和名:スリップアンカー |
英名:Slip Anchor |
1982年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:シャーリーハイツ |
母:サヨナラ |
母父:ビルクハーン |
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英ダービーを逃げて7馬身差で圧勝し、名手スティーブ・コーゼン騎手をして自身が騎乗した米国三冠馬アファームドより上と言わしめる |
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競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績9戦4勝2着3回3着1回 |
誕生からデビュー前まで
第9代ハワード・デ・ウォルデン男爵ジョン・スコット・エリス卿により、彼が所有する英国ニューマーケットのプランテーションスタッドにおいて生産・所有された。彼は第二次世界大戦後に馬産を開始し、本馬と同い年の名牝オーソーシャープの父である名種牡馬クリスを生産・所有するなど、馬産家として既に一定の成功を収めていた。
クリスやオーソーシャープと同じく英国ヘンリー・セシル調教師に預けられた本馬だったが、背が高くて脚はひょろ長く、あまり逞しい馬体ではなかった。また、気性も難しかったという。さらには調教が終わる頃になると、酔っ払いのようによろめく癖があり、陣営はその原因を酸欠に求めていた。そのため、本馬が調教を受ける際には酸素ボンベが用意されていたという。こんな状況の本馬に期待する者は少なかったようである。
競走生活(3歳初期まで)
2歳10月にニューマーケット競馬場で行われたチェスタートンS(T8F)で、レスター・ピゴット騎手を鞍上にデビュー。しかし結果は勝ったオーバージオーシャンから8馬身1/4差の4着に終わった。本馬の素質をそれなりに評価していたセシル師も、このレース後にピゴット騎手から「あまり良い馬ではありません」と言われてしまっては、評価を下げざるを得なかったようである(英ダービー翌日のスケネクタディー紙より)。
同月にノッティンガム競馬場で行われたワットンマナースタッドS(T8F54Y)を4馬身差で制して勝ち上がり、2歳時の成績は2戦1勝となった。目立つ成績ではなかったが、英タイムフォーム社は2歳時の本馬を「必ずやもっと良い馬になるでしょう」と、将来性に期待している。
3歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたジェリーフェイルデンS(T9F)から始動。鞍上にはパット・エデリー騎手を迎えたが、レザークの1馬身3/4差3着に敗れた。
2週間後に同じニューマーケット競馬場で出走したリステッド競走ヒーソーンS(T10F)では、米国の名手だったスティーブ・コーゼン騎手を鞍上に迎えた。コーゼン騎手はデビュー2年目だった1977年に17歳の若さで史上初のシーズン600万ドル獲得騎手となり、翌1978年にはアファームドで米国三冠競走を全勝した天才騎手だった。しかし育ち盛りの時期だった故に減量苦に悩まされて、アファームドの主戦を降ろされるなど米国では騎乗機会が減少し、比較的重い体重でも騎乗できる英国に拠点を移していた。英国に来て早々の1979年にはタップオンウッドで英2000ギニーを制覇。そしてこの前年の1984年には英平地首位騎手を獲得し、英国における名声も不動のものとしていた。コーゼン騎手は本馬のレース内容を見聞きして、この馬は抑えると機嫌を損なってしまうので、気分良く逃げさせれば実力を発揮できると判断したそうである。そしてヒーソーンSにおいて、コーゼン騎手の手綱捌きで逃げを打った本馬は、2着フライングソーサーに4馬身差をつけて完勝。これによりコーゼン騎手が本馬の主戦として固定されることになった。
ヒーソーンSから僅か9日後には、リングフィールドダービートライアルS(GⅢ・T12F)に出走した。本馬は単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持されたが、セシル師はこの段階でもまだ本馬の素質をそれほど評価していなかった。彼が本馬をリングフィールドダービートライアルSに出走させたのは、英ダービーを目指していたというよりも、単にグループ競走を勝つ良い機会だと考えたからに過ぎないそうである。しかし蓋を開けてみれば、スタートから完璧な逃げ切り劇を披露した本馬が、2着ロードグランディに10馬身差をつけて圧勝してしまった。この圧勝劇により本馬は一躍、英ダービーの有力候補に祭り上げられることになった。コーゼン騎手も陣営に対して「この馬は英ダービーを勝つでしょう」と参戦を勧めた。最初はその気がなかったセシル師も、本馬を英ダービーに向かわせる気になった。
英ダービー
そして迎えた英ダービー(GⅠ・T12F)では、英2000ギニー・クレイヴンSなど3連勝中のシャディード、愛ナショナルS・アングルシーS・チェスターヴァーズの勝ち馬でデューハーストS2着のロウソサイエティ、英2000ギニー3着馬シュプリームリーダー、デリンスタウンスタッドダービートライアルSなど3戦無敗のシアトリカル、ウィリアムヒルフューチュリティSの勝ち馬ランフランコ、サンダウンクラシックトライアルS・ダンテSの勝ち馬でウィリアムヒルフューチュリティS2着のダミスター、サンダウンクラシックトライアルS・チェスターヴァーズで共に2着だったヴィンテージSの勝ち馬ペトスキ、ロイヤルロッジSを勝ちダンテSで3着していたクリス産駒のリーチ、ジャンドショードネイ賞の勝ち馬スーラ、後の英セントレジャー2着馬ファルダンテなどを抑えて、単勝オッズ3.25倍の1番人気に支持された。エプソム競馬場には、英国エリザベスⅡ世女王陛下を含む25万人の大観衆が詰めかけた。
スタートが切られると、コーゼン騎手は本馬を果敢に先頭に立たせた。先行馬が有利な米国の競馬場で活躍し、逃げ馬のアファームドで米国三冠を達成したコーゼン騎手だけに当然逃げ戦法は得意だったが、起伏が激しくて直線も非常に長いエプソム競馬場で逃げを打つのはそれなりに勇気が要ることだったと思われる。しかしコーゼン騎手は本馬の実力に確信を持っていたのか、最初の上り坂まではスローペースに落として逃げたが、タッテナムコーナーに向かう下り坂で加速して後続を引き離し、タッテナムコーナー途中でさらに加速して差を広げ、後続に10~15馬身はあろうかという大差をつけて直線に入ってきた。後方からロウソサイエティなどが必死に追ってきたため、少し差が縮まったが、本馬に追いつくことは不可能だった。直線半ばで後方を振り向いたコーゼン騎手は勝利を確信したはずだが、それでも最後まで気を緩めることは無く、ゴール寸前まで追い続けてゴールイン。2着ロウソサイエティに7馬身差、3着ダミスターにはさらに6馬身差をつけて圧勝した。
この勝利は、1971年に勝った祖父ミルリーフ、1978年に勝った父シャーリーハイツに続く親子3代英ダービー制覇となった(ちなみに史上初ではない。過去には「1793年のワクシー、1810年のホエールボーン、1826年のラップドッグ及び1831年のスパニエル」、「1836年のベイミドルトン、1849年のザフライングダッチマン、1856年のエリントン」、「1873年のドンカスター、1880年のベンドア、1886年のオーモンド」、「1918年のゲインズボロー、1933年のハイペリオン、1941年のオーエンテューダー」の例がある)。
英ダービーをスタートからゴールまで完璧に逃げ切って勝ったのは1926年のコロナック以来59年ぶりの快挙でもあった。また、英国を代表する名伯楽セシル師にとっては初の英ダービー制覇となった。史上初めてケンタッキーダービーと英ダービーの両競走を制覇したコーゼン騎手は、この4日後の英オークスもオーソーシャープに騎乗して勝利し、英ダービー・オークスの同一年ダブル制覇も達成している。レース後にコーゼン騎手は、本馬を「他馬がこの馬を攻撃する機会を得る前に、この馬は他馬を全滅させることが出来ます。その点で接戦に強いアファームドとは違うタイプの馬ですが、その競走能力はアファームドよりも上であり、私がかつて乗った最高の馬です」と絶賛した。
競走生活(3歳後半以降)
その後は愛ダービーではなくキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを目指すが、調教中に左前脚を故障したために回避となった。本馬不在の愛ダービーは、ロウソサイエティが英ダービー7着のシアトリカルを2着に抑えて勝利した。同じく本馬不在のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSは、英ダービーで11着に惨敗したペトスキが、コーゼン騎手騎乗のオーソーシャープを2着に抑えて勝っている。
秋はセプテンバーS(GⅢ・T11F30Y)から始動した。単勝オッズ1.5倍という断然の1番人気に支持されたのだが、ゴール前で失速して、ジェフリーフリアSを勝ってきた単勝オッズ5倍の4歳牡馬シェルナザール(シャーガーの半弟)に差されて半馬身差2着に敗退した。
次走の英チャンピオンS(GⅠ・T10F)では、英1000ギニー・エクリプスS・トラストハウスフォルテマイル・ネルグウィンSの勝ち馬でチェヴァリーパークS・コロネーションS・英チャンピオンS・プリンスオブウェールズS2着のペブルス、英セントレジャー・ベンソン&ヘッジズ金杯・愛チャンピオンS・ゴードンS・ブリガディアジェラードSの勝ち馬コマンチラン、前年の英チャンピオンSの他にダフニ賞・ラクープドメゾンラフィットを勝ちジャックルマロワ賞で2着していたパレスミュージック、愛オークス・カルヴァドス賞の勝ち馬でヨークシャーオークス3着のヘレンストリートなどが対戦相手となった。ペブルスの主戦もコーゼン騎手だったが、彼は本馬を選択した。スタートが切られるとやはり本馬が即座に先頭に立ち、そのまま馬群を牽引し続けた。しかし残り1ハロン半地点で後方から来たペブルスに並びかけられると、次の瞬間には置き去りにされてしまった。本馬は3着パレスミュージックを何とか頭差で抑え込むのが精一杯で、勝ったペブルスから3馬身差をつけられて2着に敗れた。3歳時の成績は6戦3勝だったが、英ダービーの勝ち方が評価されて、英タイムフォーム社のレーティング、国際クラシフィケーション共に全世代を通じてこの年単独トップの評価を得た(前者は136ポンド、後者は135ポンド)。
翌4歳時も現役を続行した。しかし元々気性に難があった本馬は、年を経るにつれてますます気難しくなっていた。そのためにセシル師は本馬と他馬を別々に調教せざるを得なくなっていた。復帰戦となった5月のジョッキークラブS(GⅡ・T12F)では3頭立てながら、英ダービーで着外に沈めた英セントレジャー2着馬ファルダンテの首差2着に敗退。セシル師は「この馬には前年の輝きはもう無い」として、目標としていたキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSには出走させず、翌6月に本馬の競走馬引退を発表した。
血統
Shirley Heights | Mill Reef | Never Bend | Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | ||||
Lalun | Djeddah | |||
Be Faithful | ||||
Milan Mill | Princequillo | Prince Rose | ||
Cosquilla | ||||
Virginia Water | Count Fleet | |||
Red Ray | ||||
Hardiemma | ハーディカヌート | ハードリドン | Hard Sauce | |
Toute Belle | ||||
Harvest Maid | Umidwar | |||
Hay Fell | ||||
Grand Cross | Grandmaster | Atout Maitre | ||
Honorarium | ||||
Blue Cross | Blue Peter | |||
King's Cross | ||||
Sayonara | Birkhahn | Alchimist | Herold | Dark Ronald |
Hornisse | ||||
Aversion | Nuage | |||
Antwort | ||||
Bramouse | Cappiello | Apelle | ||
Kopje | ||||
Peregrine | Phalaris | |||
Clotho | ||||
Suleika | Ticino | Athanasius | Ferro | |
Athanasie | ||||
Terra | Aditi | |||
Teufelsrose AUT | ||||
Schwarzblaurot | Magnat | Asterus | ||
Mafalda | ||||
Schwarzgold | Alchimist | |||
Schwarzliesel |
父シャーリーハイツは当馬の項を参照。
母サヨナラは独国産馬で、競走馬としても独国で走り12戦5勝の成績を残した。カールフォンヴァインベルクポカル・アドルフシンドリングレネン・ネレイデレネン・ゴッタルドレネンといったリステッド競走級のレース(「級」としたのはその当時はグループ制度導入前だったため)に勝ち、独オークスで2着している。繁殖牝馬としてもなかなか優秀で、本馬の半兄スワジ(父ヘレト)【独2000ギニー(独GⅡ)】、半姉サンディアイランド(父ミルリーフ)【ランカシャーオークス(英GⅢ)】なども産んでいる。本馬の半姉セットセイル(父アルペンケーニッヒ)の孫にアップセティム【オークランドC(新GⅠ)】が、サンディアイランドの子にサンドメイスン【ハードウィックS(英GⅡ)】、孫にシンティレーション【香港クラシックマイル・センテナリースプリントC2回】がいる。
サヨナラは独国の名門牝系の出身で、この牝系は馬名の頭文字がSの馬が多いことから、通称Sラインと呼ばれる。Sラインから登場した活躍馬は当然独国が中心であるが、本馬も含めて例外が多数おり、世界的名牝系と言えるほどの繁栄を見せている。サヨナラの半姉サベラ(父ファストフォックス)【独オークス】の子にサルト【ゲルゼンキルヒェン市大賞(独GⅢ)・ドルトムント大賞(独GⅢ)・コンセントラポカル(独GⅢ)】、セバスチァーノ【ゲルリング賞(独GⅢ)】、スタイヴァザント【独ダービー(独GⅠ)・ミラノ大賞(伊GⅠ)・独セントレジャー(独GⅡ)・ハンザ賞(独GⅡ)】が、サヨナラの半姉セニッツァ(父バルドカンタール)の牝系子孫にサロミナ【独オークス(独GⅠ)】が、サヨナラの半妹サキシフラガ(父アリジエ)の子にスレンダーハーゲン【エッティンゲンレネン(独GⅢ)】、スレンデレラ【独1000ギニー(独GⅡ)】、孫にソトグランデ【独2000ギニー(独GⅡ)】、ソロン【オイロパ賞(独GⅠ)】が、サヨナラの半妹セフカ(父マセット)の孫にロックビュー【ジェフリーフリアS(英GⅡ)】がいるが、何と言っても特筆すべきはサヨナラの末の半妹サンタルチアナ(父ルチアノ)であろう。サンタルチアナの娘であるアグサンとサトルチェンジは共に繁殖牝馬として日本に輸入され、前者はビワハイジ【阪神三歳牝馬S(GⅠ)・札幌三歳S(GⅢ)・京都牝馬特別(GⅢ)】を産み、後者はエアスマップ【オールカマー(GⅡ)】とマンハッタンカフェ【菊花賞(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)・天皇賞春(GⅠ)】を産んだ。ビワハイジは繁殖牝馬として大成功し、アドマイヤジャパン【京成杯(GⅢ)】、アドマイヤオーラ【弥生賞(GⅡ)・京都記念(GⅡ)・シンザン記念(GⅢ)】、ブエナビスタ【阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)・桜花賞(GⅠ)・優駿牝馬(GⅠ)・ヴィクトリアマイル(GⅠ)・天皇賞秋(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)・京都記念(GⅡ)・チューリップ賞(GⅢ)】、トーセンレーヴ【エプソムC(GⅢ)】、ジョワドヴィーヴル【阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)】、サングレアル【フローラS(GⅡ)】を産んだ。サトルチェンジの孫にはジャングルスマイル【オグリキャップ記念・百万石賞4回・イヌワシ賞・北國王冠】、アプリコットフィズ【クイーンC(GⅢ)・クイーンS(GⅢ)】、クレスコグランド【京都新聞杯(GⅡ)】、ダービーフィズ【函館記念(GⅢ)】が出ている他に、マンハッタンカフェが全日本首位種牡馬に輝く成功を収めているなど、日本における影響力は大きい。
サヨナラの母ズライカは6戦1勝の平凡な競走馬だったが、その母シュヴァルツブラウロートは6戦4勝で、その母シュワルツゴールドは独ダービー・独オークス・ベルリン大賞・独1000ギニーを勝った名牝。シュヴァルツブラウロートも後世に大きな影響力を残した繁殖牝馬となり、ズライカの全姉シェヘラザードの子にシェンブリュン【独オークス・独1000ギニー・ドーヴィル大賞】、曾孫にサガス【凱旋門賞(仏GⅠ)・ガネー賞(仏GⅠ)・イスパーン賞(仏GⅠ)】、スターリフト【ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)】、ステインレン【BCマイル(米GⅠ)・アーリントンミリオンS(米GⅠ)・バーナードバルークH(米GⅠ)】、玄孫世代以降にザグレブ【愛ダービー(愛GⅠ)】、スタセリタ【サンタラリ賞(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)・ジャンロマネ賞(仏GⅠ)・ビヴァリーDS(米GⅠ)・フラワーボウル招待S(米GⅠ)】が、ズライカの全妹サブリナの牝系子孫にサナガス【ハリウッドターフCS(米GⅠ)】、シリウス【ベルリン大賞(独GⅠ)】がいる。→牝系:F16号族①
母父ビルクハーンは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のプランテーションスタッドで種牡馬入りした。2年目産駒からカルティエ賞年度代表馬に選ばれた名牝ユーザーフレンドリーを出したが、その後はやや伸び悩み、父子4代の英ダービー馬を出す事は出来なかった。晩年は関節炎を患っていたが、毎日のように欠かさず運動を行い、長寿を保った。しかし2011年の夏場に急激に老いによる衰えが見られるようになったため、同年9月に29歳で安楽死の措置が執られた。遺体は火葬され、遺骨はプランテーションスタッド内にあるクリス(2004年に他界)の墓の隣に埋葬された。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1988 |
Third Watch |
リブルスデールS(英GⅡ) |
1989 |
Up Anchor |
セントサイモンS(英GⅢ) |
1989 |
英オークス(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)・ヨークシャーオークス(英GⅠ)・英セントレジャー(英GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ) |
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1990 |
Safety in Numbers |
サガロS(英GⅢ)・グラディアトゥール賞(仏GⅢ) |
1991 |
Khamaseen |
ミラノ金杯(伊GⅢ) |
1992 |
Posidonas |
イタリア大賞(伊GⅠ)・プリンセスオブウェールズS(英GⅡ)・ハードウィックS(英GⅡ)・ジョンポーターS(英GⅢ) |
1992 |
Slicious |
ローマ賞(伊GⅠ)・フェデリコテシオ賞(伊GⅢ) |
1994 |
Stowaway |
グレートヴォルティジュールS(英GⅡ)・ゴードンS(英GⅢ)・ドバイシーマクラシック |
1994 |
Kaliana |
セントサイモンS(英GⅢ) |
1994 |
Three Cheers |
リューテス賞(仏GⅢ) |
1997 |
Give the Slip |
エボアH |
1998 |
Morshdi |
伊ダービー(伊GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ) |
2003 |
Shipmaster |
サガロS(英GⅢ) |