においても楽勝した。

競走生活(2歳初期)

そして4月17日にニューマーケット競馬場で行われた芝5ハロンの2歳未勝利プレートで、本馬の全レースに騎乗することになるスティーヴ・ドノヒュー騎手を鞍上に公式戦デビューした。本馬の奇怪な毛色を見た観衆は、あの馬は子どもをあやすための木馬ではないかと嘲笑したという。しかしそんな嘲笑が畏敬に変わるのには、それほど時間はかからなかった。22頭立ての3番人気(単勝オッズ6倍)で出走した本馬は、まったくの馬なりのまま4馬身差で圧勝。このレースを見た観衆は、何か普通ではないものを見た事を瞬時に理解したというが、それがどれほど非常識なものなのかを知るまでにはまだ至らなかった。

6月3日にエプソム競馬場で行われたウッドコートS(T6F)で2戦目を迎えた。レースでは、残り1ハロン地点で馬群を突き抜けて、最後はパーヘリオン(英オークス馬アワーラッシーの息子)以下に3馬身差で快勝した。“The Bloodstock Breeders' Review(ブラッドストック・ブリーダーズ・レビュー)”には、2歳時のプリティポリー以上に印象的な強さを発揮したという点において、衆目の意見が一致したと書かれている。

3戦目は6月17日にアスコット競馬場で行われたコヴェントリーS(T6F)となった。レースでは「完全無欠な容易さで」、2着カレイジャスに10馬身差をつける圧勝劇を演じた(“British Horseracing Authority”には50ヤード差とある。これは約45m強であるから、15馬身差ほどに相当する)。

日本では誇張されているナショナルブリーダーズプロデュースSの出遅れ勝利

4戦目は7月19日にサンダウンパーク競馬場で行われたナショナルブリーダーズプロデュースS(T5F)となった。本馬は元々スタートが悪い馬だったが、このレースにおけるスタートは飛びぬけて悪く、本馬の単勝に賭けていた人達に真の恐怖を与えたという。しかし2ハロンほど走ったところで馬群に追いつき、カランドリアという牝馬との叩き合いの末、首差で勝利を収めた。着差からすれば辛勝だが、レースを見ていた人達に言わせると、最後の叩き合いはドノヒュー騎手が勝てるだけの差を維持しながらのものであり、別に危ない内容ではなかったらしい。

このレースにおける本馬の出遅れ理由については「バリアーが上げられる前に、張られたテープに関してドノヒュー騎手が主催者側と何がしかの議論をしていたところ、いきなりバリアーが上げられて他馬が先にスタートしてしまった」「スタートが切られた際に、本馬だけ他の方向を向いていた」「スタート時にテープに絡まってしまった」など様々な説があり、いずれが正しいのかは定かではない。

このレースにおいて本馬がどれだけ出遅れたかについても、資料によって随分な差がある。原田俊治氏の「新・世界の名馬」においては、「ザテトラークはバリアーが跳ね上がった瞬間、その場で膠着してしまった。鞍上のドノヒューがお手馬の首すじをやさしく叩いて落ち着かせようとすること10数秒、やっと走る気になってくれた時にはほかの馬はもう1ハロン近く先へ行っている」という逸話が紹介されている。この逸話は日本において非常に有名であり、各方面で紹介され、本馬の常識外れの強さを象徴するレースとして語り継がれている。しかし夢をぶち壊すようで申し訳ないが、この逸話は極端に誇張されており、事実であるとは言えない。

“The Bloodstock Breeders' Review”には、「このレースは出走各馬のスタートがばらけていました。その中でもザテトラークは一番の被害馬でした。彼は4~5馬身差ほど出遅れたからです」と明記されている。英ブラッドストックエージェンシー社が出している“The Bloodstock Breeders' Review”は日本における雑誌「優駿」に近いような位置にあり、当時としてはおそらくもっとも信憑性が高い資料であるから、ここにある「4~5馬身差の出遅れ」が最も真実に近いと思われる。他にも本馬に関する資料を色々と漁ってみたが、「4~5馬身差の出遅れ」と書かれている資料は他にも複数あったが、「10数秒も出遅れた」と書かれている資料は皆無であった。もっとも、「4~5馬身差の出遅れ」であってもかなり大きな出遅れである事には変わりがなく、このレースを見ていた人から噂が拡大していく中で、このナショナルブリーダーズプロデュースSに関する「神話」が発生したそうである。原田氏が紹介している上記の逸話も、こういった「神話」の1つなのだろう。

これに限らず、本馬に関しては事実なのか後世の創作なのか分からないような逸話がいくつか存在する。デビュー3戦目のコヴェントリーSにおいて、実際には50馬身差ほどで圧勝したが、他馬の馬主の名誉のために決勝審判員がわざと10馬身差で発表したという話などである。スタートで10数秒出遅れて勝った逸話と同様、これも「新・世界の名馬」で紹介されている逸話だが、これまた筆者が確認した範囲における海外の資料には全く掲載されておらず、信憑性という点では疑問がある。もっとも、たとえ事実と異なるとしても、こうした伝説が残されているという事自体が、本馬の速さがいかに衝撃的なものだったかを表しているとは言える。

競走生活(2歳後期)

さて、本馬の競走生活に話を戻す。5戦目は7月31日にグッドウッド競馬場で行われたロウス記念S(T6F)となった。後の英1000ギニー・英オークスの勝ち馬プリンセスドリーが対戦相手となったが、プリンセスドリーを6馬身差の2着に退けて難なく勝利を収め、前走の辛勝でやや下がった評判を取り戻したとされる。

6戦目は9月2日にダービー競馬場で行われたチャンピオンブリーダーズフォールS(T5F)となった。当初このレースに出走を予定していた同世代の実力馬でジムクラックSの勝ち馬ストーノウェイが回避したために強敵不在となり、4馬身差で楽勝した。

7戦目は9月9日にドンカスター競馬場で行われた英シャンペンS(T6F)となった。ストーノウェイの陣営も、もはや本馬からこれ以上逃げる事は出来なかったようで、このレースが2頭の初対戦となった。出走馬はこの2頭の他に、ユーロジーという牝馬のみであり、事実上マッチレースに近い形だったという。スタートが切られると早々に先頭に立った本馬は、終始レースを支配し、最後は2着ストーノウェイに3馬身差をつけて勝ち、ストーノウェイとの実力差を証明してみせた。

その後は10月にケンプトンパーク競走場で行われるインペリアルプロデュースSに出走する予定だった。しかし午前中の調教において、左後脚で左前脚を強く蹴りつけて負傷してしまった。ストライドが非常に大きかった本馬は、元々、後脚で前脚を蹴ってしまう癖があったという。この後脚を前脚にぶつける癖を後突症といい、下半身の力が強く、かつ前脚を掻きこむようにして走るタイプの競走能力が高い馬が起こしやすいとされる。海外では本馬の他にドンカスターカウントフリートラウンドテーブルムーチョマッチョマンなどが、日本ではシンザンやタケシバオーが悩まされていた事で知られるものである。この負傷のためにインペリアルプロデュースSは回避となり、2歳時はそのまま休養入りした。

2歳馬フリーハンデにおいては、2位のミドルパークプレート勝ち馬コルキュラより10ポンド重いトップにランクされ、翌年の英ダービーの最有力候補として認知された。

故障のため3歳時はレースに出ずに引退

本馬が休養入りしている間、英国競馬界は、おそらく英国競馬史上最高の2歳馬と思われる本馬について、どのように要約するべきかを考えていたという。かつて子どもをあやすための木馬と嘲笑された本馬は、この頃には“The Spotted Wonder”と呼ばれるようになっていた。

3歳になった本馬は、後突症を防止するために特製の蹄鉄を装着して、春に調教に復帰した。復帰時点ではまだ仕上がっていなかったため、英2000ギニーは回避したが、調教で本馬にまるで敵わなかったランドオブソングが同競走で3着に入った(優勝はデューハーストプレートの勝ち馬ケニーモア、2着馬がリッチモンドSの勝ち馬で後の英セントレジャー馬ブラックジェスター)事から、パース師は後に、英2000ギニーの全出走馬より本馬の方が断然上であり、たとえ本調子でなくても出ていれば勝っていたと後悔したという。

その後、英ダービーに向けた調教が芝12ハロンにおいて実施され、本馬がランドオブソング(後の愛ダービー馬)やロイヤルウェーバーを一蹴して先着した。これで英ダービーは貰ったと思われたのも束の間、前年と同じく左後脚で左前脚を蹴りつけて負傷してしまった。今回の負傷は前年以上に悪く、英ダービー出走どころか、そのまま現役引退に追い込まれてしまった。

競走馬としての特徴と評価

本馬が果たして英ダービーの長丁場を走りきるだけのスタミナをも有していたかどうかは、当時から議論の的である。本馬の血統背景や産駒成績からすれば、潜在的なスタミナを有していたのは確かだろうが、実際に走っていない以上こればかりは何とも言えない。

本馬の馬主兼管理調教師だったパース師は、本馬を次のように評している。「彼の発育は全ての点において異常でした。彼はすさまじく長い手綱が付けられた非常に強靭な肩と、てこの原理のような推進力の源となる素晴らしい後脚を持っていました。確かに、彼の腰部の発達度は驚異的なものでした。彼はほとんど全ての優れた馬の特徴でもある、真っ直ぐで力強い後脚を持っており、高く上がった腰部は本当に優れた造形であり、美しく知的な顔立ちをしていました。背中は少し窪んでおり、この窪みは年を取ると一層目立つようになりました。注目すべきは彼の身体の動きです。彼が走ると背中はより短く、脚はより長く見えました。それは彼の後脚の並々ならぬ推進力によるものでした。彼が速度を落とすと、前脚と後脚が編み合わされるように交差するように見えました。いや、実際に交差していました。私が1歳時に彼を扱うようになってから、それが私にとって悩みの種でした。これがザテトラークの2・3歳時の怪我の原因となったのです。」

「私は、彼は距離が延びても負けなかっただろうと思います。彼は尋常ではありませんでした。彼のような馬は他にいないでしょう。」

主戦のドノヒュー騎手も「彼に乗る事は、グレイハウンドの速度と象の力を組み合わせた生き物に乗る事に似ていました」と語っている。

本馬は現役当時から20世紀における英国調教の2歳馬としては最高の馬という評価を受けていたが、その評価は今日においても不変である。英国立競馬博物館のウェブサイトには、本馬が20世紀最高の英国調教の2歳馬として認められたという記載があるし、米国立スポーツ図書館のウェブサイトには、「おそらく史上最も偉大な2歳馬。いや、それどころか史上最も偉大な競走馬」という評価が載っている。

しかし、本馬が結局6ハロンを超えるレースを走っていない事や、本馬の世代の英国三冠競走が全て異なる馬によって勝ち取られている事から同世代のレベルに疑問があるとして、過大評価ではないかという意見もあるようである(この意見は英語版ウィキペディアに掲載されている。しかしウィキペディアでは禁止されている独自研究ではないかと思えるのだが)。筆者の意見としては、三冠競走が全て異なる馬によって勝ち取られているから世代のレベルが低いなどという考えには賛同しかねるが、前述の「距離6ハロンのレースで後続に50馬身差をつけた」や「スタートで10数秒も出遅れたにも関わらず勝った」といった、信憑性が低い伝説が本馬には付加されている事から、その現役時代にある程度の誇張が加えられて伝えられているのは事実だろうと考えている。そしてそれらの誇張は、本馬が種牡馬として後世に与えた影響力の大きさにも、ある程度は由来するものであろう。しかし競走馬に対する評価というものは、実際にその馬のレースを目の当たりにした者でなければ、正確な判断は出来ないと筆者は考えているため、本馬の現役時代を知る人達が「英国競馬史上最高の2歳馬」だという評価を下したのであれば、それが真実なのだろう。

本馬の馬名は「四分封領主」という意味である。父ロイヘロドの馬名が「ヘロデ大王(共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ地区を統治した王)」という意味であり、ヘロデ大王の死後に領土を4分割して統治した4人の息子のうちの1人ヘロデ・アンティパスが「四分封領主」と呼ばれたことが名前の由来になった。

血統

Roi Herode Le Samaritain Le Sancy Atlantic Thormanby
Hurricane 
Gem of Gems Strathconan
Poinsettia
Clementina Doncaster Stockwell
Marigold
Clemence Newminster
Eulogy
Roxelane War Dance Galliard Galopin
Mavis
War Paint Uncas
Piracy
Rose of York Speculum Vedette
Doralice
Rouge Rose Thormanby
Ellen Horne
Vahren Bona Vista Bend Or Doncaster Stockwell
Marigold
Rouge Rose Thormanby
Ellen Horne
Vista Macaroni Sweetmeat
Jocose
Verdure King Tom
May Bloom
Castania Hagioscope Speculum Vedette
Doralice
Sophia Macaroni
Zelle
Rose Garden Kingcraft King Tom
Woodcraft
Eglentyne Hermit
Mabille

父ロイヘロドはモーリス・カイロー氏とコント・ド・プルタレース氏により生産された仏国産馬。ロイヘロドの父ルサマリテンは22戦6勝で、その父ルサンシーはドーヴィル大賞勝ちなど42戦26勝。さらに直系を遡ると、英2000ギニー馬アトランティック、英ダービーとアスコット金杯を勝ち1869年の英首位種牡馬になったトーマンバイ、ウインドハウンド、パンタルーン、キャストレル、バザード、ウッドペッカー、そしてヘロドへと辿りつく。

一時期は英国競馬界を席巻したヘロドの直系も、ロイヘロドが誕生した1904年頃には英国ではほぼ完全に滅亡しており、仏国などにおいて細々と生き残っている程度だった。そんな傍流血脈出身のロイヘロドだが、血統的には決して捨てたものではなく、ロイヘロドの母ロクサレーンは仏グランクリテリウム・仏1000ギニー・仏オークスを制した名牝であり、ロクサレーンの全弟ロジラードは仏2000ギニー馬、ロクサレーンの母ローズオブヨークは英ダービー馬にして大種牡馬であるベンドアの半妹であり、近親には数々の活躍馬がいる優秀な牝系の出身だったのである(ベンドアは実はこの牝系出身馬ではないかもしれないのだが、ベンドア以外にも多くの活躍馬がいる以上、優れた牝系だった事は間違いない)。

ロイヘロドの競走成績は、2歳時は2戦着外。3歳時は13戦してラネヴァ賞の1勝だけだったが、ロワイヤルオーク賞など4戦で2着と好走。4歳時は3戦してヴィシー大賞の1勝。5歳時は6戦してラタブル賞を勝ち、英国のドンカスターCでアマディスの2着(3着馬がダークロナルド)というものだった。短距離戦しか実績が無い本馬と正反対に、好走したレースは長距離戦ばかりであった。ドンカスターCでダークロナルドに先着したロイヘロドの走りを見た、ダークロナルドの生産者で後に本馬の生産者ともなるケネディ氏は、英国では見かけなくなったヘロドの直系という事に感動して夢中になり、カイロー氏から2000ギニーでロイヘロドを購入した(彼がヘロド系の復興を夢見ていた事ばかりでなく、資料には明記されていないが、ロイヘロドが優秀な牝系の出であった事も彼の後押しをしたのではないかと推察される)。その後も競走生活を続行予定であり、6歳時のチェスターCが目標レースとして定められていたが、その直前になって脚の腱を負傷したために引退し、ケネディ氏所有のストラファンスタッドで種牡馬入りした。

当時6歳のロイヘロドが種牡馬入りしたのは1910年の繁殖シーズン真っ最中だったが、ケネディ氏は何とか12頭の繁殖牝馬をかき集めてロイヘロドと交配させた。その中の1頭であるヴァーレンが翌春に産み落としたのが本馬だったのである。種牡馬入り当初はたいして注目を集めていなかったロイヘロドだったが、本馬の活躍を受けて人気が沸騰し、本馬が2歳時の1913年の繁殖シーズン途中から1915年まで予約が満口となったという。ロイヘロドは本馬以降も、愛ダービー馬キングジョン、愛2000ギニー馬セントドナー、愛オークス馬サンカセット、愛オークス馬ユダヤなどを出して活躍し、母父としても優秀な成績を収め、1931年に27歳で他界した。ロイヘロドは馬車馬のように馬体が大きく、頑丈な馬だったという。競走馬としては長距離戦しか実績が無いのだが、本馬の馬主兼調教師のパース氏は、ロイヘロドはその競走実績以上に光り輝くスピード能力を有していたとしている。

母ヴァーレンは現役成績12戦3勝。ヴァーレンの母である不出走馬カスタニアは、12頭の子を産み、そのうち4頭が勝ち上がったが、重要なレースの勝ち馬はいない。カスタニアの母ローズガーデンもまた不出走馬であり、6頭の子を産んだが勝ち上がったのは僅か1頭だった。しかしローズガーデンの母エグレンティーヌは英1000ギニー馬ブライアールートを含む7頭の勝ち上がり馬の母であり、エグレンティーヌの母マビーユは英ダービー・パリ大賞・アスコット金杯の勝ち馬クレモーンの全姉であるから、極端に悪い牝系というわけでもない。繁殖入りしたヴァーレンは最初にセントフラスキンと交配されたが流産したため、ニューマーケットで行われた繁殖牝馬のセリに出品され、ケネディ氏により200ギニーで購入された。しかしその後も双子の死産や不受胎が相次ぎ、初子となる牝駒ニコラ(父シミントン)を産んだのは1908年、11歳時だった。その後は定期的に産駒を産むことが出来たが、本馬以外の産駒はニコラが短距離戦で一定の成績を残した程度に終わった。ニコラの子にはミレシウス【コヴェントリーS】が、本馬の半妹テヘラン(父プリンスフィリップ)の子にはチッカガリ【キングズスタンドプレート】が、ヴァーレンの半妹マルソヴィア(父マルコ)の牝系子孫にはティークスノース【ガルフストリームパークターフH(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズS(米GⅠ)】がいる。→牝系:F2号族③

母父ボナヴィスタは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、愛国トーマスタウンスタッドで4歳時から種牡馬入りした。初年度の種付け料は300ギニーに設定された。その後、マッカルモント少佐が所有する愛国バリーリンチスタッドに移動し、その後の全生涯をこの地で過ごした。本馬には種付けが大嫌いという種牡馬としては致命的とも言える欠点があり(「新・世界の名馬」には種付けを含めて本馬が嫌いなものに関する様々な逸話が紹介されているのだが、筆者が確認した範囲内における海外の資料には載っていない内容ばかりであり、本馬にまつわる逸話の信憑性の低さを鑑みて本項では省略する)、牧場関係者を悩ませた。

それでも、1916年に誕生した初年度産駒は15頭、1917年に誕生した2年目産駒は18頭、1918年に誕生した3年目産駒は22頭と、当初はそれなりの産駒数を維持していたが、1919年に誕生した4年目産駒は僅か7頭だった。この前年1918年に本馬と交配を試みられた牝馬は42頭いたが、このうち実に32頭が空胎だった。その後少し持ち直して1920年の産駒数は23頭まで増えたが、1921年は16頭、1922年は12頭、1923年は10頭と減少の一途を辿り、1924年は4頭、1925年は2頭、1926年は1頭、そして1927年は遂に0頭となり、その後本馬の産駒が誕生することは無かった。本馬の産駒は11世代で僅か130頭しかいないわけである。

ところが本馬の産駒は量こそ少ないが質は高く、1919年にはテトラテーマの2歳戦における活躍と、愛オークス馬スノーメイデンの貢献により英愛首位種牡馬に輝いた。翌1920年には英2000ギニー馬テトラテーマと英セントレジャー馬カリギュラの活躍により、1923年にも“The Flying Filly”ことムムタズマハルの活躍で、英愛種牡馬ランキングで各3位に入っている。130頭の産駒のうち、勝ち上がり馬は80頭で、産駒が挙げた勝ち星の総数は257勝に上ったという。

産駒はムムタズマハルに代表されるように主に2歳戦や短距離戦において爆発的なスピード能力を示し、それまでどちらかといえばスタミナ偏重だった英国競馬にスピード能力を付加したとされる。一方で3頭の英セントレジャー優勝馬を輩出しており、単なる短距離専門種牡馬というわけではなかった。もし本馬の繁殖能力が正常だったら、競馬史に名を残す大種牡馬になっていた可能性も高いだろう。種牡馬を引退した後の本馬は乗用馬となり、地方の村へ配達される郵便物を届けるためなどに使役された。1935年8月8日にバリーリンチスタッドにおいて24歳で他界し、遺体は本馬の業績が記載された額縁が取り付けられた墓石の下に埋葬された。本馬の直系は現在では殆ど残っていないが、ムムタズマハルの牝系からナスルーラマームードロイヤルチャージャーが登場し、本馬の爆発的なスピードを後世に伝えた。日本ではテトラテーマの産駒である輸入種牡馬セフトが輩出した無敗の二冠馬トキノミノルが本馬の3×4のインブリードを持っていたことで知られる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1916

Chaud

仏チャンピオンハードル

1916

Chiffre d'Amour

キングジョージS

1916

Snow Maiden

愛オークス

1916

Stefan the Great

ミドルパークS

1917

Caligula

英セントレジャー・アスコットダービー

1917

Sarchedon

コヴェントリーS・ジュライS

1917

Tete-a-Tete

オールエイジドS

1917

Tetrameter

スチュワーズC

1917

Tetratema

英2000ギニー・モールコームS・英シャンペンS・ミドルパークS・キングジョージS2回・キングズスタンドプレート・ジュライC

1918

Polemarch

英セントレジャー・ジムクラックS

1918

Trash

モールコームS

1919

Puttenden

ゴールドヴァーズ

1920

Paola

チェヴァリーパークS・コロネーションS

1921

Defiance

スチュワーズC

1921

Mumtaz Mahal

クイーンメアリーS・モールコームS・英シャンペンS・キングジョージS・ナンソープS

1921

Salmon-Trout

英セントレジャー・デューハーストS・プリンセスオブウェールズS

1921

Tetratela

ロワイヨモン賞・ロワイヤリュー賞

1923

Moti Mahal

コロネーションS

1924

The Satrap

ジュライS・リッチモンドS

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