ボワルセル

和名:ボワルセル

英名:Bois Roussel

1935年生

黒鹿

父:ヴァトー

母:プラッキーリエージュ

母父:スペアミント

英ダービーにおいて同競走史上最高級の豪脚で差し切って圧勝し、種牡馬としては日本競馬史に多大な影響を及ぼす

競走成績:3歳時に仏英で走り通算成績3戦2勝3着1回

誕生からデビュー前まで

本馬の父ヴァトーや母プラッキーリエージュの最終的な所有者である仏国の馬産家レオン・ヴォルテラ氏が、仏国アランソンに所有していたボワルセル牧場において生産・所有した。馬名は産まれた牧場の名前そのままである。母は既に名繁殖牝馬としての名声を不動のものとしていたプラッキーリエージュで、半兄にはサーギャラハッド、ブルドッグ、アドミラルドレイクなどの名競走馬(名種牡馬)がいるという良血馬であり、誕生の地であるボワルセル牧場の名前をそのまま付けられたところからしても、ヴォルテラ氏の期待は高かったと思われる。

競走生活

しかしデビューはかなり遅れてしまい、3歳4月にロンシャン競馬場で行われたジュイーニュ賞(T2100m)だった。このレースを鋭く追い込んで、ダリュー賞の勝ち馬アストロロジャーを首差の2着に抑えて勝利した本馬は、英国人馬主のピーター・ビーティー氏の目に止まった。ビーティー氏は、デヴィッド・リチャード・ビーティー提督(第一次世界大戦において英国海軍を率いて独国海軍を何度も破り、有名なホレイショ・ネルソン提督の再来とまで讃えられた名提督として世界的に知られる)の息子で、シカゴにある世界最大級の百貨店マーシャルフィールドの創設者マーシャル・フィールド氏の孫(フィールド氏の娘がビーティー提督の妻)、デインヒルなどの管理調教師となるアーサー・ジェレミー・ツリー師の叔父にも当たる人物である。

本馬を気に入ったビーティー氏はヴォルテラ氏と交渉を行い、8千ポンドで本馬を購入した。そして英国の名伯楽として名を馳せていたフレッド・ダーリン調教師の管理馬となった本馬は渡英して、デビュー2戦目となる英ダービー(T12F)に出走した。このレースで単勝オッズ3.25倍の1番人気に支持されていたのは、本馬と同じダーリング厩舎の所属馬だった英2000ギニー勝ち馬パスクだった。やはり3歳デビューだったパスクだが、既に英ダービーを4勝していたダーリン師の管理馬であった上に、既に英ダービー馬を4頭輩出していたブランドフォード産駒である事、既に英国競馬史上屈指の名手としての名を確立していたゴードン・リチャーズ騎手が騎乗した事なども手伝って人気を集めていた。それに対して同じダーリン師の管理馬であっても、レース数週間前に英国に初めてやって来た上に、まだ英国で走った事も無い1戦1勝馬である本馬が注目される事はなく、単勝オッズ21倍の低評価だった。本馬に騎乗したエドワード・チャールズ・“チャーリー”・エリオット騎手は、リチャーズ騎手が初の英国平地首位騎手に輝く1925年より前の1923・24年と2年連続で英国平地首位騎手に輝いた名手で、英ダービーも1927年にコールボーイで既に勝っていたが、仏国の名馬産家マルセル・ブサック氏の招きを受けて主戦場を仏国に移していたため、その当時の英国では一時的に影が薄い存在となっており、本馬の評価向上には貢献できなかったようである。

そして本馬とエリオット騎手のコンビはスタートで大きく出遅れてしまい(当時はゲート式でなくバリアー式。筆者が見たところ、バリアーが上がる前における加速が悪かったという印象だった)、道中は馬群の後方を進む羽目になった。レースはハルシオンギフトという馬が後続に最大4馬身ほどの差をつけて先頭を引っ張り、1番人気のパスクや、単勝オッズ9倍で対抗馬の評価を受けていたミドルパークS・ロウス記念Sの勝ち馬で英2000ギニー2着のスコティッシュユニオンなども先行した。タッテナムコーナーを回る際にも各馬の位置取りはそれほど変わらず、本馬は後方には2頭しか他馬がいない状態(22頭立てだったから、20番手という事になる)で直線に入ってきた。本馬から10馬身以上も前方では、ハルシオンギフトをかわしたスコティッシュユニオンが先頭に立ち、それにパスクが並びかけようとしていた。しかしエプソム競馬場に詰め掛けていた大観衆(その中には、前年に戴冠式を行ったばかりの英国王ジョージⅥ世とエリザベス王妃も含まれており、双眼鏡でレースを観戦していた)がその先頭争いに注目していると、残り2ハロン辺りで外側から1頭の馬が凄まじい勢いで伸びてきた。言うまでも無くそれは本馬だった。レース翌日のグラスゴー・ヘラルド紙において“an astonishing burst of speed(驚異的な速度の爆発)”と評された素晴らしい末脚を繰り出した本馬は、“in the twinkling of an eye(あっという間に)”他馬勢をごぼう抜きにして残り1ハロン地点では先頭に踊り出ると、ゴール前では馬なりのまま走り、直線入り口では本馬より10馬身以上先にいたはずのスコティッシュユニオンを4馬身差の2着に下すという圧勝劇を演じた(パスクはスコティッシュユニオンを捕まえきれずに、さらに2馬身差の3着だった)。

2着馬スコティッシュユニオンに騎乗していたB・カースレイク騎手はレース後に「30年以上も馬に乗ってきましたが、あんな速度で追い抜かれた事は今までにありません」と語った。また、本馬に騎乗したエリオット騎手は「正直な話をしますと、タッテナムコーナーを回る時まで私はレースを諦めていました。それでも直線に入って鞭を入れたら、ここで奇蹟が起こりました。不意に馬が変わったのです。」と語っているそうである。この英ダービーの映像を見た筆者の感想を述べると、レース展開としてはラムタラが勝った1995年の英ダービーにとても良く似ていた。しかしゴール直前でようやく先頭に立ったラムタラの走りよりも、残り1ハロン地点で先頭に踊り出てそのまま突き抜けた本馬の走りのほうが衝撃度は大きかった。「他馬がまるで止まって見える」とはまさしくこのレースで見せた本馬の末脚の事であり、公式記録は4馬身差であっても、実際にはそれ以上の着差があるように感じた。現在本項を書きながら筆者は直近50年間ほどの英ダービー馬の一覧を眺めている(彼等が勝った英ダービーの多くは映像で拝見させてもらった)のだが、本馬を上回る衝撃を筆者に与えたと断言できる英ダービー馬はその一覧の中にいない。あえて挙げるなら史上最大の10馬身差で圧勝したシャーガーのみ(それでも本馬と同格くらいである)であり、シーバードニジンスキーガリレオも英ダービーにおいて筆者に与えた衝撃度は本馬以下である。英ダービー史上最高の豪脚だったと言われるダンシングブレーヴでさえも、筆者に与えた衝撃度では本馬に到底及ばない(ダンシングブレーヴは結局届かず2着だったわけだし)。これらはあくまで筆者個人の感想であり、万人が同じ感想を抱くとは思わないが、手前味噌だが相当多くの海外のレースを見てきた筆者がここまで主張するくらいのレース内容だったという事は認識してほしい。また、本馬の母プラッキーリエージュ(本馬が英ダービーを勝つ前年、最後の子を死産した直後に25歳で他界していた)は23歳時に本馬を産んでおり、これは20世紀における英ダービー馬出産最高齢記録となった。

その後は仏国に戻り、パリ大賞(T3000m)に出走した。このレースには、仏ダービーで1・2着だったシラとカノ、仏1000ギニー・仏オークスの勝ち馬フェリ、リュパン賞の勝ち馬カステルフサノ、そして伊グランクリテリウム・伊2000ギニー・伊ダービー・ミラノ大賞など13戦無敗の伊国最強馬ネアルコが出走していた。レースでは先行したネアルコに直線で本馬が並びかけて叩き合いとなった。しかし競り落とされてしまい、最後はカノにも抜かれて、勝ったネアルコから3馬身差、カノからは1馬身半差の3着に敗れた。本馬はレース前に既に前脚の腱に炎症を発症していたという。

パリ大賞の後は英国に戻り、その後は年内を全休。翌年のアスコット金杯を目標として調整されていたが、レース直前に屈腱炎が再発したため結局4歳以降は出走することなく僅か3戦のみで現役を退いた。本馬の英ダービーにおける勝ち方は、歴代の英ダービー馬の中でも屈指だと思われるのだが、一般的にはそこまで評価されていないようである。本馬が英ダービーで2着に打ち負かしたスコティッシュユニオンは後にセントジェームズパレスS・英セントレジャー・コロネーションCを勝つ名馬であり、英ダービー3着馬パスクも次走のエクリプスSを勝つ馬であるから、英ダービーのレベルが低かったわけではない。本馬の評価がそれほど上がらないのは経歴が少なすぎる事と、パリ大賞でネアルコに完敗した事が大きそうである。

血統

Vatout Prince Chimay Chaucer St. Simon Galopin
St. Angela
Canterbury Pilgrim Tristan
Pilgrimage
Gallorette Gallinule Isonomy
Moorhen
Orlet  Bend Or
Ruth
Vashti Sans Souci Le Roi Soleil Heaume
Mlle de la Valliere
Sanctimony St. Serf
Golden Iris
Vaya Beppo Marco
Pitti
Waterhen Gallinule
Gipsy Queen
Plucky Liege Spearmint Carbine Musket Toxophilite
West Australian Mare
Mersey Knowsley
Clemence
Maid of the Mint Minting Lord Lyon
Mint Sauce
Warble Skylark
Coturnix
Concertina St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Comic Song Petrarch Lord Clifden
Laura
Frivolity Macaroni
Miss Agnes

父ヴァトーは現役成績29戦6勝。仏2000ギニーを優勝し、他に仏共和国大統領賞とケンブリッジシャーHで2着、シティ&サバーバンHで3着、凱旋門賞で4着などがある。当初は本馬の母プラッキーリエージュと共に仏国の馬産家ジェファーソン・デーヴィス・コーン氏により供用されていたが、コーン氏が破産した際に、プラッキーリエージュ共々ヴォルテラ氏の所有馬となっていた。産駒数・種牡馬供用期間ともに少なかったが、それでも本馬を筆頭とする活躍馬を何頭か出した。主な産駒は、ヴァトラー【仏共和国大統領賞】、アントニム【ベルリン大賞】、ポワンティ【ハードウィックS】、ナデュシュカ【パークヒルS】など。

ヴァトーの父プリンスチメイはチョーサー産駒で、ジョッキークラブSで英国三冠馬ゲインズボローを破った他、アスコットダービーを勝ち、英セントレジャーの代替競走セプテンバーSでゲインズボローの3着がある。種牡馬としては英仏で供用されたが、それほど成功していない。

プラッキーリエージュは当馬の項を参照。→牝系:F16号族③

母父スペアミントは当馬の項を参照。

競走馬引退後

4歳で競走馬を引退した本馬は、5歳時から英国ラトランドスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は300ギニーに設定された。初年度産駒から英セントレジャー馬テヘランを出すなど、優秀な種牡馬成績を挙げ、現役時代には敵わなかったネアルコと種牡馬としては凌ぎを削った。1947・49年には英愛種牡馬ランキングにおいていずれもネアルコに次ぐ2位になっている。特に1949年は、ネアルコではなく本馬が首位であるとする資料も存在する(おそらく計算方法の違いによるものである)。1955年10月に重度の蹄葉炎を発症したために20歳で他界した(亡くなった場所は資料によって異なり、英語版ウィキペディアや“Thoroughbred Database”には仏国で他界したとあるし、日本語版ウィキペディアには愛国サリーマウントスタッドで安楽死となったとある。どちらが正しいのか筆者には分からない)が、死後の1959・60年には名牝プティトエトワールの大活躍等により2年連続の英愛母父首位種牡馬にも輝いた。

本馬は後継種牡馬にも恵まれ、名馬タルヤーなどを出して1952年の英愛首位種牡馬に輝いたテヘランや、米国の名馬ギャラントマンを出したミゴリなどが活躍した。そのため本馬は「一時的に衰退したセントサイモン直系を復活させた中興の祖」と言われるまでになったが、残念ながら20世紀末には世界各国において大半の勢力を失った。日本では、直子の東京優駿の勝ち馬ヒカルメイジと、愛ダービー馬ヒンドスタンが種牡馬として成功した。ヒンドスタンは五冠馬シンザンを筆頭に数々の名馬を出して大活躍し、ヒカルメイジも天皇賞馬アサホコや東京優駿の勝ち馬グレートヨルカを出すなど、直系子孫は日本でも一時期大きく繁栄した。日本でも現在では直系は残っていないが、本馬の系統は日本競馬史を語る上で欠かせない存在となっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1941

Tehran

英セントレジャー

1944

Migoli

凱旋門賞・デューハーストS・エクリプスS・英チャンピオンS・クレイヴンS・キングエドワードⅦ世S・ホワイトローズS

1944

Woodruffe

クイーンアンS

1945

Valognes

チェスターヴァーズ

1945

Woodburn

ヨークシャーC・シザレウィッチH

1946

Hindostan

愛ダービー

1946

Ridge Wood

英セントレジャー・オックスフォードシャーS

1946

Royal Forest

デューハーストS・コヴェントリーS・サンダウンクラシックトライアルS・ゴードンS

1946

Swallow Tail

ロイヤルロッジS・チェスターヴァーズ・キングエドワードⅦ世S

1946

Urfe

リス賞

1948

Fraise du Bois

愛ダービー・ロイヤルロッジS

1948

Red Shoes

チャイルドS

1951

Bara Bibi

パークヒルS

1953

French Beige

ゴールドヴァーズ・ドンカスターC・ジョッキークラブC

1954

ヒカルメイジ

東京優駿・スプリングS・NHK杯

1956

Ongar

セントジェームズS

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