和名:フライングボルト |
英名:Flyingbolt |
1959年生 |
騙 |
栗毛 |
父:エアボーン |
母:イーストロック |
母父:イーストン |
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2歳年上の同厩馬アークルと対戦していたら勝っていた可能性が高いと言われる、アークルと双璧を成す英愛障害競走チェイス分野のトップ2の1頭 |
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競走成績:4~12歳時に愛英で走り通算成績34戦18勝2着3回3着6回(うち障害31戦16勝2着3回3着6回) |
英タイムフォーム社のレーティングにおいてスティープルチェイス分野史上最高の212ポンドを獲得したアークルの2歳年下で、アークルに次ぐ史上2位の210ポンドを獲得した英国競馬史上屈指の名障害競走馬。
誕生からデビュー前まで
ロバート・E・ウェイ氏という人物により生産された英国産馬である。ウェイ氏は小規模牧場の所有者で、本馬の父エアボーンと母イーストロックはいずれもウェイ氏の牧場にいた。後述するように本馬の両親は2頭とも繁殖能力を喪失したと判断されており、ウェイ氏はこの2頭を交配相手ではなくコンパニオンアニマル同士にするつもりで同じ区画内に放し飼いにした。ところがウェイ氏が知らない間に2頭は恋に落ちたらしく、翌年に本馬が誕生した。
ウェイ氏は本馬を当歳12月のニューマーケットセールに出品した。本馬は210ギニーで愛国のラリー・ライアン氏に購入され、愛国に渡った。本馬は見栄えが良い馬だったらしく、1歳時に愛国で行われた品評会で優勝した。ライアン氏は本馬を愛国ダブリンで実施されたセリに改めて出品し、本馬は490ギニーでジョージ・ポンソンビー氏に購入された。ポンソンビー氏はアークルを管理していたトム・ドリーパー調教師と提携していた。そして本馬はドリーパー師の顧客だったT・G・ウィルキンソン夫人の所有馬、ドリーパー師の管理馬となった。ウィルキンソン夫人は、飛空艇を意味する父エアボーンと、東側の鍵を締めるという意味の母イーストロックの馬名から連想して、「浮遊する締めネジ」という意味の名前を本馬に与えた。
競走生活(62/63・63/64シーズン)
アークルと同じく本馬も最初は平地競走からスタートしており、デビュー戦は4歳5月にレパーズタウン競馬場で行われた芝12ハロンの未勝利戦だった。しかし単勝オッズ21倍の人気薄であり、結果も着外と冴えなかった。その後はしばらくレースに出ず、10月にナヴァン競馬場で行われた平地競走に出走した。このレースは平地競走と言っても、英愛の障害競走ナショナルハントに向かう馬がその前段階として出走する、将来の障害競走馬育成用のレースだった。ここでは単勝オッズ1.73倍の1番人気に支持されると、7馬身差で圧勝した。奇しくもこの30分前には既にチェイス界の有力馬として活躍していた同厩馬アークルがドノモアプレートで生涯唯一の平地勝利を挙げていた。その後にレパーズタウン競馬場で出走した平地競走も4馬身差で快勝。
そしていよいよ障害競走に向かうことになった。まず本馬が向かったのはハードル分野だった。アークルもチェイスに向かう前はハードルを走っており、障害の飛越難易度が高いチェイスにいきなり向かうよりも、まずは飛越難易度が低いハードルで障害に慣れてからチェイスに転向するのは当時も今も一般的だったようである。主戦はアークルと同じくパット・ターフェ騎手が務め、本馬の全盛期における障害競走の全てに騎乗した。
4歳12月にレパーズタウン競馬場で行われた障害未勝利戦でデビューして勝利。バルドイル競馬場で出走したキレスターハードルも勝利した。さらにレパーズタウン競馬場で出走したスカルプハードルも勝利。この時の本馬の走りについて作家兼ジャーナリストのアイヴァー・ハーバート氏は「アークルより2歳若いフライングボルトは、スカルプハードルを馬なりで勝ちました。対戦相手は経験豊富な年上の有力馬達だったのに、驚くべきことでした。フライングボルトはきっと愛国だけでなく英国でもトップクラスのノービスハードル馬(ノービスとは初心者という意味で、大雑把に書くと、ナショナルハントにおいては前シーズンまでに障害で勝った事が無い馬を指す)になる事でしょう」と書き記している。
ハーバート氏の予想どおり、本馬は5歳時には英愛両国の有力ノービスハードル馬が集うチェルトナム競馬場のグロスタシャーハードル(16.5F・現シュプリームノービスハードル)に出走して勝利を収め、英愛両国のノービスハードル馬の頂点に立った。この数日後にはアークルが好敵手ミルハウスを撃破して最初のチェルトナム金杯制覇を達成している。本馬もこの1963/64シーズン限りでハードル界に別れを告げ、チェイスに転向する事になった。本馬とアークルは所有者が違っていたのだが、ドリーパー師は2頭を同じレースに出す事を徹底して避け続けた。
競走生活(64/65・65/66シーズン)
64/65シーズンは秋から始動して、チェルトナム競馬場で出走したチャンピオンノービスチェイス(16F・現アークルチャレンジトロフィー)を勝つなど5連勝した。この5連勝は全戦で単勝オッズ2倍を切る圧倒的1番人気に支持されていた。5連勝の最終戦では、170ポンドを背負いながらも、37ポンドのハンデを与えた2着馬を破るなど、人気を裏切らない圧倒的な強さを発揮した。
65/66シーズンは、10月にフェニックスパーク競馬場で出走したハンデ競走で28ポンドのハンデを与えた馬の4着に敗れ、デビュー戦の平地競走以来2年半ぶり2度目、障害転向後では初の黒星を喫した。しかしその後は何事もなかったかのように連勝街道を邁進。ゴウランパーク競馬場で出走したキャリーズコテージチェイス(20F)では170ポンドを背負いながらも、32ポンドのハンデを与えた2着馬に5馬身差で勝利した。11月にアスコット競馬場で出走したブラック&ホワイトウィスキー金杯では15馬身差で圧勝。
12月にチェルトナム競馬場で出走したマッセイファーガソン金杯(21F)では、174ポンドという斤量に加えて、かなり強力な対戦相手10頭に25ポンド以上ものハンデを与えなければならなかった事、さらには降り続く雨のために馬場状態が悪化して余計に斤量が堪える状況になった事などが重なり、チェイス転向後では初めて単勝オッズが2倍を超えて、単勝オッズ3.5倍での出走となった。しかし本馬は、このレースは厳しいと判断した人達を見返すかのように、2着ソルビナに15馬身差、3着スコティッシュメモリーズにはさらに1馬身半差をつけて圧勝してしまった。
さすがのターフェ騎手もレース前に馬場状態がどんどん泥沼に代わっていく状況を目の当たりにして勝つのは難しいと感じていた・・・と思いきや、負けることは無いだろうと感じていたそうである。このレースで3着だったスコティッシュメモリーズは、前シーズンのマッセイファーガソン金杯においてアークル(このレースでは3着に負けてしまっている)から33ポンドのハンデを貰って2馬身後方、レパーズタウンチェイスにおいては勝ったアークルから35ポンドのハンデを貰って1馬身後方だった。このレースで本馬がスコティッシュメモリーズに与えたハンデは26ポンドだったが、その差は16馬身半差だったから、ターフェ騎手は「アークルとフライングボルトはどちらが強かったのでしょうかね?少なくともフライングボルトはアークルの領域に達していた事は証明されたと思うのですが」と語っている。
その後にゴウランパーク競馬場で出走したテュエステスチェイス(24F)では、アークルの項で触れた、他馬との実力差が大きすぎる場合に限り適用される専用の斤量システムが適用された(このシステムが実際に適用されたのは歴史上アークルと本馬のみ)。本馬には168ポンドが課せられ、ハイトオーファッション(愛グランドナショナルとレパーズタウンチェイスでは勝ったアークルからそれぞれ1馬身、1馬身半差の2着だった)には28ポンド、フライングワイルド(前シーズンのマッセイファーガソン金杯ではアークルを3着に破って勝っていた)には32ポンドのハンデ差を与える羽目になった。しかし結果は本馬が2着ハイトオーファッションに公式着差不明の大差(推定30馬身差と言われる)、3着フライングワイルドにもさらに公式着差不明の大差(推定25馬身差と言われる)をつけて圧勝してしまった。
本馬の次走はチェンピオンチェイス(16F・現クイーンマザーチェンピオンチェイス)となった。同じチェルトナムフェスティヴァルの花形競走チェルトナム金杯に出走しなかったのは、3連覇がかかるアークルとかち合わないためだった。同競走史上現在でも最少となっている単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持された本馬は、レース序盤は後方2番手を進みながらも、瞬く間に他馬をごぼう抜きにしてちぎり捨て、ゴール前では馬なりのまま走り、15馬身差で圧勝して引き揚げてきた。
当然だが、チェルトナム金杯で3連覇を達成したアークルと本馬の直接対決が見たいという声が大きくなった。しかし残念ながらドリーパー師は2頭を絶対に同じレースに出すことはしなかった。その代わりという事だったのだろうか、ドリーパー師はチェンピオンチェイスを勝った本馬を翌日の英チャンピオンハードル(16F110Y)に出走させた。距離はほぼ同じとは言え、チェイス最高級のレースの翌日にハードル最高峰のレースに出てきたのだから、常識的な出走では無かった。それでも単勝オッズ2.875倍の1番人気に支持された本馬だったが、サーモンスプレイ、センペルヴィブムの2頭に後れを取り、勝ったサーモンスプレイから3馬身差の3着に敗れてしまった。敗因はこの非常識な出走日程では無く、道中で本馬に外側を走らせてコースロスを蒙らせた上に、本馬を早めに先頭に立たせずに差す競馬をさせたターフェ騎手の騎乗ミスであるという意見が強い。批判を受けたターフェ騎手は「フライングボルトは、ハードルでもトップクラスの能力の持ち主です。そのためにハードル向きの競馬をさせたのです」と弁解した。
その後は愛グランドナショナル(26F)に出走した。175ポンドという狂気じみた斤量を背負わされた本馬だったが、40ポンドのハンデを与えたハイトオーファッションを2馬身差の2着に、42ポンドのハンデを与えた前年の同競走の勝ち馬スプラッシュを3着に破って勝利。このレースは一昨年にアークルがやはりハイトオーファッションを2着に破って勝っていたが、その時のアークルの斤量は168ポンド、ハイトオーファッションとの斤量差は30ポンドで、着差は1馬身1/4差(アークルの資料には1馬身差とあるが本馬の資料には1馬身1/4差とある。大きな違いはないが)だった。前述した専用の斤量システムが創設されたのは、アークルが愛グランドナショナルに出走する際だったため、175ポンドを背負って愛グランドナショナルを勝った馬は後にも先にも本馬以外に存在しない。65/66シーズンが終わった段階で本馬の通算成績は20戦17勝(平地を含む)で、11連勝中と無敵同然だった。
競走生活(66/67シーズン以降)
翌66/67シーズンは、今度こそチェルトナム金杯でアークルと対戦するのではないかという噂も流れた。まずは10月にチェルトナム競馬場で行われたナショナルハントセンテナリーチェイスから始動して、他馬勢より21ポンド以上重い175ポンドを背負いながらも、単勝オッズ1.29倍の1番人気に支持された。レースでは例によって後続馬に大差をつけて先頭を爆走していたが、ゴール前で突然失速。それでもゴールして9馬身差で圧勝したが、ゴール前の失速ぶりが異常だったために検査が行われた。
脚の故障などは見られなかったが、ある意味ではもっとやっかいな疾患に罹患している事が判明した。その病名はブルセラ症。発熱、骨関節系の炎症、下痢や吐き気などの消化器系の異常が主な症状で、稀に心臓に炎症を起こしてその場合は死に至る。完治したように見えても再発する事も多いやっかいな病気である。基本的に牛の病気であり、本馬が罹患したのは、夏の放牧中に牛もいる牧場で暮らしていた事が原因だとみなされている。ブルセラ症は人獣共通の感染症であり、人間にとっても生命に関わる危険な病気であるため、日本においては牛や馬などの家畜が罹患した場合には、治療は行わずに有無を言わさず殺処分される。しかし当時の英国や愛国においてはルールが異なっていたようで(それが競走馬に限るものだったのか、家畜全般に対するものだったのかは良く分からない)、本馬には治療が施された。完治しなければレースに出ることは出来ないのだが、本馬は障害競走馬としては比較的若かったため、長期間の治療を経ても完治すれば再び活躍可能という目算があったようである。しかしこのシーズンのチェルトナムフェスティヴァルには間に合うはずもなかった。そして本馬の病気発覚から約2か月後にアークルもレース中の負傷のためチェルトナム金杯4連覇の夢を絶たれてしまい、ドリーパー師は相次ぐ不幸に見舞われることになった。
アークルは遂に復帰は叶わなかったが、本馬のほうは何とかブルセラ症を表向きは完治させて、前走から約1年後の67/68シーズンに競馬場に戻ってきた。まずはパンチェスタウン競馬場でチェイス競走に出走。病み上がりにも関わらず、他馬勢全てより42ポンド重い175ポンドが課せられた。結果は3着で、斤量差を考慮すると復帰戦としてはまずまずだった。しかしチェルトナム競馬場で出走したマッケソン金杯(20.5F・現パディパワー金杯)では、ポーンブローカーの7着と惨敗した。
ドリーパー師は既に本馬にはかつての輝きが無いとして、本馬の競走馬引退をウィルキンソン夫人に進言した。しかしウィルキンソン夫人は首を縦に振らず、ロディ・アーミテイジ厩舎に転厩させて本馬の現役続行を強行した。
翌68/69シーズンの1月にヘイドックパーク競馬場で行われたハンデ競走で、ターフェ騎手に代わって主戦となったバリー・ブローガン騎手(アマチュアの騎手で、ドリーパー厩舎のアシスタントとして本馬やアークルの調教にも携わっていた)を鞍上に、175ポンドを背負いながらも勝利を収め、久々の勝ち星を挙げた。このシーズンはもう1戦だけしたが、このキングジョージⅥ世チェイス(24F)はタイタスオーツの2着に敗れている。
ところがやはり本馬のブルセラ症は完治していなかったようで、再発してしまった。そのために2年間以上に渡る治療が施され、70/71シーズンに復帰した。しかしかつての輝きは取り戻せることは無く、4月にエイントリー競馬場で出走したトップハムトロフィーチェイス(21F110Y)で、生涯最初で最後の落馬競走中止となったのを最後に競走馬生活に終止符を打った。
競走馬としての評価
本馬とアークルは同厩で走った時代も重なっていたが、ドリーパー師が2頭を絶対に戦わせようとしなかったため、基本的にアークルが表舞台を走り、本馬は裏舞台を走った。前述のとおり英タイムフォーム社のレーティングにおいてはアークルのほうが2ポンド高く、2003年に英レーシングポスト紙が行った企画“Favourite 100 Horses”においてはアークルが1位だったのに対して本馬はランク外になるなど、本馬は明らかにアークルの影に隠れた存在だった。しかし実際の実力はどうだったのだろうか。アークルの評価が高いのはミルハウスという歴史的名障害競走馬が好敵手として存在していたからという一面が大きい(後にベストメイトがアークルに並ぶチェルトナム金杯3連覇を果たした際に、ベストメイトには好敵手がいないからアークルの領域に達したとは言えないと評されたという事実がある)が、本馬には好敵手がいなかった分だけ評価を抑えられているような雰囲気もある。
ブローガン騎手は本馬の全盛時代に公式戦で乗ったことは無かったが、彼は調教で跨った感触から「フライングボルトはアークルより強かったと思います。(アークルが3連覇を達成した)1966年のチェルトナム金杯にフライングボルトが出走していたら、アークルの3連覇は無かったでしょう」と述懐している。彼は2008年にレーシングポスト紙のインタビューに応じた際にも同じことを言い、「(1992年に死去した)ターフェ騎手が生きていたら、私と同じことを言ったと思います」と語った。本馬とアークルは公式戦における対戦は無いが、同厩だったために調教では頻繁に対戦していた。所詮は調教である上に、2歳違いの2頭の全盛期は異なっていたと思われるから決定的な証拠にはならないが、本馬が先着することが多かったという。いずれにしても本馬とアークルが競馬場で直接対決する事が無かったのは、ナショナルハントの歴史上最大の失望事であると現在でも言われ続けている。
血統
Airborne | Precipitation | Hurry On | Marcovil | Marco |
Lady Villikins | ||||
Tout Suite | Sainfoin | |||
Star | ||||
Double Life | Bachelor's Double | Tredennis | ||
Lady Bawn | ||||
Saint Joan | Willbrook | |||
Flo Desmond | ||||
Bouquet | Buchan | Sunstar | Sundridge | |
Doris | ||||
Hamoaze | Torpoint | |||
Maid Of The Mist | ||||
Hellespont | Gay Crusader | Bayardo | ||
Gay Laura | ||||
Barrier | Grey Leg | |||
Bar The Way | ||||
Eastlock | Easton | Dark Legend | Dark Ronald | Bay Ronald |
Darkie | ||||
Golden Legend | Amphion | |||
St Lucre | ||||
Phaona | Phalaris | Polymelus | ||
Bromus | ||||
Destination | Desmond | |||
L'Etoile | ||||
Tetrarch Girl | The Tetrarch | Roi Herode | Le Samaritain II | |
Roxelane | ||||
Vahren | Bona Vista | |||
Castania | ||||
Affinity | Orby | Orme | ||
Rhoda B. | ||||
Lady Strike | Lord Edward | |||
Strike |
父エアボーンはプリシピテイション産駒で、1946年の英ダービー・英セントレジャーの勝ち馬。2歳時は4戦未勝利。3歳になって2戦1勝の成績で出走した英ダービーを単勝オッズ51倍の人気薄で勝利し、続いてプリンセスオブウェールズSも勝った。秋には英セントレジャーを単勝オッズ4倍の1番人気で勝利した。現役成績は11戦4勝。エアボーンは芦毛馬だったが、芦毛馬の英ダービー制覇は2015年現在エアボーンが最後の例である。
芦毛馬は弱いという偏見が影響したかどうかは定かではないが、エアボーンは種牡馬としては人気が出ず、成績も上がらなかった。15歳時の1958年には受精能力を喪失したと判断され、繋養先の牧場の近所で小牧場を営んでいたウェイ氏に捨て値で売り飛ばされた。本馬が産まれた3年後の1962年9月に心臓発作のため19歳で他界している。
母イーストロックの競走馬としての経歴は不明。ウェイ氏の元で繁殖入りしていたが、繁殖牝馬としては非常に受胎率が悪く、11歳時に3番子を産んだ後は不受胎続きだった。19歳時の1958年に、前述のとおりウェイ氏の元にエアボーンがやってくると、ウェイ氏は受精能力が無いと思われていたエアボーンと不受胎続きのイーストロックをコンパニオンアニマル同士にするつもりで同じ区画内に放し飼いにした。そうしたらウェイ氏が気付かない間にイーストロックは身籠り、翌年に本馬を産み落としたのだった。ウェイ氏の牧場にはイーストロック以外にも繁殖牝馬は数頭いたが、種牡馬はエアボーン以外にいなかった事もあり、本馬はエアボーンの息子として血統登録が認められた。
イーストロックの半姉フライアースメードン(父フライアーマーカス)は日本に繁殖牝馬として輸入され、アヅマライ【農林省賞典四歳馬(菊花賞)】の母となった他に、ハツシバオー【羽田盃・東京ダービー・東京王冠賞・東京大賞典】、シゲノカマダ【全日本三歳優駿・平和賞】、リュウフレンチ【ジュニアグランプリ・東海ダービー・東海大賞典】などの牝系先祖となった。イーストロックの4代母ストライクは英国三冠馬アイシングラスの半妹だが、あまり繁栄している牝系ではない。→牝系:F3号族②
母父イーストンはベルギーの国際競走オステンド大賞でアドミラルドレイクを2着に破って勝った他に、英2000ギニーでコロンボの2着、英ダービーでウインザーラッドの2着、パリ大賞でアドミラルドレイクの3着、コロネーションCでウインザーラッドの2着の実績がある。他にはリブルズデイルSの勝ちがある。イーストンの父ダークレジェンドはダークロナルドの項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ちょうど本馬と同じ1971年に調教師を引退した父トム・ドリーパー師(1975年に76歳で死去)から厩舎を受け継いだ息子ジム・ドリーパー調教師の厩舎に戻り、1968年のチェルトナム金杯を勝利したフォートレニーを始めとする同厩馬達のコンパニオンアニマルとして余生を過ごした。1983年に24歳で他界した。