トムフール

和名:トムフール

英名:Tom Fool

1949年生

鹿毛

父:メノウ

母:ガガ

母父:ブルドッグ

2歳時から活躍していたが4歳になって全盛期を迎え、ニューヨークハンデキャップ競走全勝など10戦無敗の成績を誇った米国の歴史的名馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績30戦21勝2着7回3着1回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州において、デュヴァル・A・ヘッドリー氏により生産された。彼は本馬の父メノウを生産したハル・プライス・ヘッドリー氏の甥で、メノウを管理した調教師でもあった。本馬はプライベートで売りに出され、米国の名門ホイットニー一族の一員で後の在英米国大使ジョン・ヘイ・ホイットニー氏の代理人だったサー・ジョン・M・ゲイヴァー調教師(かつて名馬デヴィルダイヴァーを手掛けた人物)により、2万ドルで購入された。ゲイヴァー師が本馬を見たときに、本馬は牧場の柵に絡まって脚を負傷していた。そのためにゲイヴァー師は本馬を買う意思は無かったのだが、何かの手違いで契約が成立してしまい、仕方なく本馬を購入する羽目になったのだという。塞翁が馬という言葉があるが、何がどう幸いするのかは確かに分からないものである。

ホイットニー一族のグリーンツリーステーブル名義で競走馬となり、ゲイヴァー師が管理する事になった。手違いで購入された本馬だったが、本馬の所有者ジョン・ヘイ・ホイットニー氏と彼の姉でニューヨーク・メッツの創設者兼所有者だったジョーン・ホイットニー・ペイソン夫人は、本馬が誕生した年のプリークネスSとベルモントSを同じメノウ産駒のカポットで勝利していた(カポットを手掛けたのもゲイヴァー師である)から、本馬に対してもそれなりの期待を持っていたと思われる。しかし幼少期における本馬の評価に関しては詳しく伝わっていない。デビュー前の本馬に関して確実に確認できる唯一の事柄は、2歳時の早い段階に裂蹄を発症してしまい、デビューが少々遅くなったという事くらいである(この裂蹄は本馬の競走経歴に影響を及ぼすものではなかったようである)。

競走生活(2歳時)

2歳8月にサラトガ競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦でデビューして、単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。そして本馬の全競走に騎乗することになるテッド・アトキンソン騎手を鞍上に、後にチェサピークSを勝ちフロリダダービーで2着するハンサムテディを4馬身差の2着に破って快勝した。それから1週間後にはサンフォードS(D6F)に出走して、2着ファーストリフューザルに2馬身1/4差で勝利した。さらに5日後に出走したグランドユニオンホテルS(D6F)では、当時2歳馬では最強と言われていたフラッシュS・サラトガスペシャルS・グレートアメリカンSの勝ち馬カズンを1馬身差の2着に退けて勝利した。しかし、さらに6日後に出走したホープフルS(D6.5F)では、カズンに雪辱を許して1馬身1/4差の2着に敗れてしまった。サラトガ競馬場からベルモントパーク競馬場に移動して9日後に出走したアンティシペイションパース(D6F)でも道中で不利を受けて、カルメットファーム産馬ヒルゲイルの4馬身差2着に終わった。

翌10月に出走したベルモントフューチュリティS(D6.5F)では、ヒルゲイル、アーリントンワシントンフューチュリティを勝ってきたカズン、ジュヴェナイルS・ユースフルSの勝ち馬プリメイトとの顔合わせとなった。本馬は4番人気止まりであったが、大外一気の豪脚を見せて2着プリメイトに1馬身3/4差をつけて勝利。1番人気に支持されていたヒルゲイルは4着、カズンはそれからさらに後方の着外に沈んだ。それから18日後にジャマイカ競馬場で出走したイーストビューS(D8.5F)では、不良馬場に苦しみながらも闘争心を発揮して、シャンペンS2着馬プットアウトから首差で勝利をもぎ取った。

2歳時は7戦5勝2着2回の好成績で、この年の米最優秀2歳牡馬に選ばれた。2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)でも同世代最高となる126ポンドの評価を受けている。

競走生活(3歳前半)

3歳時は4月にジャマイカ競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動して、2着プリメイトに首差で勝利した。しかしそれから8日後に出走したウッドメモリアルS(D9F)では、エヴァーグレイズS・フラミンゴSで2着してきたマスターフィドルの首差2着に敗れた。そしてこの直後に咳と熱発の症状に苦しむようになったため長期休養を余儀なくされ、ケンタッキーダービーを始めとする米国三冠競走には不出走となってしまった。本馬不在のケンタッキーダービーはヒルゲイルが、プリークネスSはブルーマンが、ベルモントSは後に本馬と対戦することになるワンカウントが勝利している。

6月末に復帰した後も本馬の調子は上がらず、アケダクト競馬場で出走したリペイH(D6F)では、ハイテックスの頭差2着に敗退。7月に出走したアーリントンパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走では、ハイスカッド、アーリントンクラシックSの勝ち馬マークイーウェル(後にサンタアニタH・アメリカンダービー・ローレンスリアライゼーションS・サンタアニタマチュリティS・サンフェルナンドS・サンマルコスH・サンアントニオH・スターズ&ストライプスHなども勝利)などに屈して、勝ったハイスカッドから4馬身差の4着に終わった。翌8月にはサラトガ競馬場で古馬相手のウィルソンS(D8F)に出走した。苦手な不良馬場となったが、106ポンドという軽量に恵まれた事もあり、2着となったユナイテッドステーツホテルS・フラッシュS・セレクトH・パロスヴェルデスH・カーターHなどの勝ち馬ノーザンスターに4馬身半差をつけて勝利した。しかしそれから6日後に出走したサラトガ競馬場ダート9ハロンの一般競走では、117ポンドの斤量で重馬場を走る事になり、ケンタッキーダービー5着馬カウントフレイムの鼻差2着に敗北。それから5日後に出走したトラヴァーズS(D10F)では、本馬不在のベルモントSを勝利したワンカウント、アルマゲドン(シャンペンSのレース中に片目に石を受けて失明しながらも勝利を収め、その後もウィザーズS・ピーターパンSなどを勝ち、アーリントンクラシックSで2着、ベルモントSで3着していた。名馬アクアクの父方の祖父でもある)などとの対戦となった。しかし不得手な不良馬場となった影響もあり、上記2頭に屈して、勝ったワンカウントから4馬身差の3着に終わった。

競走生活(3歳後半)

1か月後に出走したジェロームH(D8F)では、アメリカンダービーを勝ってきたマークイーウェル、アルマゲドンなどとの対戦となった。1番人気に支持されたのはマークイーウェルだったが、結果は本馬が2着となったゴールデンゲートダービーの勝ち馬マルカドールに7馬身半差をつけて圧勝。この辺りから徐々に調子を取り戻していった。

13日後のサイソンビーH(D8F)では、ファウンテンオブユースS・ジェロームH・ディスカヴァリーH・アップルトンH・ディキシーHなどを勝っていたアラーティド、一昨年のメトロポリタンH・モンマスH・ルイジアナダービーの勝ち馬グリークシップなどとの対戦となったが、本馬が2着アラーティドに1馬身1/4差で勝利した。11日後のローマーH(D9.5F)では126ポンドが課せられ、15ポンドのハンデを与えたバハマズHの勝ち馬クワイエットステップの2馬身差2着だった。

7日後のグレイラグH(D9F)では、アラーティド、クワイエットステップの2頭に加えて、アーリントンフューチュリティ・サンカルロスH・マサチューセッツH・アーリントンHなどの勝ち馬トゥマーケット、マンハッタンH・ピムリコスペシャルS・ホイットニーS・サバーバンH・モンマスH・マサチューセッツH・エッジメアH・サラトガHなどの勝ち馬ワンヒッター、ピムリコフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティS・エヴァーグレイズS・フラミンゴS・エクワポイズマイルH・バトラーH・ニューオーリンズHなどを勝っていた2歳年上の米最優秀2歳牡馬オイルキャピトル、サラトガスペシャルS・サプリングS・ベルモントフューチュリティS・ホープフルSなどを勝っていた1歳年上の米最優秀2歳牡馬バトルフィールドも出走してくる豪華メンバーとなった。特にバトルフィールドは3歳以降もウィザーズS・ドワイヤーS・トラヴァーズS・ニューヨークHを勝ち、ベルモントSで2着するなど一線級で活躍していた。レースは本馬とバトルフィールドのマッチレースの様相を呈し、直線では3着アラーティド以下を大きく引き離して2頭の激戦が展開された。そして最後は本馬が鼻差で勝利を収めた。

2週間後のウエストチェスターH(D9F)でも、バトルフィールドとの顔合わせとなった。ここではバトルフィールドがすんなりと先行したのに対して、本馬は道中で馬群に閉じ込められてしまった。それでも直線ではアラーティドやオイルキャピトルを置き去りにして追い上げたが、バトルフィールドに鼻差届かず2着に敗れた。12月のエンパイアシティH(D9.5F)では128ポンドというやや厳しい斤量を克服して、19ポンドのハンデを与えた2着マルカドールに頭差で勝利を収め、3歳シーズンを締めくくった。このレース後に鞍上のアトキンソン騎手は「彼は偉大で勇敢な馬です」と賞賛した。

しかし3歳時の成績は13戦6勝止まりであり、この年の米国競馬の年度表彰では無冠だった。米最優秀3歳牡馬は、ジョッキークラブ金杯も勝利したワンカウントが受賞。米年度代表馬はワンカウントと、9戦無敗の2歳馬ネイティヴダンサーが揃って受賞した。

競走生活(4歳前半)

冬場をサウスカロライナ州にあるグリーンツリーステーブル所有の牧場で過ごした本馬は、4歳時は4月にジャマイカ競馬場で行われたダート5.5ハロンのハンデ競走から始動した。128ポンドが課せられたが、2着ドゥレポートに2馬身半差で楽勝した。翌5月にベルモントパーク競馬場で出走したジョーパーマーH(D6F)では130ポンドを課せられた上に、ティーメーカーという快速馬との対戦となった。この時点で既に10歳になっていたティーメーカーだったが、7歳時にヴォスバーグHを制して名を馳せると、9歳時に全盛期を迎え、ジャマイカH・ウィルミントンH・フリートウイングH・アメリカンレギオンHなどに勝ち、ヴォスバーグH・フォールハイウェイトH・インターボローHでも2着して前年の米最優秀短距離馬に選ばれていたという、老いてなおますます盛んな老雄だった。しかし結果は本馬が2着ティーメーカーに1馬身半差で勝利した。

それから僅か4日後にはメトロポリタンH(D8F)に出走した。対戦相手は、一昨年のケンタッキーダービー馬カウントターフ、サンタアニタマチュリティS・サンフアンカピストラーノ招待H2回の勝ち馬インテント(名競走馬にして名種牡馬のインテンショナリーの父)、カウディンS・ブルーグラスS2着のコールドコマンド、この年の3月のマイアミビーチHでダート12ハロンの世界レコード2分28秒3を叩き出していた英国産馬ロイヤルヴェイルなどだった。斤量は前走と同じ130ポンドながら、本馬があまり得手としていない湿った馬場状態となった。レースではカウントターフのペースメーカー役として出走していたミスターターフという馬が逃げを打ち、本馬が2番手を追走した。そして直線で先頭に立つと、追い込んできた2着ロイヤルヴェイルに半馬身差で勝利した。

それから7日後に出走したサバーバンH(D10F)では、ワンカウントと2度目の対戦となった。過去10ハロンの距離ではトラヴァーズSの3着しか実績がなかった本馬に課せられた斤量は前走より軽い128ポンドだった。それでも、そのトラヴァーズSで本馬を破ったワンカウントよりは3ポンド重かった。ワンカウントの他にも、前走メトロポリタンHで本馬を追い詰めたロイヤルヴェイルも124ポンドで出走していた。さらには、後にこの年のユナイテッドネーションズHを勝ちワシントンDC国際Sで2着して米最優秀芝馬に選ばれるアイスバーグ、エイコーンS・アラバマS・ガゼルH・デラウェアHなどを勝っていた一昨年の米最優秀3歳牝馬キスミーケイトなどの顔もあり、戦前から名勝負が期待されていた。スタートが切られると本馬が先頭に立ち、そのまま直線まで順調に逃げ続けた。しかし直線に入るとロイヤルヴェイルが本馬に襲い掛かり、叩き合いとなった。ゴールの瞬間はロイヤルヴェイルが体勢有利に見えたが、写真判定の結果、本馬が鼻差で接戦を制した(2頭から7馬身後方の3着にコールドコマンドが入り、ワンカウントは5着だった)。勝ちタイム2分00秒6は、1913年にウィスクブルームが計時した2分フラットに次ぐ同競走史上2位の好タイムだったが、139ポンドを背負って同競走を勝ったとされるウィスクブルームの勝ちタイムには疑問の声が投げかけられており、信頼できるタイムとしては本馬のものが史上最速だった。ニューヨーク・タイムズ紙は「トムフールの素晴らしい競走経歴の中でもこれが最高のレースでした」と評したし、勝利確定後に勝ち馬表彰式場で本馬に接吻をしたアトキンソン騎手も「仮に負けていたとしても彼にキスをしたでしょう。それだけ素晴らしい走りでしたから!」と興奮したように語った。

メトロポリタンHとサバーバンHを両方勝った事により、本馬はメトロポリタンH・サバーバンH・ブルックリンHを同一年に全て勝利するニューヨークハンデキャップ三冠馬の栄誉に挑戦する権利を獲得した。しかしブルックリンHまでは6週間と日数があったため、その間にカーターH(D7F)に参戦した。ティーメーカー、パームビーチS・セミノールH・ローズベンHなどを勝っていた4年前の米最優秀短距離馬デレゲート、インターボローH・オータムデイHなどを勝っていたスクエアードアウェイ、セミノールHなどを勝っていたイートンタウンといった快速自慢達が集結していた上に、本馬は135ポンドを背負わされての出走となったが、単勝オッズ1.65倍の1番人気に支持された。スタートが切られるとスクエアードアウェイが先頭に立って逃げ、本馬は2番手を追走した。そして直線入り口で先頭に立つと、2着スクエアードアウェイに2馬身差をつけて、1分22秒0のコースレコードタイで完勝した。ニューヨーク・タイムズ紙は、もう他に表現のしようがないのか、「最上級のパフォーマンスでした」と書いた。

そして出走したブルックリンH(D10F)では136ポンドが課せられた。これは他馬より26ポンド以上も重い酷量だったが、メトロポリタンHとサバーバンHに比べるとはっきり言って楽なレースとなった。直線では手綱を持ったまま、26ポンドのハンデを与えた2着ゴールドグローヴズ(サラナクHの勝ち馬)と、27ポンドのハンデを与えた3着ハイスカッド(ちょうど1年前の一般競走で本馬を4着に破って勝った馬)に1馬身半差をつけて勝利。1913年のウィスクブルーム以来40年ぶり史上2頭目のニューヨークハンデキャップ三冠馬となった。

競走生活(4歳後半)

ブルックリンHから24日後に出走したウィルソンS(D8F)は、本馬のあまりの強さに回避馬が続出し、馬券発売の対象にならないエキシビションレースとなった。そして唯一の対戦相手インディアンランド(後にこの年のヴォスバーグHを勝っている)に8馬身差をつけて圧勝した。それから4日後に出走したホイットニーS(D10F)もエキシビションレースとなった。そしてアトキンソン騎手がゴール前で何度も後方を振り向く余裕を見せながら、唯一の対戦相手コンバットブーツに3馬身半差で勝利した。

次走はフォールハイウェイトHが予定されていたが、本来140ポンドが斤量上限であるはずのこのレースにおいて例外的に148ポンドというとてつもない斤量を課せられる事が決定したために回避。代わりに9月下旬のサイソンビーS(D8F)に向かった。このレースには1歳年下の名馬ネイティヴダンサーも出走を予定しており、2頭の直接対決がおおいに期待されていた(ベルモントパーク競馬場は2頭の招致のために賞金額を倍増した)。しかしネイティヴダンサーがアメリカンダービーのレース中に負った怪我のため回避して実現しなかった。ネイティヴダンサーが不在となったとは言え、サラトガH・サラトガCを勝ってきたアラーティド、スカイラヴィルS・アスタリタS・デモワゼルS・プライオレスS・CCAオークス・モンマスオークス・デラウェアH・ガゼルHを勝っていたこの年の米最優秀3歳牝馬グリーシャンクイーンという強豪馬2頭が出走していたのだが、それでもエキシビションレースとなった。レース内容としては、アラーティドとグリーシャンクイーンの2着争いのほうが余程エキサイティングであり、3着グリーシャンクイーンを半馬身抑えたアラーティドの3馬身前方で本馬がゴールしていた。

それから1か月後に出走したピムリコスペシャルS(D9.5F)も、4戦続けてのエキシビションレースとなった。ここでは何も書くことが無いくらいの楽勝ぶりで、ジェロームHを勝ちヴォスバーグHで2着してきたネイビーページを8馬身差の2着に、アラーティドを3着に撃破して、1分55秒8のコースレコードで圧勝した。

その後は距離13ハロンのエンパイアシティ金杯に出走する計画もあり、本馬がこの距離をこなせるかどうかが注目されていたのだが、結局は出走せずに、ピムリコスペシャルSを最後に競走馬を引退する事になった。4歳時は10戦全勝の完璧な成績で、米最優秀ハンデ牡馬・米最優秀短距離馬だけでなく、ウッドメモリアルS・ウィザーズS・プリークネスS・ベルモントS・ドワイヤーS・アーリントンクラシックS・トラヴァーズS・アメリカンダービー勝ちなど10戦9勝のネイティヴダンサーを抑えて米年度代表馬も受賞した。米年度代表馬と米最優秀短距離馬を同時受賞したのは本馬が史上初である(コールタウンが両タイトルを受賞しているが、同一年受賞ではなかった)。

なお、この年の獲得賞金総額では51万3425ドルを稼いでいたネイティヴダンサーの方が本馬より2倍以上多かった(本馬は25万6355ドル)のだが、それはネイティヴダンサーが活躍した米国三冠競走の賞金額の多さに由来するものであり、内容的には本馬が上位と判断されたのだった(この翌年にはネイティヴダンサーが3戦3勝、獲得賞金総額4万1320ドルながら米年度代表馬に選ばれている)。

競走馬としての評価と特徴

後にナシュアなどの主戦も務める事になるアトキンソン騎手だが、彼は「トムフールはいつも全力で走る信頼が置ける馬であり、彼が競走馬としての全盛期にあった時には、私が他に乗ったいかなる馬でも彼と比肩できるものはいませんでした」と、自身が乗った最高の馬として本馬の名を挙げている。控える競馬を試みた事は稀であり、経歴全般において、スタートから早いラップで先行してそのまま押し切る競馬を得意としていた。これは所有者であるジョン・ヘイ・ホイットニー氏がアトキンソン騎手にそのように乗るよう指示していたためであるらしい。

現役中に馬体が著しく成長した馬でもあり、3歳時の体高は15.3ハンド程度とあまり大きい馬ではなかったが、全盛期である4歳時には体高16ハンドに達していた。筋肉の付き具合も3歳までと4歳時ではまるで別馬であり、しかも単に筋骨隆々なだけではなく「滑らかな馬体の曲線美は、競走馬として最上級の品質を感じさせた」と評された。そのために本馬は「調教によって最も立派になった馬」と言われた。

デビュー前に裂蹄を発症したり、現役中にも左膝が悪いのではないかと言われたりした本馬だが、脚部不安による休養は一度も無く、至って頑丈な馬でもあった。気性面では「完璧な子羊」と評された母ガガの性格を受け継いだのか、非常に知的で大人しい馬だったという。しかし頭が良すぎたためか、自分の意に沿わない事には従おうとせず、いったんやらないと決めた事は二度としようとしなかったという。息子のバックパサーも似たような性格の持ち主だったから、これまた遺伝によるものなのだろう。

利発な馬だった本馬だが、その馬名を直訳すると「馬鹿者」という意味である。その由来は母の馬名ガガ(Gaga)が、米国のスラングで「愚か者」又は「頭がおかしくなっている」という意味である事からの連想であるが、ガガの馬名由来については資料に記載が無く不明である。これは筆者の勝手な憶測だが、ガガというスラングには「痴呆」という意味合いが含まれているから、あまりにも大人しかったガガが所謂「白痴(現在は差別用語なので重度な知的障がいと言い換えるべきか)」に見えたから名付けられたのではないだろうか。

血統

Menow Pharamond Phalaris Polymelus Cyllene
Maid Marian
Bromus Sainfoin
Cheery
Selene Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Serenissima Minoru
Gondolette
Alcibiades Supremus Ultimus Commando
Running Stream
Mandy Hamilton John o'Gaunt
My Sweetheart
Regal Roman Roi Herode Le Samaritain
Roxelane
Lady Cicero Cicero
Ste Claire
Gaga Bull Dog Teddy Ajax Flying Fox
Amie
Rondeau Bay Ronald
Doremi
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Alpoise Equipoise Pennant Peter Pan
Royal Rose
Swinging Broomstick
Balancoire
Laughing Queen Sun Briar Sundridge
Sweet Briar
Cleopatra Corcyra
Gallice

父メノウは、ファラリス産駒でハイペリオンの半兄でもあるファラモンド直子で、現役時代に米国で走り17戦7勝。デビュー当初は目立たなかったが、4戦1勝で迎えたシャンペンSでは2着ブルリーに4馬身差をつけて勝ち、続くベルモントフューチュリティSではダート6.5ハロンを1分15秒2という全米レコードで圧勝し、1937年の米最優秀2歳牡馬に選ばれた。しかし翌年は距離が伸びると成績を落とし、ケンタッキーダービー・プリークネスSともに敗戦。ベルモントSには出走せずにウィザーズSに出て勝利した。その後マサチューセッツHでウォーアドミラルを破って勝ち、さらにポトマックHにも勝利して3歳時を最後に現役引退。本馬以外の産駒にはカポット【プリークネスS・ベルモントS・ピムリコスペシャルH】、米最優秀2歳牝馬アスクメノウなどがいる。

母ガガは現役成績26戦7勝。1950年の米最優秀2歳牝馬に選ばれた本馬の半姉アントジニー(父ヘリオポリス)【セリマS・デモワゼルS】も産んでいる。アントジニーの子にはコピーチーフ【クラークH・ベンアリH】がいる。

ガガの半弟にはアルガシール(父サーギャラハッド)【カウディンS】がいる他、ガガの半妹ブルポイズ(父ブルリー)の子には種牡馬としても活躍したアンビオポイズ【ゴーサムS・ジャージーダービー・ディスカヴァリーH・グレイラグH】、牝系子孫にはクリテリオン【ローズヒルギニー(豪GⅠ)・AJCダービー(豪GⅠ)・AJCクイーンエリザベスS(豪GⅠ)・コーフィールドS(豪GⅠ)】が、ガガの半妹クローズランクス(父ファランクス)の孫にはループザグレート【ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ゴーサムS(米GⅡ)・ディスカヴァリーH(米GⅢ)】がいる。

ガガの母アルポイズの半妹キャプティベーションの曾孫には本邦輸入種牡馬ダストコマンダー【ケンタッキーダービー・ブルーグラスS】がいる。アルポイズの母ラフィングクイーンはセリマSの勝ち馬で、その全兄には1925年の米最優秀2歳牡馬ポンペイ【ベルモントフューチュリティS・ホープフルS・ウッドメモリアルS】がいる。ラフィングクイーンの母クレオパトラ【ピムリコオークス・CCAオークス・アラバマS】は1920年の米最優秀3歳牝馬で、名馬エクスターミネーターとも何度か対戦している。→牝系:F3号族③

母父ブルドッグはブルリーの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、米国ケンタッキー州グリーンツリースタッドで種牡馬入りした。しかし本馬は牝馬に興味を持たなかったために種付けが出来なかった。グリーンツリースタッドが本馬に交配意欲を抱かせるために色々と試行錯誤したため、初年度は何頭かの牝馬と交配を行う事が出来た(代表産駒の1頭ティムタムは本馬の初年度産駒である)。翌年以降も交配意欲が低いために関係者は苦労したようだが、それでも合計275頭の産駒から、バックパサーやティムタムなど36頭のステークスウイナーを出して成功を収めた(ステークスウイナー率は13%)。特に史上最高の繁殖牝馬の父と言われるバックパサーを出した功績は大きい。本馬自身も優秀な繁殖牝馬の父であり、ケンタッキーダービー馬フーリッシュプレジャー、愛ダービー馬メドウコート、1978年のエクリプス賞最優秀古馬牝馬レイトブルーマーなど89頭のステークスウイナーを出し、1965年の英愛母父首位種牡馬になっている(1971年には北米母父首位種牡馬になっているとする資料もあるが、一般的にはこの年の北米母父首位種牡馬はダブルジェイとなっている)。1972年に高齢のため種牡馬を引退し、1976年8月に27歳で他界、遺体はグリーンツリースタッドに埋葬されている。1960年に米国競馬の殿堂入りを果たしただけでなく、同年に“National Turf Writers Association(全米競馬記者協会)”が実施した“Horse of the Decade”の企画において、1950年代の米国代表馬にも選ばれている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第11位。

後継種牡馬としてはバックパサーが活躍したが、本馬共々フィリーサイヤーの傾向が強く、直系はあまり繁栄していない。しかし2010年のBCスプリントを制してエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれたビッグドラマなどが直系から出ており、現在も直系は維持されている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1955

Jester

ベルモントフューチュリティS

1955

Tim Tam

ケンタッキーダービー・プリークネスS・エヴァーグレイズS・ファウンテンオブユースS・フロリダダービー・フラミンゴS

1956

Dunce

アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・スターズ&ストライプスH

1957

Tompion

ホープフルS・サンタアニタダービー・ブルーグラスS・トラヴァーズS・バーナードバルークH・マリブS

1957

Weatherwise

ベルモントフューチュリティS・サンフォードS

1958

Funloving

マザーグースS・ブラックアイドスーザンS

1959

Batter Up

ソロリティS・ブラックアイドスーザンS

1959

Comic

ディスカヴァリーH

1959

Cyrano

メトロポリタンH・ブルックリンH・パロスヴェルデスH・サンバーナーディノH・ロサンゼルスH

1959

Fool's Gold

ムシドラS

1960

Bre'r Rabbit

ウィルロジャーズS

1960

Dunce Cap

ロウザーS・ハンガーフォードS

1960

Fool's Play

セリマS

1961

Circus

ニッカボッカーH・ブランディワインターフH

1961

Laugh Aloud

ベルモントレキシントンH

1962

Silly Season

英チャンピオンS・コヴェントリーS・デューハーストS・グリーナムS・セントジェームズパレスS・ロッキンジS・ハンガーフォードS

1963

Buckpasser

サプリングS・ホープフルS・アーリントンワシントンフューチュリティ・シャンペンS・エヴァーグレイズS・フラミンゴS・アーリントンクラシックS・ブルックリンH・アメリカンダービー・トラヴァーズS・ウッドワードS・ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯・マリブS・サンフェルナンドS・メトロポリタンH・サバーバンH

1963

Model Fool

センチュリーH

1963

Peter Piper

エクセルシオールH

1964

Sweet Folly

ガゼルH・レディーズH

1969

Nalees Folly

シーショアH

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