ケルソ

和名:ケルソ

英名:Kelso

1957年生

黒鹿

父:ユアホスト

母:メイドオブフライト

母父:カウントフリート

3歳時から7歳時まで5年連続で米年度代表馬に選ばれるというおそらく2度と見ることが出来ない快挙を成し遂げた米国競馬史上最強騙馬

競走成績:2~9歳時に米で走り通算成績63戦39勝2着12回3着2回

平地競馬の競走を繁殖馬の選定として捉える傾向が強い欧州や日本と異なり、米国では気性や体質の改善のために牡馬を去勢して騙馬にする事がかなり一般的である。そのため、米国には騙馬の名馬が少なくない(米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選のうち11頭が騙馬である)。その中でも最高レベルの競走実績を残し、騙馬に限らず米国の競走馬全体の中においても最強クラスの1頭と言われるのが本馬である。米国大リーグのニューヨーク・ヤンキースで活躍した伝説的内野手ルー・ゲーリッグ選手は、その頑丈さ、偉大さ、長年に渡る選手生活から“Iron Horse(蒸気機関車)”の愛称で親しまれたが、同じ愛称が競走馬に適用されるとしたら、本馬以上に適切な馬は存在しないと言われている。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州クレイボーンファームにおいて、リチャード・アルーレ・デュポン夫人により生産された。デュポン夫人は、米国最大級の財閥である化学製品製造会社デュポンの創業者一族で、19世紀以降の米国において最も裕福な一族と言われるデュポンファミリーの一員であるリチャード・チチェスター・デュポン氏の妻だった。夫のデュポン氏はカーチス・ライト技術研究所で学んだ後に航空会社を立ち上げた人物だった。デュポン氏は第二次世界大戦が勃発すると米国陸軍省の依頼を受けて軍用グライダーの開発に着手したが、1943年9月に試乗していたグライダーが墜落して33歳の若さで死去した。

30歳で未亡人となったデュポン夫人は、元々スポーツや動物が好きだった事もあり、メリーランド州チェサピークシティにウッドストックファームを開設して馬産を開始していた。彼女はやがて米国競馬界の重鎮の1人になり、後の1983年に、米国ジョッキークラブが初めて女性の会員を認めた際に、最初に加入が認められた女性3人のうちの1人でもある(残りの2人はセクレタリアトの所有者ヘレン・“ペニー”・チェネリー女史と、フォアゴーの所有者エドワード・マーサ・ファリッシュ・ジェリー夫人)。ノーザンダンサーの所有者エドワード・プランケット・テイラー氏に、ノーザンダンサーを米国に連れてきて種牡馬生活を送らせるように勧めたのも彼女だった。

彼女が米国競馬界の重鎮となった理由の多くは本馬の活躍によるものだが、その肝心の本馬の幼少期は非常に評価が低かった。父ユアホストはまだ実績が無い種牡馬で、本馬が初子だった母メイドオブフライトの近親にも活躍馬はおらず、血統的には平凡そのものであり、せいぜい母の父がカウントフリートで祖母の父がマンノウォーというくらいしかアピールポイントは無かった。しかも幼少期から痩せこけて小柄という貧相な馬格であり、さらには気性に問題があり、それも成長すると徐々にひどくなったため、獣医師兼調教師だったジョン・リー博士の助言を受けたデュポン夫人は気性改善と成長促進のために1歳時に本馬を去勢した。もっとも、成長促進はともかく、気性改善の点では去勢はあまり効き目が無かったと一般的に言われており、成長してもあまり行儀が良い馬にはならなかった。

馬名はデュポン夫人の友人ケルソ・エヴェレット夫人に由来する。元々デュポン夫人は牝馬の誕生を期待していたために、女性であるエヴェレット夫人の名前を子馬につけようと考えていた。デュポン夫人の期待に反して産まれたのは牡馬だったが、彼女は結局そのままエヴェレット夫人の名前を本馬につけたという。エヴェレット夫人は“Kelly(ケリー)”という愛称で呼ばれており、それが本馬の後の愛称である“King Kelly(キングケリー)”の由来にもなっている。デュポン夫人の馬産名義であるボヘミアステーブルの所有馬として競走馬になり、本馬の去勢を進言したジョン・リー博士に預けられた。

競走生活(2・3歳時)

2歳9月にアトランティックシティ競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦でデビューして1馬身1/4差で勝利。それから10日後に出走した同コースの一般競走では、後に日本に種牡馬として輸入されるドレスアップに敗れて、1馬身半差の2着。さらに9日後に出走したアトランティックシティ競馬場ダート7ハロンの一般競走では、同じユアホスト産駒ウインディサンズの3/4馬身差2着だった。その後に脚首の腱を負傷したために2歳時は3戦1勝で終えた。

この時期の本馬は何の取り柄もない平凡な馬であり、しかもジョン・リー博士の見立てでは脚首の怪我は完治しそうになかったため、彼は本馬を売るようにデュポン夫人に進言した。デュポン夫人は本馬を売りに出したが、本馬を買おうとする人間は現れず、デュポン夫人の甥であるジーン・ウェイマス氏がモーターボートとの交換なら応じると提案してきた程度だった。結局本馬はデュポン夫人の所有のままとなった。その後本馬を管理していたジョン・リー博士は調教師を辞めて獣医師に専念することになったため、本馬はカール・ハンフォード厩舎に転厩した。

ジョン・リー博士の見立てとは異なり脚首の故障は完治したが、結局米国三冠競走には間に合わなかった。3歳6月にモンマスパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰すると、2着バーントクローバーを10馬身ちぎって圧勝した。さらに翌7月にアケダクト競馬場で行われたダート8ハロンの一般競走も1分34秒2の好タイムで駆け抜け、後続を12馬身ちぎって連続大差勝ちを収めた。次走はステークス競走初出走となるアーリントンクラシックS(D8F)となったが、ケンタッキーダービー馬でベルモントS2着のヴェネチアンウェイ、サンヴィンセントS・ゴーサムS・ウィザーズSの勝ち馬でサンタアニタダービー2着のジョンウィリアム、アーゴノートSの勝ち馬でサンフェリペH・ハリウッドダービー2着のティーヴィーラークといった同世代の有力馬達の壁にここでは跳ね返され、勝ったティーヴィーラークから7馬身半差をつけられた8着に終わった。しかし次走のチョイスS(D8.5F)では、2着ケアレスジョンに7馬身差をつけて圧勝した。

次走のジェロームH(D8F)では、主戦となるエディ・アーキャロ騎手と初コンビを組んだ。そして2着ケアレスジョンとの着差は頭差ながらも、1分34秒8のレースレコードを計時して勝利した。さらにディスカヴァリーH(D9F)では、1分48秒4のコースレコードを樹立して、8ポンドのハンデを与えた2着ケアレスジョンに1馬身1/4差で勝利した。次走のローレンスリアライゼーションS(D13F)では、ホープフルS・サンタアニタダービー・ブルーグラスS・トラヴァーズSを勝っていた同世代トップクラスの有力馬トンピオンが出走してきた。しかし本馬が、曽祖父マンノウォーが40年前に樹立した2分40秒8のコースレコードと同タイムで走破して、トンピオンを4馬身半差の2着に破って快勝した。

次走のホーソーン金杯(D10F)では、アーリントンクラシックSからアメリカンダービー・ワシントンパークH・ユナイテッドネーションズHなど5連勝したティーヴィーラーク、ブルックリンHの勝ち馬で前年のアーリントンクラシックS2着のオンアンドオンといった強敵が出走してきた。しかもレースは本馬にとって初経験となる重馬場で施行されたのだが、本馬にはあまり関係なかったようで、2着ヒーローショーギャラに6馬身差で圧勝。ティーヴィーラークは8着であり、アーリントンクラシックSの借りをここで返した形になった。

次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では、サバーバンH・ワシントンDC国際S・ワイドナーH・ガルフストリームパークH・メトロポリタンHなどを勝っていた名馬ボールドイーグルと最初で最後の対戦となった。レースは不良馬場で行われたが、それにも関わらず3分19秒4の全米レコードで走破した本馬が、2着となったマンハッタンHの勝ち馬ドンポッジョに3馬身半差、3着ボールドイーグルにはさらに9馬身半差をつけて完勝した。

3歳時の成績は9戦8勝で、米最優秀3歳牡馬騙馬だけでなく、ジョッキークラブ金杯の次走ワシントンDC国際Sで同競走2連覇を達成して引退していったボールドイーグルを抑えて米年度代表馬も受賞した。米国三冠競走に勝っていない3歳牡馬・騙馬が米年度代表馬になったのは1924年のサラゼン以来36年ぶりのことだったが、サラゼンの時代はまだ米国三冠競走が確立されていなかった頃だから、米国三冠競走に勝っていない3歳牡馬・騙馬が米年度代表馬になったのは事実上本馬が初と言ってよいだろう(3歳牝馬も含めれば、1944年にトワイライトティアー、1945年にブッシャーが米年度代表馬に選ばれた例がある)。

競走生活(4歳時)

4歳時は捻挫のためにしばらくレースに出ず、5月にアケダクト競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走から始動して、2着ジャイロに1馬身半差で余裕勝ち。続くメトロポリタンH(D8F)では130ポンドを背負わされた上に、最後の直線で進路を失ってしまったが、ゴール直前で猛然と追い上げて、勝利寸前だったオールハンズを首差かわして勝利した。ハンフォード師はこのレースこそが本馬のベストレースだと考えていたそうである。同じく130ポンドが課されたホイットニーH(D9F)では、最後の直線走路でアワホープという馬の妨害を受けて、アワホープの頭差2位入線。しかしアワホープは2着に降着となったため、本馬が繰り上がって勝利馬となった。

サバーバンH(D10F)では133ポンドという斤量を克服して、2着ニッケルボーイに5馬身差をつけて圧勝。そのために次走のブルックリンH(D10F)では、さらに136ポンドまで斤量が増えた。しかしそれでも本馬が2着ディヴァインコメディに1馬身1/4差で勝利を収め、1913年のウィスクブルーム、1953年のトムフールに続く8年ぶり史上3頭目のニューヨークハンデキャップ三冠馬となった。

ワシントンパークH(D8F)では132ポンドを課せられたが、本馬の実力をもってすれば問題ないと思われていた。ところがメトロポリタンHと同じく道中で不利を受けてしまい、今度は逆転できずにチーフオブチーフズの5馬身3/4差4着に敗退。前年からの連勝は11でストップした。

次走のウッドワードS(D10F)は馬齢定量戦であり、厳しい斤量の心配は無かったが、その代わりに1頭の強豪3歳馬の姿があった。それは、ケンタッキーダービー・プリークネスS・カウディンS・レムセンS・フラミンゴS・フロリダダービー・ジェロームHを勝っていた米国競馬史上有数の追い込み馬キャリーバックだった。しかし本馬が2分フラットのコースレコードを計時して、2着ディヴァインコメディに8馬身差をつけて圧勝を収め、キャリーバックはさらに半馬身差の3着だった。

次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では、2着ヒルズボローに5馬身差、3着ピースアイルにはさらに8馬身差をつけて圧勝を収め、1956年のナシュア以来5年ぶり史上4頭目の同競走2連覇を果たした。

しかし初の芝レースとなったワシントンDC国際S(T12F)では、2分26秒2のコースレコードで走破したティーヴィーラークの3/4馬身差2着に敗れた。3着馬プレナップシャルはさらに12馬身後方であり、本馬自身もコースレコードを更新するタイムで走っていた。しかも本馬はレース中に飛節を負傷していたようで、その後は休養のために牧場に直行していることから、負けてなお強しという内容だったと筆者は思うのだが、海外の資料によると、このレースの結果を見た米国の競馬ファンは、本馬は芝ではあまり活躍できないと思ったそうである。それまでのダート競走における強さが圧倒的だったため、比較すると芝は不得手だと思われたせいもあるのだろう。

それでも、4歳時9戦7勝の成績で、2年連続の米年度代表馬と米最優秀ハンデ牡馬騙馬を獲得した。

競走生活(5歳時)

翌5歳時はウイルス性の疾患に罹った影響で復帰が遅れ、5月のメトロポリタンH(D8F)から始動。主戦だったアーキャロ騎手が直前に引退したため、このレースではウィリアム・シューメーカー騎手とコンビを組んだ。しかし133ポンドの斤量に加えて休み明けや乗り代わりの影響もあったのか、10ポンドのハンデを与えたキャリーバックの8馬身1/4差6着と完敗した。翌月にベルモントパーク競馬場で行われたダート8ハロンの一般競走では格の違いを見せ、2着ガーウォルに2馬身1/4差で快勝した。しかし132ポンドを背負って出たサバーバンH(D10F)では、ボーパープルの2馬身半差2着に敗退。130ポンドを背負って出たモンマスH(D10F)では、何とか馬群をすり抜けてボーパープルには先着したが、6ポンドのハンデを与えたキャリーバックに3馬身届かずに2着だった。

このモンマスHを最後にシューメーカー騎手は本馬の鞍上を去り、代わりにイスマエル・ヴァレンズエラ騎手が本馬の新しい主戦として迎えられた。ヴァレンズエラ騎手は本馬に上手く乗る方法を知るために、引退したアーキャロ元騎手に連絡を取って助言を求めた。アーキャロ元騎手はヴァレンズエラ騎手に「忘れてはいけないのは、彼は急かされるのが嫌いだという事です。手綱をしっかりと握った上で、彼が行く気になる瞬間を待ちなさい」と伝えた。

新コンビ初戦となったサラトガ競馬場芝8.5ハロンの一般競走では、2着コールザウィットネスに1馬身半差で勝利。しかし、ヴァレンズエラ騎手が騎乗しなかった次走のアトランティックシティ競馬場芝8.5ハロンの一般競走は、コールザウィットネスの1馬身3/4差4着に終わった。次走のスタイミーH(D10F)ではヴァレンズエラ騎手を鞍上に、2着ポリーラッドに2馬身半差をつけてこの年のステークス競走初勝利を挙げたが、時期は既に9月であり、この年の米年度代表馬の座はメトロポリタンH・モンマスH・ホイットニーSを勝っていたキャリーバック、サバーバンH・ブルックリンHを勝っていたボーパープル、又はベルモントS・トラヴァーズS・ウィザーズSなどを勝っていた3歳馬ジャイプールのいずれかのものになると思われた。

しかしここから本馬の巻き返しが始まった。次走のウッドワードS(D10F)では、ジャイプールを4馬身半差の2着に破って勝利を収め、1959・60年に2連覇したソードダンサーに続く同競走の2連覇を果たした(ティーヴィーラークは8着最下位だった)。

そしてジョッキークラブ金杯(D16F)では、ウッドワードSで3着だったガダルカナルを10馬身差の2着に破り、1956年にナシュアが計時した3分20秒4を更新する3分19秒8のコースレコードを樹立して、同競走史上初の3連覇を達成した。

しかしマンノウォーS(T12F)では、ボーパープルの2馬身差2着に敗れた(サンマルコスH・ワシントンバースデイH・ニッカボッカーHを勝ってきたジアクスが3着で、キャリーバックは5着だった)。

次走のワシントンDC国際S(T12F)では、この年の米年度代表馬の座を賭けて、キャリーバック、ボーパープルと激突した。レースでは逃げ馬のボーパープルをすんなり逃がさず、かつ、追い込み馬のキャリーバックの末脚を封じるため、ハンフォード師の指示によりヴァレンズエラ騎手はボーパープルを徹底マークする作戦を採った。目論見どおりにボーパープルにプレッシャーを掛けることに成功し、向こう正面で早くもボーパープルは失速。しかしキャリーバックが予想外に早く仕掛けてきて、本馬とキャリーバックの先行争いとなった。直線でキャリーバックを振り切ったが、ここで力尽き、仏国から遠征して来たキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・ロワイヤルオーク賞・サンクルー大賞の優勝馬マッチに差されて、1馬身半差の2着に敗れた。キャリーバックは3着で、ボーパープルは11着だった(同レースには日本から天皇賞馬タカマガハラも参戦していたが10着だった)。

ガーデンステート競馬場で出たガバナーズプレート(D12F)では129ポンドを背負いながらも、2分30秒2のコースレコードを計時して、2着バスクレフに5馬身差で圧勝。このレースで本馬は、サイテーション、ナシュア、ラウンドテーブル、キャリーバックに次ぐ史上5頭目の獲得賞金100万ドルホースとなった。

5歳時は12戦6勝の成績で、9月時点では絶望視されていた3年連続の米年度代表馬と2年連続の米最優秀ハンデ牡馬騙馬を獲得した。

競走生活(6歳時)

翌6歳時は過去3年と異なり怪我も病気もしなかったので、1月からフロリダ州ハイアリアパーク競馬場で始動した。初戦のパームビーチH(D7F)では、前年の米最優秀3歳牡馬に選ばれたジャイプール、前年のフロリダダービー・ブルーグラスS・アーリントンクラシックSを勝利してケンタッキーダービーでは1番人気に推された(結果は3着)一昨年の米最優秀2歳牡馬ライダンという強豪2頭と激突した。斤量は他2頭が127ポンドで本馬は128ポンドと大きな差は無かったが、ここでは本馬は凡走。ライダンが2着ジャイプールに3馬身3/4差をつけて快勝し、本馬はジャイプールからさらに1馬身3/4差の4着に終わった。

次走のセミノールH(D9F)でも、ライダン、ジャイプールとの対戦となった。しかし今回は本馬がライダンを2馬身3/4差2着に、ジャイプールをさらに6馬身差の4着に下して勝利。ライダンとジャイプールは2頭揃ってこのレースを最後に引退していった。

次走のワイドナーH(D10F)では131ポンドを課され、ボーパープルの2馬身1/4差2着に敗れた。次走のガルフストリームパークH(D10F)でも130ポンドを課せられたが、ディスプレイH・ギャラントフォックスHを勝っていた亜国産馬センシティヴォを3馬身1/4差の2着に、前年のドンHとガルフストリームパークHを勝っていたジェイフォックスを3着に破って快勝した。次走のジョンBキャンベルH(D10F)では、ガーデンステートS・ピムリコフューチュリティ・クラークH・サンフェルナンドS・チャールズHストラブSを勝っていた一昨年の米最優秀2歳牡馬クリムゾンサタン(ライダンと同時受賞)、ユナイテッドネーションズH・トレントンHを勝っていたモンゴの2頭が本馬に挑んできたが、131ポンドを背負っていた本馬が、123ポンドのクリムゾンサタンを3/4馬身差の2着に抑えて勝利した。

短い休養の後、夏場以降は月1回のペースで出走して勝ち続けた。6月には132ポンドを背負って出たナッソーカウンティS(D9F)を、2着ランヴィンに1馬身半差で勝利。7月には133ポンドを背負って出たサバーバンH(D10F)を、2着サイダムに1馬身1/4差で勝利。8月には130ポンドを背負って出たホイットニーS(D9F)を、2着サイダムに2馬身半差で勝利。134ポンドを背負って出た9月のアケダクトS(D9F)では、マサチューセッツH・ミシガンマイル&ワンエイスH・ワシントンパークHを勝ってきたクリムゾンサタンを5馬身半差の2着に破って圧勝した。

この頃には本馬の人気は不動のものとなっており、本馬の熱心なファンだったヘザー・ノーブルというヴァージニア州在住の少年の呼びかけによりファンクラブが結成されていた。彼等は自分達を“Kelsolanders(ケルソランダーズ)”と呼び、本馬の事は“King Kelly”と呼んでいた。そして“Kelsolanders”達はいつも“King Kelly”を応援するために旗を振りながら競馬場の特別観覧席に陣取っていた。ノーブル少年はデュポン夫人の客人としてしばしば競馬場に招かれていたという。

さて、秋シーズンに入っても本馬の勢いはとどまるところを知らなかった。ウッドワードS(D10F)では、クリムゾンサタン、前年のワシントンDC国際S3着後にいったん種牡馬入りしながら競走馬に復帰してきたキャリーバック、ベルモントフューチュリティS・シャンペンS・カウディンS・フラミンゴSの勝ち馬でケンタッキーダービー2着の前年の米最優秀2歳牡馬ネヴァーベンドなどが立ち向かってきたが、逃げるネヴァーベンドに直線入り口で並びかけると一気にかわし、2着ネヴァーベンドに3馬身半差をつけて、同競走史上初の3連覇を達成した。

ジョッキークラブ金杯(D16F)では、前年の2着馬ガダルカナルを4馬身差の2着に退けて4連覇を達成した。

しかしワシントンDC国際S(T12F)では、ユナイテッドネーションズHの2連覇を達成していた芝巧者モンゴに屈して半馬身差の2着に敗退。これで同競走は3年連続2着となってしまった。この結果を受けて米国の競馬記者達は、本馬は芝では勝てないと改めて書きたてた。

6歳時は12戦9勝の成績で、4年連続の米年度代表馬と3年連続の米最優秀ハンデ牡馬騙馬を受賞した。

競走生活(7歳時)

7歳時は初の米国西海岸見参となる5月のロサンゼルスH(D7F)から始動したが、前年に本馬が不在だったメトロポリタンHとブルックリンHを勝っていたシラノ、ウッドメモリアルS・カーターHの勝ち馬アドミラルズヴォヤージといった面々に屈して、勝ったシラノから9馬身1/4差をつけられた8着と惨敗した。このレースの敗因は、130ポンドの斤量と休み明けが影響したと思われた。そのため、127ポンドの斤量で出走したカリフォルニアンS(D8.5F)では大丈夫と思われたが、16ポンドのハンデを与えたマスタードプラスターの8馬身差6着に沈んだ(このレースには後に西海岸最強馬となるネイティヴダイヴァーも参戦していたが8着に終わっている)。この2戦の内容からすると、どうも西海岸の環境が合わなかったようである。陣営も同じように考えたのか、西海岸における出走はこの2戦のみで東海岸に戻った。

そしてカリフォルニアンSから19日後にアケダクト競馬場で行われたストレイトフェイスH(D9F)に出走。136ポンドが課せられたが、2着トロピカルブリーズに1馬身1/4差で勝利した。しかし131ポンドで出走したサバーバンH(D10F)では、15ポンドのハンデを与えたアイアンペグの頭差2着に惜敗した(それでも、マリブS・サンアントニオH・サンフアンカピストラーノ招待H・サンパスカルHを勝っていた西海岸の実力馬オールデンタイムズには先着している)。次走のモンマスH(D10F)では、前年の米最優秀芝馬に選ばれたモンゴに再度屈して、首差の2着に惜敗した(それでも、この年のサンフェルナンドS・チャールズHストラブS・サンアントニオH・ガルフストリームパークHを勝っていたガンボウには先着している)。130ポンドを背負って出たブルックリンH(D10F)では、スターティングゲートに頭をぶつけてよろめきながら走ったために、まともなレースにならなかった。結果はガンボウが2着オールデンタイムズに12馬身差をつけて大圧勝を収め、本馬はオールデンタイムズから2馬身差の5着に敗退した。

さすがにピークを過ぎたかと思われたが、続くサラトガ競馬場芝9ハロンの一般競走では軽斤量にも助けられて、1分46秒6のコースレコードを計時して2馬身半差の勝利を収めた。次走のアケダクトS(D9F)では、同斤量のガンボウを3/4馬身差の2着に下して勝利。そして次走のウッドワードS(D10F)で4連覇を狙った。強敵はガンボウと、この年のベルモントSでノーザンダンサーの米国三冠を阻んだピムリコフューチュリティ・ウッドメモリアルS・ドワイヤーH・トラヴァーズSの勝ち馬クアドラングルの2頭だった。レースでは逃げるガンボウに直線入り口で並びかけたが、ここからガンボウが驚異的な粘りを見せて一旦は前に出た本馬を差し返し、殆ど同着だと言われたほどの壮絶な激戦の末、写真判定で惜しくも鼻差敗れて2着だった(このときの判定に使用された写真を見たが、確かに筆者にも同着にしか見えなかった。着差はおそらく1~2cm程度だと思われる)。

次走のジョッキークラブ金杯(D16F)にはガンボウは不在だったが、前走3着のクアドラングル、シャンペンS・アメリカンダービーなどの勝ち馬ローマンブラザーなどが挑んできた。本馬は3番手を追走すると直線で突き抜けて、追い上げてきたローマンブラザーを5馬身半差の2着、逃げて失速したクアドラングルをさらに6馬身差の3着に下して、3分19秒2という現在も破られていない世界レコード(当時は芝でもこれより速いタイムはほぼ見当たらなかった。1924年に英国ソールズベリー競馬場でポーラゼルという馬が距離2マイルを3分15秒で走破したという記録があるらしいが、信憑性は不明)を樹立して優勝し、遂に同競走の5連覇を達成した。ゴール前では勝負あったと見たヴァレンズエラ騎手が手綱を緩めるほどの楽勝ぶりだった。また、同時に獲得賞金が180万3362ドルに達し、ラウンドテーブルが保持していた米国調教馬の獲得賞金記録174万9869ドルを更新した。

次走はそれから11日後、過去3年連続2着に終わっていたワシントンDC国際S(T12F)となった。過去に芝のステークス競走では未勝利の本馬だったが、それでもファンは単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持した。2番人気が単勝オッズ2.5倍のガンボウで、3番人気だったソ連最強馬アニリンは単勝オッズ16倍であり、本馬とガンボウの一騎打ちムードだった。他の出走馬は、伊国のヴェロネーゼ、仏国のベラシカンブル、日本の天皇賞・有馬記念優勝馬リユウフオーレルなどだった。レースではガンボウが非常に速いペース(最初の6ハロン通過が1分10秒4、1マイル通過は1分34秒4だった)で逃げを打ち、本馬は3馬身ほど後方を追走。残り4ハロン地点で進出を開始すると、残り3ハロン地点でガンボウに並びかけて2頭の完全な一騎打ちになった。ガンボウも騎手の鞭に応えて必死に粘ったが、最後の直線で本馬がガンボウを突き放し、最後は後方を確認したヴァレンズエラ騎手が本馬の背を軽く叩いてねぎらいながらゴールイン。2着ガンボウに4馬身半差をつけて優勝し、4度目の同競走挑戦でようやく悲願の勝利を手中にした(3着にアニリンが入り、リユウフオーレルは8着最下位だった)。

勝ちタイム2分23秒8は、3年前の同競走でティーヴィーラークが樹立したコースレコードを2秒4も更新したばかりか、芝12ハロンの世界レコードでもあった(僅か12日のうちに芝とダート両方で世界レコードを樹立した事になる。ただし1929年に英国ニューマーケット競馬場の芝12ハロンでザバスタードという馬が2分23秒0を計時しているとして、世界レコードではなく全米レコードに留まるとする資料もある)。英国スポーティングライフ誌のトム・ニコールズ記者をして「ケルソは間違いなく現在世界で一番強い馬です。それは私がかつて見た中で最も素晴らしいレースでした」と絶賛せしめ、この日にローレル競馬場に来場していたアーキャロ元騎手をして「私は彼のような馬を見たことがありません。私が乗っているときから彼は偉大だと思っていましたが、今日、彼は最も偉大でした」と驚嘆せしめ、本馬は芝では勝てないと主張していた米国の競馬記者達を沈黙させたこのレースは、本馬の生涯最高のレースだったと言われている。

7歳時は11戦5勝の成績で、ガンボウや、ケンタッキーダービー・プリークネスSの優勝馬ノーザンダンサーを抑えて、5年連続の米年度代表馬と4年連続の米最優秀ハンデ牡馬騙馬を獲得した(なお、米最優秀芝馬は受賞していない。この年に他に米最優秀芝馬を受賞した馬は見当たらないため、該当馬無しか、この年はタイトル自体が無かったかのいずれかである)。

競走生活(8・9歳時)

多くのファン達はワシントンDC国際S制覇を花道に引退すると思っていたらしいが、予想に反して8歳になっても現役を続行。6月にモンマスパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動したが、半馬身差の3着に敗れた。しかし続くダイアモンドステートH(D8.5F)では130ポンドを背負いながらも、2着キルモレイに3馬身1/4差で快勝。ブルックリンH(D10F)では132ポンドを課されてしまい、ピアスター、ローマンブラザーの2頭に後れを取って、ピアスターの4馬身差3着に敗れた。

しかし130ポンドで出走したホイットニーS(D9F)では、2着マリシアスに鼻差で勝利した(ピアスターが3着だった)。しかしやはり130ポンドを課されたアケダクトS(D9F)では、勝ったマリシアスから9馬身差の4着に敗れてしまい、3連覇は成らなかった(ローマンブラザーが3着だった)。次走のスタイミーH(D10F)では、本馬にしては軽い128ポンドの斤量だったこともあり、2位入線のオハラ(進路妨害により3着に降着)に8馬身3/4差をつけて圧勝した。しかしこのレース中に飛んできた土片が目に当たって負傷してしまい、この年はこれが最後のレースになった。8歳時は6戦3勝の成績で、米年度代表馬と米最優秀ハンデ牡馬騙馬の座はいずれも、本馬が不参戦だったウッドワードS・ジョッキークラブ金杯を制したローマンブラザーに奪われてしまった(米年度代表馬は2歳牝馬モカシンも受賞)。

9歳になっても現役を続けたが、3月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で4馬身半差の4着に敗れた後に、右前脚の種子骨骨折が判明。同月中旬に現役引退が発表された。

本馬の引退の報に接した米ブラッドホース誌は「ケルソは卓越した耐久力を示しました。同時代にあれほど優れた馬はいませんでした。彼の偉大さは円熟の域に達していました」と送別の言葉を掲載している。

1960年から1964年までの米年度代表馬5年連続受賞は不滅の金字塔として今も語り継がれる。今後、米国三冠馬は登場するかもしれない(追記:本項を書いた後の2015年にアメリカンファラオが米国三冠を達成した)が、5年連続で米年度代表馬に選ばれる馬が登場するとは到底思われない。獲得賞金総額は197万7896ドルで、1979年にアファームドによって更新されるまで14年間世界記録だった。

本馬が現役時代に負かした著名馬は、キャリーバック、ガンボウ、ティーヴィーラーク、オンアンドオン、ボールドイーグル、トンピオン、ネヴァーベンド、ボーパープル、クアドラングル、ローマンブラザー、クリムゾンサタン、ジャイプール、ライダン、ピアスターなど(一応ネイティヴダイヴァーにも先着している)がおり、対戦経験がある当時の米国競馬のトップホースはことごとく打ち負かしている。

去勢されても気性の悪さは直らなかったとされた本馬だが、ハンフォード師によると「非常に意志が強い馬」だったらしく、気性の強さが競走能力の向上に貢献していた面もあったようである。また、頑丈なだけでなく非常にバランスが取れた軽快な走り方だった。しかも器用であり、自分の脚を互いに触れさせることなく同じ場所で身体の向きを変える事が出来たという。好物はチョコレートサンデーであり、勝ち負けに関わらずレース後にはデュポン夫人からそれを与えられるのが常だったという(勝ったときは祝福用、負けたときは気分を宥めるためだったとか。虫歯になったりはしなかったのだろうか)。

血統

Your Host Alibhai Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Teresina Tracery Rock Sand
Topiary
Blue Tit Wildfowler
Petit Bleu
Boudoir Mahmoud Blenheim Blandford
Malva
Mah Mahal Gainsborough
Mumtaz Mahal
Kampala Clarissimus Radium
Quintessence
La Soupe Prince Palatine
Hermosita
Maid of Flight Count Fleet Reigh Count Sunreigh Sundridge
Sweet Briar
Contessina Count Schomberg
Pitti
Quickly Haste Maintenant
Miss Malaprop
Stephanie Stefan the Great
Malachite
Maidoduntreath Man o'War Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token
Mid Victorian Victorian Whisk Broom
Prudery
Black Betty Black Toney
Macaroon

ユアホストは当馬の項を参照。

母メイドオブフライトは現役成績19戦3勝。メイドオブフライトの半姉にはミセスファディー(父シャルドン)【ハリウッドオークス】がいる。メイドオブフライトの子には本馬以外に特筆できる競走成績を残した馬はいないが、本馬のファンクラブの発起人である少年の名を貰った本馬の半妹ヘザーノーブル(父キングオブザテューダーズ)の娘クレージーキルツが繁殖牝馬として日本に輸入され、種牡馬セクレファスター、アップセッター【ニュージーランドトロフィー四歳S・新潟記念】、ミスタールマン【目黒記念(GⅡ)】などを産んでいる他、本馬の半妹メイドオブファッション(父モンゴ)の息子にキングズファッション【フォールハイウェイトH(米GⅡ)】がいる。メイドオブフライトの祖母メイドヴィクトリアンの全妹メアリーヴィクトリアの牝系子孫には日本で走った快速エイシンバーリン【クイーンC(GⅢ)・アーリントンC(GⅢ)・京都牝馬特別(GⅢ)・シルクロードS(GⅢ)】がいる。→牝系:F20号族①

母父カウントフリートは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、デュポン夫人が所有するウッドストックファームで第2の馬生を送った。騙馬であるために種牡馬入りは出来ず、代わりに狐狩り用の狩猟馬と馬術競技用障害競走馬の道に進んだ。馬術競技用障害競走馬としては米国各地の競馬場に姿を現してショーに出演し、どこに行ってもファンから熱烈な歓迎を受けた。また、デュポン夫人が個人的に乗馬を楽しむ際の愛馬としても働いていたようである。気性が悪いとされる本馬だが、デュポン夫人が騎乗する際はこの上なく温和だったという。それでも現役時代の闘争心は衰えておらず、大きな柵でも平気で飛び越えたという。現役中から常に厩務員のローレンス・フィッツパトリック氏、調教助手ディック・ジェンキンス氏、そして愛犬のチャーリーポテイトウズを同伴していた本馬だったが、それは引退後も変わらず、いつも仲間に囲まれて賑やかな生活を送っていた。また、現役時代からファンが多かった本馬の下には大量の手紙が届いたため、専用の郵便受けを所有していた。ウッドストックファームには本馬を一目見ようとするファンが大勢訪れた。

引退の翌年1967年に米国競馬の殿堂入りを果たした。1974年、17歳時まで現役の狩猟馬や馬術競技用障害競走馬として活躍していたが、関節炎を患ったためにその後は人を乗せることは無く、静かに余生を送った。

1983年10月15日、かつて本馬が5連覇したジョッキークラブ金杯の当日に、引退競走馬財団の資金調達行事の一環として、同じく騙馬の名馬である13歳年下のフォアゴーと共に特別招待を受けてベルモントパーク競馬場に来場した。そしてジョッキークラブ金杯のレース前に米国最強騙馬軍団による行進(資料によっては、ジョッキークラブ金杯に出走するために来ていたジョンヘンリーもこれに参加したと記載されている)を行って、3万2493人の観衆から拍手喝采で迎えられた(それにしても本馬とフォアゴー、そしてジョンヘンリーの揃い踏みとは何とも凄い。競馬ファンなら感涙ものの光景だっただろう)。当時26歳の本馬だったが、フォアゴーと同じくらい良く見えたという。

その翌日、ウッドストックファームに戻った直後に本馬は疝痛で他界した。老年の本馬にとってはメリーランド州からニューヨーク州までの片道300km程度の旅行でも命に関わるほどの負担だったのだろうか。遺体はウッドストックファームに埋葬された。死後も数年間はウッドストックファームにファンレターが送られてきたという。墓碑には「彼が走るところでは、大地が歌います」と刻まれた。

競走馬としての評価

米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第4位。しかし筆者の個人的意見では、20世紀米国名馬100選において本馬より上位にランクされたマンノウォー、セクレタリアト、サイテーションよりも本馬の実力のほうが上であり、本馬こそが米国競馬史上最強馬であると思っている。何故なら、筆者は斤量が軽い段階の3歳時までしか実績が無い馬を最強と呼ぶのには抵抗があり、一番重い斤量を背負いながら他馬を薙ぎ倒した馬のほうが最強と呼ぶのに相応しいと考えているためである。本馬を将棋の棋士に例えると、自分が駒を落としながら数々の実力者達をなぎ倒して長年に渡り頂点に君臨し続けたばかりか、本職とは異なるチェス(芝競走)のタイトル戦にも4回連続で挑戦して4度目でタイトルを獲得したようなものである。これを最強と言わずして誰を最強と呼べばよいのだろうか。もちろん最強馬の定義は人それぞれなので、他者が違う意見でも別に構わない。

基本的にはスタミナ豊富な長距離馬であったと思われるが、マイル戦のメトロポリタンHを勝てるだけのスピードも有しており、脚質自在、芝ダート不問で重馬場も苦にしなかった万能馬である。もっとも、本馬の偉大さは別に筆者のごとき極東の無名な凡人が語らずとも、様々な人物が既に語ってくれている。

本馬の現役生活前半に主戦を務めた名手アーキャロ騎手は、サイテーションこそが自身が乗った最強馬であると語っていた。後の1997年にアーキャロ騎手はテキサス州ローンスターパーク競馬場に招かれて、ピムリコ競馬場の元副代表兼ゼネラルマネジャーのチック・ラング氏と夕食を共にしていた。ラング氏がアーキャロ騎手に「あなたは自分が乗った最良の馬はサイテーションであるといつも言ってきましたね」と語りかけると、アーキャロ騎手は「ラングさん、私は誰にも言った事が無いことを今からあなたに伝えます。ジミー・ジョーンズ(サイテーションの調教師)より自分が長生きしない限りは公に言うつもりはありませんが、私は自分が乗った最も偉大な馬は間違いなくケルソだったと思います。彼は何でも出来ました。短距離戦でも2マイルの長距離戦でも勝てました。遅いペースでも速いペースでも勝てました。内側を突いても外側を通っても勝てました」と語った。アーキャロ騎手はその考えを公にする事なくそれから間もなく死去した。しかしアーキャロ騎手の言葉を覚えていたラング氏は、2001年にジョーンズ師が死去した後の2003年にエクリプス社から出版された伝説の競走馬シリーズのケルソ列伝において、その発言を公開している。

デュポン夫人は本馬について「彼は勝とうとする意思を生まれつき有しており、しかもそれを一瞬たりとも手放そうとしませんでした。私達が彼のために行った事は、彼が私達のために行った事と比べれば無に等しいものです。彼の物語には始まりはありますが、終わりはありません。馬や馬を愛する人々が存在する限り、彼の名前は新鮮なままです」と語っている。

2006年に米国競馬の殿堂入りを果たしたハンフォード師は表彰式において「私は1頭の馬のおかげだけで今日この場所にいます。同じく殿堂入りした他の名調教師達と比べれば私は劣りますが、彼等と違って私にはケルソという馬がいました」と語った。

関わった人々からこのように様々な賛辞を受けている本馬だが、本馬に対する賛辞は、米国の著名な競馬作家ジョー・ハーシュ氏が書いた次の簡潔な文に集約されるという。「昔むかし、ケルソという名前の馬がいました。彼に匹敵する馬を見ることは2度とないでしょう」―と。

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