アラジ

和名:アラジ

英名:Arazi

1989年生

栗毛

父:ブラッシンググルーム

母:ダンスールファビュルー

母父:ノーザンダンサー

仏国2歳GⅠ競走を総なめにした後に出走したBCジュヴェナイルを圧勝して、2歳にしてカルティエ賞年度代表馬に選ばれたワンダーホース

競走成績:2・3歳時に仏米英で走り通算成績14戦9勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

ナショナルフットボールリーグの強豪バッファロー・ビルズのオーナーを長年務める傍らで馬産も行っていたラルフ・C・ウィルソン・ジュニア氏により米国ケンタッキー州において生産された。成長しても体高は僅か15.2ハンド程度であり、近代サラブレッドの標準と比較すると非常に小さい馬だった。

1歳時のキーンランドセールに出品され、米国の名物馬主アレン・E・ポールソン氏により35万ドルで購入された。中古飛行機の転売業で財を成し、航空機メーカーであるガルフストリーム・エアロスペース社のオーナーも務め、自身パイロットでもあったポールソン氏は、所有馬に航空チェックポイントの名前を付ける事が多かった。本馬の名前もアリゾナ砂漠にある航空チェックポイントの名前である。所有馬を米国で走らせる事が多いポールソン氏だが、本馬を預けたのは仏国のフランソワ・ブータン調教師だった。

競走生活(2歳時)

2歳5月にシャンティ競馬場で行われたドーグモント賞(T1000m)で、フレデリック・ヘッド騎手を鞍上にデビュー。しかし勝ったスタインベックから2馬身半差の2着に敗れ、デビュー戦を飾る事は出来なかった。2週間後にエヴリ競馬場で行われたリステッド競走ラフレッシュ賞(T1200m)で2戦目を迎え、2着タバックに3馬身差で勝ち上がった。

次走のボワ賞(仏GⅢ・T1000m)では、ジェラルド・モッセ騎手とコンビを組んだ。ドーグモント賞で本馬を破ったスタインベックが単勝オッズ1.4倍という圧倒的な1番人気に推されており、本馬は単勝オッズ2.4倍の2番人気だった。出走馬は本馬を含めて僅か4頭であり、その中で本馬は2番手を走り、スタインベックがその後方3番手だった。残り200m地点で先頭に立った本馬に後方からスタインベックが襲い掛かってきたが、なんとか3/4馬身差で勝利を収め、ドーグモント賞の借りを返した。

続くロベールパパン賞(仏GⅡ・T1100m)では、同厩のペースメーカー役メンドシーノ(2002年のBCフィリー&メアターフを勝ったスタリーンの父)とのカップリングで、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。それでも2番人気のスタインベックは単勝オッズ2.3倍、3番人気のジュライS勝ち馬ショーブルックは単勝オッズ5倍であり、それほど抜けた人気というわけではなかった。ここで本馬はスタートからの行き脚があまり良くなく、後方からのレースとなってしまった。しかし残り400m地点で仕掛けると瞬く間に先頭に踊り出て、そのまま押し切って2着ショーブルックに1馬身半差で勝利した。

5戦目のモルニ賞(仏GⅠ・T1200m)では、カブール賞を勝ってきた牝馬ケンブ(日本で走ったスプリンターズS4着馬シンボリスウォードやクリスタルC勝ち馬スイートオーキッドの母)、カブール賞で2着だったライオンキャヴァーンとの対戦となったが、本馬が単勝オッズ1.5倍の断然人気に支持された。ここでも出走馬が本馬を含めて僅か4頭だったため、逃げるライオンキャヴァーンを見るように道中は2番手につけた。そして残り400m地点で先頭に立つと、そのまま2着ケンブに3馬身差をつけて楽勝した。

続くサラマンドル賞(仏GⅠ・T1400m)では3番手を追走し、残り400m地点で先頭に立った。そして後は後続を引き離すだけで、2着メイドオブゴールドに5馬身差をつけて圧勝した。

さらに仏国2歳王者決定戦である仏グランクリテリウム(仏GⅠ・T1600m)に出走。対戦相手は、前走ロシェット賞でスタインベックの2着してきたレインボーコーナー、ソラリオS2着馬で後にレーシングポストトロフィーを勝つシアトルライム、アングルシーS・愛フューチュリティSを連勝してきた後の歴史的名馬セントジョヴァイトなど5頭だった。本馬が単勝オッズ1.2倍という圧倒的な1番人気に支持される一方で、ロシェット賞で実際には1位入線しながらもスタインベックの進路を妨害した咎で降着になっていたレインボーコーナーが単勝オッズ5.8倍の2番人気となっていた。まずはセントジョヴァイトがスタートから先頭に立ち、本馬がそれを2番手で追いかける展開となった。そしてレース中盤で早くもセントジョヴァイトをかわして先頭に立つと、直線半ばでは既に勝負を決めてしまい、最後は馬なりのまま2着レインボーコーナーに3馬身差をつけて楽勝した。

道中の位置取りに関わらず直線で爆発的な末脚を披露して楽勝するレースぶりは圧巻であり、仏グランクリテリウムが終わった頃には、2歳馬にも関わらずこの年の欧州調教馬では最も優れていると評されていた。ポールソン氏はそんな本馬を地元米国の2歳王者決定戦BCジュヴェナイルに出す事を考え、その準備を開始した。ドバイのシェイク・モハメド殿下がポールソン氏に本馬の共同所有を持ち掛けたのもこの時期である。モハメド殿下がポールソン氏に900万ドルを支払う事で交渉は成立し、本馬の権利はポールソン氏とモハメド殿下が半分ずつ所有する事になった。

BCジュヴェナイル

そして11月になり、チャーチルダウンズ競馬場において行われたBCジュヴェナイル(米GⅠ・D8.5F)のスターティングゲート内に本馬の姿があった。鞍上はポールソン氏と専属契約をかわしていたP・ヴァレンズエラ騎手に代わっていた。過去に欧州調教馬はブリーダーズカップにおいて通算7勝を挙げていたが、それらは全て芝におけるものであり、ダートで勝利を挙げた馬はいなかった(このように各種資料に書かれているが、実際には本馬が出たBCジュヴェナイルの4レース前に行われた同日のBCスプリントを欧州調教馬のシェイクアルバドゥが勝っている)。しかも本馬はダート競走を走るのは初めてであり、さらには不利とされる大外枠(スタート直後にカーブに入るコース形態のため)を引いてしまっていた。

対戦相手も、デルマーフューチュリティ・ノーフォークSを圧勝した3戦無敗のバートランド、ブリーダーズフューチュリティSを圧勝してきたダンスフロア、シャンペンSを圧勝したトライトゥウオッチといった強敵揃いだった。それでも本馬は単勝オッズ3.1倍で、単勝オッズ3.5倍のバートランドを僅差で抑えて1番人気に推されていた。

スタートが今ひとつだった本馬は、大外枠だった影響もあり無理に前に行かず、序盤は後方2番手を追走した。しかし向こう正面に入り、実況が「アラジは前に行きたくないのか」と言った直後、他馬の間を抜けて一気に位置取りを上げていった。四角に入る頃には、逃げていたバートランドをかわして既に先頭に立っていた。勢いが良すぎて外側に大きく膨れながら直線に入った本馬は、後続をどんどん引き離して直線半ばでは完全に勝負を決めてしまった。最後はヴァレンズエラ騎手が手綱を抑えてスピードダウンさせたため、2着バートランドとの着差は縮まって5馬身差となったが、本馬と他馬の実力差は明らかにそれ以上あった。本馬がゴールする直前に「ここにいるのはまさしくスーパースター!」と絶叫した実況は、ゴール後に「センセーショナル!」と再度絶叫した。全米サラブレッド競馬協会は後に、このレースをブリーダーズカップ史上最も劇的なレースだったと評した。

なお、同日のBCスプリントを欧州調教馬シェイクアルバドゥが勝ったのは前述のとおりだが、BCジュヴェナイルの次に行われたBCターフも欧州調教馬ミスアレッジド(この勝利直後に米国に転厩)が勝っており、欧州調教馬の活躍が目立つこの年のブリーダーズカップとなった。

2歳時8戦7勝の成績を残した本馬は、この年からカルティエ賞として行われるようになった欧州競馬の年度表彰において、最優秀2歳牡馬だけでなく、ジェネラススワーヴダンサーを押しのけて年度代表馬にも選出された。また、エクリプス賞でも最優秀2歳牡馬に選出されたが、年度代表馬はブラックタイアフェアーの次点だったため、史上唯一の欧米ダブル年度代表馬の快挙は逃した。

英タイムフォーム社はこの年の本馬に対して135ポンドのレーティングを与え、これは2歳馬としては1951年のウインディシティ(142ポンド)、1955年のスターオブインディア(138ポンド)、1973年のアパラチー(137ポンド)、1957年のテクサナ(136ポンド)に次ぐ当時史上5位の数値であった。もっとも、英タイムフォーム社の2歳馬に対するレーティングは、国際クラシフィケーションが創設された1977年頃から評価が辛くなっており(評価基準が変化したと言うべきか)、1976年までは毎年平均3.5頭(最も多い1961年には7頭)の2歳馬が130ポンド以上の評価を受けていたのに対し、1977年以降は毎年平均0.87頭までに激減している。前年1990年に2歳馬トップの評価だったヘクタープロテクターは122ポンド、2001年に本馬に次いで史上2頭目の欧米統一2歳王者になったヨハネスブルグは127ポンドに過ぎず、1977年以降に本馬以上の評価を受けた2歳馬は1994年に138ポンドの評価を受けたケルティックスウィングのみである。それを鑑みると、本馬の評価は2歳馬としては前例が無い高さであったと言える。

競走生活(3歳前半)

BCジュヴェナイルから間もなくして、本馬は両前脚の膝関節の剥離骨片除去手術を受けた。しかしこの手術が本当に必要だったかどうかは当時から論争の的であり、少なくともブータン師はこの手術に反対していたようである。手術は成功したが、回復はブータン師が思っていたよりも長引き、復帰戦は4月に仏国サンクルー競馬場で行われたリステッド競走オムニウムⅡ世賞(T1600m)となった。米国から欧州に拠点を移していた名手スティーブ・コーゼン騎手の手綱捌きにより2着スーパーメックに5馬身差で圧勝した本馬は、その後ケンタッキーダービーを目指して再度米国に向かった。

この時期における欧米の競馬界の話題は本馬一色だった。マスコミは本馬を「ワンダーホース」「セクレタリアトの再来」「神話に出てくる空想上の生き物のよう」などと評した。かつてアファームドで米国三冠競走を全て制したコーゼン騎手は、本馬をアファームドに比肩する馬であると評した。また、ケンタッキーダービーでも本馬に騎乗する事になっていたヴァレンズエラ騎手は、かつて自分が騎乗したサンデーサイレンスと本馬を比較すると、本馬の方が上位であり、ケンタッキーダービーは既に終わっているとまで豪語した。また、本馬の共同所有者のうち、ポールソン氏は所有馬を主に米国で走らせていたが、モハメド殿下の所有馬は主に欧州で走っていた。そのため、ケンタッキーダービーを勝った本馬はそのまま米国三冠馬を目指すのか、それとも英ダービーに向かって米英の3歳最高峰競走ダブル制覇を目指すのかなど、ケンタッキーダービー後の計画についても様々な憶測が流れた。本馬のレース出走に関してポールソン氏とモハメド殿下の意見が食い違っているという噂も流れたようである。

マスコミの過熱報道が続く中で迎えたケンタッキーダービー(米GⅠ・D10F)では、フロリダダービー・トロピカルパークダービーを連勝してきたテクノロジー、レベルS・アーカンソーダービーを連勝してきたパインブラフ、ブルーグラスSを勝ってきたピストルズアンドローゼズ、ジムビームS勝ち馬でアーカンソーダービー2着のリルイーティー、英国から遠征してきたデューハーストS勝ち馬ドクターデヴィアス、ゴーサムS・ウッドメモリアル招待Sを連勝してきたデヴィルヒズデュー、ファウンテンオブユースSを勝っていたダンスフロアなどが対戦相手となった。ここに挙げた以外にも、ハリウッドフューチュリティ・サンラファエルS・サンタアニタダービーなど5連勝中の大物エーピーインディも出走予定だったのだが、レース当日朝に左前脚の挫石を発症したために回避となった。対抗馬と目されていたエーピーインディの回避により、本馬が単勝オッズ1.9倍という断然の1番人気となった。2番人気のテクノロジーは単勝オッズ5.2倍だったが、3番人気のパインブラフは単勝オッズ11.5倍であり、殆どの他馬はその他大勢扱いだった。

出走18頭中17番枠からスタートした本馬は、レース序盤は馬群の後方に待機。そして向こう正面に入ってしばらくしてからスパートし、大外を通って先頭を捕らえにかかった。ここまではBCジュヴェナイルと同様の展開だった。しかしBCジュヴェナイルと異なり、すんなり先頭を奪う事はできず、3~4番手で直線を向いた。そしてここから伸びずに8馬身差の8着に敗退。勝ったのは本馬をマークするように最終コーナーで加速して本馬を外からかわした単勝オッズ17.8倍の伏兵リルイーティーだった。所有馬が負けてもあまり表情を変えないモハメド殿下も、このときばかりは失望の色を隠せなかったという。

本馬の敗因については、前年の手術が悪影響を与えた、芝のレースを1戦叩いただけという臨戦過程が良くなかった、距離が長かったなど、様々な推測が流れたが、真相は不明である。ヴァレンズエラ騎手は自身の騎乗ミスを敗因に挙げている。

いったん仏国に戻った本馬の次走は、米国三冠競走でも英ダービーでもなく、セントジェームズパレスS(英GⅠ・T8F)となった。この事からすると、本馬陣営がケンタッキーダービーの敗因の一つを距離に求めていたのは確かなようである。このレースには英2000ギニー・愛2000ギニーを勝っていたロドリゴデトリアーノ、愛2000ギニーで2着してきたエズード、ガリニュールSを勝ってきたブリーフトゥルースといった実力馬も参戦していたが、英国初登場の本馬が単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持された。ここでも後方待機策を採り、直線入り口6番手から追い上げてきたが、ゴール前で伸びを欠き、勝ったブリーフトゥルースから2馬身半差の5着に終わった。

競走生活(3歳後半)

夏場は休養に充て、秋はプランスドランジュ賞(仏GⅢ・T2000m)で復帰。単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持された。ここでは後方2番手を追走し、直線に入ると最後方を走っていたイスパーン賞2着馬アルカングと共に追い上げようとした。しかしアルカングが快調に末脚を伸ばすのとは対照的に本馬は伸びを欠き、ゴール前で全く格下のプリンスポリノという馬に差し返される始末で、勝ったアルカングから6馬身差の3着に敗れた。

次走は凱旋門賞当日にロンシャン競馬場で行われたロンポワン賞(仏GⅡ・T1600m)となった。ここでは馬群のちょうど中間あたりにつけ、6番手で直線に入ると豪快に伸びてきた。そして2着コーリングコレクトに4馬身差をつけて半年ぶりの勝利を収めた。特に残り200m地点からの末脚はかつて強かった時期を髣髴とさせるものであり、本馬の復活勝利にロンシャン競馬場に詰め掛けた大観衆は大いに興奮した。

この勝利によりマイル路線の頂点を目指す事が決まり、次走はガルフストリームパーク競馬場で行われるBCマイル(米GⅠ・T8F)となった。クイーンエリザベスⅡ世S・ロッキンジS・セレブレーションマイル・チャレンジSに勝っていた英国の名マイラーであるセルカーク、ゴーサムSでデヴィルヒズデューと同着勝利したがケンタッキーダービーには向かわずに芝のマイル路線に転向していたルアー、セントジェームズパレスS後にムーランドロンシャン賞・クイーンエリザベスⅡ世Sと連続2着してきたブリーフトゥルースなどが対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。今回は内側の3番枠発走だったこともあってか、スタートから好位につけ、逃げるルアーを見るような形でレースを進めた。そのままの位置取りで直線に入ったが、そこから全く伸びず、勝ったルアーから8馬身差の11着に惨敗。これが現役最後のレースとなり、3歳時の成績は6戦2勝と、2歳時に比べると明らかに物足りないものに終わった。

本馬は早熟馬だったのか、それともBCジュヴェナイル後の手術により競走能力が減退したのかは、分からない。筆者が調べた範囲では、本馬の産駒のグループ及びグレード競走勝ちは3歳以降のものばかりで2歳における勝ちが見当たらないため、種牡馬成績からすると単なる早熟馬ではなかったようにも思われるが、活躍した産駒自体があまり多くないため、決定的な証拠にはならない。

血統

Blushing Groom Red God Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Spring Run Menow Pharamond
Alcibiades
Boola Brook Bull Dog
Brookdale
Runaway Bride Wild Risk Rialto Rabelais
La Grelee
Wild Violet Blandford
Wood Violet
Aimee Tudor Minstrel Owen Tudor
Sansonnet
Emali Umidwar
Eclair
ダンスールファビュルー Northern Dancer Nearctic Nearco Pharos
Nogara
Lady Angela Hyperion
Sister Sarah
Natalma Native Dancer Polynesian
Geisha
Almahmoud Mahmoud
Arbitrator
Fabuleux Jane Le Fabuleux Wild Risk Rialto
Wild Violet
Anguar Verso
La Rochelle
Native Partner Raise a Native Native Dancer
Raise You
Dinner Partner Tom Fool
Bluehaze

ブラッシンググルームは当馬の項を参照。

母ダンスールファビュルーは現役時代13戦未勝利だが、ミネルヴ賞(仏GⅢ)で2着している。母としては本馬の半弟ノヴェル(父ラーイ)【サセックスS(英GⅠ)・シャンペンS(英GⅡ)・ジュライS(英GⅢ)】も産んでいる。ダンスールファビュルーは後にノーザンファームにより日本に輸入され、サンデーサイレンスと交配されたりもしたが、日本で産んだ産駒は活躍していない。本馬の半姉リヴァーサンセット(父アイリッシュリヴァー)の孫には加国の三冠競走第2戦プリンスオブウェールズSを勝ったゴールデンモカが、本馬の半妹で日本に繁殖牝馬として輸入されたファントムクリーク(父ミスタープロスペクター)の孫にはメイショウクオリア【京都新聞杯(GⅡ)】がいる。ダンスールファビュルーの半妹にはダブルスパートナー(父ダマスカス)【アンアランデルH(米GⅢ)】、半弟にはジョワユーダンスール(父ヌレイエフ)【ETターフクラシックS(米GⅠ)・エクスプローシヴビッドH(米GⅢ)】がいる。ダブルスパートナーの孫には日本の地方競馬で活躍したハセノガルチ【ラフランス賞・報知グランプリカップ(南関GⅢ)・TVK盃(南関GⅢ)・京成盃グランドマイラーズ(南関GⅢ)】、レット【チャーチルダウンズディスタフH(米GⅡ)】、日本で走ったイーグルカフェ【NHKマイルC(GⅠ)・ジャパンCダート(GⅠ)・共同通信杯四歳S(GⅢ)・七夕賞(GⅢ)】がおり、レットの子にはセンターコート【ジェニーワイリーS(米GⅠ)】がいる。また、本馬の半妹ジェーンズザネーム(父トランポリノ)の子にはサイレントローア【オーシャンポートS(米GⅢ)】がいる。

ダンスールファビュルーの母ファビュリュージェーンはポモーヌ賞(仏GⅢ)の勝ち馬で、ファビュリュージェーンの母ネイティヴパートナーはマスケットHの勝ち馬。ファビュリュージェーンの半弟にはフォーミダブル【ミドルパークS(英GⅠ)・ミルリーフS(英GⅡ)】、半妹にはフライングパートナー【ファンタジーS(米GⅠ)・サンタイネスS(米GⅢ)】、半弟にはアジャダル【デューハーストS(英GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)・スプリントCS(英GⅠ)・スプリントC(英GⅡ)・クレイヴンS(英GⅢ)】がいる。さらにファビュリュージェーンの半妹キーパートナーの子には日本を代表する名繁殖牝馬ダンシングキイがおり、ダンシングキイの子にはダンスパートナー【優駿牝馬(GⅠ)・エリザベス女王杯(GⅠ)】、ダンスインザダーク【菊花賞(GⅠ)】、ダンスインザムード【桜花賞(GⅠ)・ヴィクトリアマイル(GⅠ)】の3姉弟(エアダブリンを無視するなと言わないでください)がいるし、ダンシングキイの姪スプリングマンボの子にはスズカマンボ【天皇賞春(GⅠ)】がいる。ネイティヴパートナーの半弟には東京優駿勝ち馬バンブーアトラスの父となった本邦輸入種牡馬ジムフレンチ【サンタアニタダービー・ドワイヤーH】もいる。→牝系:F7号族①

母父ノーザンダンサーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、モハメド殿下所有の英国ダルハムホールスタッドで種牡馬入りした。その後にモハメド殿下はポールソン氏が所有していた本馬の権利残り半分も購入し、本馬をケンタッキー州スリーチムニーズファームへ移動させた。さらに本馬は1997年に日本に輸入され、翌年からブリーダーズスタリオンステーションで供用された。日本における種牡馬生活1年目の1998年は68頭の繁殖牝馬を集め、その後も62頭、53頭、60頭、47頭とそれなりの交配数が確保された。

しかし日本だけでなく海外においても種牡馬成績は期待を下回るものだった。2001年から2003年にかけては唯一の大物産駒と言えるコンガリーが米国で活躍したが、コンガリー1頭だけでは本馬の種牡馬人気を回復させるには至らなかった。2003年に本馬は日本を去り、スイスのエーレンホフ牧場に移り住んだ。現在は豪州インディペンデントスタリオンステーションで暮らしている。母父としてはエレクトロキューショニスト、BCフィリー&メアターフ勝ち馬ラフドゥド、メトロポリタンH勝ち馬ブリボンなどを出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1995

ドラールアラビアン

大井記念(南関GⅡ)

1996

First Magnitude

コンセイユドパリ賞(仏GⅡ)・ジャンドショードネイ賞(仏GⅡ)・エドヴィル賞(仏GⅢ)

1996

Prairie Runner

ミネルヴ賞(仏GⅢ)

1997

America

マルレ賞(仏GⅡ)・ヴァントー賞(仏GⅢ)

1997

Sailing

マリオインチーサ賞(伊GⅢ)

1997

Shibl

ミンストレスS(愛GⅢ)

1998

Congaree

スワップスS(米GⅠ)・シガーマイルH(米GⅠ)2回・カーターH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・ウッドメモリアルS(米GⅡ)・デルマーBCH(米GⅡ)・サンパスカルH(米GⅡ)・サンアントニオH(米GⅡ)・ローンスターパークH(米GⅢ)

1999

テイエムアラシ

道営記念(H1)

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