ドンジョン

和名:ドンジョン

英名:Don John

1835年生

鹿毛

父:ウェイヴァリー

母:コモスメア

母父:コモス

英セントレジャーを逃げて圧勝するなど高い競走能力で他馬陣営を震え上がらせ、種牡馬としても大きな影響力を残した19世紀英国上半期有数の名馬

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績10戦9勝2着1回

誕生からデビュー前まで

19世紀上半期における英国有数の名馬だが、その出自はいまひとつ不明瞭である。英国血統書(ジェネラルスタッドブック)には、本馬の生産者は、英国保守党所属の政治家だった第6代チェスターフィールド伯爵ジョージ・スタンホープ卿であると書かれている。

しかし本馬が現役中に発行されたニュー・スポーティング・マガジンには、別の内容が書かれている。本馬の生産者はウィリアム・ガーフォース氏という人物で、幼少期にロバート・リズデール氏という人物により100ギニーで購入され、さらに1歳時にスタンホープ卿により140ギニーで購入されたというのが実際のようである。

本馬は生産者だけでなく血統も曖昧である。一般的にはウェイヴァリーが父とされているが、本馬の母コモスメアは本馬を産む前年にトランプとも交配されているから、トランプが父の可能性もある。トランプを不受胎だったからウェイヴァリーと交配されたらしいから、ウェイヴァリーが父である可能性が高いのは確かなようだが、絶対ではない。ウェイヴァリーもトランプもエクリプスの直系であるから、仮にどちらが父だとしても血統的に決定的な差が生じるわけではないし、こんな事はこの時代には珍しくも無かったとは言え、正確な血統に拘る人にとっては困る話ではある(筆者にはそれほど拘りは無い)。

いずれにしても本馬はスタンホープ卿の所有馬として競走生活を送ることになった。スタンホープ卿はやはり政治家だった父の跡を継いで政治家になったものの、本職をおろそかにして競馬に熱中し、しかも頻繁に豪華な宴会を開いて散財し、財政的には行き詰っていたという、典型的な駄目人間だった。人間的には駄目でも競馬史においては馬主・馬産家として重要な役割を果たしたという人物は時々いるが、彼の場合はその方面でもあまり優秀では無く、競馬活動に明け暮れた割には馬主としての実績は低い。本馬はそんな駄目駄目なスタンホープ卿が所有した唯一無二の最高傑作で、本馬を所有したという一事だけでスタンホープ卿は競馬史に重要な役割を果たしたと言ってしまってよいほどである。

体高は15ハンドだったと前述のニュー・スポーティング・マガジンに記載されているから、当時としても背が低い馬だったようである。本馬を預かったのは、ノースヨークシャー州に厩舎を構えていた「北方の魔術師」ことジョン・スコット師で、主戦はスコット師の弟ウィリアム・スコット騎手が務めた。本馬は当初から命名されていたわけではなく、最初は“Lord Chesterfield's bay colt(チェスターフィールド伯爵が所有する鹿毛の牡馬)”と呼ばれていた。

競走生活(英セントレジャーまで)

2歳5月にヨーク競馬場で行われた2歳ステークスでデビュー。単勝オッズ3.5倍で6頭立ての3番人気だったが、勝利を収めた。その後はしばらくレースに出ず、次走は9月にドンカスター競馬場で行われた英シャンペンS(T8F)となった。単勝オッズ2.5倍で6頭立ての1番人気に支持されると、残り1ハロン地点で先頭に立ち、2馬身差で勝利を収めた。それから11日後にはマンチェスターにあるヒートンパーク競馬場でクラレットS(T6F)に出走。初めてドンジョンという名前でレースに出走した本馬は、ここではナット・フラットマン騎手とコンビを組んで勝利。2歳時の成績は3戦3勝となった。

3歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われた距離1マイルのスウィープSから始動した。しかし本馬が出走してくると耳にした他3頭の陣営は全て逃げ出してしまい、本馬が単走で勝利した。

本馬は英2000ギニーにも英ダービーにも登録が無かったようで、その後は唯一登録があった英セントレジャー(T14F132Y)まで競馬場に姿を現さなかった。この頃は英国各地の競馬場がセントレジャーを名乗るレースを開催し始めた時期だったため、本馬が出た英セントレジャーは“Great St Leger Stakes”と頭に“Great”の文字が付せられていた。本馬に恐れをなしたのか、出走頭数は同競走が距離16ハロンから現行の距離に変更された1814年以降では最少の7頭だった。それでも、後にセントサイモンの祖母の父となる英ダービー2着馬イオン、後にアスコット金杯・ケンブリッジシャーHを勝利するレイナーコストなどの実力馬が対戦相手となったが、スコット騎手が騎乗する本馬が単勝オッズ2.875倍の1番人気に支持された。スタートが切られると本馬は即座に先頭に立ち、そのまま後続を3馬身ほど引き離す単騎逃げを打った。殺人的ペースとも評された相当なハイペースだったが、このペースに潰されたのは後続馬であり、本馬は先頭を快走し続けた。最後は2着イオンに5馬身差、3着レイナーコストにはさらに6馬身差をつけて圧勝した。前述のニュー・スポーティング・マガジンは「セントレジャーをこんなに簡単に颯爽と勝った馬はかつて存在しません」と評した。良い書き方をすれば気前が良かったスタンホープ卿は、この勝利の祝賀会を大々的に開催し、これには誰でも無料で参加して飲食することが出来るようにした。無料という事もあって祝賀会には大勢の人が詰めかけ、スタンホープ卿は大いに祝福されたと伝えられている。

競走生活(英セントレジャー以降)

英セントレジャーの2日後には早くも本馬は次のレースに出走した。そのレースはドンカスターC(T20F)だった。当初は出走予定だったこの年のグッドウッドCの勝ち馬ハーカウェイ(セントサイモンの母父キングトムの父)は回避したため不在だったが、前年のドンカスターCや英シャンペンSなどを勝っていた本馬より2歳年上の“British racing queen of the 1830s(1830年代の英国競馬の女王)”ことビーズウイング、後に種牡馬として成功するメルボルンという強敵が出走してきた。病的に酒好きだったスコット騎手はこのレースで本馬に課せられるべき斤量より体重が超過したため、本馬に騎乗したのはフラットマン騎手だった。レースはビーズウイングが先手を取り、本馬がそれを追いかける展開となった。そして残り1ハロン地点でビーズウイングを捕らえるとそのまま突き放して勝利。ザドクターという馬が3着に入り、メルボルンは4着最下位だった。

本馬はドンカスターCの同日午後にはガスコインS(T14F132Y)に出走したが、対戦相手がいなかったために単走で勝利した。その後は9月にヒートンパーク競馬場で行われたリヴァプールセントレジャー(T12F)に出走したが、またしても対戦相手がいなかったために単走で勝利した。3歳時の成績は5前全勝だった。

4歳時も現役を続け、4月にニューマーケット競馬場で行われたポートS(T16F)から始動した。このレースには、本馬不在の英2000ギニーの他にアスコット金杯・モールコームS・グランドデュークマイケルSを勝っていた同世代馬グレイモーマスも出走していた。しかしグレイモーマスは英ダービーにおいて、英セントレジャーで本馬にまるで歯が立たなかったイオンに先着されて3着だったため、ここでは本馬が単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された。ところが結果はグレイモーマスが勝ち、2着に敗れた本馬は初黒星を喫した。引き続きニューマーケット競馬場で出走した1800ソヴリンスウィープS(T32F)では、ハリー・エドワーズ騎手とコンビを組んで、3頭の対戦相手を蹴散らして勝利した。しかしこのレースから間もなくして本馬は脚を故障してしまい、そのまま競走馬を引退。4歳時の成績は2戦1勝だった。

本馬が競走馬を引退してから47年後の1886年6月に、英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第37位にランクインした。

血統

Waverley Whalebone Waxy Pot-8-o's Eclipse
Sportsmistress
Maria Herod
Lisette
Penelope Trumpator Conductor
Brunette
Prunella Highflyer
Promise
Margaretta Sir Peter Teazle Highflyer Herod
Rachel
Papillon Snap
Miss Cleveland
Highflyer Mare Highflyer Herod
Rachel
Nutcracker Matchem
Miss Starling 
Comus Mare Comus Sorcerer Trumpator Conductor
Brunette
Young Giantess Diomed
Giantess
Houghton Lass Sir Peter Teazle Highflyer
Papillon
Alexina King Fergus
Lardella
Marciana Stamford Sir Peter Teazle Highflyer
Papillon
Horatia Eclipse
Countess
Marcia Coriander Pot-8-o's
Lavender 
Faith Pacolet
Atalanta

父ウェイヴァリーはホエールボーン産駒。英ダービー馬5頭の所有者となった18世紀後半から19世紀前半にかけての名馬主・第3代エグレモント伯爵ジョージ・ウィンダム卿の生産馬で、後に初代ダラム男爵(さらに伯爵)に任ぜられる英国の政治家兼軍人のジョン・ラムトン卿により購入された。競走馬としては5歳時にニューカッスルCを勝っている。競走馬引退後はラムトン卿が設立した牧場で種牡馬入りした。それからしばらくしてラムトン卿は一時的に健康を害したために、自身の牧場にいた大半の馬を売却したが、ウェイヴァリーは自身の手元に残した。種牡馬としては本馬の他にドンカスターCの勝ち馬ザサドラーを出している。

母コモスメアの競走馬としての経歴は不明。母としては13頭の子を産んでおり、本馬は9番子に当たる。本馬の半弟ヘットマンプラットオフ(父ブルタンドルフ)【ノーザンバーランドプレート・クレイヴンS】を産んだ他に、本馬の半姉ピーターレーリーメア(父ピーターレーリー)を経由して牝系を伸ばした。ピーターレーリーメアの牝系はそれほど大きく繁栄したわけではないが現在も残っている。主な出身馬は、モンドリアン【独ダービー(独GⅠ)・ベルリン銀行大賞(独GⅠ)・アラルポカル(独GⅠ)2回・バーデン大賞(独GⅠ)2回・オイロパ賞(独GⅠ)】、ハンセル【プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)】、日本で走った白毛馬ユキチャン【関東オークス(GⅡ)・クイーン賞(GⅢ)・TCK女王盃(GⅢ)】など。→牝系:F2号族①

母父コモスはソーサラー産駒で、クラレットSを勝ち、英ダービーで3着している。ウエストオーストラリアンの父方の曽祖父と書いた方が理解は早いかもしれない。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ヨークシャー州チツキルキャッスルファームで種牡馬入りした。初年度の種付け料は15ギニーに設定された。8歳時の1843年にはレスターシャー州アシュビーデラゾウチにあるブレットビーパークスタッドに移り住み、同じ種付け料で種牡馬生活を続けた。その後の産駒の活躍を受けて、1848年からは種付け料が20ギニーに値上げされた。さらに後に1853年にはジョージ・タタソール氏がロンドン市内のキルバーンに所有していたウェルズデンパドックに移動。この年からは再び種付け料が15ギニーに戻った。そして20歳時の1855年、米国の馬産家A・B・T・ジョン博士により購入され、同年6月に米国ヴァージニア州リッチモンドに移り住んだ。同年11月には種牡馬入りしたサラブレッドの品評会が同州で施行され、本馬はボストン産駒のレッドアイに次ぐ2位だった。しかし本馬は米国では活躍馬を出すことは無く、没年も不明となっている。

後世に与えた影響

本馬の直系は、競走馬としてはそれほど優秀では無かったイアーゴーから出たボニースコットランドが輸出先の米国で種牡馬として成功した事により、しばらくは米国で生き残ることになったが、現在は完全に途絶えている。しかし本馬の血が完全に途絶えたわけではなく、むしろ本馬の血を引かないサラブレッドのほうが現在は貴重となっている(もしかしたら世界中に1頭もいないかも)はずである。ボニースコットランドの血を引く馬が現在も少なくない事もあるが、それよりも本馬の血を後世に広めたのは、本馬の娘メイドオブマシャムである。その牝系子孫からは、サイリーンスターシュートサイソンビーフェアプレイサーバートンプリンセスドリーンネリーモスコリーダブルリーマーシャス、カラカラ、トムロルフシュヴィーアクアクイエローゴッドシャムフォアゴーボールドフォーブススルーオゴールドリールンクソヴィエトスターバヤコアペイザバトラーインザウイングスブラックタイアフェアーアーバンシーザフォニックカーリングディストーテッドユーモアデイラミフェイヴァリットトリックハイライズクロコルージュキングズベストガリレオスクワートルスクワートホークウイングマカイビーディーヴァダラカニドバウィシーザスターズミッデイルッキンアットラッキーフォートラーンドキャンフォードクリフスナサニエル、シリュスデゼーグル、日本で走ったフェアーウイン、メイズイ、ベルワイド、イシノヒカル、ミスターシービー、シャダイソフィア、メジロラモーヌ、ライトカラー、ベガ、チョウカイキャロル、マーベラスサンデー、エリモシック、マイネルマックス、アドマイヤベガ、トゥザヴィクトリー、アドマイヤドン、ゴールドアリュール、アドマイヤマックス、ラインクラフト、フィールドルージュ、バンブーエール、ソングオブウインド、リトルアマポーラ、スーニ、アパパネ、マルセリーナ、サダムパテック、アユサン、ハープスター、ホッコータルマエ、キタサンブラックと数々の有力馬が登場している。本馬やメイドオブマシャムがいなければ、マンノウォーネアルコナスルーラノーザンダンサーサンデーサイレンスも生まれなかった事になるのである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1845

Distaffina

アスコットダービー・コロネーションS

1845

Mrs. Taft

シザレウィッチH

1846

Lady Evelyn

英オークス・コロネーションS・パークヒルS

1848

Barcelona

コロネーションS

1848

The Ban

セントジェームズパレスS・ドンカスターC

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