ドーンラン

和名:ドーンラン

英名:Dawn Run

1978年生

鹿毛

父:ディープラン

母:トワイライトスレイヴ

母父:アークティックスレイヴ

英愛仏3か国のチャンピオンハードル全制覇と、英チャンピオンハードル・チェルトナム金杯ダブル制覇を達成した史上唯一の馬だが、レース中に散った悲劇の名牝

競走成績:4~8歳時に英愛仏で走り通算成績35戦21勝(障害競走限定の出走回数や入着回数は不明)

この名馬列伝集は、どうしても平地競走馬の紹介が主になってしまい、障害競走馬の紹介は副になってしまっている。平地競走馬より資料が圧倒的に不足しているので止むを得ない一面はあるが、欧州では平地競走より障害競走のほうが人気上位である以上、少なくとも歴史的名障害競走馬と言われる馬はなるべく紹介しなければ、海外の名馬列伝集という看板は嘘という事になってしまう。その歴史的名障害競走馬に限らず障害競走馬の多くは騙馬(牡馬もあまり見かけない)であり、牝馬は少数派である。しかし少数派の牝馬の中にも、歴史的名障害競走馬と言われる馬はいる。その筆頭に挙げられるべきなのは、やはり本馬ドーンランを置いて他にはいないだろう。日本では全くと言ってよいほど知られていないが、騙馬でも成し遂げていない数々の記録を樹立しており、欧州の障害競走ナショナルハントの歴史上最も活躍した牝馬であると断言できる存在であり、少しでも欧州の障害競走に興味を抱く人であれば絶対に知っておくべき馬である。

誕生からデビュー前まで

ジョン・リオーダン氏という人物により生産された愛国産馬である。チャーミアン・ヒル氏という人物により5800ギニーで購入され、愛国パディ・ムリンズ調教師に預けられた。

競走生活(平地・ハードル競走時代)

4歳デビューで、最初は平地競走を3回走って3戦とも勝利した。この3戦において本馬に騎乗したのは当時62歳の所有者ヒル氏だったというから、平地競走の中でも最下級の、草競馬レベルのレースだったようである。本馬に騎乗してその能力を把握したヒル氏は、本馬を将来的には障害競走に向かわせる事を決めた。

欧州の障害競走ナショナルハントは、障害の難易度が低く距離も短めのため飛越力よりも平地の脚が要求される置障害ハードル分野と、障害の難易度が高く距離が長いため正確な飛越力と持久力が要求される固定障害スティープルチェイス分野に大別されるが、本馬は平地の脚を活かすべく、まずはハードル分野に向かう事になった。

障害競走に参入したのは5歳になった1983/84シーズンだった。主戦はジョンジョ・オニール騎手が務めた。後にオニール騎手は、このシーズンの11月に初めて本馬に騎乗した際の事を「非常に不機嫌で、およそ快適な乗り心地とは言えませんでした。私はこの馬が障害競走で成功するとは思いませんでした」と振り返っており、あまり気性が良い馬ではなかったようである。

しかしアスコット競馬場で出走したアスコットハードル(19.5F)を勝利。ケンプトンパーク競走場で出走したクリスマスハードル(16F)では、この年のエイントリーハードルの勝ち馬ゲイブリーフを叩き合いの末に首差の2着に抑えて勝利した。

年が明けて6歳になると、レパーズタウン競馬場で行われた愛チャンピオンハードル(16F)に出走して、これもまた勝利した。

そして英国チェルトナム競馬場で行われる欧州ハードル界最大の競走・英チャンピオンハードル(16F110Y)に出走して、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。レースでは後に歴史的名障害競走馬となるデザートオーキッドが芦毛の馬体を光らせながら逃げ、本馬は先行した。そして失速するデザートオーキッドを尻目に最終障害を先頭で飛越すると、食い下がる2着シーマに1馬身差をつけて勝利を収め、1932・33年に2連覇したインシュランス、1939年に勝ったアフリカンシスター、1942年に勝ったフォレステーション以来42年ぶり史上4頭目(5度目)の牝馬制覇を達成した。

さらにエイントリー競馬場に向かい、エイントリーハードル(21.5F)に参戦。1976年に創設された同競走史上初の牝馬制覇を達成した。

さらに仏国に遠征し、オートゥイユ競馬場で行われるオートゥイユ大ハードル(5100m)に出走した。このオートゥイユ大ハードルという競走は一般的に仏チャンピオンハードルと呼ばれており、これを本馬が勝てば愛英仏のチャンピオンハードル同一年制覇を達成できる状況だった。距離は愛英のチャンピオンハードルと比べるとかなり長く、過去に愛英のチャンピオンハードルの勝ち馬がオートゥイユ大ハードルを勝った事例は無かった。しかし主戦のオニール騎手ではなくムリンズ師の息子トニー・ムリンズ騎手が騎乗した本馬は勝利を収め、史上初の3か国チャンピオンハードル制覇をしかも同一年で達成。本馬以降にも愛英のチャンピオンハードルの勝ち馬がオートゥイユ大ハードルを勝った事例は無い(逆もまたしかり)から、本馬は現在でも愛英仏チャンピオンハードルを全て制した唯一の競走馬として名を残している。

このシーズンは他にも、同じオートゥイユ競馬場で出走したラバルカ賞(4300m)も勝利。エイントリー競馬場で出走したエイントリーハードルことサンデマンズハードル(20F)では、ムリンズ騎手を鞍上に馬なりのまま15馬身差で勝利した。このシーズンの成績は9戦8勝だった。

翌84/85シーズンは初戦を勝利したものの、その直後に故障してしまい、このシーズンはほぼ棒に振ってしまった。

競走生活(チェイス競走時代)

翌85/86シーズンは12月に復帰したが、復帰後はハードル分野ではなくスティープルチェイス分野に方針転換した。まずは12月に愛国パンチェスタウン競馬場で行われた、後のジョンダーカン記念チェイスことダーカンブラザーズチェイス(20F)にムリンズ騎手を鞍上に出走して、8馬身差で圧勝。同月末にレパーズタウン競馬場で出走した距離20ハロンのチェイス競走では、最終障害で飛越に失敗して大きく体勢を崩しながらも、年明けのクイーンマザーチャンピオンチェイスを勝つバックハウスを2着に破って勝利した。

となれば最大目標は、ハンデ競走のため強い馬が勝つとは限らない英グランドナショナルを別格とすれば、英国スティープルチェイス分野における最高峰競走であるチェルトナム金杯と相場が決まっていた。そして年明けにチェルトナム金杯の前哨戦としてチェイス競走に出走。ところが道中で飛越に失敗して、鞍上のムリンズ騎手は落馬してしまった。ムリンズ騎手が再騎乗して完走はしたが、4頭立ての4着最下位でゴールインした。長期休養を挟んでいたとはいえ、本馬が敗戦したのは実に2年ぶりの事だった。本馬が障害を飛越する光景を筆者は何度か映像で見たが、その飛越能力はハードル分野においては何とかなる程度のものであり、スティープルチェイス分野においてはかなり危険を感じるものだった。

それでも迎えたチェルトナム金杯(26F)では、前年の同競走の勝ち馬フォーギヴンフォーゴット、キングジョージⅥ世チェイスを3度勝利していたウェイワードラッド、前年のウェルシュナショナルの勝ち馬ランアンドスキップといったチェイスの強豪馬達を抑えて、圧倒的な1番人気に支持された。繰り返しになるがチェルトナム金杯は英国スティープルチェイス分野における最高峰競走であり、英国ハードル分野における最高峰競走である英チャンピオンハードルの勝ち馬が同競走を勝った事例は過去に1度も無かった(逆も同じ)。

今回は主戦のオニール騎手が手綱を取る本馬は、スタートが切られるといつもどおり先行した。しかし最初の障害で飛越に失敗して後退。その後も水壕障害で飛越に失敗して2馬身ほどのロスを蒙るなど、飛越の失敗を幾度か繰り返したが、そのたびに加速して位置取りを挽回するという状況だった。最後から3番目の障害を飛越して直線に入ってきた時点では、優勝争いは内側から順番に、本馬、ランアンドスキップ、ウェイワードラッド、フォーギヴンフォーゴットの先頭集団4頭に絞られていた。そして4頭が横並びになって一斉に最後から2番目の障害を飛越。この直後からランアンドスキップが遅れ始め、ウェイワードラッドが抜け出して、それに本馬とフォーギヴンフォーゴットの2頭が食い下がる格好になった。そしてこの3頭が揃って最終障害を飛越すると、後は末脚勝負となった。脚色は明らかに先頭のウェイワードラッドが一番よく、フォーギヴンフォーゴットは大外に大斜行。そして本馬も内埒沿いから外側によれて、ウェイワードラッドの後ろ側を通って外側に行ってしまった。しかし本馬は斜行を続けながらも最後の気力を振り絞って加速。ゴール直前で脚色が鈍ったウェイワードラッドをかわして、3/4馬身差で優勝を飾り、チェルトナム競馬場に詰めかけた大観衆から拍手喝采で迎えられた。

勝ちタイム6分35秒3は同競走が距離26ハロンになった1977年以降では最速だった。また、牝馬が同競走を勝ったのは、1925年のバリノデ、1958年のカースティン、1972年のグレンカーレイグレディ以来14年ぶり史上4頭目で、2015年現在、本馬以降には1頭も出ていない。また、英チャンピオンハードルとチェルトナム金杯を両方勝った馬も、2015年現在では本馬1頭である。

引き続きエイントリー競馬場で出走したチェイス競走では、最初の障害で飛越に失敗して競走中止。しかしパンチェスタウン競馬場で行われたバックハウスとのスペシャルマッチレースでは勝利を収めた。

レース中の事故で落命する

その後はハードル分野に戻り、一昨年に勝利したオートゥイユ大ハードル(5100m)に出走した。このレースでは既に騎手を引退していたオニール騎手でもムリンズ騎手でもなく、地元仏国のミシェル・チロル騎手が本馬に騎乗した。ところがこのレースで本馬は最後から5番目の障害で飛越に失敗して転倒。その拍子に本馬は首の骨を折ってしまい、二度と立ち上がることは無かった。本馬の死は翌日のアイリッシュタイムズ紙の一面トップを飾った。後にチェルトナム競馬場で送別会が行われ、同競馬場に存在していたアークルの彫像と向かい合うように本馬の彫像が建てられた。

血統

Deep Run Pampered King Prince Chevalier Prince Rose Rose Prince
Indolence
Chevalerie Abbot's Speed
Kassala
Netherton Maid Nearco Pharos
Nogara
Phase Windsor Lad
Lost Soul
Trial By Fire Court Martial Fair Trial Fairway
Lady Juror
Instantaneous Hurry On
Picture
Mitrailleuse Mieuxce Massine
L'Olivete
French Kin Brantome
Keener
Twilight Slave Arctic Slave Arctic Star Nearco Pharos
Nogara
Serena Winalot
Charmione
Roman Galley Man o' War Fair Play
Mahubah
Messaline Caligula
Monisima
Early Light Fortina Formor Ksar
Formose
Bertina La Farina
Thea
Broken Dawn Bimco Bolingbroke
Admire
Black and White Jackdaw Of Rheims
Naughty Nan

父ディープランは現役成績11戦4勝。ベレスフォードSを勝った他に、デューハーストS・愛セントレジャーで2着している。4歳時に出走したグラッドネスSでは、1歳年下の英国三冠馬ニジンスキーの2着だった。種牡馬としては障害用として供用されたようで、平地では全くと言ってよいほど活躍馬はいないが障害では多くの活躍馬を出している。ディープランの父パンパードキングは、プリンスローズの後継種牡馬の1頭プリンスシュヴァリエの息子。競走馬としては8戦4勝、オータムカップSを勝ち、ライムキルンS・オールドニュートンCで2着、リヴァプールオータムCで3着した程度だった。種牡馬としては英国から米国、仏国と各地を転々とした。そう聞くと失敗種牡馬だったと思われるかもしれないが、欧州でも米国でも健闘している。

母トワイライトスレイヴの競走馬としての経歴は不明。近親には平地競走の活躍馬はほぼ見当たらず、障害競走に特化して続いた牝系のようである。母系はグレイソヴリンと同じだが、グレイソヴリンの先祖と一致するには19世紀まで遡らなければならない。→牝系:F6号族①

母父アークティックスレイヴは頑健さが売りの馬で、63戦を消化しているが、著名競走の勝ちは無い。アークティックスレイヴの父アークティックスターはネアルコ産駒だが、競走馬としては肩甲骨骨折のため不出走に終わった。ネアルコ産駒は競走成績より種牡馬成績が上位の馬が少なくないが、アークティックスターもその1頭で、日本で種牡馬として活躍した愛ダービー馬フィダルゴなど複数の一流馬を出した。

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