シャトーゲイ

和名:シャトーゲイ

英名:Chateaugay

1960年生

栗毛

父:スワップス

母:バンケットベル

母父:ポリネシアン

史上空前の盛り上がりを見せた1963年のケンタッキーダービーを人気薄ながら優勝しベルモントSも制覇した本邦輸入種牡馬

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績24戦11勝2着4回3着2回

誕生からデビュー前まで

ジョン・ウィルマー・ガルブレイス氏により、米国ケンタッキー州ダービーダンファームにおいて生産・所有された。1897年に米国オハイオ州ダービー町で産まれたガルブレイス氏は、国内外の超高層ビル建築を主とする不動産業で成功した人物である。彼はスポーツに対する造詣も深く、1945年から40年間にわたってペンシルヴァニア州に本拠地がある大リーグ球団ピッツバーグ・パイレーツのオーナーも務めた。それに先立つ1935年、彼は故郷ダービーの地にダービーダンファームを設立して馬産を開始し、1949年には隣接するケンタッキー州の土地を購入してダービーダンファームを拡張した。

彼は馬主としてケンタッキーダービーと英ダービーを両方制した史上初の人物(彼以降には、ポール・メロン氏がシーヒーローとミルリーフで、マイケル・テイバー氏がサンダーガルチガリレオハイシャパラルプールモアキャメロットルーラーオブザワールドオーストラリアで、サウジアラビアの王族アハメド・ビン・サルマン殿下がウォーエンブレムオースで達成している)であり、ケンタッキーダービーは本馬と1967年のプラウドクラリオンの2頭で、英ダービーは1972年のロベルトで勝っている。このロベルトに関してガルブレイス氏は、英ダービーで騎手の乗り代わりを強行に主張したり、ベンソン&ヘッジズ金杯で米国からブラウリオ・バエザ騎手を連れてきて英国の英雄ブリガディアジェラードに生涯唯一の黒星を付けたりしているため、英国の競馬ファンからはあまり良いイメージを持たれていないようだが、米国のスポーツ界における貢献度はかなり大きい。

そんなガルブレイス氏に初のケンタッキーダービータイトルをもたらすことになる本馬は、ジェームズ・P・コンウェイ調教師に預けられた。

競走生活(3歳初期まで)

2歳10月にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦で、主戦となるバエザ騎手を鞍上にデビューした。1番人気に推されたものの、結果は後のピムリコブリーダーズSの勝ち馬マイトアンドメインから2馬身半差の2着だった。8日後のベルモントパーク競馬場ダート7ハロンの未勝利戦では、2着ホイストヒムアブロードに6馬身差をつけて圧勝。9日後にはアケダクト競馬場ダート8ハロンの一般競走に出たが、後のハイビスカスSの勝ち馬ロイヤルアスコットから1馬身半差の2着。2週間後にはピムリコ競馬場ダート6ハロンの一般競走に出て、2着サーゲイに頭差で勝利。その1週間後にはピムリコフューチュリティ(D8.5F)に出走したが、ゴール前で大接戦を演じたライトプラウド、サプリングSの勝ち馬デルタジャッジ、シャンペンS2着馬マスターデニスの3頭に少し及ばず、勝ったライトプラウドから1馬身1/4差の4着に敗れた。2歳時の成績は5戦2勝という目立たないものだった。

3歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走から始動して、2着となったベルモントフューチュリティS3着馬パックトリップに3/4馬身差で勝利。その後はケンタッキー州に向かい、キーンランド競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走に出て、2着スルースハウンドに3/4馬身差で勝利。次走のブルーグラスS(D9F)では、2着ゲットアラウンドに頭差で勝利した。

ケンタッキーダービー

そして勇躍ケンタッキーダービー(D10F)に駒を進めた。しかしこの年のケンタッキーダービーは、稀に見る逸材と言われた3頭の有力馬が揃って参戦しており、三強対決と言われて絶大な盛り上がりを見せていた。その3頭とは、アーリントンワシントンフューチュリティー・フロリダダービー・サンタアニタダービーなどを勝っていた無敗馬キャンディスポッツ、本馬と同じスワップス産駒でウッドメモリアルSを勝っていた無敗馬ノーロバリー、ベルモントフューチュリティS・シャンペンS・カウディンS・フラミンゴSなどを勝っていた3歳時無敗の米最優秀2歳牡馬ネヴァーベンドだった。キャンディスポッツが単勝オッズ2.5倍の1番人気、ノーロバリーが単勝オッズ3.5倍の2番人気、ネヴァーベンドが単勝オッズ4倍の3番人気と、この3頭に人気が集中。勝ち方が地味、対戦相手が弱かったなどと言われていた本馬は、単勝オッズ10倍の5番人気止まりだった。

チャーチルダウンズ競馬場には12万人もの大観衆が詰めかけ、この年のケンタッキーダービーに不参加だった名手エディ・アーキャロ騎手は「これほど盛り上がったケンタッキーダービーは記憶にありません」とタイム誌のインタビューで語った。あまりにも三強の前評判が高かったためか、この年はボールドルーラーラウンドテーブルギャラントマンの三強対決と言われた1957年以来となる9頭立ての少頭数となった。しかし伏兵アイアンリージが勝利した1957年と同じく、今回も三強全てが敗れると何人が思っていただろうか。

スタートが切られると、ネヴァーベンドが先頭を奪い、ノーロバリーとキャンディスポッツが2~3番手を追走した。一方の本馬は馬群の中団後方6番手を追走したが、向こう正面で外側を通って徐々に進出していった。そして4番手で直線を向くと、前を行く三強を全て抜き去り、2着ネヴァーベンドに1馬身1/4差、3着キャンディスポッツにはさらに首差をつけて優勝した。当時23歳だったバエザ騎手はパナマ出身であり、米国と加国以外の出身者として史上初のケンタッキーダービー優勝騎手となった(彼は、米国三冠競走自体は既にシャーラックで1961年のベルモントSを勝っていた)。

競走生活(3歳後半)

次走のプリークネスS(D9.5F)では、前走5着のノーロバリーが骨膜炎を発症したため不在だったが、ネヴァーベンドとキャンディスポッツは参戦してきた。キャンディスポッツが1番人気、ネヴァーベンドが2番人気で、レース2日前の調教において放馬して走り回ってしまった本馬は疲労が懸念されて3番人気止まりだった。スタートが切られるとネヴァーベンドが先手を取り、キャンディスポッツがそれを追撃、本馬が後方を追走という、前走と同様のレース展開となった。そして本馬は前走同様に向こう正面で上がっていったが、今回は本馬より先にキャンディスポッツが仕掛けてネヴァーベンドをかわして先頭に立っていた。本馬はネヴァーベンドを抜き去ったものの、キャンディスポッツは最後まで捕らえることが出来ず、3馬身半差の2着に敗れた。レース前の調教で放馬した件についてバエザ騎手は「彼はあれで競走1回分は走ってしまいましたので、私達はもう(プリークネスSは)勝てないだろうとガルブレイス氏に伝えました。それでも怪我が無かったのでガルブレイス氏は出走させる事にしました。彼はかなり疲労していたにも関わらず結果は2着でしたので、放馬さえ無ければ勝てていたかもしれません」と悔やんだ。

次走のベルモントS(D12F)では、前走で本馬から4馬身半差をつけられた3着に終わったネヴァーベンドが回避し、3戦連続で1番人気に推されたキャンディスポッツと、単勝オッズ5.5倍の2番人気となった本馬の二強対決となった。なお、ベルモントSが施行されるのは通常ベルモントパーク競馬場だが、老朽化のため古いベルモントパーク競馬場は解体されて新設される工事がこの年から始まっていた(完成は5年後の1968年)ため、同競走はアケダクト競馬場で施行された。スタートが切られると、前2走と同様に本馬は後方待機策を採った。今回も先行して直線で押し切りを図ったキャンディスポッツだったが、そこへ後方から嵐のような勢いでやってきた本馬が一瞬にしてキャンディスポッツを差し切り、最後は2馬身半差をつけて優勝した。

これで名実共に3歳馬の頂点に立った本馬は、それからしばらくして、2歳年上のケンタッキーダービー・プリークネスS・カウディンS・レムセンS・エヴァーグレイズS・フラミンゴS・フロリダダービー・ジェロームH・メトロポリタンH・ホイットニーHなどの勝ち馬キャリーバックとの、調教と称した非公式マッチレースに出走した。しかしいったん種牡馬入りしたにも関わらず急に現役復帰してきたキャリーバックは本馬の敵ではなく、5馬身差をつけて本馬が勝利した。

しかし次走のドワイヤーH(D10F)では1番人気に応えられずに、ホープフルSの勝ち馬アウティングクラスの1馬身半差3着に敗退。キャンディスポッツ、ネヴァーベンドとの再戦となったトラヴァーズS(D10F)では、単勝オッズ21倍の伏兵だったガーデンステートSの勝ち馬クルーマンの2馬身半差3着に敗れた(キャンディスポッツは4着、ネヴァーベンドは6着だった)。しかし9月に出走したアケダクト競馬場ダート7ハロンのハンデ競走では130ポンドを背負いながらも、名牝ストレートディールの半兄トロピカルブリーズを1馬身差の2着に抑えて勝利。続くジェロームH(D8F)では128ポンドを背負いながらも、2着アコーダントに半馬身差で勝利を収め、3着アウティングクラスにドワイヤーHの借りを返した。10月のローレンスリアライゼーションS(D13F)では、勝ったディーンカールから10馬身差の4着に敗退。ヤンキーH(D9F)では、ネヴァーベンドやディーンカールに屈して、ネヴァーベンドの4馬身3/4差4着に終わった。

これが3歳時最後のレースとなったが、この年12戦7勝の成績で、三冠競走後にアーリントンクラシックSやアメリカンダービーを勝っていたキャンディスポッツを抑えて米最優秀3歳牡馬に選ばれた。

競走生活(4・5歳時)

4歳時は5月のカーターH(D7F)から始動した。斤量は125ポンドと特別重いものではなかったが、結果は133ポンドを背負っていたグレートアメリカンS・タイロS・チェリーヒルS・グレーヴセンドHなどの勝ち馬アホイが勝利を収め、本馬はアホイから12馬身差をつけられた8着と大敗した(この年のサンフェルナンドS・チャールズHストラブS・サンアントニオH・ガルフストリームパークHの勝ち馬で後にブルックリンH・ホイットニーH・ワシントンパークH・ウッドワードS・ドンH・メトロポリタンHなども勝つガンボウが3着だった)。次走のローズベンH(D7F)では、トレモントS・ダービートライアルSの勝ち馬ボンジュール(ケンタッキーダービーでは本馬の6着に終わっていた)の3/4馬身差2着に敗れた。

その後は2か月半ほど休養し、8月にサラトガ競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走で復帰。ここでは1歳年上のディサイデッドリーとのケンタッキーダービー馬対決となり、ディサイデッドリーを1馬身差の2着に退けて勝利した。しかしこの年はこれが最後の出走となり、4歳時の成績は3戦1勝に留まった。

5歳時はフロリダ州ハイアリアパーク競馬場において、種牡馬入りする直前の2月まで限定で現役を続行。まずはダート7ハロンの一般競走に出て、2着ナイトリーマナーに首差で勝利。しかし次走のロイヤルパームH(D7F)はサンストラックの7馬身3/4差5着と完敗。続くセミノールH(D9F)もサンストラックの7馬身3/4差8着に終わった。そしてワイドナーH(D10F)で、ベネズエラのトップホースとして活躍した後に米国に移籍してきたプリモーディアルの16馬身差7着と惨敗したのを最後に、5歳時4戦1勝の成績で競走馬生活を終えた。

馬名はニューヨーク州の北部、加国との国境近くにあるシャトーゲイ町及びシャトーゲイ湖に由来する。ニューヨークには同名のシャトーゲイ橋もあるが、その完成は本馬のケンタッキーダービー制覇より後の事である。

血統

Swaps Khaled Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Eclair Ethnarch The Tetrarch
Karenza
Black Ray Black Jester
Lady Brilliant
Iron Reward Beau Pere Son-in-Law Dark Ronald
Mother in Law
Cinna Polymelus
Baroness La Fleche
Iron Maiden War Admiral Man o'War
Brushup
Betty Derr Sir Gallahad
Uncle's Lassie
Banquet Bell Polynesian Unbreakable Sickle Phalaris
Selene
Blue Glass Prince Palatine
Hour Glass
Black Polly Polymelian Polymelus
Pasquita
Black Queen Pompey
Black Maria
Dinner Horn Pot au Feu Bruleur Chouberski
Basse Terre
Polly Peachum Spearmint
Lindoiya
Tophorn Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Leghorn Celt
Tuscan Red

スワップスは当馬の項を参照。

母バンケットベルもガルブレイス氏の所有馬だった。現役成績は15戦1勝だが、その1勝がディナーSであり、ステークスウイナーである。繁殖牝馬としてはかなり優秀で、1962年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれた本馬の2歳年上の全姉プリモネッタ【プライオレスS・アラバマS・モリーピッチャーH・スピンスターS・フォールズシティH】も産んでいる。プリモネッタは繁殖牝馬としても優秀で、グレンフォール【ガリニュールS(愛GⅡ)】、モードマラー【ガゼルH(米GⅡ)・アッシュランドS(米GⅢ)】、プリンスサウアート【フロリダダービー(米GⅠ)】、カムロードローリー【デラウェアオークス(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・ベルデイムS(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)・クイーンズカウンティH(米GⅢ)】と活躍馬を続出させ、1978年のケンタッキー州最優秀繁殖牝馬にも選ばれた。

また、本馬の3歳年下の半妹ルイアナ(父マイバブー)も優秀な繁殖牝馬で、リトルカレント【プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・エヴァーグレイズS(米GⅡ)】、プレイヤーズンプロミシズ【スピナウェイS(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)】を産んでいる。ルイアナの牝系子孫からは、ハードスパン【キングズビショップS(米GⅠ)】、ドリル【デルマーフューチュリティ(米GⅠ)】、日本で活躍したラキシス【エリザベス女王杯(GⅠ)】なども出ている。

母系にはバンケットベルの半妹カウンテスアルビー(父ペットバリー)の子にオーサ【英シャンペンS(英GⅡ)】が、バンケットベルの叔母にアテネ【セリマS・モデスティH】がいる他、近親と言うには少々遠いが、日本で活躍したクレオパトラマスとクモハタの姉弟やハクチカラなどの名も見られる(本馬の曾祖母とクレオパトラマスの母が従姉妹)。母系を遡ると、無敗の英国三冠馬オーモンドの母リリーアグネスに辿りつく。→牝系:F16号族①

母父ポリネシアンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のダービーダンファームで5歳時から種牡馬入りした。12歳時の1972年に日本に輸入され、同年から日本で種牡馬生活を開始した。ケンタッキーダービー馬が日本に輸入されたのは、6歳年上のアイアンリージ(1968年供用開始)に次いで2例目である。種牡馬としてそれほど人気を集めたとは言えないアイアンリージと異なり、本馬は輸入当初から晩年まで人気種牡馬の地位を保ち続けた。初年度は54頭、2年目は64頭、3年目は65頭、4年目は67頭、5年目は46頭、6年目は74頭、7年目は79頭、8年目は69頭、9年目は53頭、10年目は49頭、11年目も49頭、12年目は43頭、13年目は39頭と、長年にわたり安定した交配数が確保された。14年目の1985年にも11頭と交配したが、同年に25歳で他界した。

どちらかと言えばホームランバッターではなくアベレージヒッターであり、八大競走の勝ち馬を出すことは無かったが、全日本種牡馬ランキングでは1978年に5位、1981年に10位、1982年には産駒が1頭も重賞を勝たなかったにも関わらず6位に入り、合計3度のベストテン入りを果たした。繁殖牝馬の父としては、タマモクロスとミヤマポピーの兄妹やメリーナイスを出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1969

True Knight

エイモリーLハスケルH(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)・ジェロームH・セミノールH(米GⅡ)・クイーンズカウンティH(米GⅡ)・ジョンBキャンベルH(米GⅡ)・ローマーH・トレントンH(米GⅢ)

1970

Infuriator

ホブソンH(米GⅡ)

1973

カミノハヤブサ

東北記念

1973

シマノカツハル

中山金杯

1974

ソーウンオー

東京障害特別春

1974

ビゼンライデン

さつき賞(上山)

1975

メトロジャンボ

大阪杯・京都記念

1977

タイムリーヒット

大井記念(大井)・東京盃(大井)・黒潮特別(紀三井寺)

1977

ツキメリー

東京三歳優駿牝馬(大井)

1977

ハーバーシャレード

京成杯

1979

ホクトフラッグ

朝日杯三歳S・函館三歳S

1980

グァッシュアウト

阪急杯(GⅢ)

1982

トウカイシャトー

新潟ダービー(三条)

1982

トウショウレオ

小倉大賞典(GⅢ)2回・中京記念(GⅢ)・京阪杯(GⅢ)

1982

リチャード

新潟ジュニアC(新潟)

1984

シャトーグリン

ゴールドジュニア(笠松)

1984

ハッピーシャトー

金杯(浦和)・NTV盃(船橋)

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