ゲイタイム

和名:ゲイタイム

英名:Gay Time

1949年生

栃栗

父:ロックフェラ

母:ダーリングミス

母父:フェリシテーション

競走馬としては英ダービーで惜しくも敗れるなどあと一歩だったが豊富なスピードで昭和40年頃の日本競馬界をリードした名種牡馬となる

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績17戦6勝2着5回3着2回

誕生からデビュー前まで

英国産馬で、当初はジミー・V・ランク氏という人物の所有馬だった。英国ノエル・カノン調教師に預けられた。

競走生活(3歳前半まで)

2歳時にケンプトンパーク競走場で行われたリヴァーミードS(T6F)でデビューして勝利。次走のリッチモンドS(T6F)では、ニューS・ジュライSを勝ってきたボブメジャーを半馬身差の2着に退けて勝利。続くソラリオS(T7F)でも、ホーリスヒルSの勝ち馬エイチヴィーシーとの首差の接戦を制して勝利した。その後はウィンザーキャッスルS(T5F)でインディアンヘンプの2着、ナーサリーH(T6F)も頭差2着に終わり、2歳時を5戦3勝で終えた。

3歳時はソールズベリー2000ギニートライアル(T7F)から始動するが、後のサセックスS・ハンガーフォードS・チャレンジSの勝ち馬アジテーター、後のキングエドワードⅦ世Sの勝ち馬キャッスルトン、後のプリンセスオブウェールズSの勝ち馬ローソンといった実力馬達に屈して、アジテーターの5着に敗退。

本番の英2000ギニー(T8F)では、フォンテーヌブロー賞を勝ってきたサンダーヘッド、ミドルパークS・コヴェントリーSの勝ち馬で後にセントジェームズパレスSを勝つキングスベンチ、後のクイーンアンS・エクリプスSの勝ち馬アーガーなどに歯が立たず、サンダーヘッドの着外に敗れ去った。その3週間後には、ソールズベリー競馬場でドルイドS(T10F)に出走。当時16歳のレスター・ピゴット騎手を鞍上に、3馬身差の完勝を収めた。ピゴット騎手は、英2000ギニーから僅か3週間で本馬は見違えるように成長していたと後年になって述懐している。

ピゴット騎手とコンビを組んで出走した1週間後の英ダービー(T12F)では、単勝オッズ26倍の11番人気という低評価だったが、ピゴット騎手はかなり高い確率で勝てると内心で思っていたという。しかし結果は直線で先に抜け出した単勝オッズ6.5倍の1番人気馬タルヤーが勝利を収め、追いつけなかった本馬は3/4馬身差の2着と惜敗した(本馬から1馬身差の3着は、ダフニ賞・エドモンブラン賞・アルクール賞の勝ち馬で仏グランクリテリウム2着の仏国調教馬フォーブルだった)。英2000ギニー馬サンダーヘッド、同3着だったアーガー、サンロマン賞・グレフュール賞を勝っていた仏国調教馬シルネー(後にパリ大賞と凱旋門賞で2着)、オカール賞2着馬ワードン(後にワシントンDC国際S・ローマ賞などを勝利)といった人気馬勢を退けており、人気薄だった事を思えば予想外の好走だったが、勝つ自信があったピゴット騎手にとってはおそらく不満だったと思われる。ピゴット騎手の親友だった競馬解説者サー・ピーター・オサリバン氏は、本馬が最後の直線走路でタルヤー鞍上のチャールズ・“チャーリー”・スマーク騎手(当時45歳で、既に英ダービーを2勝していた)により妨害を受けたため、レース後にピゴット騎手は異議申し立てを行おうとしたが、僅か16歳の若造の異議に耳を貸す者はいなかったのだと後年に述懐している。筆者がこの競走の映像を確認すると、確かにゴール前でタルヤーが右側に斜行しており、タルヤーの右側後方から追い上げてきた本馬が勢いを殺がれているのが見て取れる。筆者が見たのはパトロールビデオではないから断言は出来ないが、進路妨害の裁定が下されても不思議ではないとは感じた。しかし結果は覆らず、ピゴット騎手はこの後に本馬の鞍上から去ることになってしまった。

競走生活(3歳後半以降)

この英ダービー直後、本馬は6月2日にウェストミンスター寺院で戴冠式を行ったばかりの英国エリザベスⅡ世女王陛下の所有馬となった。エリザベスⅡ世女王陛下は後に英国内で実施される大競走の大半を制覇する名馬主となる(勝っていないのは英ダービーくらいである)が、本馬は女王陛下が所有した最初の有力馬である。エリザベスⅡ世女王陛下は早速本馬を、自身の両親の名を冠したキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(T12F)に出走させた。ここではエクリプスSを勝ってきたタルヤーよりも先に仕掛けて、残り1ハロン地点で先頭に立った。しかしすぐに外側からタルヤーに並びかけられると、競り負けて首差の2着に惜敗した(本馬から1馬身半差の3着はワードンだった)。

その後は8月のゴードンS(T12F)に出走して、単勝オッズ1.13倍という圧倒的な1番人気に応えて、1馬身半差で勝利。そして9月の英セントレジャー(T14F132Y)に向かった。自身の所有馬が初めて英国クラシック競走に参戦するということで、ドンカスター競馬場にはエリザベスⅡ世女王陛下が訪れて観戦した。レースでは3番手を進むも、直線に入ってから伸びず、勝ったタルヤーから7馬身以上離された5着と完敗し、英国クラシック競走の戴冠は成らなかった(エリザベスⅡ世女王陛下の所有馬として英国クラシック競走を初制覇したのは1957年の英オークス勝ち馬カロッツァで、英セントレジャー制覇は1977年のダンファームリンまで待たなければならなかった)。3歳時は英セントレジャーが最後のレースとなり、この年の成績は7戦2勝だった。

4歳時も現役を続け、3月にニューマーケット競馬場で行われたマーチS(T10F)から始動した。このレースには、一昨年の第1回キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSでシュプリームコートの3/4馬身差2着だったプリンセスオブウェールズSの勝ち馬ズクロも出走していたが、本馬が2着ルシウスに2馬身差で勝利した。次走のバーウェルS(T12F)では、英セントレジャー2着馬キングスフォードの3着。レッドホースプレート(T10F)では、マイケルの1馬身半差2着に敗退。コロネーションC(T12F)では、本馬が勝ったマーチSで3着だったズクロが、前年のワシントンDC国際Sの勝ち馬ウィルウィンを2着に、ワードンを3着に破って勝利を収め、本馬はズクロから10馬身半差をつけられた5着に敗れた。次走のハードウィックS(T12F)で、後に日本で種牡馬としても対戦する仏2000ギニー・フォレ賞・ガネー賞の勝ち馬ガーサントの18馬身差3着に敗れたのを最後に、4歳時5戦1勝の成績で競走馬を引退した。

4歳後半の不振は、おそらく父ロックフェラから受け継いでしまった喘鳴症を発症していたことが原因である。

血統

Rockefella Hyperion Gainsborough Bayardo Bay Ronald
Galicia
Rosedrop St. Frusquin
Rosaline
Selene Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Serenissima Minoru
Gondolette
Rockfel Felstead Spion Kop Spearmint
Hammerkop
Felkington Lemberg
Comparison
Rockliffe Santorb Santoi
Countess Torby
Sweet Rocket Rock Flint
Bustle
Daring Miss Felicitation Colorado Phalaris Polymelus
Bromus
Canyon Chaucer
Glasalt
Felicita Cantilever Bridge of Canny
Lighthead
Best Wishes Neil Gow
Simonath
Venturesome Solario Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Sun Worship Sundridge
Doctrine
Orlass Orby Orme
Rhoda B.
Simon Lass Simontault
Kilkenny Lass

父ロックフェラは、名馬ハイペリオンと英1000ギニー・英オークスを勝った名牝ロックフェルとの間に産まれた超良血馬だが、気管に持病を持ち、競走馬としては6戦3勝、主な勝ち鞍はセフトンパークSという程度に終わった。しかし種牡馬としては、英2000ギニー馬ロカヴォン、愛2000ギニー・クイーンエリザベスⅡ世Sの勝ち馬リナクレ、デューハーストS・ドーヴィル大賞の勝ち馬バウンティアス、ヨークシャーオークス馬アウトクロップ、ヨークシャーオークス馬ウエストサイドストーリー、チェヴァリーパークSの勝ち馬リッチアンドレア、伊1000ギニー・伊オークスの勝ち馬アンジェラルセライ、加国際CSSの勝ち馬ロッキーロワイヤル、ジョンポーターSの勝ち馬チャイナロックなどを出して成功した。本馬の他に、チャイナロックとバウンティアスが日本で種牡馬として成功した。

母ダーリングミスは現役成績13戦1勝だが、その産駒には、本馬の全弟エロップメント【カンバーランドロッジS・ハードウィックS】、同じく本馬の全弟で後に日本に輸入されたキャッシアンドカリッヂ【プリンセスオブウェールズS】がいる。また、本馬の全姉フラッターの孫にはハンブルデューティー【英1000ギニー・チェヴァリーパークS・コロネーションS・サセックスS】、マンドレイクメジャー【フライングチルダースS(英GⅠ)】が、半妹ミストレスジーン(父シャントゥール)の孫にはジャシンス【チェヴァリーパークS(英GⅠ)・コロネーションS(英GⅡ)】、曾孫にはキャロティーン【イエローリボンS(米GⅠ)・パンアメリカンH(米GⅠ)】が、半妹アリスデリシア(父アリシドン)の牝系子孫にはダンスーズデュスワール【仏1000ギニー(仏GⅠ)・フォレ賞(仏GⅠ)】、キングストンヒル【英セントレジャー(英GⅠ)・レーシングポストトロフィー(英GⅠ)】が出ており、ダーリングミスは今世紀も続く優れた牝系の祖となっている。

ダーリングミスの伯父には昭和初期の日本競馬界をリードした大種牡馬シアンモアがいる。また、ダーリングミスの従姉妹の曾孫にはネヴァービートもおり、日本で種牡馬として活躍した馬の名前が多く見られる牝系である。近親とは言えないが、アレクサンドローヴァ【英オークス(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)・ヨークシャーオークス(英GⅠ)】、モンテプリンスとモンテファストの天皇賞馬兄弟、東京優駿の勝ち馬ウィナーズサークル、チアズグレイスとアローキャリーの2頭の桜花賞馬、宝塚記念馬ダンツフレーム達も同じ牝系。→牝系:F21号族①

母父フェリシテーションは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は英国ナショナルスタッドでの種牡馬入りが検討された。しかし喘鳴症を発症している本馬を英国ナショナルスタッドで供用するのは不適当ではないかという意見が出された。英国国会における議論の末に英国ナショナルスタッドにおける種牡馬入りは棄却されてしまった。この時期に日本政府も本馬を輸入する事を検討していた(ちょうど日本中央競馬会が発足する直前の話である)。日本政府は本馬が喘鳴症を患っている事も知っていたが、最終的には本馬の購入に踏み切り、本馬は1954年から日本で種牡馬供用されることになった(英国国会における議論では、獣医が日本における種牡馬入りには問題ないとする見解を示したと記録されている。なお、本馬は第二次世界大戦後初の本邦輸入種牡馬であると日本語版ウィキペディアに記載されているが、実際には1952年に輸入されたライジングフレームの方が早い)。日本では二冠馬メイズイを筆頭に数々の重賞勝ち馬を出し、種牡馬として大きな成功を収めた(ただし同時期にライジングフレームやヒンドスタンがいた影響で首位種牡馬を獲得することは出来なかった)。豊富なスピードを武器に中距離戦を押し切る産駒が多く、逆にスタミナが要求される長距離戦は不得手で、菊花賞や天皇賞の勝ち馬は出せなかった。1970年に21歳で他界した。多くの活躍馬を出した本馬だが、当時の内国産種牡馬不遇の時勢を反映して、後継種牡馬は全て失敗に終わり、本馬の直系は3代続くことなく途絶えてしまった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1955

エータイム

朝日チャレンジC・川崎記念(川崎)・大井記念(大井)

1955

タジマ

東京牝馬特別

1955

ホマレリュウ

宝塚盃

1956

カネチカラ

中山金杯・ダイヤモンドS

1956

メイタイ

スプリングS

1957

ヴァイオレット

東京牝馬特別・キヨフジ記念(川崎)

1958

グランドタイム

ダイヤモンドS

1959

アサマフジ

東京盃

1959

カツラエース

迎春賞

1959

キクノハタ

東京牝馬特別

1959

ゲイリング

川崎記念(川崎)・ダイオライト記念(船橋)

1959

ナスノミドリ

中山記念

1959

ヒガシミノル

クイーン賞(船橋)・キヨフジ記念(川崎)

1959

フェアーウイン

東京優駿

1959

ボールドプライド

羽田盃(大井)

1959

リュウゼット

クイーンS・大阪盃

1960

ニシノウチ

東京障害特別秋

1960

メイズイ

皐月賞・東京優駿・スプリングS・クモハタ記念・スワンS

1961

フジイサミ

日本経済賞・中山記念

1961

フラミンゴ

きさらぎ賞

1963

タイヨウ

宝塚記念・中京大賞典

1963

ホクエツオー

地全協会長賞(新潟)3回・日本中央競馬会理事長賞典(新潟)2回・三条記念(三条)・花笠杯(上山)

1964

クインサーフ

東京障害特別春

1964

ハクセンショウ

福島記念・新潟記念・中日新聞杯・金鯱賞

1965

クリアヤメ

カブトヤマ記念

1967

カヤヌマタイム

黒潮盃(大井)・報知オールスターC(川崎)・東京記念(大井)

1967

シェスタイム

大平原賞(帯広)・金杯(岩見沢)・道営記念(札幌)・日本中央競馬会理事長賞(函館)

1967

ダイホウゲツ

中京記念

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