ハイペリオン

和名:ハイペリオン

英名:Hyperion

1930年生

栗毛

父:ゲインズボロー

母:シリーン

母父:チョーサー

「サラブレッドの芸術品」と評され、小柄だが強靭な意志を持った20世紀前半英国における最も偉大な競走馬にして大種牡馬

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績13戦9勝2着1回3着2回

20世紀英国における最も偉大な競走馬及び種牡馬とみなされる歴史的名馬で、“サラブレッドの芸術品”とまで評された。

誕生からデビュー前まで

スウィンフォードファラリスファロス、サンソヴィーノ、コロラドフェアウェイなど数々の名馬を所有してきた、第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿により、英国ニューマーケットのサイドヒルスタッドにおいて生産・所有された。

シリーンは1928年にゲイクルセイダーとの間に5番子の牡駒グイスカードを産んだが、この年にファラリスと交配されるも不受胎だった。そのために1929年はシリーンが繁殖入りして初めて産駒がおらず、その影響かどうかは不明だが、この年のシリーンの発情は遅かった。ようやく発情したシリーンをスタンリー卿は、ゲイクルセイダーと同じベイヤード産駒の英国三冠馬であるゲインズボローのところに送って交配させたが、その時点では早くも発情が収まっていたようで、受胎しなかった可能性が大きいと思われた。しかし5月中旬になって受胎している事が確認され、そして翌年4月18日にシリーンが産み落としたのが本馬である。

母シリーンも体高が15.2ハンドしかなく、その小柄な体格ゆえに英国クラシック登録を見送られたほどだったが、本馬は母よりもさらに小さかった。本馬は大柄な馬体で知られたセントサイモンの3×4のクロスを有していたため、セントサイモンのクロスに拘っていたスタンリー卿は不思議に思ったようだが、馬格は整っていて立派だった父ゲインズボローも体高は15.3ハンドしかなかった事を考えれば、両親の背が低いのだから息子の背が低くなるのは至極当然とも言える(さらに言えば、シリーンの父チョーサーも体高15.15ハンドと小柄だった)。あまりにも小柄だったために、成長を促すために去勢すべきだという意見も出たらしいが、その血統背景から競走馬になれなくても種牡馬になれる可能性があるという事で見送られた。

スタンリー卿はサイドヒルスタッドにおいて生産した子馬をリヴァプールの牧場に送って育成するようにしていたが、本馬はあまりにも小さな馬体だったために、他の子馬と一緒にするとまともに餌を食べられなくなる事が懸念された。そのために本馬はサイドヒルスタッドに留め置かれた。同年代にはエルキャピタンというこれまた非常に小柄な馬がいた。このエルキャピタンはシリーンの母セレニシマがコロラドとの間に産んだ子であり、本馬にとっては叔父に当たる馬だった。本馬はエルキャピタンといつも一緒におり、そのおかげで孤独である事から免れた。

その体格に加えて、当時の迷信から不吉であるとされていた四白(四本脚全てにストッキングを履いている事)だったために、殆どの人から評価されていなかった本馬だが、1人だけ高く評価する人がいた。それはスタンリー卿の専属調教師だったジョージ・ラムトン師だった。彼はサイドヒルスタッドを訪れた際に本馬を見て、その美しい動きと、知的で品格がありながらも闘志に溢れた顔つきから「私が今まで見てきた中で最も美しい馬です。この小さな馬はいずれダービーを勝つでしょう」と予言し、本馬が競走年齢に達した暁には是非自分に任せてほしいとスタンリー卿に依頼したという。

そんなわけでラムトン厩舎に入厩した本馬だが、この時期の体高は約14.5ハンドしかなく、飼葉桶に首を届かせるのさえ一苦労だったと言われる。結局は体高15.1ハンドにしかならなかった。胴回りは67~68インチで、脚もかなり短く膝下は7~7.5インチしかなかった。しかしその脚力の強さは特筆物だったという。体が小さい反面、非常に雄大な精神の持ち主で、鳥や飛行機など空を飛ぶものに強い興味を示し、上空を見上げてその姿が見えなくなるまで目で追い続ける癖があったという(通常のサラブレッドは頭上に関心を持つ事はないらしい)。性格は極めて大人しかったが、その反面で非常に頑固であり、自分の意思に反する命令には決して従わなかった。体調を崩した際に経口薬を投与されようとした事があったが、歯をぎりぎりと噛み締めて、服用を断固拒否したという。調教でも真面目に走ろうとせず、何か気にかかる事があると、突然立ち止まって全く動こうとしなくなった。後に本馬の主戦として全レースに騎乗する事になるトミー・ウェストン騎手も、調教で跨った際に「全くの駄馬か、とんでもない怠け者のどちらかだ」と本馬を評していた。しかしスウィンフォード、ファラリス、ファロス、サンソヴィーノ、コロラドといった数々の名馬を手掛けてきた、齢70歳を超えていたベテラン調教師のラムトン師は「母親が子どもを理解する以上に」本馬の事を理解しており、本馬が動かなくなっても決してあせらず、走る気になるまで何十分でも根気よく待った。そのため本馬とラムトン師の間には強い信頼関係が生まれ、怠け者だった本馬も徐々に真面目に走る事が増えていった。

競走生活(2歳時)

2歳5月にドンカスター競馬場で行われた芝5ハロンの未勝利プレートでデビューした。しかし本馬は今までと異なる環境に興味津々であり、レース当日朝もまるで緊張感に欠けていたという。それが影響したのか、結果は18頭立てで、ファラリス産駒アイデッタの4着だった。

6月にはアスコット競馬場に移動してニューS(T5F)に出走。ここで遂に本馬の卓越した競走能力が神秘のヴェールを脱ぎ捨てた。他の出走馬21頭を引き連れて逃げを打つと、そのまま2着となった牝馬ナンズヴェイル(ブランドフォードの半妹。本馬の代表産駒の1頭サンチャリオットの祖母となる)に3馬身差をつけてコースレコードタイムで快勝したのである。

グッドウッド競馬場に移動して出走した7月のプリンスオブウェールズS(T6F)は、重馬場の中で牝馬ステアウェイと激戦を演じ、1着同着という結果だった。4戦目は9月にニューマーケット競馬場で行われたボスコーエンポストS(T5F)だった。しかしここでは凡走してしまい、勝ったコヴェントリーSの勝ち馬マニトバ(後にミドルパークSでも1位入線したが進路妨害で失格になっている)から8馬身も後方の3着(4頭立て)に敗れた。

それから1か月後には英国2歳王者決定戦のデューハーストS(T7F)に出走。重馬場で行われたレースであり、しかも道中は最後方を進んでいたが、ウェストン騎手が軽く合図を送ると素晴らしい瞬発力を見せ、一気に1番人気のフェリシテーション(ミドルパークSで2位入線だったがマニトバの失格により繰り上がり勝者となっていた)以下を差し切り、2着となった同じゲインズボロー産駒のジェスモンドデネに2馬身差をつけて快勝した。

2歳時の成績は5戦3勝で、2歳フリーハンデでは、牡馬トップのマニトバより1ポンド低い126ポンドの評価を受けた。ただしこの年の2歳馬は牡馬より牝馬の評価が高く、ナショナルブリーダーズプロデュースSを5馬身差で、英シャンペンSを6馬身差で圧勝して133ポンドの評価を得たミロベラ(3歳時にキングジョージS・ジュライC・チャレンジSと英国の主要短距離戦を勝利している。英2000ギニー馬ビッグゲームの母でもある)、モールコームSを3馬身差で快勝して129ポンドの評価を得たベティ(3歳時にコロネーションSを勝っている)、チェヴァリーパークSを勝ちモールコームSで2着して128ポンドの評価を得たブラウンベティ(3歳時に英1000ギニーを勝っている)などがおり、本馬の評価は全体の8位といったところだった。

競走生活(3歳時)

3歳になった本馬だったが、同厩のミドルパークS2着(3位入線だが繰り上がり)馬スカーレットタイガーに調教で軽く捻られるなど、まるで調子が上がってこなかった。そのために英2000ギニーには間に合わなかった。もっとも、本馬の小柄な馬体から、この英国クラシック競走第1戦には元々出走予定が無かったという意見もある。

結局3歳初戦となったのは5月のチェスターヴァーズ(T12.5F)だった。スタートで出遅れてしまったが、ウェストン騎手が仕掛けると重馬場の中で一気に加速して他馬を抜き去り、2着シャムスディンに2馬身差をつけて勝利した。

そして迎えた英ダービー(T12F)では堂々の1番人気に支持された本馬だが、相変わらず調教で走らなかった影響で単勝オッズは7.0倍に過ぎなかった。しかし英国王ジョージⅤ世やメアリー王妃を含む大観衆の前で、本馬は完璧な走りを見せた。本馬陣営が用意したペースメーカー役のスラプストンが先頭を引っ張る中で、馬群の内側好位を追走。タッテナムコーナーを2番手で回ると、直線に入ったところで「ミサイルのような」加速を見せて瞬く間に他馬を引き離した。最後は2着となった英2000ギニー2着馬キングサーモンに4馬身差をつけて、1927年にコールボーイが計時した2分34秒4を更新する2分34秒0のレースレコード(正確にはエプソム競馬場で行われた英ダービーのレコードタイム)で楽勝した。このタイムは3年後にマームードが2分33秒8を計時して更新されたが、今世紀の英ダービー決着タイムと比べても遜色ない優秀なものである。また、公式な着差は4馬身ではあるが、実際には8馬身くらいは離れていたと言われている。確かに筆者が映像で見ると4馬身差などでは断じてなく、7~8馬身ほどの差はついていた。

当時の英国では、大きな体が競馬に有利とされており、体が小さな本馬はそれだけで大きなハンデを抱えていると見なされていた。そのハンデを克服しての勝利(本馬は歴代英国クラシック競走の勝ち馬の中で最も小さな馬の1頭とされている。1840年の英ダービーを単勝オッズ51倍で勝ったその名もリトルワンダーという馬は体高14.35ハンドであり、この馬が史上最小とされているが、この馬の英ダービー勝利には替え玉疑惑がある)は英国競馬関係者の賞賛の的となった。そればかりか、小柄な馬体で大きな馬達を薙ぎ倒した本馬は、英国民のアイドルとしての地位をも確立した。

次走のプリンスオブウェールズS(T13F)では、小柄な馬体には厳しい131ポンドという斤量が課せられた。しかし16ポンドのハンデを与えた2着シャムスディン(同月の愛ダービーで2着している)に2馬身差で勝利した。しかしこのレース後に後脚の膝骨を痛めてしまった。症状自体はたいした事がなく早い段階で治癒したが、3か月間の休養を余儀なくされた。そのために1戦して英セントレジャーに向かうという予定のスケジュールに狂いが生じた。

それでもラムトン師は、馬衣を着せた本馬を炎天下で調教するという荒業を用いて必死に本馬の馬体を絞り込んだ。そして英セントレジャー(T14F132Y)には何とか間に合った。あまり良い臨戦過程では無かったが、愛ダービー・グリーナムSの勝ち馬で後に愛セントレジャーも勝つハリネロ(日本で種牡馬として大成功したプリメロの全兄)、仏ダービー馬でリュパン賞2着のトール、英ダービーで16着に終わっていたフェリシテーション、スカーレットタイガーなどを抑えて、単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。レースはスタートからフェリシテーションが逃げを打ち、本馬も馬なりのままそれを追って先行した。そして直線で先頭に立つと、最後まで馬なりのまま走り続け、2着フェリシテーションに3馬身差、3着スカーレットタイガーにはさらに首差をつけて快勝した。筆者はこの英セントレジャーの映像を見たことが無いのだが、英ダービーと同じく着差以上に強い勝ち方だったらしい。本馬の強さを見たスタンリー卿は英2000ギニーに本馬を出走させられなかった事をとても残念に思ったという。その後は再び脚を痛めたため、年内は全休となり、3歳時の成績は4戦4勝となった。

競走生活(4歳時)

本馬は翌4歳時も現役を続行した。しかしラムトン師が高齢で体調を崩しがちになったため、ラムトン師の体調を慮ったスタンリー卿は彼との専属契約を解除し、本馬の管理調教師をカレッジ・リーダー師に変更した。もっとも、ラムトン師は調教師を辞めたわけではなく、この11年後に死去するまで馬の調教を続けている事から、スタンリー卿がラムトン師との契約を解除したのは、本馬を英2000ギニーに間に合わせられなかったラムトン師をスタンリー卿が快く思わなかったからだという説もある。しかし2人の長年に渡る信頼関係を考えると、これは信憑性が低い俗説の類であると筆者は考える。

いずれにしてもリーダー師が本馬の新しい調教師となったわけだが、しかし残念ながら本馬とリーダー師は相性が悪く、調教が上手くいかなくなってしまった。リーダー師は怠惰な本馬をハード調教で躾けようとしたが、頑固な性格の本馬には逆効果であり、調教でいきなり走るのを止めるといった事が増えていった。

4歳時は5月にニューマーケット競馬場で行われたマーチS(T10F)から始動した。本馬には138ポンドという厳しい斤量が課せられたが、直線で大きくよれながらもなんとか首差で勝利した。2着となったのは118ポンドの軽量だった未勝利馬のアンジェリコで、3着は132ポンドを背負っていたフェリシテーションだった。

それから12日後のバーウェルS(T12F)では、英ダービー2着後にグレートヨークシャーSを勝っていたキングサーモン(斤量は本馬と同じ136ポンド)にあわやの3/4馬身差2着まで迫られる辛勝だった。

その後に出走予定だったコロネーションCは、脚部不安を抱えるようになった本馬には酷な堅い馬場となったため回避した。本馬不在のコロネーションCを勝利したキングサーモンは、さらにエクリプスSも制覇して英国古馬のトップホースへと上り詰めていった。

一方の本馬は目標としていたアスコット金杯(T20F)に直行する事になってしまった。ただでさえ距離が長い上に、当日は土砂降りとなり、スタミナを余計に消耗する不良馬場となってしまった。レースはフランク・バターズ調教師が「かつて手掛けた最良の長距離馬」と評したアガ・カーンⅢ世殿下所有のフェリシテーションが、カドラン賞を勝って臨んできた2着トールに8馬身差をつけて圧勝し、本馬はトールからさらに1馬身半差の3着に敗れてしまった。なお、このレース直前のパレードにおいて、馬場入口で車椅子に座って観戦していたラムトン師を見つけた本馬はそのまま身動き一つしなくなり、厩務員が散々苦労してようやくパドックまで引かれていったという有名な逸話がある。“Thoroughbred Heritage”といった信頼できる資料にも載っているため、おそらく事実なのだろう。このアスコット金杯の敗因は距離が合わなかったためだとされる事が多いようだが、かつて自分に愛情を注いでくれたラムトン師の事を思い出した本馬が、現況に嫌気が差して走る気を無くした影響もあったのではないかと思われる。

次走のダリンガムS(T12F)は2頭立てのレースとなったが、本馬は142ポンド、対戦相手の3歳馬ケースネス(後に豪州で種牡馬として成功している)は113ポンドであり、その差は実に29ポンドもあった。この過酷な斤量差が応えたのか、最後の競り合いに短頭差で敗れてしまった。結局これが現役最後のレースとなり、4歳時4戦2勝の成績で競走馬を引退した。

本馬が4歳時に振るわなかったのは、一般的に調教師の交代が災いしているとされている(重い斤量が影響したとする見解もあり、筆者も同意見である)。もっともこれはリーダー師が悪いというより、ラムトン師が長い時間をかけて築き上げた本馬との信頼関係を、他の調教師が真似する事など出来なかったのであろう。

馬名はギリシア神話に登場する太陽神ヒュペリオンに由来しており、母シリーンがギリシア神話に登場する月の女神セレーネー(ローマ神話ではルナ)に由来する事からの連想である。

競走馬としての評価

英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が1999年に出版した“A Century of Champions”の平地競走馬部門において本馬には142ポンドのレーティングが与えられており、これは全体の5位(英国調教馬ではブリガディアジェラードの143ポンドに次いで2位)という高評価である。13戦9勝という字面上の競走成績を見ると、本馬の評価が何故こんなに高いのか分かり辛い。種牡馬成績込みだからではないかという意見を見かけたことがあるが、レーティングはあくまで競走時に見せたパフォーマンスに対してのものであるため、その意見は違っている。筆者は本馬が勝った英ダービーの映像を見たが、確かにその勝ち方は素晴らしく、公式記録である「2着馬に4馬身差」を見ただけでは、そのパフォーマンスを想像する事は出来ない。そのため、これは筆者の憶測でしかないが、本馬のレースぶりを実際に見た人は、記録上の数字などでは計りきれない特別な威圧感を感じ取ったのではないだろうか。“サラブレッドの芸術品”とまで評された本馬のカリスマ的競走能力を、筆者のような素人が文章で完全に書き表す事は、悔しいが出来ないのである。

血統

Gainsborough Bayardo Bay Ronald Hampton Lord Clifden
Lady Langden
Black Duchess Galliard
Black Corrie
Galicia Galopin Vedette
Flying Duchess
Isoletta Isonomy
Lady Muncaster
Rosedrop St. Frusquin St. Simon Galopin
St. Angela
Isabel Plebeian
Parma
Rosaline Trenton Musket
Frailty
Rosalys Bend Or
Rosa May
Selene Chaucer St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Canterbury Pilgrim Tristan Hermit
Thrift
Pilgrimage The Palmer
Lady Audley
Serenissima Minoru Cyllene Bona Vista
Arcadia
Mother Siegel Friar's Balsam
Galopin Mare
Gondolette Loved One See Saw
Pilgrimage
Dongola Doncaster
Douranee

ゲインズボローは当馬の項を参照。第一次世界大戦中の英国で三冠代行競走を全て制した馬で、当時は英国三冠馬と認めない風潮もあったが、本馬の登場により、そうした陰口は消滅し、今では立派な英国三冠馬として認められている。

シリーンは当馬の項を参照。→牝系:F6号族②

母父チョーサーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、スタンリー卿がニューマーケットに所有していたウッドランドスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は400ギニーに設定された。種牡馬入りした4年後に第二次世界大戦が勃発して、独国の空襲が始まると、戦火を逃れてヨークシャー州ソーントンスタッドに疎開した。戦火が収まるとスタンリー卿がニューマーケットに所有していたプランテーションスタッドに移り、それから3年後にウッドランドスタッドに戻ってきた。

本馬の種牡馬成績は極めて優秀であり、英愛首位種牡馬は1940・41・42・45・46・55年の6回獲得。1939・44・50・52年にも英愛種牡馬ランキングで2位、1943年にも同3位になっている。産駒は527頭おり、産駒が挙げた勝ち星の総数は752勝、ステークスウイナー数は53頭、産駒のステークス勝利は118勝、英国クラシック競走勝ちは11勝(勝ち馬数は7頭)に上った(英国クラシック競走勝ち以外の数字は資料によって差異がある)。そのため馬産家からの人気は非常に高く、種付け申し込みが殺到したが、スタンリー卿の方針で種付け料は生涯400ギニーのままだった。産駒は英国のみならず米国でも活躍し、ペンシブがケンタッキーダービー・プリークネスSを勝利している。それもあってか、本馬の産駒は種牡馬として米国に導入されるケースも多く、実際にヘリオポリス、カーレッド、アリバイなど多くの馬が米国で種牡馬として活躍する事になった。また、加国に導入された牝駒レディアンジェラは、ノーザンダンサーの父ニアークティックの母となっている。繁殖牝馬の父としても優秀で、1196勝もの勝ち星を挙げ、1948・57・67・68年と4度の英愛母父首位種牡馬に輝いている。第二次世界大戦が激化していた頃、米国の著名な映画プロデューサーだったルイス・バート・メイヤー氏が本馬の購入をスタンリー卿に打診してきたことがあったが、スタンリー卿の返答は「たとえ英国が灰燼に帰したとしても、ハイペリオンは決してこの国から出さない」だった。本馬の購入に失敗したメイヤー氏は、不出走に終わった本馬産駒のアリバイを代わりに導入して、ユアホストを生産する事になる。スタンリー卿のこの姿勢は、多くの有力馬を米国に放出したアガ・カーンⅢ世殿下とは正反対であり、アガ・カーンⅢ世殿下が英国の馬産家達から非難される一因ともなったようである。

種牡馬時代の本馬は、現役時代の頑固さは影を潜めて本来の温厚な性格で毎日を過ごした。牧場の訪問客に対しても常に愛想良く接しており、子どもが頭を撫でても全く問題なかったという。健康面でも何の心配も無く、牧場内を活発に動き回っていたという。1959年に4頭と交配したのを最後に、25年間にも及ぶ種牡馬生活に終止符を打って引退。その翌年1960年の秋に襲来した寒波の影響で体調を崩し、12月9日にウッドランドスタッドにおいて安楽死の措置が執られた。30歳という高齢だった。本馬が息を引き取った時、スタンリー卿はかつてウィンストン・チャーチル元首相が来訪した際の記念だったナポレオン・ブランデーのボトルを開き、「私達の時代における最も偉大な古き友2名(本馬とチャーチル元首相を指す)のために乾杯」と言いながら友人達と酒を飲みかわしたという(当時チャーチル元首相は存命だったが政治の表舞台からはほぼ身を引いていた)。

本馬の骨格はニューマーケットにある動物疾病研究機関アニマル・ヘルス・トラストで展示されていたが、2009年にDNA鑑定を受けることになったニューマーケット競馬博物館保管のエクリプスの骨格(エクリプスの骨格は英国王立獣医科大学で保管されているものが実物であるとされており、これは贋物ではないかとされている)と交換する形で、現在はニューマーケット競馬博物館に展示されている。

後世に与えた影響

本馬はその強力な遺伝力を数多くの後継種牡馬にも伝え、本馬の直系は世界的な繁栄を見せた。本質的にはスタミナに優れた長距離血脈であり、現在のスピード競馬に合わないせいもあってか、直系としての繁栄は影を潜めており、孫のスターキングダムの系統がオセアニアで、同じく孫のフォルリの系統が英国で辛うじて命脈を保っている程度である。しかしその血は現在でも絶大な影響力を保っており、本馬の血を持たないサラブレッドはほとんど存在しない。本馬の死後、ウッドランドスタッドの前にある大通りに、英国の著名な彫刻家兼馬画家だったジョン・スキーピング氏が作成した等身大の銅像が建てられた。この像は後に英国ジョッキークラブの事務所前に移され、自身の血を引く馬達が行き来するのを見守っている。母の父としての主な産駒には、アリシドンサイテーションパーシア、ニアークティック、テスコボーイなどがいる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1936

Admiral's Walk

セントジェームズパレスS

1936

Casanova

デューハーストS

1936

Heliopolis

プリンスオブウェールズS・チェスターヴァーズ・プリンセスオブウェールズS

1936

Hypnotist

リングフィールドダービートライアルS・キングエドワードⅦ世S

1937

Godiva

英1000ギニー・英オークス

1937

Hippius

英チャンピオンS2回

1938

Hyacinthus

ミドルパークS

1938

Orthodox

セントジェームズパレスS

1938

Owen Tudor

英ダービー・アスコット金杯

1938

Sol Oriens

愛ダービー

1938

Sun Castle

英セントレジャー

1939

Hyperides

コロネーションC

1939

Sun Chariot

英1000ギニー・英オークス・英セントレジャー・ミドルパークS・クイーンメアリーS

1941

Hycilla

英オークス・英チャンピオンS

1941

Pensive

ケンタッキーダービー・プリークネスS

1942

Battle Hymn

ロイヤルハントC

1942

High Sheriff

ジュライS

1942

High Stakes

オーモンドS

1942

Rising Light

ジョッキークラブS

1942

Sun Stream

英1000ギニー・英オークス・クイーンメアリーS

1942

Sweet Cygnet

チェヴァリーパークS・チャイルドS

1943

Edward Tudor

チェスターヴァーズ

1943

Gulf Stream

エクリプスS・ジムクラックS・クレイヴンS

1943

Hypericum

英1000ギニー・デューハーストS

1943

Khaled

ミドルパークS・セントジェームズパレスS・コヴェントリーS

1943

Radiotherapy

サセックスS

1943

Sky High

チェスターヴァーズ

1945

Hyperbole

ハンガーフォードS・ロイヤルハントC

1946

Avila

コロネーションS

1946

Helioscope

ハードウィックS

1947

Babu's Pet

キングエドワードⅦ世S

1947

Double Eclipse

プリンセスオブウェールズS

1947

Saturn

ハードウィックS

1948

Eastern Emperor

ジョッキークラブC・ヨークシャーC

1948

Staffa

伊オークス

1949

Choir Boy

ロイヤルハントC

1949

Judicate

愛セントレジャー

1949

Kara Tepe

クレイヴンS

1949

Mister Cube

ジョッキークラブS

1949

Moon Star

パークヒルS

1949

Nicky Nook

プリンセスロイヤルS

1949

Refreshed

ランボーンS

1950

Aureole

キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・コロネーションC・リングフィールドダービートライアルS・カンバーランドロッジS・ハードウィックS

1951

Hypera

ホワイトローズS

1952

Solarium

ロイヤルロッジS

1953

Hornbeam

グレートヴォルティジュールS

1954

Ommeyad

愛セントレジャー

1957

High Hat

オックスフォードシャーS

1958

Opaline

チェヴァリーパークS・セーネワーズ賞

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