和名:ホーリックス |
英名:Horlicks |
1983年生 |
牝 |
芦毛 |
父:スリーレッグス |
母:モルト |
母父:モストゥルーパー |
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ジャパンCでオグリキャップとの死闘を制して驚異的な世界レコードで制し日本でも非常に有名となった新国が世界に誇る芦毛の女傑 |
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競走成績:3~7歳時に新豪日で走り通算成績40戦17勝2着10回3着2回 |
1989年のジャパンCを驚異的な世界レコードで優勝して日本国内でもその名を轟かせた新国の女傑。本馬が勝ったジャパンCは平成の競馬ブームの最中であり、オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの所謂平成3強は全て出走していた。そしてオグリキャップの猛追を凌ぎきって勝利した本馬は、日本において最も有名な新国調教馬であり、日本中央競馬会が2012年に放送したジャパンCのテレビCMにおいて主役を務めたほどだった。それ故に本馬について紹介した日本の資料は数多くあるのだが、海外における資料は予想外に少なく(豪州調教馬の資料を見つけるのは比較的容易だが、本馬のような新国調教馬の資料は見つからない)、筆者の微力では詳しい資料を見つける事が出来なかった。日本の資料のほうが余程詳しいために、本項は海外の資料より日本の資料のほうが主な根拠になる事を御了承願いたい。
誕生からデビュー前まで
新国の馬産家グラハム・W・デ・ギルシー氏により、ニュージーランド北島の東岸にある町ヘイスティングスの近郊にあるオカウスタッドにおいて生産された。幼少期の本馬が期待馬だったか否かについては日本の資料においても差異がある(デビュー前は低評価だったとする資料が多い)のだが、ギルシー氏が銀行から融資を受けるために所有する馬を担保に入れた際に、当時1歳だった本馬に関しては担保の対象に含めずに自分の保護下に置いたと海外の資料に書いてあるから、少なくともギルシー氏は本馬に対して期待を寄せていたようである。
幼少期の本馬を評価したのは、ニュージーランド北島のマタマタという町(同島北部にある同島最大の都市オークランドの近郊にある町)に厩舎を構えていたデヴィッド・オサリバン調教師と息子のポール・オサリバン調教助手の両名も同じであった。本馬に感銘を受けた両名はギルシー氏に申し出て、本馬を自分達に預からせてもらった。しかし本馬の仕上がりは遅く、デビューは3歳になってからだった。
競走生活(3歳時)
3歳も半ばに差し掛かった86/87シーズンの12月暮れに、オークランドの近郊にあるタウランガ競馬場で行われた芝1300mの未勝利戦でデビューした。地元では名を馳せていたオサリバン一家が満を持して送り出してくる馬という事で、鳴り物入りのデビューだったらしいが、結果はタンゴプリンセスの2着に敗退。
年明け1月に、これもオークランドの近郊にあるプケコヘ競馬場で出走した芝1300mの未勝利戦では、主戦となるランス・アンソニー・オサリバン騎手(オサリバン師の息子で、オサリバン調教助手の弟)と初コンビを組んで勝利した。続いてニュージーランド北島の西海岸にある町ハウェラにあるハウェラ競馬場で行われた芝1400mの下級条件競走に出走して2着。3月に出走したアヴォウンデール競馬場(これもオークランドの近郊にある)芝1200mの下級条件競走では勝利した。
4月にはエラズリー競馬場(これもオークランドの近郊にあり、新ダービーなどの大競走が行われる新国有数の競馬場)で行われた芝1300mの上級条件競走に出たが、ここでは5着に敗退。その2週間後に出たエラズリー競馬場芝1600mの中級条件競走でも6着に敗退した。
エラズリー競馬場では通用しなかった本馬は、5月に地元のマタマタ競馬場で行われた芝1600mの中級条件競走に出て、ここでは勝利した。さらに4日後に出走したテラパ競馬場(これもオークランドの近郊にある)芝1600mのオープン競走も、この年のホワイトHの勝ち馬ジミーテコバイを2着に抑えて勝利し、3歳シーズンを8戦4勝の成績で終えた。
競走生活(4歳時)
3歳時の本馬は当初の期待からすると振るわない平凡な競走馬に過ぎなかったが、4歳(87/88シーズン)になると徐々に頭角を現し始めた。もっとも、4歳初戦となった8月のエラズリー競馬場芝1200mのオープン競走は、最終的に104戦11勝の成績を挙げる2歳年上のマシューライアンの4着に敗退。9月には生誕の地ヘイスティングスにあるヘイスティングス競馬場に向かい、芝1400mの上級条件競走に出たが、同世代の牝馬ラチチュードの9着と惨敗した。
地元に戻ってきた本馬は、11月にオークランド近郊の町パエロアにあるパエロア競馬場に向かい、芝1400mのオープン競走に出走して勝利。次走は、12月にテラパ競馬場で行われたダルシーS(T1600m)となった。前評判は低かったが、ガリリーSを勝っていた3歳年上の牝馬コシャ(新国GⅠ競走3勝馬サーフェスの母)以下に勝利を収めた。
年明け初戦は、エラズリー競馬場で行われたフラッグインズトロフィー(新GⅡ・T1600m)となった。ここでは2番人気に推されたのだが、デザードゴールドS・リンダウァーS・ライオンレッドSとGⅡ競走を既に3勝していたトライベルの5着に敗れてしまった。2月にテラパ競馬場で行われた芝1600mのオープン競走は、2着ミスティトパーズ以下に勝利を収めた。
それから2週間後にエラズリー競馬場で行われたニュージーランドS(新GⅠ・T2000m)でGⅠ競走に初挑戦した。ここでは、1頭の強敵が本馬の前に立ち塞がった。それは、新ダービー・ニュージーランドSと新国でGⅠ競走を2勝した後に豪州に主戦場を移し、タンクレッドS・AJCダービー・アンダーウッドS・コーフィールドS・コックスプレート・オーストラリアンCと豪州GⅠ競走で6勝を挙げていた5歳騙馬ボーンクラッシャーだった。レースでもボーンクラッシャーが実績どおりの力を発揮して勝利を収めた(コースレコードとする資料があったが事実とは違う)が、本馬も初めての2000m戦だったにも関わらず2着に食い込み、その実力を着実に伸ばしてきている事を示した。
その後はアワプニ競馬場(ニュージーランド北島の南部にある学生町パーマストンノースにあり、新国2歳最強馬決定戦マナワツサイヤーズプロデュースSが施行される競馬場)に向かい、アワプニ金杯(新GⅡ・T2000m)に出走した。このアワプニ金杯はGⅡ競走であり、賞金総額は10万ドルとそれほど高額でもないのだが、不思議なことにこのレースの勝ち馬は後に新国競馬の殿堂入りを果たすような名馬に出世することが多く、本馬や後に本項で少し触れるキンダガートンを含めて10頭が殿堂入りするという、新国の名馬の登竜門的なレースであり、マナワツサイヤーズプロデュースSと並び称せられる同競馬場の名物競走だった。そしてこのレースで1番人気に支持された本馬は、同世代の新2000ギニー勝ち馬スティーリーダン、1歳年上のイースターH・TVニュージーランドSの勝ち馬フィールドダンサー以下を相手にあっさりと勝ってしまった。
そしてアワプニ金杯を勝った馬は出世する傾向があるというのは、本馬の次走TVニュージーランドS(新GⅠ・T2000m)において早くも立証され、ニュージーランドSで本馬を負かしたボーンクラッシャーを2着に破ってGⅠ競走勝ち馬となった。レース翌日の新聞には“Horlicks holds out Crusher(ホーリックスがクラッシャーの攻撃を持ちこたえました)”という見出しが躍った。
しかしその2週間後にタウランガ競馬場で出走したニュージーランドジャパン国際トロフィー(新GⅡ・T1600m)では、フィールドダンサーの4着に敗退。4歳時は10戦5勝の成績となったが、それでも条件競走をうろうろしていた前年に比べると大きな飛躍を遂げた年となった。
競走生活(5歳時)
翌88/89シーズンは、前年同様に8月にエラズリー競馬場で行われた芝1200mのオープン競走から始動。前年は4着に負けてしまったが、この年は2着カイラウラッド以下に勝利した。次走は9月にワンガヌイ競馬場(ニュージーランド北島の西海岸にあるワンガヌイという町にある)で行われたティムロジャースS(新GⅢ・T1600m)となった。このレースには3年前のジャパンCに参戦してシンボリルドルフの3着と健闘していたニュージーランドSの勝ち馬ザフィルバートの姿もあったのだが、本馬がザフィルバートを2着に破って勝利した。続いてアヴォンデール競馬場で行われた芝1400mのオープン競走に出走したが、ここでは新国のGⅡ競走フランクパッカープレートの勝ち馬で新1000ギニー2着のセレストリナの2着に敗れた。しかし10月にエラズリー競馬場で行われたウォーレンサンドマンS(T2000m)では、2着ナボット以下に勝利した。
これまでは新国内のレースしか走った事が無い本馬だが、ここで豪州に初めて遠征。目標は前走から2週間後のコックスプレート(豪GⅠ・T2040m)だった。レースでは前年の同競走2着馬アワポエティックプリンスがGⅠ競走初勝利を挙げ、本馬は1馬身1/4差の2着に敗れた(3着はボーンクラッシャーだった)が、本馬の実力は新国内だけでなく豪州でも通用する事が示された。
初の豪州遠征はひとまずこの1戦のみで終えて帰国し、次走は12月末にエラズリー競馬場で行われたキングズプレート(T1600m)となった。しかし遠征の疲労が取れ切れていなかったのか、インフィニットシークレットの5着に敗戦。年明け1月に出走したエラズリー競馬場芝2100mのオープン競走では、新星リーガルシティの4着に敗れた。翌2月にテラパ競馬場で行われた新国際S(新GⅡ・T2000m)でも、リーガルシティの2着に敗れた(3着はアンポルS・レイルウェイH・マニカトSとGⅠ競走で3勝を挙げることになるウェストミンスターだった)。
翌3月にはエラズリー競馬場でDBドラフトクラシック(新GⅠ・T2100m)に出走。このレースは新国で初めての100万ドル競走としてこの年に創設されたばかりの国際競走であり、リーガルシティやウェストミンスターを始めとする地元新国の有力馬だけでなく、英国調教馬ハイランドチーフテンなどが出走してきた。しかし道中は好位を追走した本馬が直線入り口4番手から、逃げるリーガルシティをゴール前で計ったように差し切り、2分07秒09のコースレコードで優勝して1番人気に応えた。
5歳時の成績は9戦4勝だった。なお、この時期から陣営はジャパンCを目標とした特別訓練を開始しており、本馬にスタミナ調教を施したり、輸送に伴う隔離状態に慣れさせるために牧場に専用の馬小屋を建てて1頭で過ごさせたりしていたという。
競走生活(6歳初期)
翌89/90シーズンは、3年連続で8月にエラズリー競馬場で行われた芝1200mのオープン競走からの始動となった。結果は、2歳年下のルールイナフの2着だった。次走は、9月にマートン競馬場(新国の首都ウェリントンの近郊にある町マートンにある)で行われたホンダメートリックマイル(T1600m)となったが、ミッキーズタウン(後年にGⅠ競走キャプテンクックSを勝っている)の2着に敗れた。10月にマタマタ競馬場で出走した芝1600mのオープン競走でもミッキーズタウンの5着に敗れた。
これでシーズン3連敗スタートとなってしまった本馬だが、今にして思えばこの時期はジャパンCに向けた特別訓練の最中であり、調整途上だった。その証拠に、2度目の豪州遠征となった11月のマッキノンS(豪GⅠ・T2000m)では、ヴィクトリアダービー・オーストラリアンギニーの勝ち馬キングスハイ、ウィリアムレイドS・豪フューチュリティS・ウインフィールドS・オーストラリアンC・ジョージメインSと豪州GⅠ競走で5勝を挙げていたヴォローグ、後年にコックスプレートなど豪州GⅠ競走で8勝を挙げるスーパーインポーズ以下を寄せ付けず、中団から直線で豪快に差し切って2着キングスハイに1馬身差をつけ、2分00秒3のレースレコード(後の1999年に同年のメルボルンCの勝ち馬ローガンジョシュがタイレコードを出しているが、2015年現在でも未だに更新されていない)を樹立して豪州GⅠ競走制覇を果たした。
第9回ジャパンC
そしてこの年のオセアニア地区代表馬として第9回ジャパンCに出走することが正式に決定した本馬は、出走予定の海外馬の中では真っ先に来日してきた。そして南半球とは真逆の季節であった日本の気候に慣れさせるため、オサリバン師親子と、当時20歳にもなっていない若い女性だった担当厩務員バネッサ・バリー女史は入念に本馬の曳き運動を行って身体面の維持に努め、さらには必要に応じて日光の下で放牧させるなどして精神面のケアにも努めた。そのため、本馬は万全の状態でジャパンC(日GⅠ・T2400m)を迎えることが出来た。
しかし、本馬が出走する以前のジャパンCにおけるオセアニア代表馬の成績は全般的に不振だった。第5回において前述のザフィルバートがシンボリルドルフの3着に入ったのが最高で、第3回のマクギンティ(ジョージアダムスH・ニュージーランドS・カンタベリーギニー・コーフィールドSとGⅠ競走4勝)はスタネーラの1馬身差5着。第4回のストロベリーロード(ローズヒルギニー・AJCダービー・クイーンズランドダービー・コックスプレートと豪州GⅠ競走4勝に加えて独国のGⅠ競走バーデン大賞にも勝っていた)はカツラギエースの7着。本馬と同じくオサリバン厩舎が送り出したアワウェイバリースターは、第6回で前哨戦の富士Sを勝って挑むもジュピターアイランドの5着、チッピングノートンSを勝って挑んだ第7回でルグロリューの9着。本馬と好勝負を演じていたボーンクラッシャーも前年の第8回でペイザバトラーの8着に敗れていた。
しかもこの年のジャパンCは史上稀に見る好メンバーが揃っていた。日本馬勢からは、菊花賞・天皇賞秋・京都大賞典の勝ち馬スーパークリーク、有馬記念・マイルCS・ニュージーランドトロフィー四歳S・高松宮杯・毎日王冠2回・ペガサスS・毎日杯・京都四歳特別・オールカマーの勝ち馬で天皇賞秋2着2回のオグリキャップ、天皇賞春・宝塚記念・東京王冠賞・東京大賞典の勝ち馬イナリワンの所謂平成3強。さらには、一昨年の安田記念を筆頭に日経新春杯・産経大阪杯・シンザン記念・毎日杯を勝ちこの年の宝塚記念で2着していたフレッシュボイス、この年の安田記念・スワンSの勝ち馬で前走マイルCSではオグリキャップと激闘を演じて2着したバンブーメモリー、牡馬を蹴散らして南関東三冠馬となっていた地方競馬史上最強牝馬ロジータ、この年の目黒記念の勝ち馬キリパワー、アメリカジョッキークラブC・日経賞・福島記念の勝ち馬で天皇賞春2着のランニングフリーが参戦。
対する海外馬勢も、凱旋門賞・愛チャンピオンS・バーデン大賞・プリンセスオブウェールズSの勝ち馬で、伊ダービー2着・ベルリン銀行大賞・伊ジョッキークラブ大賞3着のキャロルハウス。目下4連勝中のノーフォークS・セクレタリアトS・オークツリー招待H・デルマーダービーの勝ち馬で、特に前走オークツリー招待Hでは芝12ハロンの世界レコード2分22秒8を計時していたホークスター。前年のジャパンCで、タマモクロス、オグリキャップ、トニービン、ボーンクラッシャーなどを蹴散らして勝っていたレッドスミスHの勝ち馬でボーリンググリーンH・マンノウォーS・パンアメリカンH・オークツリー招待H2着のペイザバトラー。イタリア大賞・オイロパ賞・ドーヴィル大賞・モーリスドニュイユ賞・ジェフリーフリアSの勝ち馬で現在4連勝中のイブンベイ。伊ジョッキークラブ大賞・ハードウィックS・セプテンバーS・カンバーランドロッジSの勝ち馬アサティス。ロワイヤルオーク賞・ケルゴルレイ賞・ベルトゥー賞・バルブヴィル賞を勝っていたスタミナ自慢のトップサンライズといった有力馬が揃っていた。
こうした国内外の強豪馬勢の前では、過去に不振だったオセアニア調教馬で、しかも6歳(旧表記では七歳)の高齢牝馬という本馬の存在はいかにも小さかった。
前走の天皇賞秋でオグリキャップを破り、臨戦過程では最も優れていたスーパークリークが単勝オッズ4.6倍の1番人気、マイルCSからの連闘による疲労が懸念されていたオグリキャップが単勝オッズ5.3倍の2番人気、前走の勝ちタイムが評価されたホークスターが単勝オッズ5.6倍の3番人気、イブンベイが単勝オッズ7.3倍の4番人気、アサティスが単勝オッズ7.5倍の5番人気、ペイザバトラーが単勝オッズ8.6倍の6番人気、キャロルハウスが単勝オッズ8.9倍の7番人気、イナリワンが単勝オッズ14倍の8番人気と続き、単勝オッズ19.9倍の9番人気にようやく本馬の名前が出てくる状況だった。
東京競馬場に詰め掛けた大観衆の熱気に包まれる中でゲートが開くと、本馬が真っ先に飛び出して先頭を伺い、その本馬を外側からイブンベイが強引にかわして先頭に立った。事前予想では、オークツリー招待Hで逃げて世界レコードを樹立していたホークスターが今回も逃げると思われていたのだが、イブンベイが猛然と先頭を飛ばしたために、ホークスターは仕方なく2番手に控えた。そしてさらに1馬身ほど後方の3番手に本馬、さらに5馬身ほど後方の4番手にオグリキャップ、その直後5番手にスーパークリークがつける展開となった。ホークスターを道中で最大3~4馬身ほど引き離して逃げたイブンベイが刻んだペースは異常なほど速く、最初の1000m通過が58秒5、1200m通過は1分10秒5、1400m通過が1分22秒5、1600m通過は1分34秒1、1800m通過が1分45秒8、2000m通過は1分58秒0、2200m通過に至っては2分09秒9と、各距離区間における累計タイムが軒並み当時の日本レコードに匹敵するかそれより速いほどの超絶ハイペースとなった。それにも関わらず本馬は楽に3番手を追走していった。三角に入ったところでホークスターがイブンベイに並びかけていき、本馬も四角で前の2頭に接近していった。さらに後方からはオグリキャップとスーパークリークの2頭も前との差を詰めにかかってきた。内側のイブンベイ、真ん中の本馬、外側のホークスターの3頭が直線入り口で横一線となったが、その中から本馬が抜け出した。そこにオグリキャップが、スーパークリークを置き去りにして外側から追い上げてきた。2頭の馬体は離れていたが、本馬鞍上のオサリバン騎手とオグリキャップ鞍上の南井克巳騎手はいずれも必死の風車鞭を飛ばし、まるで叩き合いになっているかのような激戦が展開された。そして遂に本馬がオグリキャップを首差抑えて優勝。
勝ち時計の2分22秒2は、一昨年のジャパンCでルグロリューが計時した日本レコード2分24秒9を一気に2秒7も更新するという想像を絶する驚異的な日本レコードであり、同時に世界レコード(海外の資料においても“a world record time”と書かれている。なお、本馬の世界レコードは、2005年のジャパンCにおいてアルカセットが2分22秒1を計時するまで破られなかったとも書かれていたが、実際には1999年に亜国のGⅠ競走カルロスペルグリニ大賞においてアシデロが2分21秒98を計時しており、この時点で更新されている)でもあった。鞍上のオサリバン騎手はレース後のインタビューで「この1戦にオセアニアの威信を懸けていました。これで負けるようなら、オセアニアの馬のレベルが下であることを我々は嫌でも認めるしかありませんでした。だからいま、自分は最高の感激に浸っています。こんな感激は初めてです」と語った。オサリバン師は、第二次世界大戦中における新国競馬で猛威を振るった伝説的名馬キンダガートン(アワプニ金杯・ウェリントンC・グレートノーザンダービー・イースターH2回・オークランドCに勝つなど35戦25勝の成績を挙げた。21世紀になった今日においても新国競馬史上最強馬であると言われており、本馬に先んじて初年度で新国競馬の殿堂入りを果たしている)を本馬は超えたと語った。このジャパンCの模様は新国や豪州でも中継されており、新国や豪州の国民達を熱狂の渦に巻き込み、後に新国では本馬の姿が描かれた切手が発売された。そして本馬の名前は、2の数字が4つ並ぶという覚えやすい勝ちタイムと共に日本の競馬ファンの記憶にも刻まれることとなったのである。
競走生活(6歳後半)
帰国後はしばらく休養を取り、復帰戦は年明け3月のDBドラフトクラシック(新GⅠ・T2100m)だった。後にオークランドC・コーフィールドSも勝ってGⅠ競走3勝馬となる新ダービー馬キャッスルタウン、後にアンダーウッドS・マッキノンS・新国際SとGⅠ競走を3勝するザファントムなどが対戦相手となったが、先行して直線で抜け出す横綱相撲を見せた本馬が、2着ザファントムに1馬身差をつけて、自身のコースレコードを更新する2分07秒08の勝ちタイムで見事に連覇を果たした。なお、DBドラフトクラシックはこの年限りで廃止となったため、同競走の勝ち馬は結局本馬だけという事になった。
続いて豪州に遠征し、セジェンホーS(豪GⅠ・T2000m)に出走したが、5着に敗退。勝ったのは、ホンダS・ウインフィールドS・レイルウェイSといった豪州GⅠ競走を立て続けに勝ってきた上がり馬ベタールースンアップだった。次走のザBMW国際S(豪GⅠ・T2400m)では、ベタールースンアップ(6着)には先着したものの、セジェンホーS2着馬シデストン(ベタールースンアップの好敵手となる)の3着に終わり、豪州を後にした。
しかし帰国して出走したTVニュージーランドS(新GⅠ・T2000m)では、先行して直線で抜け出すと後続馬を一気に引き離し、2着ミッキーズタウンに4馬身差をつけて2年ぶりの同競走勝利を挙げ、6歳時の成績は9戦4勝となった。
競走生活(7歳時)
翌90/91シーズンは、8月にテラパ競馬場で行われたソヴリンロッジプレート(T1400m)から始動したが、ミッキーズタウンの3着に敗れた。ヘイスティングス競馬場に向かって9月に出走したバイアリーサラブレッドS(T1400m)も、GⅠ競走ウェリントンCの勝ち馬フライングラスキンの2着に敗退。プケクラ競馬場(ニュージーランド北島の西海岸にある町ニュープリマスの近郊にある)に移動して出走したフィッシャー&パイケルS(新GⅢ・T2000m)も、ミッキーズタウンの2着に敗退。
それでも豪州に遠征してコックスプレート(豪GⅠ・T2040m)に参戦。しかしベタールースンアップの8着に敗れてしまい、これを最後に7歳時4戦未勝利の成績で競走馬を引退した。
なお、このコックスプレートを勝ったベタールースンアップは、マッキノンSを勝ってジャパンCに向かうという前年の本馬と同じスケジュールで、本馬に続く2年連続オセアニア調教馬によるジャパンC制覇を成し遂げることになる。
競走馬としての知名度と馬名に関して
平成の競馬ブームの中で行われたジャパンCにおいて印象的な走りを見せて勝った本馬は、過去に日本で走った全ての海外馬の中でも、最も日本の一般人(ここで言う「一般人」とは「一般の競馬ファン」の事ではなく「平素はあまり競馬に興味を持たない人達」の事)から認知されている馬であり、繁殖入り後の本馬が繋養されていた新国ケンブリッジスタッドの管理者パトリック・ホーガン卿は「ケンブリッジスタッドを訪れた日本人観光客の多くは競馬について詳しく知らないのに、ホーリックスの名前だけは知っていた事に私は驚きました」と語っているほどである。
なお、本馬の馬名は英国に本社を置く世界屈指の製薬会社グラクソ・スミスクライン社が発売している麦芽飲料ホーリックスの商品名そのまま(麦芽飲料と言ってもアルコールではなく、通常は粉状になっているものを水と牛乳で溶いて飲むもので、どちらかと言えば子ども向けの甘い飲み物である)だが、これは母の名前モルト(Malt)が「麦芽」を意味する事に由来している。ちなみに本馬の娘ステラアルトワ(Stella Artois)の名前はベルギーのビールブランド名、同じく娘のバブル(Bubble)は「泡」、息子のブルー(Brew)は「醸造」、娘のラッテ(Latte)は牛乳、娘のチップル(Tipple)は「強い酒」、モルトの祖母フロース(Froth)は「(ビールなどの)泡」といったように、近親の命名は言葉遊びのようになっている。
血統
Three Legs | Petingo | Petition | Fair Trial | Fairway |
Lady Juror | ||||
Art Paper | Artist's Proof | |||
Quire | ||||
Alcazar | Alycidon | Donatello | ||
Aurora | ||||
Quarterdeck | Nearco | |||
Poker Chip | ||||
Teodora | Hard Sauce | Ardan | Pharis | |
Adargatis | ||||
Saucy Bella | Bellacose | |||
Marmite | ||||
Tellastory | Tulyar | Tehran | ||
Neocracy | ||||
King's Story | His Highness | |||
Windsor Whisper | ||||
Malt | Moss Trooper | Levmoss | Le Levanstell | Le Lavandou |
Stella's Sister | ||||
Feemoss | Ballymoss | |||
Feevagh | ||||
Forest Friend | Linacre | Rockefella | ||
True Picture | ||||
Belle Sauvage | Big Game | |||
Tropical Sun | ||||
Gelu | Agricola | Precipitation | Hurry On | |
Double Life | ||||
Aurora | Hyperion | |||
Rose Red | ||||
Froth | Faux Tirage | Big Game | ||
Commotion | ||||
Home Brew | Robin Goodfellow | |||
Odavarb |
父スリーレッグスは英国産馬で、競走馬としても英国で走り通算成績24戦7勝。主に短距離戦で活躍し、デュークオブヨークS(英GⅢ)に勝ち、ジュライC(英GⅠ)で2着している。6歳時の1978年に愛国で種牡馬入りしたが、翌1979年に新国に輸出された。本馬の活躍を待たずして1985年に13歳で他界したが、本馬以外にも優秀な産駒を出し、1988/89、89/90シーズンの2回に渡り新首位種牡馬になった。スリーレッグスの父ペディンゴはトロイの項を参照。
母モルトは不出走馬だが、後述するように近親にはオセアニアの活躍馬が多数おり、モルトの祖母フロースは1971/72シーズンの新最優秀繁殖牝馬にも選ばれている。モルト自身も、初子である本馬がジャパンCを勝った1989/90シーズンの新最優秀繁殖牝馬に選ばれている。本馬のジャパンC制覇を受けて、本馬の半妹カーニバル(父レーシングイズファン)、半妹ハルクザヘラルド(父レッドテンポ)、半弟ヒットザマーク(父ストレートストライク)、半妹ハシノサライ(父サートリストラム)などが挙って日本に競走馬又は繁殖牝馬として輸入されたが、ヒットザマークが札幌記念(GⅡ)で2着した程度で、いずれも活躍できていない。モルト自身は後に米国に輸出されたが、結局本馬以外に活躍馬を出すことは出来なかった。モルトの半弟にはインターステラー(父スターウェイ)【カンタベリーギニー(豪GⅠ)】が、モルトの半妹レティセラ(父インザパープル)の孫にはジェネラルネディム【ライトニングS(豪GⅠ)・ニューマーケットH(豪GⅠ)】が、モルトの従姉妹ウルトラヴァイオレットの子にはミリタリープラム【ロスウェルズS(豪GⅠ)・オーストラリアンギニー(豪GⅠ)】、孫にはモナココンサル【スプリングチャンピオンS(豪GⅠ)・ヴィクトリアダービー(豪GⅠ)】が、同じくモルトの従姉妹でウルトラヴァイオレットの全妹に当たるフリボラスラスの曾孫には、ジップジップアレイ【グッドウッドH(豪GⅠ)】、ニコネロ【フルーツアンドヴェジS(豪GⅠ)・豪フューチュリティS(豪GⅠ)2回・キングストンタウンクラシック(豪GⅠ)・オーストラリアンC(豪GⅠ)】、ニッコーニ【ザギャラクシー(豪GⅠ)・ライトニングS(豪GⅠ)】が出ているなど、本馬の牝系はオセアニアの名門牝系となっている。→牝系:F10号族①
母父モストゥルーパーは凱旋門賞馬レヴモス直子の米国産馬で、現役時代は欧州で走り通算成績11戦3勝。ケルゴルレイ賞(仏GⅡ)を勝ち、ブランドフォードS(愛GⅡ)・クイーンズヴァーズ(英GⅢ)・グラッドネスS(愛GⅢ)で各3着している。競走馬を引退してすぐに新国に輸入され、複数のGⅠ競走勝ち馬を出して成功した。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はオサリバン一家が経営する新国ケンブリッジスタッドで繁殖入りした。本馬は繁殖牝馬として13頭の子を産み、そのうち6頭が勝ち上がった。その中には、牝駒バブル(父サートリストラム)【アバンダーレギネス(新GⅡ)・2着新1000ギニー(新GⅠ)】、牡駒(騙馬)ブルー(父サートリストラム)【メルボルンC(豪GⅠ)】といった活躍馬が含まれており、繁殖牝馬としても優れた成績を挙げた。また、牝駒ステラアルトワ(父スターウェイ)の子にはフリースタイル【ブリリアントS(豪GⅡ)】が、牝駒フライザフラッグ(父サートリストラム)の子にはソロフライヤー【アジャックスS(豪GⅡ)・ニューマーケットH(豪GⅢ)】が、牝駒ラッテ(父マルーフ)の子にはフィウミシノ【AJCダービー(豪GⅠ)・ザBMW(豪GⅠ)・ヒルS(豪GⅡ)】が、牝駒チップル(父ストラヴィンスキー)の子にはトレメク【チェアマンズクオリティH(豪GⅡ)2回】が出ているなど、牝系子孫も発展している。ステラアルトワの娘であるスタータイクーンは日本に繁殖牝馬として輸入され、公営浦和の重賞しらさぎ賞を勝ったアストリッドを産んでいる。
本馬は2006年に繁殖牝馬も引退し、以後は功労馬としてケンブリッジスタッドで悠々自適の生活を送った。2010年には新国競馬の殿堂入りを果たした。新国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトで見ることが出来る本馬の紹介映像においては「彼女は非常に頑健で、そしてレースに出ると最後まで戦い抜いた馬でした。新国の競走馬として史上初めて世界的大競走を勝利した馬でもありました」というコメントが付せられている。2011年8月にケンブリッジスタッドにおいて28歳で他界し、遺体は所有者ギルシー氏がヘイスティングスに所有していたホークスベイファームに埋葬された。
逸話
さて、本馬には数々の逸話があるのだが、その多くは海外の資料において発見できなかった。それでも複数の日本の資料で触れられている有名な話を以下にいくつか挙げる事にする。
逸話その1。新国競走馬生産者協会本部の会議室には3枚の馬の絵が掛けられている。1枚はオセアニアの歴史的大種牡馬サートリストラムの絵。1枚はオセアニアの伝説的名馬ファーラップの絵。そして3枚目が本馬の絵。
逸話その2。本馬は幼少期から温厚で人懐っこい性格だったが、その半面、臆病で寂しがりな性格で、特に夜が苦手だった。ジャパンC参戦に向けて隔離状態に慣れさせる必要があったが、本馬は真っ暗な中で一頭だけでいる事を非常に恐れた。そこで本馬の担当厩務員バリー女史は、馬房の中に鏡を置くという奇策を考案した。鏡に映った自分の姿を仲間だと思った本馬は安心する事が出来た。この鏡は、本馬が来日する際の輸送時にも使用された。
逸話その3。オグリキャップは本馬のことが好きだった。オグリキャップは飼い葉桶の餌を食べる時は、食べ終わるまで何があっても絶対に顔を上げない馬だった。しかし1度だけ食事中に飼い葉桶から顔を上げた事があった。それはジャパンCの3日前、海外馬勢との共同厩舎において食事をしていた時の事で、顔を上げたオグリキャップの視線の先には曳き運動をしている本馬の姿があった。しばらく本馬の姿を見ていたオグリキャップは本馬の姿が見えなくなってからまた餌を食べ始めたが、厩舎の周辺を一周した本馬が戻ってくると再び顔を上げて本馬に目をやったというのである。有名な話だが、証言者が競馬ジャーナリストの鈴木淑子氏(2014年1月にBSフジで放送された番組“The Game オグリキャップ 伝説のラストラン”に出演した際にもこの話を語っており、本馬に初恋したオグリキャップはレースでも本馬を追い越すことは出来なかったと言っていた)のみであり、大なり小なり脚色されている確率が高い。それでもまったく根も葉もない話というわけでもないようで、オグリキャップの引退後に本馬との交配話が持ち上がったのはどうやら事実らしい(本馬陣営は当然首を横に振った)。また、2008年に東京競馬場で開催された引退騎手のエキシビション競走・第2回ジョッキーマスターズにおいてオサリバン元騎手が招待され、本馬の勝負服色でレースに騎乗しているが、同日の東京競馬場にはオグリキャップも招かれていた。そしてセレモニーにはオサリバン元騎手も参加し、岡部幸雄・南井克巳両元騎手と共にオグリキャップに対するコメントを述べている。そんな事もあり、本馬とオグリキャップの間には色々な噂が囁かれた。