インプ

和名:インプ

英名:Imp

1894年生

青毛

父:ワグナー

母:フォンドリング

母父:フォンソ

3歳時になんと50戦もするなど競走馬時代6年間で171戦62勝の成績を残した19世紀末米国の頑健な女傑

競走成績:2~7歳時に米で走り通算成績171戦62勝2着35回3着29回

誕生からデビュー前まで

米国オハイオ州チリコシー市において、ダニエル・R・ハーネス氏により生産・所有され、チャールズ・E・ブロスマン調教師に預けられた。馬体は漆黒の青毛で覆われ、額には星型の流星があった。

競走生活(2~4歳時)

2歳時は地元オハイオ州と南隣のケンタッキー州で主に走った。この年の成績は11戦3勝2着4回3着2回で、勝率は約27%、入着率は約82%であり、悪くは無いが飛び抜けて目立つほどのものではなかった。ステークス競走の勝ちは無く、オハイオ州オークリー競馬場で出走したサファイアS(D4F)で同年の米最優秀2歳牝馬と翌年の米最優秀3歳牝馬に選ばれるクレオファスの3着した程度だった。

ところが翌3歳時は実に50回もレースに出走。これは当時としても異例と言えるほどの出走回数であり、さすがに競馬界の話題になった。50戦の内訳は1着が14回、2着が10回、3着が9回、着外が17回だった。勝率は前年とあまり変わらない28%、入着率は前年より低い66%だったが、出走回数の違いを考慮に入れると、前年より格段に強くなっていた。出走したのは主に地元オハイオ州だったようで、名のあるレースに出走した記録はあまり無いが、イリノイ州シカゴにあるハーレム競馬場でスピードS(D6F)に出走した記録があり、ここでは牝馬メイダブルの3着(正確には3位入線馬の降着による繰り上がり)だった。こうして数多くのレースに出走して活躍した本馬はオハイオ州の人気馬となり、その漆黒の青毛の馬体から、当時の流行歌にちなんで“My Coal Black Lady(マイコールブラックレディ)”という愛称が付けられた。

4歳時は地元で4戦連続勝利を収めた後に、ニューヨーク州に遠征。そしてシープスヘッドベイ競馬場でサバーバンH(D10F)に挑戦したが、ティロ、同世代の米最優秀2歳牡馬オグデンといった牡馬勢に屈して、ティロの着外に敗れている。また、この年は前年に引き続きシカゴにも遠征しており、11戦10勝という優秀な成績を収めた。ここで出走したメモリアルデイH(D8.5F)では、地元シカゴの快速馬として鳴らしていたドクターシェパードや、グレートウェスタンC・ミシシッピHの勝ち馬グッドリッチを10馬身ちぎって圧勝した。また、モナドノックS(D9F)では、唯一の対戦相手だった牡馬ヒューペニーを一蹴して勝っている。オースティンS(D7F)では、ヒューペニーに加えてファウンドという牝馬も挑んできたが、やはり本馬が勝利を収めている。さらに前年は敗れたスピードS(D6F)にも出走して、カリフォルニアダービー馬トラヴァーサーを破って勝利している。さらにダッシュS(D7F)では、前年のスピードSで本馬を破ったメイダブルを2着に破って勝利している。シカゴにおけるこの年唯一の黒星は、オークウッドH(D9F)でフィーヴァーの3着に敗れたのみだった。4歳時は前年より出走回数が減って35回だったものの、勝ち星は前年を上回る21勝で、2着が6回、3着が3回で、勝率は60%、入着率は約86%にも達した。

競走生活(5歳時)

5歳時は主にニューヨーク州でレースに出走した。そして前年に敗れたサバーバンH(D10F)に挑戦すると、シェリダンSの勝ち馬バノックバーンやアメリカンダービー2着馬ワレントンといった有力牡馬勢を撃破して勝利。1884年の同競走創設から16年目にして初の牝馬制覇を成し遂げ、優勝賞金1万ドルを手にした。

また、ブライトンビーチ競馬場で出走したブライトンH(D10F)では、ローレンスリアライゼーションS・スプリングS・ポカンティコH・ブロードウェイS・スピンドリフトS・ペコニックS・シーゲートS・ディキシアーナSなどを勝ってこの年の米最優秀3歳牡馬に選ばれることになるエセルバートに9ポンドのハンデを与えながら2着に破り、2分05秒4のコースレコードを計時して勝っている。

同じくブライトンビーチ競馬場で出走したイスリップH(D8F)では、ジュヴェナイルS・スプリングS・マンハッタンH・テストS・フライトHなどの勝ち馬ファイアアームとの接戦を頭差で制して勝利した。また、オーシャンH(D8F)では123ポンドを課せられながらも、14ポンドのハンデを与えた5歳牡馬チャレントゥスを2着に、11ポンドのハンデを与えたプレミアS・セプテンバーS勝ちの3歳牡馬バッテンを3着に破って勝利した。

グレーヴセンド競馬場で出走したオリエンタルH(D10F)でもチャレントゥスを2着に破って勝っている。シープスヘッドベイ競馬場で出走したターフH(T10F)では芝をこなして勝っている。同じくシープスヘッドベイ競馬場で出走したコニーアイランドH(D6F)では、フライングHなどを勝って当時有数の短距離の強豪として知られていた4歳牡馬ベンドランの2着だった。これもシープスヘッドベイ競馬場で出走したクレアモントH(D6.5F)では、キンニキンニックの3着だった。これもシープスヘッドベイ競馬場で出走したフォールH(D6F)では、前年のベルモントSで2着していたグレートアメリカンS・ユースフルS・フラットブッシュSの勝ち馬プレビュース、バッテンの2頭に屈して、プレビュースの3着に敗れた。アケダクト競馬場で出走したロングアイランドH(D9F)では、4歳牡馬バングルの3着だった。ジャマイカ競馬場で出走したニューロシェルH(D7F)では、プレビュースの2着に敗れている。5歳時の成績は31戦13勝2着3回3着5回で、勝率は約42%、入着率は約68%だった。

本馬がニューヨーク州から地元チリコシー市に帰ってくると、サバーバンH勝利の快挙を大いに喜んでいたチリコシー市民はその日を祝日として、町を挙げて本馬を迎えた。そして本馬の功績を讃えるパレードが行われた。この時にバンド演奏が行われたが、その曲はもちろん“My Coal Black Lady”だった。後年の話ではあるが、本馬はこの1899年の米年度代表馬及び米最優秀ハンデ牝馬に選出されている。この年度代表馬選出は後付けであるから、厳密には少し違うのだが、牝馬が米年度代表馬に選ばれたのはこれが史上初の快挙だった。

競走生活(6・7歳時)

6歳時も現役を続行。牝馬初勝利を狙ったメトロポリタンH(D8F)では、この年における本馬の目の上の瘤となるエセルバート、カーターHの勝ち馬ボックスの2頭に屈して、エセルバートの3着に敗れた。2連覇を狙ったブライトンH(D10F)では129ポンドを課せられてしまい、いずれも20ポンドのハンデを与えたジャックポイントとザケンタッキアンの2頭の4歳牡馬に敗れて3着だった。また、これも2連覇を狙ったイスリップH(D8F)では、エセルバートの3着に敗れた。同じくブライトンビーチ競馬場で出走したブライトンC(D18F)では、コースレコードで走破したエセルバートの3/4馬身差2着だったが、3着だったこの年のアメリカンダービーの勝ち馬シドニールーカスには先着した。モリスパーク競馬場で出走したミュニシパルH(D14F)でも、コースレコードで走破したエセルバートの頭差2着に敗れた。グレーヴセンド競馬場で出走したパークウェイH(D8.5F)では、この年のサバーバンHとブルックリンHを勝ってこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる4歳牡馬キンレイマックを2着に、チャレントゥスを4着に破って勝利した。

シープスヘッドベイ競馬場で出走したアドヴァンスS(D14F)では、前年のジェロームHで牡馬に混じって2着していたメイドオブハーレム(この年のミュニシパルHでは3着だった)を全く相手にせず、メイドオブハーレムを30馬身差の2着にちぎり捨てて、2分59秒2の全米レコードを計時して大圧勝した。シープスヘッドベイH(D8F)では、133ポンドを背負いながらも、42ポンドのハンデを与えた4歳牡馬グレイフィールド、12ポンドのハンデを与えたベンドランに次ぐ3着に入った。エンパイアシティ競馬場で出走したマホパックH(D8.5F)では126ポンドを課せられたが、22ポンドのハンデを与えた3歳牝馬カマラを2着に、31ポンドのハンデを与えた3歳牝馬オネッククイーン(この年のガゼルS2着馬であり決して平凡な馬ではないのだが)を3着に破って勝利した。アケダクト競馬場で出走したブルックデールH(D9F)では、前年のベルモントSを筆頭にグレートアメリカンS・ナショナルスタリオンS・トレモントS・ウィザーズSなどを勝っていたジーンベレアウドの鼻差2着に敗れたが、3着チャレントゥスには先着した。同じくアケダクト競馬場で出走したロングアイランドH(D9F)では、チャレントゥス、グレイフィールドとのゴール前の3頭大接戦に屈して、チャレントゥスの鼻差2着に敗れた。しかし勝った6歳牡馬チャレントゥスの斤量が99ポンド、本馬から鼻差の3着だった4歳牡馬グレイフィールドの斤量が100ポンドだったのに対して、6歳牝馬である本馬の斤量は130ポンドだった。本馬と他の牡馬との実力差はこのくらいのハンデ差を設定しないと埋まらないものだったわけである。ジャマイカ競馬場で出走したエンパイアシティH(D10F)では、全米レコードで走破したチャレントゥスの頭差2着に敗れたが、斤量はチャレントゥスの106ポンドに対して、本馬は124ポンドだった。

この年はメリーランド州でも走っており、ベニング競馬場で出走したファーストベニングスプリングH(D6F)では、4歳牡馬ボニーボーイ、チャレントゥスの2頭に後れを取って3着だった。しかし勝ったボニーボーイの斤量が106ポンド、チャレントゥスの斤量が110ポンドだったのに対して、本馬の斤量は132ポンドだった。次走のセカンドベニングスプリングH(D7F)では、112ポンドのチャレントゥスが勝ち、116ポンドのボニーボーイが2着で、今回も132ポンドの本馬は3着だった。6歳時も前年と同じく31戦を消化した。勝ち星は8勝と前年に比べて減り、勝率は自身最低の約26%に留まった。しかし2着が10回、3着が9回で、入着率は自身最高の約87%であり、まだまだ衰えぬ強さを発揮し続けた。後年になってこの年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれている(同年の米年度代表馬には6戦5勝の2歳馬コマンドが選ばれている)。

7歳時は管理調教師がピーター・ウィマー師に交代となり、さらに現役を続けた。しかしこの年はさすがに衰えが見え始め、13戦して3勝、2着2回、3着1回。勝率約23%、入着率約46%はいずれも自身最低の数値に留まった。それでも、アケダクト競馬場で出走したアイドルワイルドH(D8.5F)では126ポンドを背負いながらも、16ポンドのハンデを与えた6歳牡馬ポテンテの3/4馬身差2着。サラトガC(D13F)では、9ポンドのハンデを与えたこの年のトラヴァーズS・ジェロームH・デラウェアH・セプテンバーS・イスリップH・ポカンティコH・ラマポHの勝ち馬ブルースの3着に入るなど、高い競走能力は維持していた。

8歳時以降も競走馬生活を続ける予定だったのかも知れないが、本馬が8歳になった1902年に所有者のハーネス氏が死去したため、売りに出された本馬は名馬産家ジョン・E・マッデン氏に購入された。そしてマッデン氏の元で繁殖入りする事になり、8歳時はレースに出ずに競走馬を引退した。通算成績171戦62勝2着35回3着29回、勝率は約36%、入着率は約74%だった。アドヴァンスSでダート14ハロンの全米レコードを樹立した以外にも、ダート8.5ハロン、ダート10ハロン、ダート12ハロンの全米レコードも計時した事があるという。

血統

Wagner Prince Charlie Blair Athol Stockwell The Baron
Pocahontas
Blink Bonny Melbourne
Queen Mary
Eastern Princess Surplice Touchstone
Crucifix
Tomyris Sesostris
Glaucus Mare
Duchess of Malfi Elland Rataplan The Baron
Pocahontas
Ellermire Chanticleer
Ellerdale
Duchess St. Albans Stockwell
Bribery
Bay Celia Orlando
Hersey
Fondling Fonso King Alfonso Phaeton King Tom
Merry Sunshine
Capitola Vandal
Margrave Mare
Weatherwitch Weatherbit Sheet Anchor
Miss Letty
Birdcatcher Mare Birdcatcher
Colocynth
Kitty Herron Chillicothe Lexington Boston
Alice Carneal
Lilla Yorkshire
Victoire
Mollie Foster Asteroid Lexington
Nebula
Little Miss Sovereign
Little Mistress

父ワグナーは英国産馬で、競走馬としても英国で走った。しかしデビュー戦のウィルトンパークSで勝利を挙げたのみの1戦1勝で競走馬を引退。その後に米国に種牡馬として輸入されてケンタッキー州レキシントン近郊で繋養されていた。ワグナーの直系を遡ると、英2000ギニー・ミドルパークプレート・オールエイジドS3回・クイーンズスタンドプレート勝ちなど29戦25勝2着2回の名馬プリンスチャーリーを経て、名馬ブレアアソールに行きつく。

母フォンドリングは米国産馬で、競走馬としても米国で走った。しかしデビュー戦で故障したため1戦未勝利で引退している。そのため本馬の両親は合わせて2戦しかしていない。フォンドリングの祖母モーリーフォスターの半妹レッティの子には1888年のプリークネスS優勝馬リファンドがいる。→牝系:F4号族⑤

母父フォンソは1880年のケンタッキーダービー優勝馬。フォンソの父キングアルフォンソはフォックスホールの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はマッデン氏がケンタッキー州レキシントンに所有するハンブルグプレイスファームで繁殖牝馬となった。本馬は6頭の子を産み、そのうち10歳時に産んだ2番子の牡駒ファウストがサウサンプトンH・キングズカウンティHを勝っているが、ステークスウイナーはこの1頭のみと、繁殖牝馬としては今ひとつだった。牝系子孫も発展しておらず、本馬の血を引く馬は現存しないようである。1909年に15歳で他界し、ハンブルグプレイスファームの墓地に埋葬された。

1955年に米国調教師協会がデラウェアパーク競馬場において実施した、米国競馬史上最も偉大な牝馬はどの馬かを決める調教師間の投票においては第10位だったが、本馬より上位の9頭のうち5位のミスウッドフォードを除く8頭が20世紀に誕生した馬であり、19世紀誕生の牝馬としては本馬が第2位となっている。1965年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

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