アリスティデス

和名:アリスティデス

英名:Aristides

1872年生

栗毛

父:リーミントン

母:サロン

母父:レキシントン

デビュー当初は同厩馬のラビット役を務めていたが第1回ケンタッキーダービーの制覇を契機に同世代のトップクラスに上り詰める

競走成績:2~6歳時に米で走り通算成績21戦9勝2着5回3着1回

現在米国最大の競馬の競走であるケンタッキーダービーだが、その創設当初は現在ほどの価値は無く、ケンタッキー州という片田舎で実施される地域限定イベントに過ぎなかったそうである。そのケンタッキーダービーの記念すべき第1回目の勝者が本馬である。本馬は現役当時から時代を代表する実力馬として評価されていたが、それは別にケンタッキーダービーを勝ったからという理由ではなく、その後の活躍による部分が大きい。もっとも、本馬の名前が語り継がれることになった理由は紛れもなくケンタッキーダービーの初代覇者であるからである。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ファイエット郡にあったマクグラシアーナファームにおいて、同牧場の所有者ハル・プライス・マクグラス氏により生産・所有された。ケンタッキー州の貧乏一家に生まれたマクグラス氏だったが、ゴールドラッシュに乗じてカリフォルニア州で一財産を築くことに成功した。そしてニューヨーク州で賭博場を開設すると一晩で10万5千ドルという大金を手に入れた。そして故郷のケンタッキー州に舞い戻ると、ニューヨーク州で手にしたお金で牧場を買って、自分の名を取ってマクグラシアーナファームと命名し、馬産を開始していたのだった。ちなみにマクグラス氏の死後にマクグラシアーナファームはミルトン・ヤング大佐により購入され、名種牡馬ハノーヴァーが繋養されることになる。

本馬の馬名は父リーミントンが当時繋養されていたペンシルヴァニア州エーデンハイムスタッドの所有者で、マクグラス氏の友人だったアリスティデス・ウェルチ氏にちなんでいる。父リーミントンは英国から米国に輸入された種牡馬だったが、本馬の生誕当時はあまり評価されていなかった。本馬自身も遅生まれだった影響もあり、成長しても体高15ハンドにも達しなかった小柄な馬だったため、マクグラス氏は本馬にそれほど大きな期待を寄せてはいなかったそうである。それでも友人の名前を付けた以上は、全く期待していないわけでもなかったと思われるが、マクグラス氏がより期待をしていたのは本馬より数か月も早く生まれたレキシントン産駒のチェサピークのほうだった。

競走生活(3歳初期まで)

本馬とチェサピークは一緒にアンセル・ウィリアムソン調教師に預けられた。1810年にヴァージニア州で産まれたウィリアムソン師は、アフリカから連れてこられた奴隷の子であり、自身も最初は奴隷だった。南北戦争最中の1864年に、ケンタッキー州ウッドバーンスタッドの所有者で、レキシントンの能力を評価して種牡馬として購入した事で知られるロバート・A・アレクサンダー氏に購入された。ケンタッキー州は南北戦争においては北部の州に属しており、つまるところ奴隷制度には否定的な州だった。英国ケンブリッジ大学で学んだ経験があるアレクサンダー氏は、ウィリアムソン氏やエドワード・D・ブラウン氏といった奴隷を酷使せずに、むしろ競走馬に関する知識や育成技術を教え込んだ。南北戦争が終わって奴隷が解放された後も、ウィリアムソン氏やブラウン氏はアレクサンダー氏の元に残った。1867年にアレクサンダー氏が死去すると、ブラウン師はウッドバーンスタッドのマネージャーだったダニエル・スワイガート氏に招聘されてその専属調教師となった(19世紀米国を代表する名馬ヒンドゥーを手掛けることになる)が、ウィリアムソン師は父の跡を継いでウッドバーンスタッドの所有者となったアレクサンダー・ジョン・アレクサンダー氏の元に残り、調教師として活躍していた(後の1998年に米国競馬の殿堂入り)。

そんなウィリアムソン師の育成を受けた本馬だったが、同厩馬チェサピークのためのラビット役としてレースに出ることが多かった。本馬以上に期待されていたチェサピークだったが、スタートが悪い馬で、後方からの競馬になる事が多かった。そこでスタートが良い本馬が先頭を爆走してハイペースを演出し、後方から追い込んでくるチェサピークに有利な展開に持っていく役割を担わされたのである。そのために2歳時はそれほどの活躍を見せられなかった。それでも9戦して3勝を挙げ、モンマスパーク競馬場で出たセスピアンS(D6F)では牝馬スウィートリップスの2着に入っている。ジェロームパーク競馬場ダート5ハロンの一般競走ではコースレコードで勝利。ボルチモア競馬場ダート8ハロンの一般競走でもコースレコードで勝利している。ちなみに同僚のチェサピークは、オーガストS・ケンタッキーSに勝利して、後年になって1874年の米最優秀2歳牡馬に選ばれるほどの活躍を見せた。

3歳になった本馬の初戦は、ケンタッキー州レキシントン競馬場で行われたフェニックスS(D9F)だった。ここでは泥だらけの不良馬場に脚を取られて、同世代の実力馬テンブロック(後の米国顕彰馬)の2着に敗れた。

第1回ケンタッキーダービー

さて話が変わるが、本馬が1歳時の1873年に、メリウェザー・ルイス・クラーク・ジュニア大佐という人物が欧州旅行を終えて米国に帰国してきた。クラーク・ジュニア大佐は英国や仏国の競馬場を見て回り、それらの国の競馬関係者と交流を深めて、競馬に関する様々なアイデアを持ち帰っていた。彼はケンタッキー州の競馬振興のためにルイビルジョッキークラブを創設し、さらには新しい競馬場の建設を開始した。1875年に完成したその競馬場は、土地を提供したジョン・ヘンリー・チャーチル氏の名前にちなんでチャーチルダウンズ競馬場と命名され、クラーク・ジュニア大佐がその初代場長に就任した。クラーク・ジュニア大佐は、新設間もないチャーチルダウンズ競馬場の名物競走として、英ダービーを模倣したレースを創設する事を決めた。このレースこそがケンタッキーダービーであり、創設当時は英ダービーと同じく距離12ハロンで実施された。そして本馬は3歳2戦目として、チェサピークと一緒に第1回ケンタッキーダービー(D12F)に出走する事になった。

出走頭数は本馬、チェサピーク、テンブロックを含めて15頭で、牡馬が13頭、牝馬が2頭という内訳だった。本馬の単勝オッズは3.9倍という高評価だったが、これはおそらくチェサピークとカップリングされていたためである。本馬の鞍上は当時19歳のオリヴァー・ルイス騎手であり、ウィリアムソン師と同じく解放奴隷だった。ルイス騎手はマクグラス氏から、自分が乗る馬の役割はチェサピークを勝たせるためのラビット役である旨を明確に伝えられていた。当日は晴天に恵まれた事もあり、チャーチルダウンズ競馬場には1万人の観衆が詰めかけていた。

スタートが切られると、ルイス騎手はマクグラス氏の指示どおりに本馬をすぐに加速させて先頭に立たせた。一方、W・ヘンリー騎手が騎乗するチェサピークは相変わらずスタートが悪く、最後方からの競馬となっていた。そのまましばらくは本馬が先頭を維持していたが、3ハロンほど走ったところでマッククリーリーという馬が上がってきて先頭を奪われた。そのためにルイス騎手は本馬のペースをさらに上げて先頭を奪い返した。するとさらに後方からテンブロックやヴォルカノなど複数の馬が上がってきて先頭争いに加わってきた。そのために先頭を死守する本馬のペースはさらに上がり、最初の1マイル通過タイムは当時としては非常に速い1分43秒0となった。こうなると最後方に陣取っているチェサピークに有利な展開になるはずだったが、本馬とチェサピークの差はどんどん開いていき、やがて誰の目にも逆転不可能と思えるほどの差がついた。一方、本馬に競りかけたマッククリーリーは先に失速し、競りかけられた本馬のほうは十分な手応えを残して三角に入ってきた。そのまま本馬が先頭を維持して三角と四角を回ってくると、もはやチェサピークが追いつくことは無理だと見て取ったマクグラス氏は、直線入り口のコースの傍まで駆け寄ってきて、ルイス騎手にそのまま行くように合図を送った。マクグラス氏の合図を受けるまでルイス騎手は自分の馬ではなくチェサピークに勝たせるつもりでいたのだが、ここで初めて自分が勝つ気になった。そこでルイス騎手が本馬を追うとさらに伸び、追いすがってきた2着ヴォルカノに1馬身差をつけて先頭でゴールイン。優勝賞金2850ドルを陣営にもたらした。勝ちタイムは2分37秒0だった。テンブロックは5着、チェサピークは8着だった。ちなみに現在では恒例となっているケンタッキーダービー馬にかけられる薔薇のレイはこの時点においては無く(慣習となったのは1896年以降)、初代ケンタッキーダービー馬に薔薇のレイがかけられる事は無かった。

競走生活(ケンタッキーダービー以降)

その後はニューヨーク州に向かい、ベルモントS(D12F)に出走した。マクグラス氏とウィリアムソン師はこのレースに本馬とチェサピークに加えて、ジュライSの勝ち馬カルヴィンを参戦させていた。結果はB・スウィム騎手が騎乗するカルヴィンが勝利を収め、前走に続いてルイス騎手が騎乗した本馬が2着で、チェサピークは着外に終わった。その後は創設2年目のウィザーズS(D8F)に出走して、前年の勝ちタイムより2秒25も速い1分45秒75のレースレコードで勝利した。トラヴァーズS(D14F)では、ダルタニアン、ベルモントSで3着だったミルナーの2頭に後れを取り、ダルタニアンの3着だった。ジェロームH(D16F)では、カルヴィンを2着に破って勝利した。ブレッキンリッジSというレースでは、デビュー戦だった同年のプリークネスSを勝っていたトムオーチルツリーを破って勝利した。オーシャンホテルSというレースでは2着だった。3歳時の成績は9戦4勝で、同じく9戦4勝のトムオーチルツリーと並んで、後年にこの年の米最優秀3歳牡馬に選出されている。この年の本馬の活躍により、父リーミントンはレキシントンの15年連続を阻止して北米首位種牡馬を奪取した。

4歳時は5月にレキシントン競馬場において、前年のケンタッキーダービーで本馬に敗れた後に勝ち星を増やし続けていたテンブロックとの距離17ハロンのマッチレースを行った。そして3分45秒5という全米レコードタイムで走破した本馬が勝利を収めた。さらに距離20ハロンの一般競走でも、4分27秒5という全米レコードを樹立して勝利した(本馬がテンブロックを破ったのはこちらのレースだとする資料もある)。4歳時の成績は2戦2勝だった。

5歳時は1回もレースに出ず、6歳時に距離12ハロンのレースを1戦だけ走ったが、好敵手テンブロックの着外に敗れたのを最後に競走馬を引退した。古馬になってあまり走らなかったのは、どうやら脚部不安を発症していたからであるらしく、現役最後のレースでも足が痛くてまともに走れなかったそうである。

血統

Leamington Faugh-a-Ballagh Sir Hercules Whalebone Waxy
Penelope
Peri Wanderer
Thalestris
Guiccioli Bob Booty Chantcleer
Ierne
Flight Escape
Young Heroine
Pantaloon Mare Pantaloon Castrel Buzzard
Alexander Mare
Idalia Peruvian
Musidora
Daphne Laurel Blacklock
Wagtail
Maid of Honor Champion 
Etiquette
Sarong Lexington Boston Timoleon Sir Archy
Saltram Mare
Sister to Tuckahoe Ball's Florizel
Alderman Mare
Alice Carneal Sarpedon Emilius
Icaria
Rowena Sumpter
Lady Grey
Greek Slave Glencoe Sultan Selim
Bacchante
Trampoline Tramp
Web
Margaret Hunter Margrave Muley
Election Mare
Mary Hunt Bertrand
Betty Coons

リーミントンは当馬の項を参照。

母サロンの競走馬としての経歴は不明。本馬以外にこれといった産駒はおらず、近親にも活躍馬は見当たらない。サロンの母グリークスレイヴの半姉サリーの牝系子孫に、仏ダービーを勝った現時点における最後の牝馬であるブルメリ【仏1000ギニー・仏オークス・仏ダービー・パリ大賞】がいるが、この牝系も現在は廃れている。→牝系:A9号族

母父レキシントンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のマクグラシアーナファームで種牡馬入りした。1881年9月にマクグラス氏が死去すると売りに出され、A・ハンキンズ氏という人物により3400ドルで購入され、インディアナ州に移動した。さらにJ・ルーカス・ターナー氏という人物に転売され、ターナー氏がミズーリ州セントルイスに所有するキンロックスタッドに移動した。さらにロバート・ブルッキングス氏という人物に転売され、ミズーリ州オークランドに移動。1893年6月にオークランドにおいて21歳で他界した。種牡馬成績は不振であり、本馬の血を引く馬は存在しない。しかし小柄な赤い栗毛馬がチャーチルダウンズ競馬場のゴールラインを先頭で走り抜けた光景は、ケンタッキーダービーというレースがある限り永遠に語り継がれることになりそうである。

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