ブラックターキン

和名:ブラックターキン

英名:Black Tarquin

1945年生

黒鹿

父:ローズスカラー

母:ヴェイグランシー

母父:サーギャラハッド

悪名高きジャージー規則が廃止される最後の一押しとなった米国産まれの英セントレジャー馬

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績15戦8勝2着4回

誕生からデビュー前まで

米国メリーランド州ベルレアスタッドの所有者で、米国ジョッキークラブ会長も務め、ウッドワードSのレース名に名を残すウィリアム・ウッドワード卿により生産・所有された米国産馬である。やはりウッドワード卿の生産・所有馬だった母ヴェイグランシーは1942年の米最優秀3歳牝馬であり、米国においてはかなりの良血馬ではあった。しかし当時における多くの米国産馬と同様に、本馬の血統表には当時英国に存在した「ジャージー規則」においてサラブレッドとして認められない不詳血統が含まれていた。

ここで“Jersey Act(ジャージー規則)”に関しておさらいしておく。この規則は1913年、英国血統書(ジェネラルスタッドブック)の第22巻が発行された際に付記されたもので、英国保守党所属の政治家で当時の英国ジョッキークラブの会長でもあった第7代ジャージー伯爵ヴィクター・チャイルド・ヴィリアーズ卿が発案の責任者だった事から一般的にそう呼ばれるものである。その内容は、「この規則が発布された日以降、父方及び母方の双方の先祖について、一切の欠陥もなく既に英国血統書に載っている馬に遡る事が出来ない牡馬及び牝馬は、新たに英国血統書に登録する事を認めない。ただし、既に英国血統書に登録されている馬に関しては遡及させない」というものだった。つまり、その先祖の全てが英国血統書に載っている馬でなければ新たなサラブレッドとして認めないというものだった。

ジャージー規則制定の以前は、英国外(ちなみに本項で言う「英国」とは今日の愛国も含む)で誕生した馬であっても、当該国が血統書をきちんと制定して血統を管理しており、当該馬がその血統書に登録されていれば、英国血統書に追加登録する事が可能とされていた。米国では元々自国由来の牝系に英国から輸入した種牡馬を交配させて誕生した馬が多かった上に、米国南北戦争のどさくさで血統がますます分からなくなった馬ばかりで、血統の管理はきちんとされていなかった。しかし南北戦争終結の8年後の1873年になってようやく米国血統書(アメリカンスタッドブック)が創設され、これ以降はきちんと血統が管理されるようになっており、米国産馬を英国でサラブレッドとして走らせることは可能だった。実際に1881年の英ダービー・英セントレジャーを勝ったイロコイのように英国の大競走を勝った米国産のサラブレッドも存在した。

しかしジャージー規則の制定により米国産馬の大半は、英国ではサラブレッドとして認められない事になった。規則制定の表向きの目的はサラブレッドの純血を守るためだったが、その本当の目的が、米国産馬を英国の競馬界から締め出す事にあったのは公然の事実だった。何故それを断言できるかというと、規則制定以前に既に英国血統書に登録されていた馬に関しては、仮にその馬の先祖に欠陥があったとしてもそのまま英国血統書に残る事が出来たため、それらの馬を活用して英国で誕生した馬に関しては普通に英国血統書に登録する事が出来たからだった。それに対して米国産馬の場合は、米国血統書に載っていても英国血統書には載っていない馬がその先祖の中にいる場合が多く、米国血統書には登録できても英国血統書に追加登録できない場合が殆どだったのである。英国内で誕生した馬であれば先祖に欠陥があっても問題ないなどという内容の規定ではサラブレッドの純血を本当に守ることは不可能なのだが、そうしなければ多くの英国産馬がサラブレッドではなくなってしまう事になり、英国の馬産家にとっても大打撃となってしまうのだった。規則の制定を求めたのはその英国の馬産家達であり、20世紀初頭に米国で賭博禁止の波が吹き荒れた際に多くの米国産馬が英国にやってきたため、それらを排除してほしいという要望が多かったのである。要するに英国の馬産家にとって都合が良い馬だけを残し、都合が悪い馬は排除するというのがこの規則の目的だった。

この規則はあくまでの英国内のみの適用であり、米国血統書には無関係だったため、米国では大半の馬がサラブレッドとして走る事が出来たが、英国ではサラブレッドとして走れなくなった(後述するように、サラブレッドとしてではなく日本で言うところのサラブレッド系種として走ることは出来たが、それもまた屈辱的である)ため、米国産馬の価値は大きく下落した。当然のように米国の馬産家達は、規則の制定が議題に上がったと知った時点から猛反発した。しかし規則制定当時の米国はまだ賭博禁止の余波が収まっておらず(ニューヨーク州の賭博禁止法が廃止されたのは必然か偶然かジャージー規則制定と同じ1913年だった)、米国政府として公的に対応するような事は無く、米国競馬関係者の反対運動には限りがあった。

しかしそれから数年後、マンノウォーというスーパーホースが出現するなどしてかつての盛況を取り戻した米国競馬界は、1930年代になってようやく本腰を入れてジャージー規則を撤廃させるために活動を開始した。その先頭に立って指揮をしたのが米国ジョッキークラブであり、そしてその会長を務めたウッドワード卿だったのである。

ジャージー規則撤廃の機運は米国だけでなく、当の英国内からも出てくるようになっていた。ジャージー規則は制定当初こそ英国の馬産家から歓迎されていたが、徐々に彼等の首を絞めるものになりつつあったのである。交配の選択肢が限られるようになったため、自ずと近親交配が増え、結果的に英国産馬の質が低下する事態を招いた。それでも当初は所有する繁殖牝馬を英国外に送り出して他国の種牡馬(もちろんそれはジャージー規則においてサラブレッドと認められる馬に限られていたが)と交配させることで乗り切っていた。しかし1939年に第二次世界大戦が勃発すると、英国外に繁殖牝馬を送り出す事が危険になり、それも出来なくなってしまった。そうこうしているうちに、今度は仏国産馬が英国に押し寄せてきた。ジャージー規則はあくまでも英国血統書に登録できるかどうかを定めたものであり、英国血統書に載っていない馬が「サラブレッド系種」として英国内のレースに出走する事までも禁止する効果は無かったのである。1940年には仏国産馬ジェベルが英2000ギニーを制覇。1947年にはパールダイヴァーが仏国産馬としては1914年のダーバー以来33年ぶりに英ダービーを制覇。それも単勝オッズ41倍の人気薄を覆して、当時の英国最強馬と言われていたテューダーミンストレルを破っての勝利だったため、英国のマスコミは一斉に屈辱であると報じ、英国産馬の質の低下を指摘した(テューダーミンストレルが負けたのは距離が長すぎたためだったのだが、その当時はそう言われたのである)。

さて、本馬が誕生したのはこの1947年に先立つ1945年である。この年は言うまでもなく第二次世界大戦が終結した年だった。そのため安全に米国から英国まで馬を輸送する事が出来るようになった事や、大戦中は縮小されていた英国競馬の規模が復活した事などもあり、ウッドワード卿は期待馬だった本馬を「サラブレッド系種」として英国で走らせる事を企図した。そして本馬を英国に送って、セシル・ボイド・ロッチフォート調教師に預けたのだった。本馬は体高16.3ハンドと背も高かったが、サラブレッドとしては異例の重量の持ち主であったようである。その巨体のため、獣医は本馬が厳しい訓練には耐えられないという見解を示した。そのため、陣営は本馬の体重抑制のために定期的な運動をさせたという。

競走生活(2歳時)

2歳6月にアスコット競馬場で行われたレースでデビューしたが、着外という結果だった。その1か月後に同じアスコット競馬場で行われたロイヤルロッジS(T5F)で初勝利をマーク。7月末にはグッドウッド競馬場で行われたリッチモンドS(T6F)で、後のミドルパークS2着馬バースデーグリーティングスの2着に入った。8月にはヨーク競馬場においてジムクラックS(T6F)に出走。ここでは英国王室のお抱え騎手ハリー・カー騎手を鞍上に単勝オッズ4倍の2番人気に推されると、1番人気に支持されていたバースデーグリーティングスを首差の2着に破り、1分10秒3のコースレコードを樹立して勝利を収めた。

この年はロッチフォート師の方針で以降レースに出なかった。2歳時の成績は4戦2勝だったが、2歳馬フリーハンデにおいては、ニューS・ウッドコートS・英シャンペンSを勝って133ポンドの評価を得た仏国産馬マイバブーから2ポンド低いのみの131ポンドの評価を受け、英2000ギニーの前売りオッズで11倍、英ダービーの前売りオッズで9倍という高い評価を受けるなど、翌年の英国クラシック競走の有力候補として認知された。

競走生活(3歳時)

3歳時は英2000ギニーを最初の目標としたが、調教中に非常に堅い芝生が災いして脚を痛めてしまい、回避となった。本馬不在の英2000ギニーはマイバブーが1番人気に応えてコースレコードで勝利を収めた。

一方、本馬の3歳初戦は5月のニューマーケットS(T10F)となった。本馬は断然の1番人気に支持されたが、ライディングミルの2着に敗れてしまった。この敗因に関してはロッチフォート師も説明できないほどであり、これによりこの段階で英ダービーの前売りオッズ単勝オッズ12.11倍の評価だった本馬の株は大幅に下がってしまった。それでも5月末に出走したリングフィールドダービートライアルS(T11.5F)では単勝オッズ1.73倍の1番人気に応えて、後のジョンポーターSの勝ち馬ネイティヴヒース以下に勝利を収めた。

そして英ダービー(T12F10Y)に駒を進めた。マイバブーを筆頭に、クリテリウムドメゾンラフィットの勝ち馬ジェダー、ギシュ賞の勝ち馬ロイヤルドレイク、オカール賞の勝ち馬マイラヴといった仏国調教馬が大挙して出走しており、人気も彼等が集めていた。一方の本馬は単勝オッズ15.29倍と人気薄ではあったが、ロッチフォート師は自信を持って本馬を送り出した。しかしタッテナムコーナーでマイバブーとぶつかる不利を受けてしまい、マイラヴの8着に終わった。それでも32頭立て(34頭が出走した1862年以降では最多)の8着であるから、それなりに健闘したとは言える。

その後はセントジェームズパレスS(T8F)に出走した。ミドルパークS・コヴェントリーS・ナショナルブリーダーズプロデュースSの勝ち馬で、英2000ギニーではマイバブーの2着だったザコブラーが単勝オッズ2倍の1番人気に支持されており、本馬は単勝オッズ6倍の2番人気だった。しかし本馬が2着ザコブラーに3馬身差をつけて難なく勝利した。続いてクイーンエリザベスS(T12F:現キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS)に出走。ここでは伊ダービー・イタリア大賞・ミラノ大賞・伊ジョッキークラブ大賞を勝っていた伊国最強馬テネラニ(リボーの父)が勝利を収め、本馬は惜しくも短頭差の2着だった。これらの結果により、本馬は英セントレジャーの有力候補としての地位を固めていった。

クイーンエリザベスSの後にしばらく休養した本馬は、英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。主な対戦相手は、英ダービーを勝った後にパリ大賞も勝っていたマイラヴ、時の英国王ジョージⅥ世の所有馬であるヨークシャーオークスの勝ち馬で英オークス2着のアンジェロラ、ジョッキークラブC・キングエドワードⅦ世Sの勝ち馬ヴィックデイ、英ダービー・エクリプスSで3着していたヌーア(後に米国に移籍してサイテーションの宿敵となる)などだった。マイラヴが単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持され、豪州出身のエドガー・ブリット騎手が手綱を取る本馬は単勝オッズ8.5倍の3番人気だった。この年の英セントレジャーの優勝賞金1万5269ポンドは、かつて英国内で行われたレース中最高金額であり、ドンカスター競馬場には、所有馬アンジェロラの走りを見に来たジョージⅥ世夫妻を始めとして50万人もの大観衆が詰め掛けた。レースでは単勝オッズ21倍の人気薄だったアリシドンが押し出されて先頭に立った。しかしアリシドンは無尽蔵のスタミナを誇る馬であり、そのまま直線で逃げ込みを図った。しかし残り2ハロン地点でスパートした本馬がアリシドンを差し切り、最後は1馬身半差をつけて優勝。次走の英チャンピオンSを勝利するソーラースリッパーがアリシドンからさらに5馬身差の3着に入り、マイラヴは着外に終わった。

3歳時の成績は6戦3勝だったが、この年の本馬のパフォーマンスに対して、英タイムフォーム社は3歳馬最高の134ポンドの評価を与えた。本馬が米国産馬だったためなのか、この年の米国三冠馬サイテーションと本馬を比較してどちらが強いかという議論もされたようである。

ところで、この年の英国牡馬クラシック競走は、英2000ギニーを仏国産馬のマイバブーが、英ダービーを仏国産馬のマイラヴが、英セントレジャーを米国産馬の本馬が制したわけであるから、英国産馬は牡馬クラシック競走を1つも獲れなかった事になる。さらにクイーンエリザベスSは伊国産馬のテネラニが勝ったわけだし、アスコット金杯も仏国産馬のアルバールが勝っていた。これらの結果によりジャージー規則は英国の馬産家の助けになるどころか、かえって邪魔である事が決定的となったため、翌1949年6月、英国血統書に「過去1世紀までの先祖が明確であり、8代又は9代の血統が純血である事が証明でき、なおかつ、その競走能力が純血種として相応しいと認められる馬は、英国血統書に新たに登録することが出来る」という規則が設けられ、長年に渡って物議を醸したジャージー規則は廃止されることになったのだった。ジャージー規則の廃止に最も貢献したのは仏国産馬なのだが、その最後の一押しをしたのはジャージー規則制定の対象とされていた米国産馬の本馬ということになった。

競走生活(4歳時)

さて、ジャージー規則の廃止によりそれまでの「サラブレッド系種」から「サラブレッド」へと昇格する事になる本馬は、4歳時もアスコット金杯制覇を目指して現役を続行した。シーズン初戦のチッペナムSを勝利すると、5月にニューマーケット競馬場で出走したバーウェルS(T12F)では2着ファイターコマンドに5馬身差をつけて圧勝。ハーストパーク競馬場で出走したホワイトローズS(T10F)でも、英セントレジャーで4着に敗れた後にジョッキークラブC2勝目を挙げていたヴィックデイを2着に破って勝利した。

そして目標のアスコット金杯(T20F)に駒を進めた。このレースでは、アリシドンと英セントレジャー以来の対戦となった。英セントレジャーで2着に敗れたアリシドンだが、その後はジョッキークラブS・キングジョージⅥ世S・オーモンドS・コーポレーションSなど4連勝してこのレースに臨んできた。本馬が単勝オッズ1.91倍の1番人気、アリシドンが単勝オッズ2.25倍の2番人気で、完全な2強ムードだった。レースはアリシドン陣営が用意した2頭のペースメーカーが交替でレースを先導してハイペースを演出し、完全なスタミナ勝負となった。ゴールまで残り5ハロン地点でアリシドンが先頭に立ち、それを本馬が追撃する形で直線に突入。ゴールまで残り1ハロン地点ではいったん2頭が並ぶ形となったが、ここからアリシドンがラストスパートをかけると本馬はついていけず、最後は5馬身差をつけられて2着に敗れた。

次走のプリンセスオブウェールズS(T12F)では、136ポンドのトップハンデを課されながらも単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持されたが、28ポンドのハンデを与えた単勝オッズ12.11倍の伏兵ドジャーバンクの4着に敗退(前年の英ダービーとコロネーションCで2着していたロイヤルドレイクが2着、ノアイユ賞の勝ち馬で前年のパリ大賞2着・仏ダービー3着だったフラッシュロイヤルが3着だった)し、そのまま4歳時5戦3勝の成績で競走馬を引退した。それでも、この年の本馬に対して英タイムフォーム社は136ポンドの評価を与えており、時代を代表する強豪馬として認められた。

血統

Rhodes Scholar Pharos Phalaris Polymelus Cyllene
Maid Marian
Bromus Sainfoin
Cheery
Scapa Flow Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Anchora Love Wisely
Eryholme
Book Law Buchan Sunstar Sundridge
Doris
Hamoaze Torpoint
Maid of the Mist
Popingaol Dark Ronald Bay Ronald
Darkie
Popinjay St. Frusquin
Chelandry
Vagrancy Sir Gallahad Teddy Ajax Flying Fox
Amie
Rondeau Bay Ronald
Doremi
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Valkyr Man o'War Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token
Princess Palatine Prince Palatine Persimmon
Lady Lightfoot
Frizette Hamburg
Ondulee

父ローズスカラーはファロス産駒で現役成績は8戦3勝。エクリプスS・セントジェームズパレスS・リブルスデールSに勝利している。競走馬引退後は米国に輸入されてクレイボーンファームで種牡馬入りしていた。ローズスカラーの母ブックローは英セントレジャーなどを制した名牝であり、近親に活躍馬も多数いるという血統も評価されての種牡馬輸入だったと思われる。

ヴェイグランシーは当馬の項を参照。→牝系:F13号族②

母父サーギャラハッドは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は米国に戻り、クレイボーンファームで種牡馬入りした。しかし本馬の産駒は晩成の長距離色が強かったため米国競馬には適合せず、本馬は9歳時に愛国へ輸出された。愛国でもあまり成功できなかったが、晩年になって英グランドナショナルで2着と3着したブラックシークレットなど優秀な障害競走馬を何頭か輩出した。1965年に愛国において他界した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1952

Madam Jet

ハネムーンH

1956

Trelawny

グッドウッドC

1956

Vivi Tarquin

ゴールドヴァーズ

1960

Tarqogan

ケンブリッジシャーH

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