キャノネロ

和名:キャノネロ

英名:Canonero

1968年生

鹿毛

父:プリテンドル

母:ディキシーランド

母父:ナンタラー

南米のベネズエラから米国三冠競走に挑戦し、冷笑を受けながらも主役を堂々と演じきり米国競馬界を愕然とさせる

競走成績:2~4歳時にベネズエラ・米で走り通算成績23戦9勝2着3回3着4回

ケンタッキーダービー史上最大の大穴優勝馬

人気薄で大競走を優勝して世間をあっと言わせた馬は古今東西枚挙に暇が無い。単勝オッズ100倍以上の超大穴に限定しても、英ダービーでは1898年のジェダー、1908年のシニョリネッタ、1913年のアボワユールの3頭が単勝オッズ101倍で優勝している。凱旋門賞では1975年に単勝オッズ120.7倍のスターアピールが制した例がある。米国のブリーダーズカップにおいても、1993年のBCクラシックを単勝オッズ134.6倍のアルカングが勝った例がある。日本においても、1949年の東京優駿を単勝オッズ554.3倍で制したタチカゼ、1989年のエリザベス女王杯を単勝オッズ430.6倍で制したサンドピアリス、1991年の有馬記念を単勝オッズ137.9倍で制したダイユウサク、2000年のスプリンターズSを単勝オッズ257.5倍で制したダイタクヤマト、2001年の中山大障害を単勝オッズ114.7倍で制したユウフヨウホウ、2002年の皐月賞を単勝オッズ115.9倍でで制したノーリーズン、2012年の天皇賞春を単勝オッズ159.6倍で制したビートブラック、2014年のフェブラリーSを単勝オッズ272.1倍で制したコパノリッキーといった面々が大競走で単勝万馬券を演出している。

一方、140年以上の歴史を誇る米国のケンタッキーダービーを単勝オッズ100倍以上で勝った馬は存在しない。同競走史上において、数字上最も人気薄で勝ったのは1913年に単勝オッズ92.45倍で優勝したドネレイルである。しかし実質的にケンタッキーダービー史上最大の大穴優勝馬であるとされているのは、本項の主人公キャノネロである。生国である米国では誰もが見向きもしないような駄馬と考えられ、競馬後進国とされていた南米大陸北部の国ベネズエラで地味な競走生活を送っていたが、果敢にケンタッキーダービーに挑戦して完勝し、無謀な出走であると嘲笑していた米国競馬関係者の鼻を明かし、その後も米国三冠競走において堂々の主役を演じてベネズエラの国民的英雄となった馬である。

日本調教馬が国外の大競走で主役を演じる時代になったが、日本の競馬ファンが一番待ち望んでいる凱旋門賞制覇の夢には2着4回とあと一歩届いていない。また、地方競馬所属のまま中央競馬のクラシック競走を勝つ馬というのもまだ出ていない。しかし挑戦しなければ勝ち目は皆無であり、逆に挑戦すれば可能性はあるという事を証明しているのが本馬であり、日本の競馬ファンや競馬関係者にも本馬の物語は是非知ってもらいたいところである。なお、本馬について述べた海外の資料は多い(逆に日本では殆ど紹介されていない)が、物語風に書かれている(登場人物の発言が多く取り上げられている。公の場における発言ならともかく、それ以外の場でいつ誰が何を話したかが正確に伝わる事は少ない)ものが多く、確かに面白いが信憑性には疑問を抱かざるを得ない逸話が多い。こうした物語風の資料は極力この名馬列伝集では採用しないように心掛けているのだが、本馬に関しては日本における知名度向上のために、その縛りをあえて外して紹介することにするので御了承願いたい。

誕生からデビュー前まで

米国ノースカロライナ州グリーンズボロ市の馬産家エドワード・B・ベンジャミン氏により生産された(誕生したのは母ディキシーランドが預託されていたケンタッキー州クレイボーンファーム)。成長すると体高は16.1ハンドになったというから、体格自体は普通だったようだが、幼少期から前脚が極端に曲がっており、競走馬としての未来は無いと思われた。

1歳時のキーンランド7月セールに出品されたが、血統が地味すぎる上に「蟹のような歩き方」と評された本馬を購入しようとする奇特な人間は現れなかった。それでもベンジャミン氏は2か月後のキーンランド9月セールに再度本馬を出品した。この9月セールに出てくる馬は先の7月セールで売れ残った馬が多いため、7月セールと比べると出品馬のレベルは格段に落ちるのだが、それでも本馬を購入する人はなかなか現れなかった。それでもやがてルイス・ナヴァス氏という人物が現れて、本馬を1200ドル(当時の為替レートで43万2千円)という激安価格で購入した。

ベネズエラ出身のナヴァス氏は自身が購入した馬を他者に一括転売することを生業としており、本馬を含む安馬3頭を一括して、ベネズエラ出身の事業家ペドロ・バプチスタ氏に4500ドル(6000ドル又は1万ドルとする資料もある)で売却した。

バプチスタ氏が経営していた配管製造会社は当時倒産寸前であり、バプチスタ氏は義理の息子であるエドガー・ケイベット氏の名義で競走馬を所有することにしていた。本馬を含む3頭はいずれもケイベット氏の名義で競走馬となり、ベネズエラのファン・アリアス調教師に預けられた。

幼少期に父親に遺棄されたアリアス師は、ベネズエラの首都カラカスのスラム街で成長した。その後、馬の魅力に取り付かれて16歳で競馬界に身を投じたが、生活は厳しかった。しかし知人からバプチスタ氏を紹介された事が彼の運命を変えることになる。バプチスタ氏により競走馬を預けられるようになっていたアリアス師は、地元ベネズエラの歌手グループにちなんで“Cañonero”と命名された本馬も担当することになった。

しかし本馬は脚の湾曲だけでなく、裂蹄や寄生虫も患っており、アリアス師は寄生虫駆除のために、豪州産の海草で作られた特別食を与え、さらに30日毎に本馬の胃を洗浄する必要があった。アリアス師は馬に対する思いやりが非常に強い人物であり、「威嚇と操縦による調教技術ではなく、愛情により馬を育てる」と評された。本馬の食欲が無いと感じれば馬房に入って会話をする事で食欲の回復を図り、本馬が何かを訴えかけようとしていると感じれば馬体に耳を押し付けて意図を推し量ろうとした。調教前にはちゃんと寝たかどうか本馬に尋ね、走る気が無い素振りを本馬が見せると、「強要はしません。リラックスして食事を摂ってください。私達は明日まで待ちましょう」と言って本馬を厩舎に帰した。あたかも自分の子どもに接するようなこうした態度をとったのはアリアス師だけではなく、担当厩務員のファン・キンテーロ氏もまた同様だったという。

この頃、バプチスタ氏は事業資金調達のために所有馬48頭のうち24頭を売却した(本馬は売却されなかった)が、さらなる資金調達のために本馬を早々に競走馬デビューさせるようにアリアス師に要求してきた。

競走生活(3歳初期まで)

こうして本馬は2歳8月に地元カラカスのリンコナダ競馬場で行われたダート1200mのハンデ競走でデビューした。このレースを本馬が6馬身半差で圧勝すると、バプチスタ氏はこれなら米国に連れて行って走らせれば高値で売れるかもしれないと考え、本馬をカリフォルニア州に移動させた。

そして本馬はデルマー競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走したが、結果はキングクロスの1馬身半差3着。次走はデルマーフューチュリティ(D6F)となったが、同年の2歳時フリーハンデで牝馬最高の評価を得ることになるハリウッドラッシーSの勝ち馬ジューンダーリンの7馬身3/4差5着に敗れた。

しかしそんな本馬に注目する人物がいた。それは後にサンデーサイレンスなどを手掛ける事になる米国有数の名伯楽チャールズ・ウィッティンガム調教師だった。本馬を約7万ドルで購入できると耳にしたウィッティンガム師は、懇意にしていた馬主メアリー・ジョーンズ女史に本馬の購入を薦めた。ジョーンズ女史の内諾を得たウィッティンガム師は、本馬に同行していた陣営関係者との交渉に臨んだが、アリアス師も含めて本馬に同行していた関係者にはまともに英語を話せる人物がいないという事態が発覚した(ベネズエラの公用語はスペイン語。言語の壁がある事をバプチスタ氏が失念していたのが原因らしい)。交渉がまともに出来なかったため、ウィッティンガム師は本馬の購入を断念して帰ってしまった。本馬の売却に失敗したアリアス師は宿屋に戻ってベッドに倒れ込むと、しばらく塞ぎ込んでいたが、やがて起き上がって「もう十分だ。私達は国に帰る!」と叫んで荷物をまとめると、本馬を連れてベネズエラに帰ってきた。

本馬が売れなかったと知ったバプチスタ氏は、(自分の失敗を棚に上げて)本馬を購入しなかった米国の人々に対して激怒し、「来年のケンタッキーダービーをこの馬で勝ってやる」とアリアス師に息巻いたが、アリアス師は本気にしなかったという。

帰国した本馬は2歳12月から3歳4月にかけてベネズエラで9戦を消化し、5勝を挙げた。しかしこの5勝はいずれもハンデ競走であり、9戦中唯一出走したステークス競走であるベネズエラ連邦区知事賞(D2000m)ではワイヴェスの11着と惨敗している。

4月10日に出走したダート1800mのハンデ競走で3着に終わった直後、バプチスタ氏はアリアス師に対して、本馬を3週間後のケンタッキーダービーに向かわせることを宣言し、アリアス師を驚かせた。

チャーチルダウンズ競馬場までの長く険しい道のり

これに先立つ2月、フロリダ州に行ったバプチスタ氏は当地にピムリコ競馬場の副代表チック・ラング氏が滞在していることを知って、彼に連絡を取り、本馬のプリークネスS出走登録を行いたい旨と、さらにケンタッキーダービーとベルモントSの出走登録も依頼したい旨を伝えた(当時はこの3競走は個別に出走登録する必要があった)。しかしラング氏はキャノネロなる馬の名前を聞いたことが無く、しかも電話をかけてきたのがスペイン語訛りの人間だったため、悪戯電話ではないかと疑った。それでもラング氏は、3競走全てに登録手続きを行うので、馬名の綴りをもう一度教えてほしいと伝えた。バプチスタ氏が伝えた本馬の馬名をナプキンの裏側に書き留めたラング氏は、北米最古の競売会社ファシグ・ティプトン社のジョン・フィニー氏にキャノネロなる馬の記録を調べるように依頼した。しかしフィニー氏は本馬の記録を見つけることが出来ず、やはり悪戯電話だったのかと激怒したラング氏は本馬の名を記したナプキンを丸めてゴミ箱に投げ捨てた。その翌日になってようやく本馬の存在が確認されたため、ラング氏は約束どおり3競走全てに登録手続きを行った。

ケンタッキーダービー出走宣言をした数日後、夢に出てきた死んだ母親から、本馬がケンタッキーダービーを勝利すると言われたバプチスタ氏は、出走の意思をより強固なものにした。

そして4月17日に本馬はアリアス師やキンテーロ厩務員と共に、シモンボリバル国際空港発フロリダ州マイアミ行きの飛行機に搭乗した(バプチスタ氏の財政難の影響か、輸送費用はアリアス師のポケットマネーから捻出されたというから、ひどい話である)。ところが本馬が乗った飛行機は離陸直後にエンジントラブルを起こしてシモンボリバル国際空港に引き返してしまった。この飛行機は再度離陸を試みたが、エンジンが燃えてしまっており、結局離陸は失敗に終わった。そのため陣営は代わりの飛行機を探した。その結果、本馬は鶏とアヒルを運ぶための貨物飛行機に搭乗し、鳥達の騒々しい鳴き声と共にマイアミに飛んだ。

こうして疲労困憊の状態でマイアミに到着した本馬を待ち受けていたのは、検疫の書類が整っていないため上陸許可できないというマイアミ国際空港からの通達だった。飛行機から降りられなかった本馬は12時間も機内に閉じ込められ、脱水症状を引き起こしたという。一説には、書類が整うのを待つ間にいったんパナマに移動していたともいう。いずれにしても本馬は最終的にはマイアミ国際空港に降り立つことを許可されたが、検疫自体は終了していなかったため、本馬の血液がメリーランド州の研究機関に送られて検査を受けている間、空港内で4日間も隔離された。ようやく開放されたとき、本馬の体重は70~75ポンドも減っていたという。

そして今度はチャーチルダウンズ競馬場があるケンタッキー州ルイビルに向かう移動費用が捻出できないという新たな問題が発生。そのため本馬はバンに乗せられ、直線距離で900マイル(道なりだと1100マイルらしい)の道のりを20時間かけて移動し、ようやくチャーチルダウンズ競馬場に到着した。アリアス師もキンテーロ厩務員も英語をろくに話せなかったため、競馬場側はなんという名前の馬が来たのかさっぱり分からなかった。それでも競馬場の厩舎に入ることは許可されたので、本馬の長い旅行はひとまず終わりを迎えた。本番1週間前のことであった。

冷笑

本馬がケンタッキーダービーに出走する事を知ったブックメーカーのアグアカリエンテダービーフューチャーブック社は、本馬の単勝オッズを501倍に設定した。デイリーレーシングフォーム社は、本馬がベネズエラから来た馬である事だけを報じた。

本馬は痩せ衰えていたため、一つ一つの肋骨を容易に指摘することが出来た。およそ正気の沙汰とは思えないベネズエラからの挑戦者を、米国の競馬関係者は嘲笑の眼差しで迎えた。本馬だけでなく、アリアス師も好奇心の対象となった。持ち金が無い上に英語も話せないため、必要な物資を入手するために身振り手振りで意思を伝えようとし、常に煙草を口にくわえて、ジャケットを着て、自分が連れてきた馬と毎日会話をしている黒人男性の様子は、競馬場内で噂になっていた。アリアス師は、本馬が希望したときだけ馬なりで走らせる程度の簡単な訓練を行いながら、「キャノネロはケンタッキーダービーを勝つ運命にある馬だ」と言い続けていた。

しかし本番前最後の調教において、本馬が半マイルを53秒8という箸にも棒にも引っかからないような凡時計で走った時には、米国競馬関係者の嘲笑は頂点に達し、「走る冗談」「道化役者」「亀が這うように走る」「野菜を運搬するための馬」と散々な言われ様だった。通訳者として本馬陣営のために尽力してくれていたホセ・ロドリゲス調教師からこれらの話を聞いたアリアス師は、さすがに頭にきたという。また、とある馬主はアリアス師の面前で馬肉を焼いてみせ、“Mucha suerte(ムーチャ・スエルテ。スペイン語で「ありがとう」の意味)”と言った。「あの馬も焼肉にして食べたほうがよい」と言われたと感じたアリアス師はますます頭にきたという。

レース数日前には本馬の前3走の成績が米国内に公表されたが、ハンデ競走のみ3戦という内容では、ほとんど予想の参考にはならなかったようである。本馬を低く評価したのは別に米国競馬界だけではなく、地元ベネズエラにおいても元々トップホースではなかった本馬の前評判は低く、カラカスの新聞は「勝利は絶望的」と報じていた。

しかし本馬が調教で遅く走ったのは、トラブル続きの輸送で激減した馬体重を戻すために無理な調教を控えたためであったようで、一時は70ポンド以上も減っていた本馬の体重は50ポンドほど戻っていた。本馬は地元カラカスにおいて、ケンタッキーダービーと同じ10ハロンという距離を走る調教を何度も経験していた。しかもカラカスは海抜1000m程度の高地にある(米国内陸部にあるケンタッキー州ルイビルでも海抜200mに満たない)ため、空気が薄い高地で行う調教は低地で行う調教以上の効果を発揮するはずであり、体重が戻った本馬は既にチャーチルダウンズ競馬場到着直後とは別馬になっていた。本番当日の早朝、アリアス師は闇に紛れて本馬に内緒の調教を施した。本馬はこの「真の」本番前最後の調教において、ダート3ハロンを35秒フラットという見事な時計で走破したが、アリアス師の深慮によりこの事実は伏せられた(公になったのはそれから2年後)。

ケンタッキーダービー

こうして遂に5月1日、ケンタッキーダービー(D10F)の日を迎えた。出走馬は20頭いたが、1970年代の米国競馬においては、機械システムの都合上、上位人気12頭程度までしかオッズを表示する事が出来なかったため、下位人気の馬はたとえ馬主が違っても自動的にカップリングにされていた。そのため本馬は他馬5頭とカップリングされて単勝オッズ19.4倍の6番人気となったが、仮に本馬単独であれば、おそらく前述の501倍かそれに近い程度の単勝オッズになっていた事は想像に難くなく、1913年の勝ち馬ドネレイルの単勝オッズ92.45倍などは可愛く見えるほどである。なお、本馬とカップリングされた他馬5頭は結局16~20着に沈んでいる事から、事前の人気は(本馬を除いて)正確な評価だったと言える。1番人気にはカリフォルニアダービー馬アンコンシャスが支持され、以下、名門カルメットファームが送り込んできたフロリダダービー馬イースタンフリートとボールドアンドエイブルのカップリング、サンタアニタダービー馬ジムフレンチと続いた(イースタンフリート、ボールドアンドエイブル、ジムフレンチの3頭はいずれも後に日本に種牡馬として輸入されて活躍している)。

バプチスタ氏は仕事の都合でベネズエラに残る必要があったため、代わりに息子をチャーチルダウンズ競馬場に派遣していた。アリアス師はさすがに緊張の色が隠せず、スタート地点に向かう本馬に最後まで同行することが出来なかったため、離れた場所からキンテーロ厩務員と一緒にレースを見守った。本馬の鞍上には、ベネズエラで本馬に騎乗した経験があるグスタフ・アヴィラ騎手の姿があった。アヴィラ騎手は“El Monstruo(エル・モストロ。スペイン語で「怪物」という意味)”の異名を取ったベネズエラのトップ騎手で、本番数日前にチャーチルダウンズ競馬場に到着していた。本馬は初めて見る誘導馬のポニーに気を取られてしきりに顔を近づけようとしていたが、アヴィラ騎手は冷静に本馬を宥めてスターティングゲートに誘導した。

スタートが切られると、ボールドアンドエイブルとイースタンフリートの2頭に、本馬とカップリングされていた馬の1頭であるサイゴンウォリアーが絡んで先頭争いを演じ始めた。本馬は後方待機策を採り、出走20頭中18番手でレースを進めた。レースがハイペースで進行したため、先頭から本馬までの差は最大で20馬身まで開いた。しかし向こう正面でアヴィラ騎手が仕掛けると、本馬は三角から四角にかけて外側を通って瞬く間に位置取りを上げ、先頭をほぼ射程に捉えた状態で直線を向いた。そしてすぐに先頭を奪うと直線で後続を引き離し、アヴィラ騎手が鞭を使う必要も無く、2着ジムフレンチに3馬身1/4差、3着ボールドリーズンにはさらに2馬身差をつけて完勝した。

アリアス師を始めとする陣営の人々が飛び跳ねながら本馬の名前を連呼するのとは対照的に、競馬場内は「あの馬はなんという馬だ?」という当惑した雰囲気に包まれていた。記者席でもほとんどの人間は何が勝ったのか理解できなかった。バプチスタ氏の依頼で本馬の出走登録手続きを行ったラング氏は、勝ち馬が本馬である事を確認すると、「これは驚いた!なんて不思議な馬だ。信じられない。まさにおとぎ話だ」と言った。しばらくして競馬記者達も勝利馬の名前を知ったが、自分達が嘲笑していた馬が勝った事を信じることは出来なかった。呆然とする観衆達の前で、アヴィラ騎手は腕を振りながら堂々とウイニングランを行った。そして引き揚げて行く段になって、ようやく競馬場内から割れんばかりの拍手喝采が巻き起こった。ジムフレンチに騎乗していたアンヘル・コルデロ・ジュニア騎手は、勝った馬の事を知っていましたかと尋ねられると、いったん動きを止めた後に顔の汚れを拭き取ってから「はい、知っています。ケンタッキーダービーを勝った馬です」と簡単に答えた。

アリアス師は泣きながらキンテーロ厩務員と抱き合い、そして勝ち馬表彰式場に向かったが、彼が何者かを知らなかった警備員に入場を拒否されてしまい、ロドリゲス師の説明により、ようやく表彰式場に入ることが出来た。そしてアリアス師は勝ち馬表彰式場の中で再び泣いて喜んだ。その後、以前アリアス師の面前で馬肉を焼いた馬主とすれ違った際に、微笑を浮かべたアリアス師が手を挙げて“Mucha suerte”と言い返したという痛快な逸話もある。

ベネズエラにいたバプチスタ氏は、最初に本馬の勝利の報を電話で聞いたとき、何を言われているのか良くわからずに冗談と判断して電話を切った。しかし友人達が次々に電話をかけてきて本馬が勝利した旨を彼の耳に連打したため、ようやくそれが真実である事を理解したバプチスタ氏は大声で泣き出した。そして父親と一緒に車で母親の墓参りに向かい、夢の中で本馬の勝利を予言した母親の霊前に勝利報告を行った。当日夜にバプチスタ氏は200人を招いて祝賀会を開催した。この夜のカラカスは祝賀ムードに包まれ、街の至る所で人々は歌って踊り明かした。バプチスタ氏が主催した祝賀会はアヴィラ騎手が帰国するまで続き、アヴィラ騎手は大通りで凱旋パレードを行った。また、ベネズエラのラファエル・カルデラ・ロドリゲス大統領からはバプチスタ氏に「この大勝利はベネズエラの進歩にとって大きなものである」という旨の祝電が送られた。

プリークネスS

こうして母国では祝賀ムードが続いていたが、米国にいたアリアス師にはいつまでも勝利の余韻に浸っている余裕などは無かった。次走のプリークネスSに向けた準備を始めなければならなかったのである。アリアス師とキンテーロ厩務員は大急ぎで荷物をまとめると、本馬を引き連れてピムリコ競馬場があるメリーランド州ボルチモアに向けて出発した。

そしてピムリコ競馬場に到着した本馬陣営だったが、到着直後の本馬は食欲不振に陥っていた。通訳者と共に呼ばれたラルフ・エルゲイ獣医は、蹄叉腐乱(蹄の裏側が細菌に侵されて腐敗する病気。不衛生な環境に置かれる事で発症しやすい。薬物療法が有効である)と診断し、投薬治療を開始した。しかし本馬は舌を切って負傷していた影響もあり、微熱も出ていた。本番6日前には尿検査でリドカイン(麻酔薬の一種)が検出されたため、投薬治療が本馬の競走能力に悪影響を及ぼす事を懸念したエルゲイ獣医は、それまで使用していた混合薬物からアンピシリンという抗生物質に切り替えて治療を続けた。

さて、この頃には本馬が演じた大番狂わせにより混乱した米国競馬界はようやく沈静化していた。スーパーマンに変身するクラーク・ケントのようだったと評された本馬には“Caracas Cannonball(カラカスの大砲弾)”という愛称が付けられていた。しかしケンタッキーダービーの勝ちタイムが2分03秒2と遅かった(この時点におけるレースレコードは1964年にノーザンダンサーが計時した2分フラット)事から、本馬の勝利はフロックであるとして片付ける競馬関係者が大半だった。本馬は後方待機策からケンタッキーダービーを制したが、それは米国の競馬場としては比較的大回りでカーブが緩やかなチャーチルダウンズ競馬場だったからこそ通用したもので、より小回りでカーブがきついピムリコ競馬場では通用しないと考える者が多かった。

ようやく調教が出来る程度まで回復した本馬が、調教でダート5ハロンを1分06秒0という平凡以下のタイムで走破したときには、本馬に対する軽蔑の念は再燃し、「農耕用の馬よりは0秒2ほど速かった」「私があの馬の馬主ならさっさと南米に戻す」と言われた。

しかしアリアス師は本馬の状態に満足しており、「準備は万端だ。彼等は以前ルイビルで私達を笑い、今度はボルチモアで笑っているが、最後に彼等を笑うのは私達だ」と語った。ボルチモアの放射線技師ジョージ・バーク博士が本馬の心電図を調べたところ、毎分30拍だった(平静時における競走馬の心拍数は通常35拍前後であり、30拍以下という馬は稀である。拍数が少ないという事は、心臓が一度に多くの血液を送り出す事が出来るということであり、すなわち心肺機能が強いことを示している)。

こうして5月15日、プリークネスS(D9.5F)の日を迎えた。ピムリコ競馬場には4万7221人という同競馬場としてはかなり多い観衆が詰め掛けており、うち1万人の観衆がなかなか入場できず、長時間行列を作る羽目となった。本馬のケンタッキーダービー勝利をフロック視する者は多かったが、それでも本馬の人気は急上昇しており、ジムフレンチと並んで単勝オッズ4倍の1番人気に支持され、単勝オッズ7倍の3番人気にイースタンフリートが続いた。ケンタッキーダービーを生観戦できなかったバプチスタ氏だったが、さすがに今度はピムリコ競馬場に駆け付けていた。

本馬は外枠の9番枠発走であり、やはり後方からレースを進めるだろうと予想されていた。しかしこうした予想家達の考えは、スタートしてすぐに逃げるイースタンフリートの直後2番手を本馬が追走した事によって粉々に粉砕されてしまった。イースタンフリート鞍上のエディ・メイプル騎手は、本馬が追走してきた事に驚いて引き離そうとしたが、アヴィラ騎手が騎乗する本馬は前走とは打って変わって積極的に先行してきた。向こう正面で本馬はイースタンフリートに並びかけ、2頭が後続を5馬身も引き離して先頭争いを演じた。スタート後6ハロン通過時点の走破タイムは1分10秒4で、これはケンタッキーダービーにおける本馬のそれより4秒4も速く、ハイペースで進行したケンタッキーダービーにおける先頭の馬が計時したものよりも0秒4速かった。しかし本馬はこのハイペースにも関わらず疲労の色を見せず、そのまま先頭で直線に突入すると、先に失速した2着イースタンフリートに1馬身半差、3着ジムフレンチにはさらに4馬身半差をつけて快勝。勝ちタイム1分54秒0は、1955年にナシュアが計時した1分54秒6のレースレコードを16年ぶりに更新する素晴らしいものだった(2015年現在でも史上8位であり、近年の勝ちタイムと比べても全く遜色ない)。

真っ先にキンテーロ厩務員が場内に走り出し、アリアス師がそれに続いた。ベネズエラでこのレースをテレビ観戦していた500万人の人々の間からは大歓声が巻き起こり、バプチスタ氏は拳を振り上げて「次はベルモントだ!」と連呼しながら勝ち馬表彰式場に向かった。インタビューを受けたバプチスタ氏は「私とアヴィラ騎手という2人のインディオ(筆者注:インディオは蔑称でありネイティヴアメリカンと書くべきかも知れないが、ネイティヴアメリカンと置き換えては彼等が置かれていた差別的状況を正確に伝えられないので、あえて原文のままインディオと表記している)、及び誰も信じなかった馬を信じたアリアス師という1人の黒人男性により、200年に及ぶ米国競馬の伝統を破壊することが出来ました。ベネズエラにおいてどれだけの衝撃だったのか、私には想像も出来ません。キャノネロは本当に大衆の馬です」と語った。また、あれほど遅かった調教から一転してどのように立て直したのかを尋ねられたアリアス師は、たった一言「運命が邪魔されなかっただけです」と語った。

ケンタッキーダービーの時と異なり、本馬が勝利したときの競馬場側の準備は万端だったようで、場内にはベネズエラ国歌が流された。勝ち馬表彰式場で、メリーランド州知事のマーヴィン・マンデル氏は、本馬陣営の人々をメリーランドの名誉市民にする旨の文書に署名した。バプチスタ氏だけでなく、アリアス師やアヴィラ騎手もスーツを着せられて表彰式に臨んだが、いずれも慣れないスーツのせいか、居心地が悪そうに腕を組んで立ちすくんでいた。当時のニクソン大統領からも電話で「ベネズエラの勝利です」と陣営に祝福の声が贈られたという。

このように栄誉に包まれていた本馬陣営の中で、唯一人キンテーロ厩務員は、疲労困憊の本馬の馬体を冷却しながら脚に包帯を巻きつける作業に追われていた。

ベルモントS

そして、1948年のサイテーション以来23年ぶり史上9頭目の米国三冠馬を目指して、ニューヨーク州ベルモントパーク競馬場に移動した本馬だったが、蹄叉腐乱の状態が悪化していた上に、右脚の飛節は腫れており、体調は最悪に近い状態だった。それにも関わらず無遠慮な訪問者は後を絶たず、特に元野球選手のジョー・ガラジオラ氏は本馬に「どこで散髪をしましたか」などと無意味極まりない質問をする始末だった。

本馬はほとんどまともに調教を行うことが出来ず、このような状態でベルモントSを勝った馬など過去に存在しないと冷笑する人間は少なからずいた。アリアス師は「彼等は未だに私達が狂ったインディオの群れだと思っている」と憤慨したが、内心ではさすがに今回は厳しいと感じていた。ウィリアム・リード獣医は本馬の状態を検査し、出走可能な最低限度の状態と比べても75%程度の出来に過ぎず、走れる状況には無いと陣営に伝えた。競馬マスコミも本馬の状態に疑問を呈し、「ベルモントSはおそらく回避するでしょう。私達はそのように望みます」と報じた。

本馬の状態を一番よく理解しているアリアス師にしても、本馬はおそらく走るべきでないだろうと思っていた。しかし既に本馬はベネズエラの国民的英雄となっていた。ベネズエラ国内の至る所で“Viva Canonero!”の台詞が叫ばれていた。本馬がデビューしたリンコナダ競馬場では本馬の彫像が作られ始めていた。ラジオでは本馬に関する歌が流されていた。誕生した子どもに本馬の名を付ける夫婦が相次いでいた。“The Ballad of Canonero”なるテレビ番組も米国で制作が開始されていた(アリアス師が語る調教方法、本馬陣営や他馬陣営の人々に対するインタビューなども含まれており、後にニューヨークやシカゴで行われた映像祭においてスポーツ部門の最優秀作品賞を受賞している)。このような状況下では、ベルモントSを回避する決断などは出来なかった。

そうして迎えた6月5日のベルモントS(D12F)当日、ベルモントパーク競馬場には、それまでの記録6万7961人を大幅に更新する史上最高の8万2694人という大観衆が詰め掛けた(この記録が破られたのは28年後の1999年、カリズマティックが米国三冠馬に挑んだときである。カリズマティックも最下級馬から大出世した馬であり、本馬とは共通点が多い。こうした雑草的存在がエリート達を薙ぎ倒す姿が人気を博するのは日本に限らず万国共通のようである。もっとも本馬の場合はニューヨークに住んでいたラテンアメリカ系の人々の多くが競馬場に足を運んだのが大きいようだが)。ベネズエラからも2千人の応援団がやって来て、本馬や母国ベネズエラを称える雄叫びを上げていた。カラカス市民の大半がテレビの前に釘付けになったため、カラカスは一時期ゴーストタウンのようになった。

しかし今回に限っては、本馬の病態が運命を上回ってしまった。1番人気に支持された本馬は疲れた脚に鞭打って先行したものの、2番手を追走していたパスキャッチャーに直線でかわされると、ゴール前で力尽きてパスキャッチャーの4馬身半差4着に敗退。過去2戦でいずれも破っていたジムフレンチ(2着)とボールドリーズン(3着)にも後れを取る結果となった。もっとも、本馬の状態からすれば勝ち負け云々以前に完走して上位に入っただけでも上出来であり、レース終了後のベルモントパーク競馬場は本馬の名を連呼する声で覆われた。予め敗戦を覚悟していたらしいバプチスタ氏は、意気消沈する陣営の人々に「元気を出しなさい」と伝えた。

競走生活(米国三冠競走以降)

前述のとおり財政難に陥っていたバプチスタ氏の元には、本馬を購入したいという申し出がケンタッキーダービー以降何度か来ていた(プリークネスS勝利直後にはアーノルド・ウィニック調教師から310万ドルが提示されていた)。バプチスタ氏はそれらを全て断ってきたが、三冠競走が終わった今が売り時だと判断し、レース直後にテキサス州キングランチ牧場の所有者ロバート・クリーバーグ・ジュニア氏に本馬を150万ドルで売却。本馬はアリアス師の元を離れて米国バディ・ハーシュ厩舎に転厩することになった。

本馬が米国に残ることを知ったベネズエラ国民は、金銭的に支援するから本馬を売らないでほしいという何千通もの手紙をお金と一緒にバプチスタ氏に送ってきた。しかしその多くは子ども達からのものだった(本馬の姿を描いた絵も多数寄せられたという)ため、バプチスタ氏はお礼の手紙と本馬のポスターを添えて、それらのお金を全て送り返した。

米国に残った本馬はハーシュ師の看護を受けながら長期休養に入ったため、ベルモントSが3歳時最後のレースとなったが、この年から創設されたエクリプス賞においては、ハリウッドダービー・アメリカンダービー・トラヴァーズSを制したボールドリーズンを抑えて最優秀3歳牡馬のタイトルを受賞した。

本馬の次走は、ベルモントSから1年近くが経過した翌年5月のカーターH(D7F)となった。結果は不良馬場の中でリーマットの4馬身3/4差2着と、休養明けとしてはまずまずの内容だった。しかし9日後のメトロポリタンH(D8F)では、エグゼキュショナー(かつてプリークネスSで本馬の6着に終わっている)の9馬身半差8着と惨敗。7月にはアケダクト競馬場で試みに芝の競走に2回出たが、最初の芝8.5ハロンの一般競走はマラスキーノの6馬身差6着、次のタイダルH(T9.5F)は同年の加国際CSSやワシントンDC国際Sを勝つドロールロールの9馬身差9着と、いずれも大敗した。8月にはサラトガ競馬場ダート7ハロンの一般競走に、試しにブリンカーを装着して出走したが、勝ち馬オニオンから6馬身差の2着といまひとつ結果が出なかった。

困ったハーシュ師が考えた最後の手段は、かつて本馬の主戦を務めたアヴィラ騎手をベネズエラから呼び寄せることだった。こうしてアヴィラ騎手と久々にコンビを組んで、9月にベルモントパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走に出走した本馬は、勝ち馬ホーリーランドから5馬身1/4差の5着に敗れたが、スタート直後には前年のプリークネスSで見られた稲妻のような加速力の一端を垣間見せた。ハーシュ師とアヴィラ騎手は、本馬にブリンカーを装着させることはやはり有効であると考えた。

次走のスタイミーH(D9F)では、この年のケンタッキーダービーとベルモントSを勝っていたリヴァリッジが対戦相手となった。斤量はリヴァリッジの123ポンドに対して、この年6戦全敗の本馬は110ポンドだった。レースはリヴァリッジが先行し、アヴィラ騎手鞍上の本馬はケンタッキーダービーと同様に後方待機策を採った。道中は8番手を追走していたが、やがて位置取りを上げていき、リヴァリッジをかわすと、そのまま2着リヴァリッジに5馬身差をつけて圧勝。勝ちタイム1分46秒2はそれまでのコースレコードを0秒6更新するもので、全米レコードタイでもあった。

こうしてかつての輝きの一端をようやく取り戻した本馬だったが、それは一瞬の出来事だった。翌10月にアケダクト競馬場ダート9ハロンで行われた一般競走で、不良馬場の中を走って、オートバイオグラフィー(同月のジョッキークラブ金杯を15馬身差で大圧勝してこの年のエクリプス賞最優秀古馬牡馬に選ばれる)の2馬身差2着した本馬は、すぐに脚部不安を発症。4歳時7戦1勝の成績で現役を引退することになった。なお、本馬と同名の馬が以前いたため、本馬は“CanoneroⅡ”と表記されることが多い。

血統

Pretendre Doutelle Prince Chevalier Prince Rose Rose Prince
Indolence
Chevalerie Abbot's Speed
Kassala
Above Board Straight Deal Solario
Good Deal
Feola Friar Marcus
Aloe
Limicola Verso Pinceau Alcantara
Aquarelle
Variete La Farina
Vaya
Uccello Donatello Blenheim
Delleana
Great Tit Stefan the Great
Canary Seed
Dixieland Nantallah Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Shimmer Flares Gallant Fox
Flambino
Broad Ripple Stimulus
Hocus Pocus
Ragtime Band Johnstown Jamestown St. James
Mlle. Dazie
La France Sir Gallahad
Flambette
Martial Air Man o'War Fair Play
Mahubah
Baton Hainault
Batanoea

父プリテンドルは英国で走り現役成績12戦6勝、主な勝ち鞍はデューハーストS・オブザーヴァー金杯・キングエドワードⅦ世Sで、他に英ダービーでシャルロットタウンの2着がある。競走馬引退後はネルソン・バンカー・ハント氏に購入されて米国で種牡馬入りしたが、1970年、7歳時に英国に戻され、英国と新国を行き来するシャトルサイヤーとなった(世界競馬史上初のシャトルサイヤーの1頭とされている)。翌1971年に本馬が米国三冠競走で主役を演じたため、プリテンドルに対する注目度も高まったはずだが、翌1972年にシャトル先の新国で心臓病のため9歳で他界してしまった。プリテンドルの父ドーテルはリングフィールドダービートライアルS・カンバーランドロッジS・ジョンポーターS・オーモンドSに勝つなど17戦7勝の競走馬で、英セントレジャー馬バスティノの母父としても名を残している。ドーテルも8歳の若さで他界したようであり、短命の系統なのだろうか(後述するが本馬も早世している)。ドーテルの父プリンスシュヴァリエについてはプリンスローズの項を参照。

母ディキシーランドは現役成績12戦1勝。6歳時にプリテンドルを交配されて受胎した状態で、所有者のベンジャミン氏によりキーンランド11月セールに出品されたが、競走成績や血統の地味さから誰の興味も惹かず、ベンジャミン氏の代理人だったクレイボーンファーム経営者ウィリアム・テイラー氏は止むを得ず2700ドルでディキシーランドを買い戻したという。こうしてベンジャミン氏の所有馬のままとなったディキシーランドが翌年に預託先のクレイボーンファームで産み落としたのが本馬である。本馬以外に特筆できる産駒はいないが、本馬の半姉オーリアンズベル(父エドムンド)の牝系子孫にはケンドール【仏2000ギニー(仏GⅠ)・仏グランクリテリウム(仏GⅠ)】、ハイトーリ【フォワ賞(仏GⅡ)・マクトゥームチャレンジR3(首GⅡ)】、ヴァトーリ【グレフュール賞(仏GⅡ)】などが、本馬の半妹ピクチャーブック(父サイレントスクリーン)の孫にはスターストラック【オーストラリアンC(豪GⅠ)】などがおり、牝系子孫は残っている。

ディキシーランドの祖母マーシャルエアーの全姉バトンローグの子にはファイアソーン【ジョッキークラブ金杯2回・サバーバンH・ローレンスリアライゼーションS】とクリオールメイド【CCAオークス】が、玄孫にはヘイルトゥリーズン【サンフォードS・サプリングS・ホープフルS】とアドミラルズヴォヤージ(大種牡馬ダンチヒの母父)【ウッドメモリアルS・カーターH・サンカルロスH】という後世に大きな影響力を与えた2頭がいる。→牝系:F4号族④

母父ナンタラーはナスルーラ直子で、競走馬としては7戦して4勝した程度の馬だったが、種牡馬としてはまずまずの成績を残しており、特に世界的名繁殖牝馬ソング(ヌレイエフの祖母)の父として著名である。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はケンタッキー州ゲインズウェイファームで種牡馬入りした。しかし繁殖牝馬の質量共に恵まれなかったために成功することが出来ず、1981年2月、実に10年ぶりにベネズエラに戻ってきた。カラカスにあるタマナコ牧場で種牡馬生活を続けた本馬だったが、同年11月に馬房の中で心臓発作を起こして13歳の若さで急死した(死因は疝痛とする資料もある)。早世したためにベネズエラで送り出したステークスウイナーはエルテハーノという馬のみだった(エルテハーノの全レースでアヴィラ騎手が騎乗したという)。

本馬に関わった人々のその後について簡単に触れておく。バプチスタ氏はその後何とか事業の立て直しに成功したが、1984年に57歳で死去した。アリアス師は本馬の活躍で一躍有名人になったにも関わらず、その後調教師として日の目を見ることは出来ず、やがて政府の役人に転職した。しかし馬に対する情熱は失われなかったようで、週末にはリンコナダ競馬場に出向いて馬のために働いていた。アヴィラ騎手はベネズエラでその後も騎手として活躍した後、1991年に騎手を引退。その後は不動産投資業者に転職して成功した。さらにその後リンコナダ競馬場の事務長に任じられたアヴィラ氏は、かつて共に手を携えて本馬を手掛けたアリアス氏に声をかけ、共にリンコナダ競馬場の事務長に就任して再びチームとして働いた。その後アヴィラ氏は2008年に70歳で定年退職して悠々自適の生活を送っている。アリアス氏は事務長を退職した後に再度調教師の仕事に戻り、現在も働いているという。

本馬が米国三冠路線で活躍した2年後に、本馬が果たせなかった米国三冠馬の夢をセクレタリアトが達成し、その後も数々の歴史的名馬が登場して米国競馬界黄金の1970年代を演出した。そのために本馬の影は次第に薄くなり、米国内でも取り上げられることは少なくなってしまった。地元ベネズエラにおいても、リンコナダ競馬場で作られていた本馬の彫像は未完成のまま終わり、バプチスタ氏からリンコナダ競馬場に寄贈されたケンタッキーダービーとプリークネスSの優勝トロフィーは非公開とされるなど、ピムリコ競馬場の副代表だったラング氏をして「あの馬の周囲はディズニーランドのようにスリルに満ちていた」と言わしめた、あの熱狂ぶりは過去のものとなった。

こうして1971年の米国競馬界の主役を務めた本馬の物語は終焉したが、2011年のケンタッキーダービーを人気薄のアニマルキングダムが優勝した際に米国の競馬マスコミが“Caracas Cannonball!”と叫んだところを見ると、穴馬としての存在感は健在のようである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1977

Cannon Boy

クリサンセマムH(米GⅢ)

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