テスコボーイ

和名:テスコボーイ

英名:Tesco Boy

1963年生

黒鹿

父:プリンスリーギフト

母:サンコート

母父:ハイペリオン

競走馬としては繰り上がり勝利のクイーンアンS程度しか実績が無いが、日本で卓越した速度を産駒に伝え日本競馬の質を一変させた大種牡馬となる

競走成績:3歳時に英で走り通算成績11戦5勝2着2回3着3回

日本競馬史を語る上で外すことができない大種牡馬で、スタミナ重視だった日本競馬界にスピード革命を起こしたと言われている。

誕生からデビュー前まで

英国リッジウッドスタッドの生産馬で、ジョン・エドワード・コーエン卿の所有馬となった。コーエン卿、通称ジャック・コーエン氏は、ロンドン生まれのユダヤ人で、第一次世界大戦から復員した後の1919年に卸売業を開始。1924年には自分の会社を「Tesco(テスコ)」と命名して事業を拡大した。この「Tesco」という会社名の由来は、コーエン氏がお茶を仕入れていた「T.E.Stockwell」という農場の頭文字と、自身の名前コーエン(Cohen)の頭文字を組み合わせたものである。「Tesco」は英国最大のスーパーマーケットチェーンとなり、コーエン氏が1979年に死去した後も拡大を続け、現在では世界有数の大企業に成長している(ただし日本への進出には失敗している)。本馬の馬名がこの「Tesco」に由来するのは言うまでも無いだろう。

競走生活

英国S・インガム調教師に預けられた本馬だが、競走馬としてのデビューはかなり遅く、3歳4月にニューマーケット競馬場で行われたウッドディットンS(T8F)がデビュー戦だった。このレースでは2着ロックタンに1馬身半差をつけて勝ち上がった。同月にサンダウンパーク競馬場で出走したテューダーS(T8F)も半馬身差で勝利。引き続きサンダウンパーク競馬場でウエストベリーS(T10F)に出走したが、ニュースオブザワールドH・ニュースオブザワールドS・シャンティ賞・ジョンコリアーS・カンバーランドロッジSなどを勝っていた単勝オッズ1.62倍の1番人気馬スーパーサム(後に種牡馬として日本に輸入されたが不成功に終わった)の1馬身差2着に敗れた。それでも、インペリアルS・チェスターヴァーズを勝っていた3着馬ガルフパールには10馬身差をつけていた。

翌6月にアスコット競馬場で出走したクイーンアンS(T8F)では、前年の愛国際Sの勝ち馬でクイーンエリザベスⅡ世S2着のヴァレーセプティック、英2000ギニー・ロッキンジSでいずれも2着の同世代馬グレートネフュー(グランディシャーガーの父)、ムシドラSの勝ち馬オラベラなどとの対戦となった。単勝オッズ9倍という程度の評価で出走した本馬は、ヴァレーセプティックに食い下がったものの、頭差遅れて2位入線だった。しかしヴァレーセプティックが道中の進路妨害を咎められて失格となったため、本馬が繰り上がって勝利馬となった。本馬から2馬身差の3位入線だったオラベラが繰り上がって2着となり、さらに首差の4位入線だったグレートネフューが3着となった。しかし斤量は同世代の牝馬であるオラベラの方が本馬より9ポンドも重く、斤量と幸運に助けられての勝利だった側面は否めない。

翌7月にはヨーク競馬場でマグネットC(T10.5F)に出走した。しかしここでは距離が長かったか、2か月後の英セントレジャーで3着するデヴィッドジャック、前月のコロネーションSを勝ってきた後のナッソーSの勝ち馬ヘイメイキングなどに歯が立たず、デヴィッドジャックの11着に惨敗した。同月末にはグッドウッド競馬場でサセックスS(T8F)に出走した。しかし愛2000ギニーを勝ち愛ダービーで3着していた同世代馬パヴェー(この馬も後に種牡馬として日本に輸入されたが不成功に終わった)、デューハーストS・コヴェントリーS・グリーナムS・セントジェームズパレスS・英チャンピオンS・ロッキンジSを勝ち英2000ギニーで2着していた4歳馬シリーシーズンの2頭に屈して、短頭差の大接戦を制して勝ったパヴェーから2馬身半差の3着に敗れた。翌8月にブライトン競馬場で出走したチャレンジC(T12F)はマグネットCよりさらに距離が長かったが、ここではシザレウィッチH3着馬ストレートディーの3馬身差2着に頑張った。同月にヨーク競馬場で出走したローズオブヨークS(T8F)では、2着プロモントリーに1馬身半差で勝利。翌9月にサンダウンパーク競馬場で出走したバラエティクラブS(T8F)も、愛国際Sの勝ち馬で後にロッキンジSを勝つブルールーラーを半馬身差の2着に抑えて勝利した。

そして同月末にアスコット競馬場で行われる英国マイル路線の最高峰競走クイーンエリザベスⅡ世S(T8F)に駒を進めた。このレースには、サセックスS2着後にハンガーフォードSを勝っていたシリーシーズンに加えて、米国からヒルライズという実力馬も参戦してきていた。本馬より2歳年上のヒルライズは当初はダートの王道路線を進んでおり、サンフェリペS・サンタアニタダービーを勝ち、ケンタッキーダービーでノーザンダンサーと死闘を演じて2着、プリークネスSでもノーザンダンサーの3着していた。4歳当初もサンタアニタH・サンフェルナンドSを勝つ活躍を見せていたが、4歳暮れに芝のマンノウォーSを勝ったのが契機となり、5歳時に英国に遠征してきてロウス記念Sでシリーシーズンを2着に破るなど既に実績を上げていた。そしてレースは大方の予想どおりに、ヒルライズとシリーシーズンの一騎打ちとなり、ヒルライズが首差で優勝。本馬は2着シリーシーズンからさらに2馬身半差の3着に入るのが精一杯だった。

翌月には英チャンピオンS(T10F)に出走した。ここでは、この年のエクリプスSの勝ち馬ピースイズオブエイト、クイーンアンS失格後にエクリプスSで2着していたヴァレーセプティックとの三つ巴の大接戦となったが、ピースイズオブエイトが勝利を収め、ヴァレーセプティックが短頭差の2着、本馬はさらに頭差の3着に敗退。このレースを最後に11戦5勝の成績で競走馬を引退した。3歳4月のデビューから僅か半年間の競走生活だった。勝ったレースは全てマイル戦という典型的なマイラーだったが、10ハロン戦までは守備範囲内だった。

血統

Princely Gift Nasrullah Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Mumtaz Begum Blenheim Blandford
Malva
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine
Blue Gem Blue Peter Fairway Phalaris
Scapa Flow
Fancy Free Stefan the Great
Celiba
Sparkle Blandford Swynford
Blanche
Gleam Galloper Light
Eagerford
Suncourt Hyperion Gainsborough Bayardo Bay Ronald
Galicia
Rosedrop St. Frusquin
Rosaline
Selene Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Serenissima Minoru
Gondolette
Inquisition Dastur Solario Gainsborough
Sun Worship
Friar's Daughter Friar Marcus
Garron Lass
Jury Hurry On Marcovil
Tout Suite
Trustful Bachelor's Double
Credenda

プリンスリーギフトは当馬の項を参照。

母サンコートは現役成績3戦1勝。本馬の半妹マハール(父ツタンカーメン)の孫に日本で走ったサトノライデン【戸塚記念】、曾孫にリバーセキトバ【黒船賞(GⅢ)】がいる他、本馬の半妹ズラマ(父リライアンス)の子には、独国の歴史的名馬アカテナンゴを出すなどして独首位種牡馬に6回輝いたズルムー【独ダービー(独GⅠ)・ウニオンレネン(独GⅡ)】、曾孫にはスミタス【独2000ギニー(独GⅡ)・ニッカボッカーH(米GⅡ)】がいる。サンコートの半姉キュリア(父ネアルコ)の孫にはファイアクレスト【クリテリウムドサンクルー】、曾孫にはトーシンイーグル【川崎記念】、玄孫世代以降にはシアトルライム【レーシングポストトロフィー(英GⅠ)】、ヤマジュンオー【かしわ記念】などがいる。

サンコートの母インクイジションの半姉ジャスティティアの牝系子孫には、ローランドガーデンズ【英2000ギニー(英GⅠ)】、クーヨンガ【愛1000ギニー(愛GⅠ)・コロネーションS(英GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)・メルセデスベンツ大賞(独GⅠ)】などが、インクイジションの半妹ジャスティナの牝系子孫には、日本で走ったラブリーデイ【宝塚記念(GⅠ)・天皇賞秋(GⅠ)】などが、インクイジションの母ジュリーの半弟にはコロアド【ジュライC】、スコティッシュユニオン【英セントレジャー・ミドルパークS・コロネーションC・セントジェームズパレスS】がいる。→牝系:F19号族②

母父ハイペリオンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、4歳時の1967年に愛国シモンズタウンスタッドで種牡馬入りした。その翌1968年に日高軽種馬農業協同組合に購買されて来日して、同年から日高軽種馬農協門別種牡馬場で供用された。当初から種牡馬人気は高く、日本における供用初年度の1968年は62頭、2年目は68頭、3年目は78頭、4年目の1971年は68頭の繁殖牝馬を集めた。日本における初年度産駒はこの1971年にデビュー。この年にはそれほど産駒が活躍しなかったため、翌1972年の交配数は55頭に下がった。しかしこの年に初年度産駒のランドプリンスが皐月賞を勝ったために種牡馬人気がすぐに回復。6年目は76頭、3年目産駒のキタノカチドキが皐月賞・菊花賞を勝った7年目の1974年は75頭、4年目産駒のテスコガビーが桜花賞・優駿牝馬を勝った8年目の1975年は76頭、5年目産駒のトウショウボーイが皐月賞・有馬記念を勝った9年目の1976年は73頭、5年目産駒のホクトボーイが天皇賞秋を勝った10年目の1977年は75頭、7年目産駒のオヤマテスコが桜花賞を、インターグシケンが菊花賞を勝った11年目の1978年は74頭、8年目産駒のホースメンテスコが桜花賞を勝った12年目の1979年は73頭、13年目は65頭、10年目産駒のアグネステスコがエリザベス女王杯を勝った14年目の1981年は60頭、11年目産駒のハギノカムイオーがクラシック戦線を賑わせた15年目の1982年も60頭の交配数だった。

この1982年までは年によって差はあるものの平均して70~80%の受精率だった。しかし50頭と交配した16年目の1983年の受精率は48%、39頭と交配した17年目の1984年の受精率は13%と一気に低下。そして18年目の1985年には15頭と交配して1頭も受胎しなかったために、この年限りで種牡馬を引退した。翌1986年には14年目産駒のサクラユタカオーが天皇賞秋を勝利した。それを見届けたかのように、翌1987年10月に24歳で他界した。

全日本種牡馬ランキングでは、74・78・79年が首位、76・77・80・81年が2位、75年が3位、82年が4位、83年が6位、84年が10位で、合計11度のベストテン入りを果たした。1973年以前は中央競馬種牡馬ランキングしかなく全日本種牡馬ランキングは無いが、72年は15位、73年は4位となっている。80・81年も全日本首位種牡馬になったとする資料も多いが、この2年は中央競馬首位種牡馬であるというのが正しいようである(ちなみに両年とも全日本首位種牡馬はアローエクスプレス)。また、75年も全日本首位種牡馬になったとする資料も多数あるが、74年も含めて両年ともチャイナロックが首位とする資料もある。したがって、本馬の全日本首位種牡馬獲得回数は最少で2回、最大で5回と資料によって幅がある事になってしまい、いまひとつはっきりしない。ただ、毎年のように首位種牡馬争いの常連だったのは確実である。1974・77年には全日本2歳首位種牡馬にも輝いている。

また、愛国で出した産駒は僅か1世代のみだが、英1000ギニー2着馬スーパーハニーなどが出ている。そのために買い戻しのオファーがあったらしいが、日高軽種馬農業協同組合が本馬を手放そうとするはずもなかった。

本馬の産駒は、当時の日本競馬界の常識を覆すほどの快速が武器で、特に中距離戦で先行して他馬を突き放すレースぶりを得意とした。ただ、やはりスタミナ不足の傾向はあり、長距離戦での活躍馬は比較的少数派だった。また、本馬の産駒が最も多く走っていた時期は、中央競馬で競走番組の大幅改革が実施されて短距離路線が格段に整備される前であり、明らかなマイラーであっても中距離以上での戦いを強いられた一面があった。そのため、もし短距離路線の拡充がもっと早ければ、さらなる怪物種牡馬ぶりを発揮できたと思われる(もっとも、本馬の産駒が活躍したことが短距離路線拡充の一因になっている面は否めない)。スタミナ不足だけでなく、腰が弱い傾向があったり(トウショウボーイが代表例)、気性面に問題がある傾向もあったり(キタノカチドキが代表例)と、欠点も少なくはなかったが、それらを覆い隠すだけのスピード能力を誇っていた。

本馬は、軽種馬農協所有の種牡馬であったため種付け料が安価であり、産駒も高値で売れたため、息子トウショウボーイとともに「お助けボーイ」と呼ばれ、日高地方の馬産家にとっては現在でも神様的存在として崇められている。現在、本馬の功績を讃えて静内桜舞馬公園内に記念像が立てられている。

余談だが、本馬の産駒から栗毛の活躍馬がなかなか出なかったため、「テスコボーイの栗毛は走らない」という説が散々に言われた。このジンクスは栗毛馬サクラユタカオーの活躍で消滅した(サクラユタカオーが誕生した際に生産者が「栗毛でさえなければ」と嘆いた逸話は有名)が、日本競馬史上最も有名だったジンクスの1つである。また、本馬の産駒は東京優駿を勝てないというジンクスもあり、こちらは遂に覆ることがなかった(孫のミスターシービー、バンブーアトラス、アイネスフウジンは勝っている)。

本馬は晩年になって急激に受精率が低下したが、これは後継種牡馬の1頭サクラユタカオーも同様だったため、この血統特有の症状ではないかとも言われる。

後継種牡馬としてはトウショウボーイとサクラユタカオーの2頭が成功。トウショウボーイは三冠馬ミスターシービーなどを出して活躍したが直系はほぼ途絶えている。サクラユタカオーからはサクラバクシンオーからショウナンカンプ、グランプリボスのラインやエアジハードなどが出ているが、特定の系統ばかりに種牡馬人気が集中する日本馬産界における状況を考えると、これらの直系が生き残ってくれる可能性はかなり低そうである。繁殖牝馬の父としては、東京優駿勝ち馬バンブーアトラス、天皇賞馬クシロキング、阪神三歳S勝ち馬ゴールドシチー、東京優駿勝ち馬アイネスフウジン、優駿牝馬勝ち馬イソノルーブル、天皇賞馬ネーハイシーザー、マイル王トロットサンダー、エリザベス女王杯勝ち馬エリモシック、ダービーグランプリ勝ち馬ナリタホマレ、スプリンターズS勝ち馬ダイタクヤマトなどを出している。しかしこれらの馬達のうち、競走馬引退後に繁殖として十分な活躍を示せたのはバンブーアトラスくらいであり、他は不遇をかこった馬ばかりなのは果たして偶然なのだろうか。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1968

Lord David

ラビングハウスS(英GⅢ)

1968

Rotisserie

フレッドダーリンS(英GⅢ)

1968

Super Honey

ネルグウィンS(英GⅢ)

1968

Whats-A-Name

モイグレアスタッドS

1969

カミノチドリ

牝馬東京タイムズ杯

1969

メイシン

郭公賞(札幌)・道新杯(札幌)

1969

ランドプリンス

皐月賞

1970

フジノタカワシ

スワンS・樹氷特別(上山)

1970

ヤマテスコ

新潟記念

1970

リンネルンド

牝馬東京タイムズ杯

1971

アイアンボーイ

東京記念(大井)

1971

ウエスタンダッシュ

京成杯・中山金杯・桐花賞(盛岡)・シアンモア記念(盛岡)

1971

キタノカチドキ

皐月賞・菊花賞・阪神三歳S・デイリー杯三歳S・きさらぎ賞・スプリングS・神戸新聞杯・京都新聞杯・マイラーズC

1971

マツトウボーイ

大平原賞(帯広)・農林大臣賞典(金沢)

1972

スリーフラム

きさらぎ賞

1972

タイフウオー

東京障害特別春

1972

テスコガビー

桜花賞・優駿牝馬・京成杯三歳S・京成杯・桜花賞トライアル四歳牝馬特別

1972

ニコーカオリ

青雲賞(岩見沢)

1972

ライジン

阪神三歳S

1973

トウショウボーイ

皐月賞・有馬記念・宝塚記念・神戸新聞杯・京都新聞杯・高松宮杯

1973

フローカンボーイ

スワンS

1973

ホクトボーイ

天皇賞秋・阪神大賞典・朝日チャレンジC・京都記念・スワンS

1974

スリーファイヤー

阪急杯・金鯱賞・中日新聞杯・北九州記念

1974

ダイワテスコ

桜花賞トライアル四歳牝馬特別

1975

アサカプリンス

報知グランプリC(船橋)

1975

インターグシケン

菊花賞・きさらぎ賞・NHK杯・京都金杯

1975

オヤマテスコ

桜花賞

1975

タニノテスコ

京阪杯・阪神牝馬特別

1976

ダークハリー

キヨフジ記念(川崎)

1976

ホースメンテスコ

桜花賞

1976

マリージョーイ

金鯱賞・CBC賞

1977

エクセレントメグロ

上山優駿樹氷賞(上山)2回・さつき賞(上山)

1977

リンドタイヨー

朝日杯三歳S・東京四歳S

1978

アグネステスコ

エリザベス女王杯・神戸新聞杯

1978

カルストンテスコ

阪神牝馬特別

1978

タケノダイヤ

京成杯三歳S

1978

テスコファイヤー

東京三歳優駿牝馬(大井)・関東オークス(川崎)

1979

テスコウルフ

栄冠賞(札幌)・北海道三歳優駿(札幌)

1979

ハギノカムイオー

宝塚記念・スプリングS・神戸新聞杯・京都新聞杯・スワンS・高松宮杯

1980

テスコルビー

北斗盃(岩見沢)

1981

セッテジュノー

新潟大賞典(GⅢ)

1982

サクラユタカオー

天皇賞秋(GⅠ)・大阪杯(GⅡ)・毎日王冠(GⅡ)・共同通信杯四歳S(GⅢ)

1982

ドウカンテスコ

スプリンターズS(GⅢ)

1983

ポットテスコレディ

スワンS(GⅡ)・阪神牝馬特別(GⅢ)・京都牝馬特別(GⅢ)

1985

ジングウブレーブ

関東盃(大井)・東京盃(大井)

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