サイテーション

和名:サイテーション

英名:Citation

1945年生

鹿毛

父:ブルリー

母:ハイドロプレーン

母父:ハイペリオン

特に3歳時に無敵の強さを誇り圧勝に次ぐ圧勝で20世紀米国最多の16連勝を記録し史上初の100万ドルホースとなった距離馬場不問の第8代米国三冠馬

競走成績:2~6歳時に米で走り通算成績45戦32勝2着10回3着2回

史上8頭目の米国三冠馬であるばかりでなく、16連勝という米国近代競馬のチャンピオン級における当時の最多連勝記録や、米国の年間最多ステークス競走勝利記録17勝、史上初の獲得賞金総額100万ドル突破など数々の大記録を樹立した。“Big Cy(ビッグ・サイ)”の愛称で親しまれ、短距離戦から長距離戦まで距離を問わずに走り、重馬場も苦にしなかった万能馬であり、マンノウォーセクレタリアトとも並び称される米国の歴史的名馬である。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州の名門牧場カルメットファームの生産・所有馬である。本馬の幼少期がどのような馬だったかについては、海外の資料ではまったく触れられていないためよく分からない。管理調教師はカルメットファームの専属調教師だったベン・ジョーンズ師と、息子のジミー・ジョーンズ師の両名が務めた。

競走生活(2歳時)

2歳4月にハヴァードグレイス競馬場で行われたダート4.5ハロンの未勝利戦で、主戦となるアル・スナイダー騎手を鞍上にデビューして、半馬身差で勝利した。翌月にピムリコ競馬場で出走したダート5ハロンの一般競走では、2着ニューズウィークリーに3馬身半差で勝利した。同月にハヴァードグレイス競馬場で出走したダート5ハロンの一般競走も、1馬身3/4差で勝利した。その後は少し間隔を空け、7月にアーリントンパーク競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走に出走。2着キャンディコンフォートとの着差は半馬身差だったが、58秒0のコースレコードを計時して勝利した。次走のエレメンタリーS(D6F)では、後のサンタアニタダービー・サンヴィンセントSの勝ち馬サルマガンディを1馬身差の2着に退けて、連勝を5に伸ばした。

しかし6戦目のワシントンパークフューチュリティ(D6F)では、デビュータントS・ハイドパークS・ポリアンナS・アーリントンラッシーS・プリンセスパットSなど7戦無敗だった名牝ビウィッチの1馬身差2着に敗れて、連勝はストップした。ビウィッチも本馬と同じくカルメットファームの生産・所有馬だった。このレースで本馬はゴール前であまり追われていなかった事から、ビウィッチに黒星をつけさせたくなかったカルメットファームが、ビウィッチに勝たせるように本馬鞍上のスティーヴ・ブルックス騎手に指示を出していたのだと推察されている(なお、3着馬フリーアメリカもカルメットファームの所有馬だった)。ビウィッチの勝ちタイムはレースレコードだったから、本馬が最後まで追われていれば、本馬がレースレコードを更新していたことになる。

次走のフューチュリティトライアル(D6F)では、2着ガスパリラに1馬身差で勝利。そしてベルモントフューチュリティS(D6.5F)で、ビウィッチと2度目の対戦となった。ビウィッチは前走のメイトロンSで1位入線しながら10着に降着となって初黒星を喫していたため、今回は本馬も遠慮する必要は無く、2着ワーリングフォックスに3馬身差、3着ビウィッチにはさらに首差をつけて勝利した。さらにピムリコフューチュリティ(D8.5F)も、サラトガスペシャルSの勝ち馬ベターセルフ(ドクターファーガータウィー兄妹の母父)を1馬身半差の2着に抑えて勝利した。2歳時は9戦8勝2着1回の成績で、米最優秀2歳牡馬に選ばれ、2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)においても126ポンドでトップの評価を得た。

競走生活(3歳初期)

3歳時はフロリダ州ハイアリアパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動した。このレースでは、前年の米年度代表馬・米最優秀ハンデ牡馬騙馬に選ばれた同父同馬主同厩のアームドとの対戦となった。結果は本馬が2着馬に1馬身差で勝利し、アームドは6着に沈んだ。次走のセミノールH(D7F)では、アームドに加えて、プリークネスSの勝ち馬フォールトレスとの対戦となったが、本馬が2着となった翌年の米最優秀短距離馬デリゲートに1馬身差で勝利を収め、アームドは3着に終わった。この2戦ともアームドより本馬の方が16~17ポンドも斤量が軽かったとは言え、この時期の3歳馬がトップクラスの古馬相手に勝つのは一般的に難しいのだが、本馬にはそんな常識は関係なかったようである。この2戦を見た米国競馬史に残る名伯楽サニー・ジム・フィッツシモンズ調教師は「私はマンノウォーのレースも見たことがありますが、サイテーションは既に私がかつて見たどの馬も上回っています」と語った。

続いて出走したエヴァーグレイズH(D9F)も、2着ヒュプノスに1馬身差で勝利。さらにフラミンゴS(D9F)では、2着ビッグダイヤルに6馬身差をつける圧勝を収め、前年からの連勝を7まで伸ばした。しかしフラミンゴSの直後に、主戦だったスナイダー騎手がフロリダ沖に魚釣りに行ったまま帰らぬ人となってしまい、本馬の主戦は以降、スナイダー騎手の友人だったエディ・アーキャロ騎手が務めることになった。

乗り代わり初戦となった4月のチェサピークトライアル(D6F)は、フラミンゴSで3着だったサギー(後に名馬キャリーバックの父となる)の1馬身差2着に敗退。このレースは泥だらけの不良馬場で行われており、アーキャロ騎手はレース後に「本気で追っていれば勝てましたが、こんな8300ドル程度の競走のために、後の高額賞金競走に勝つ可能性を下げてまで追うつもりはありませんでした」と語った(後に本馬が連勝記録を樹立した際に、本馬の連勝記録を24に伸ばす機会を逸したこのレースに関して彼がどのように感じたかは定かではない)。

しかし続くチェサピークS(D8.5F)では、サギーを15馬身半差の後方に葬り去って、2着ボヴァードに4馬身半差をつけて完勝。本馬の伝説的な連勝記録が開始されるのは、このレースからである。

競走生活(3歳中期):米国三冠達成と連勝の始まり

以下、本馬の連勝記録に関して詳細に記載されている、米国シカゴの著名なアナウンサーであるフィル・ジョージフ氏が2003年に出した本馬の伝記“Citation:In A Class by Himself(別格の競走馬サイテーション)”を、著作権や翻訳権に抵触しない範囲内で参照させてもらうことにする。

まずはダービートライアルS(D8F)に出走して、2着エスカドルに1馬身1/4差で勝利した。

ケンタッキーダービー(D10F)では、対戦相手は僅か5頭しかおらず、同じく出走馬が6頭しかいなかった1907年以来41年ぶりにケンタッキーダービーの出走頭数が6頭以下となった(この年以降にケンタッキーダービーの出走馬が6頭以下になった事は無い)。対戦相手5頭の内訳は、前走2着のエスカドル、ジュヴェナイルS・グランドユニオンホテルS・ユナイテッドステーツホテルS・ナショナルスタリオンS・カウディンS・ウッドメモリアルSの勝ち馬マイリクエスト、ブルーグラスS2着馬ビリングス、オークランドS・ホームブレッドSなどの勝ち馬グランペル、そして前哨戦のブルーグラスSをレコード勝ちしてきたカルメットファームの同期生コールタウンだった。人気はカップリングされた本馬とコールタウンの2頭に集中したが、2頭の比較ではコールタウンの方が上なのではという前評判だった。しかしアーキャロ騎手はベン・ジョーンズ師に対して「私は勝つ馬に乗ります」と言い切って本馬に騎乗した。本馬が不覚の敗戦を喫したチェサピークトライアルと同様に不良馬場で行われたレースでは、コールタウンがスタートから順調に逃げ、本馬が6馬身ほど後方の2番手を追走する展開となった。やはり本馬よりコールタウンの方が上なのかという声が囁かれ始めたが、直線入り口で外側からコールタウンに並びかけた本馬が一気にコールタウンを突き放し、ゴール前は馬なりで走って、2着コールタウンに3馬身半差、3着マイリクエストにはさらに3馬身差をつけて快勝した。アーキャロ騎手はこの勝利で得た賞金の半分をスナイダー騎手の未亡人に渡した。

次走のプリークネスS(D9.5F)では、ケンタッキーダービーの結果を受けたコールタウンが短距離路線に転じたために不在となり、ベターセルフ、シャンペンSの勝ち馬ヴァルカンズフォージ(翌年にサンタアニタH・サバーバンHを勝利する)、チェサピークSで本馬の2着だったボヴァードの3頭だけが対戦相手となった。今回はスタートからゴールまで先頭を走り続け、ゴール前では馬なりのまま、2着ヴァルカンズフォージに5馬身半差をつけて勝利した。

ベルモントSまで4週間あったため、その間の調整代わりとしてジャージーS(D10F)に出走。2分03秒0のコースレコードを樹立して、2着マクベスに11馬身差をつけて圧勝した。

そして迎えたベルモントS(D12F)では、単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持された。しかし過去のレースにおける本馬の優秀すぎるスピード能力から、スタミナ面で疑問があるなどという、後から振り返ってみれば滑稽とも思える意見も存在していた。しかしアーキャロ騎手は「落馬でもしない限り、米国三冠は私達のものだ」と豪語した。このような発言をすると本当に落馬してしまうのが世の中の摂理なのだが、実際に本馬はスタート時に躓いて前のめりになってしまい、危うくアーキャロ騎手は本当に落馬するところだった。しかし辛うじて落馬を免れると、すぐに先頭に立って、向こう正面では後続に5馬身差をつける大逃げを打った。そして直線ではさらにその差を広げ、ベルモントパーク競馬場に詰め掛けた観衆の絶叫に包まれながら、2着ベターセルフに8馬身差、3着エスカドルにはさらに2馬身半差をつけて圧勝。1946年のアソールト以来2年ぶり史上8頭目となる米国三冠馬の栄誉を手にした。勝ちタイム2分28秒2は1943年に米国三冠馬となったカウントフリートと並ぶレースレコードタイだった。

競走生活(3歳後期)

次走は7月にアーリントンパーク競馬場で行われた、古馬相手のスターズ&ストライプスH(D9F)となった。2月時点で既にアームドを破っていた本馬に敵う古馬は存在せず、前年にアームドが樹立した1分49秒2のコースレコードと同タイムで走り抜けた本馬が2着エターナルリワードに2馬身差で勝利した。しかし本馬はこのレースで行きっぷりがあまり良くなく、ゴール後には脚を引き摺り始めた。実はレース中に脚を捻挫していたのである。

負傷の治療のために1か月半の間隔を空けると、ワシントンパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走に出走して、2馬身半差で勝利した。さらにアメリカンダービー(D10F)ではスタートから先頭に立ち、スローペースに乗じて差してきた同厩馬フリーアメリカを1馬身差の2着に抑えて勝利した。次走のサイソンビーマイルS(D8F)では、ケンタッキーダービー以来となるコールタウンとの対戦となり、さらにはトラヴァーズSの勝ち馬ナッチェズ、ベルモントフューチュリティS・メイトロンSの勝ち馬ファーストフライト、アーリントンフューチュリティの勝ち馬スパイソングといった快速自慢の馬達が相手となった。しかしマイル戦においても本馬に敵う馬は存在せず、道中で後続を6馬身ほど引き離して逃げた本馬が、2着ファーストフライトに3馬身差、3着コールタウンにはさらに首差をつけて楽勝した。勝ちタイム1分36秒0はこの年にベルモントパーク競馬場で計時されたダート1マイルの最速タイムだった。

米国のマイル巧者達を粉砕した前走から一転して距離が2倍に伸びたジョッキークラブ金杯(D16F)では、前年のベルモントS・ジョッキークラブ金杯・ウッドメモリアルS・ドワイヤーSを勝って米最優秀3歳牡馬に選ばれたファランクスや、ブルックリンHやベルデイムHを勝ってこの年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれるコナイヴァー、南米から移籍してきてマサチューセッツHなどを勝っていたビューチェフなどが対戦相手となった。ベルモントSの勝ち方にも関わらず、本馬のスタミナ能力に疑問を抱く者が未だにいたらしいが、この距離でもやはり本馬に敵う馬は存在せず、ファランクスを7馬身差の2着に下して圧勝した。次走のエンパイアシティ金杯(D13F)でも、2着ファランクスに2馬身差で勝利した。

次走のピムリコスペシャルS(D9.5F)では、本馬のあまりの強さに他馬が全て回避したために単走で勝利。単走にも関わらず走破タイムは1分59秒8という優秀なものだった(「競馬 感涙劇場」には世界レコードだったと記載されているが、世界レコードどころかレースレコードですらないため全くの出鱈目である。ちなみにこの時点におけるレースレコードは1938年の同競走でシービスケットウォーアドミラルとのマッチレースを制して計時した1分56秒6)。

通常であればこの10月限りでシーズンを終えるところだったが、カルメットファームの代表ウィリアム・ライト氏は本馬をカリフォルニア州タンフォラン競馬場に送り、12月になっても走らせた。その理由は、ライト氏と仕事上で付き合いがあった人物がタンフォラン競馬場の運営に携わっていたからだという。しかしタンフォラン競馬場の馬場はコンクリートと同じくらい堅いと言われるほど悪名が高く、ジミー・ジョーンズ師はこの遠征に反対だったようである。まずはダート6ハロンの一般競走に出走して、2着ボールドギャラントに1馬身差で勝利。そしてタンフォランH(D10F)では、2分02秒8のコースレコードで駆け抜けて、2着ステップファーザーに5馬身差で圧勝し、これをもって3歳時を終了した。しかしジョーンズ師の危惧どおり、この遠征直後に本馬は左前脚の骨瘤と関節炎を発症してしまうのだった。

3歳時は20戦19勝の成績で、米国の年間最多ステークス勝利記録(17勝)・年間最多獲得賞金記録(70万9470ドル)を樹立し、米年度代表馬及び米最優秀3歳牡馬のタイトルを獲得した(原田俊治氏の「新・世界の名馬」には満場一致と記載されているが、英語版ウィキペディアによると163票中161票の獲得であり、満票ではなかったらしい。もっとも、この年の本馬の成績で満票でないというのも奇妙な話ではある)ばかりか、古馬シャノン(豪州出身馬で、米国に移籍してハリウッド金杯などを勝っていた)と並んで米最優秀ハンデ牡馬も受賞した。この年の活躍により、本馬はマンノウォー以来最も偉大な馬との評価が与えられ、マンノウォーの愛称“Big Red”にちなんで“Big Cy”と呼ばれるようになった。

競走生活(4・5歳時)

4歳時は3歳暮れに発症した骨瘤と関節炎がなかなか治癒せず、ジミー・ジョーンズ師やアーキャロ騎手を始めとする大半の関係者は、引退させるべきだと主張したが、唯1人ライト氏のみが引退を頑なに拒否して現役続行となった。その理由は本馬を史上初の100万ドルホースにしたいという願いをライト氏が持っていたためだとされる(この時点における本馬の獲得賞金総額は86万5150ドル)。4歳時は結局1度もレースに出ることは叶わなかった。この年は前年に本馬にまるで敵わなかったコールタウンが米年度代表馬になる活躍を見せている。

5歳時はカリフォルニア州のサンタアニタパーク競馬場から始動。まずはダート6ハロンの一般競走を2着ボールドギャラントに1馬身半差で勝利し、コリンの15連勝を抜く16連勝という米国近代競馬のチャンピオン級における最多連勝記録を達成した(米国競馬黎明期においては、1864年から1866年にかけてケンタッキーが20連勝を、1881年にヒンドゥーが18連勝又は19連勝を記録しており、米国競馬史上最多連勝記録とは言えない)。

しかし同コースで行われた次走のハンデ競走では、130ポンドの斤量が堪えたか、後にサンタアニタHを勝つ亜国出身馬ミシュの首差2着に敗れて、連勝は遂にストップしてしまった。続くサンアントニオH(D9F)も130ポンドを課されて、前年のケンタッキーダービー・アーリントンクラシックS・ピーターパンS・アメリカンダービー・ジョッキークラブ金杯の勝ち馬ポンダーの1馬身差2着に惜敗した(本馬から半馬身差の3着が、英国から移籍してきた愛国産馬ヌーアだった)。次走のサンタアニタH(D10F)では、ポンダーとヌーアに加えて、エイコーンS・ピムリコオークス・アーリントンクラシックS・アラバマS・アーリントンメイトロンH・ベルデイムH・トップフライトH・ワシントンバースデイHなどを勝っていた3年前の米最優秀3歳牝馬及び米最優秀ハンデ牝馬バットホワイノット、サンタマルガリータ招待Hを勝ってきた1歳年下のカルメットファーム産馬トゥーリーも参戦してきた。しかし132ポンドを背負わされた本馬は、コースレコードの2分フラット(世界レコードとする資料もあるが、前年のガルフストリームパークHにおいてコールタウンが1分59秒8を計時しており、世界レコードではあり得ない)で走ったヌーア(斤量110ポンド)の1馬身1/4差2着に敗れた。次走のサンフアンカピストラーノH(D14F)でも130ポンドを背負いながら、117ポンドのヌーアと激戦を繰り広げたが、現在も破られていない世界レコードの2分52秒8で走破したヌーアの鼻差2着に敗れた。サンタアニタパーク競馬場からゴールデンゲートフィールズ競馬場に場所を移して出走したダート6ハロンの一般競走では、アーキャロ騎手が主戦を降ろされた影響があったのか、120ポンドの斤量にも関わらず、ロマンインの3/4馬身差2着に敗退した。ただし、ロマンインの勝ちタイム1分08秒4は世界レコードタイであり、本馬にとってさすがに距離が足りなかった事を考えれば、止むを得ない一面もあった。それでも5連敗という結果に、さすがの陣営も本馬に休養を与えることになった。

2か月半の休養を経て6月に復帰すると、ゴールデンゲートマイルH(D8F)ではアーキャロ騎手に代わる新たな主戦ブルックス騎手を鞍上に、2着となった快速馬ボレロ(同年にダート6ハロンの世界レコード1分08秒2を計時している)に3/4馬身差で勝利した。勝ちタイムの1分33秒6は、前年のワーラウェイSにおいてコールタウンが計時した1分34秒0を更新する世界レコードだった。そしてフォーティナイナーズH(D9F)でヌーアとの4度目の対決に挑んだ。本馬の斤量は128ポンド、ヌーアの斤量は123ポンドと、過去3戦と比べると2頭の斤量差はかなり縮まっていた。しかし結果はまたも1分46秒8の世界レコードで駆け抜けたヌーアに敗れて首差の2着に終わった。

続くゴールデンゲートH(D10F)では、ヌーアと5度目にして最後の対決となった。斤量は本馬の125ポンドに対してヌーアは126ポンドと遂に逆転し、1番人気もヌーアに奪われた(本馬が1番人気にならなかったのは生涯を通してこのレースのみ)。そしてレース結果も、勝ったヌーアから3馬身差の2着に負けてしまい、雪辱を果たすことはできなかった。ちなみにこのレースも世界レコードの決着だったが、この時にヌーアが計時した世界レコード1分58秒2が更新されるのには、1980年のチャールズHストラブSにおいてスペクタキュラービッドが1分57秒8を記録するまで実に30年を要することになる。本馬とヌーアの対戦は5回中3回で世界レコードを記録するという壮絶なものであり、米国競馬史上最も名高い一連の激闘だったと評されている。ヌーアは快速ナスルーラ産駒であり、基本的にスタミナ豊富で重厚な血統である本馬との対決は、伝統の長距離血統と新進気鋭の快速血統のせめぎ合いでもあった。このレースの後に左前脚の状態が悪化した本馬は長期休養に入り、5歳時は以降レースに出ることは無かった。

5歳時は9戦2勝2着7回の成績で、獲得賞金総額は2・3歳時と合わせて93万8630ドルとなり、スタイミーが保持していた91万8485ドルの記録を更新して北米賞金王にはなったものの、100万ドル達成は成らなかった。しかしこの年の12月に死去したライト氏の遺言により、翌年も100万ドル達成を目指して現役を続行することになった。

競走生活(6歳時)

10か月の休養を経て6歳4月に復帰したが、さすがに往年の力は無かったのか、復帰戦となったベイメドウズ競馬場ダート6ハロン一般競走では、アラークの1馬身差3着に敗れ、デビューから38戦連続で続いていた3着以下無しの記録は途絶えた。それから8日後に出走した同コースの一般競走も、パンチョシュプリームの2馬身1/4差3着に敗退。そしてプレミエールH(D6F)では、サンタスサナS・サンタマルガリータ招待Hなどを勝っていた牝馬スペシャルタッチの2馬身3/4差5着に終わり、生涯唯一の着外となってしまった。アーゴノートH(D8.5F)も、ワシントンバースデイH・サンフアンカピストラーノ招待Hの勝ち馬ビーフリートの3馬身差2着に敗退した。このレースには、これまたライト氏の無理強いにより現役生活を続けていたビウィッチやコールタウンも出走していたが、2頭とも既に全盛期の強さは無く、ビウィッチは4着、コールタウンは9着に終わっている。

それでもハリウッドパーク競馬場ダート8ハロンのハンデ競走では、2着ビーフリートに半馬身差をつけて1年ぶりの勝ち星を挙げた。次走のアメリカンH(D9F)では、ビウィッチを半馬身差の2着に抑えて勝利した。さらに1着賞金10万ドルのハリウッド金杯(D10F)に出走すると、2着ビウィッチに4馬身差をつけて勝利した。この勝利により本馬の獲得賞金総額は108万5760ドルに達し、世界史上初の100万ドルホースとなった。本馬はこのレースを最後に競走馬を引退することになり、アーリントンパーク競馬場で引退式が行われた。6歳時の成績は7戦3勝だったが、ヒルプリンスと共にこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれた。

本馬が3歳から5歳にかけて達成した近代米国競馬のチャンピオン級における16連勝という記録は、1996年にシガーが本馬の名を冠したサイテーションチャレンジを勝って並んだが更新することは出来ず、20世紀中に破られることはなかった(2010年になってゼニヤッタが19連勝を記録して更新された)。3歳時に本馬が記録した米国の年間最多ステークス勝利記録17勝は現在でも破られていない。

競走馬としての特徴と評価

本馬は基本的にスタートから先頭に立ってそのまま押し切るレースぶりであり、その様子をシカゴのスポーツライターであるエルマー・ポリツィン氏は「彼はその競走生活において他馬に先頭を譲ることを許しませんでした。もし他馬が迫ってきても、ほんの2~3歩で引き離すことが出来ました」と記載している。主戦を務めたアーキャロ騎手は「他馬が彼に挑戦してきても、彼はその挑戦を塵芥のように粉砕し、挑んできた馬達の心臓を粉々にしてみせました」「あまりにも速いので、乗っていて怖いほどでした」と語っている。他馬に対して恐れる事を知らなかった本馬が苦手なものは、ライト氏に代わってカルメットファームの経営者となっていたライト氏の義理の娘ルシール・パーカー・ライト・マーキー夫人が飼っていた、ティミータミーという名前のヨークシャーテリアだったという。後にカルメットファーム産の米国顕彰馬ティムタムの馬名由来となったとも言われるこの犬は、事あるごとに本馬に噛み付いていたらしい。

本馬を管理したベン・ジョーンズ調教師は「私は彼の欠点を見つけようとしましたが、まったく見つけることが出来ませんでした。彼は最高の馬です。私達は彼のような馬を再び見ることは無いでしょう。彼は私がかつて見た中で最良の馬でした。おそらく誰にとっても彼は最良の馬だったのではないでしょうか」と語っている。実際に、ジミー・ジョーンズ師、アーキャロ騎手、フィッツシモンズ調教師、マックス・ハーシュ調教師なども口を揃えて、本馬がかつて米国競馬に登場した最良の馬であると評している(ただし、アーキャロ騎手の内心は違ったらしい。詳細はケルソの項を参照)。世界有数の軽飛行機製造会社であるセスナ・エアクラフト社の社長ドゥエイン・ウォーレス氏は本馬のファンであり、後の1971年にセスナ・エアクラフト社がジェット機製造に力を注ぐために開発した新しい機体のモデルに、本馬の名にちなんでサイテーションと命名した。現在セスナ社の主力となっているこのセスナ・サイテーションのロゴは蹄鉄の形であり、セスナ・エアクラフト社の本社玄関には本馬の写真が飾られているという。また、本馬は米国の著名な競走馬画家リチャード・ストーン・リーブス氏によって描かれた最初のチャンピオンホースになるという名誉も手にしている。本馬が3歳シーズンをスタートさせたハイアリアパーク競馬場には、本馬の銅像が建てられている。

3歳時までの圧倒的な強さと比較すると、休養明けの5歳時以降は物足りないものがあったが、“Citation:In A Class by Himself”の著者ジョージフ氏は、3歳暮れにタンフォラン競馬場で走らせた事といい、100万ドルホースにしたいなどという身勝手な願いにより無理に現役を続けさせた事といい、カルメットファームの代表ライト氏のエゴイズムにより、本来であればセクレタリアトを上回るほど偉大な名馬として認められるべきだった本馬の功績が貶められたのだとして、厳しくライト氏を糾弾している。

血統

Bull Lea Bull Dog Teddy Ajax Flying Fox
Amie
Rondeau Bay Ronald
Doremi
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Rose Leaves Ballot Voter Friar's Balsam
Mavourneen
Cerito Lowland Chief
Merry Dance
Colonial Trenton Musket
Frailty
Thankful Blossom Paradox
The Apple
Hydroplane Hyperion Gainsborough Bayardo Bay Ronald
Galicia
Rosedrop St. Frusquin
Rosaline
Selene Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Serenissima Minoru
Gondolette
Toboggan Hurry On Marcovil Marco
Lady Villikins
Tout Suite Sainfoin
Star
Glacier St. Simon Galopin
St. Angela
Glasalt Isinglass
Broad Corrie

ブルリーは当馬の項を参照。なお、本馬とカルメットファームの同期生だったコールタウン、ビウィッチはいずれもブルリー産駒。

母ハイドロプレーンは、名馬ハイペリオンと、英オークス・デューハーストS・コロネーションS・ジョッキークラブSを勝った名牝トボガンの間に産まれた良血馬だが、競走馬としては不出走に終わった(「新・世界の名馬」には7戦未勝利とある。いずれが正しいのかは不明だが、未勝利だったのは確かなようである)。優れた英国産の繁殖牝馬をブルリーと交配させれば優秀な馬を誕生させることが出来るのではないかと考えたライト氏により、1941年に米国に輸入された。もっとも、この年は第二次世界大戦の最中であり、ハイドロプレーンは独国の潜水艦がひしめきあう大西洋ではなく、喜望峰を回って太平洋経由で米国にやって来た。

ハイドロプレーンは本馬が大活躍する最中の1948年に10歳の若さで他界してしまったため、結局本馬以外に特筆できる競走成績を残した産駒は出せなかったが、本馬の全妹シエナウェイの子には、プリンセズゲート【ベッドオローゼズH】、ハッピーウェイ【マンハッタンH】が、曾孫には米国顕彰馬ダヴォナデイル【ケンタッキーオークス(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)・ファンタジーS(米GⅠ)】、ゲートダンサー【プリークネスS(米GⅠ)・スーパーダービー(米GⅠ)】が、玄孫世代以降には、エグゼクティヴプリヴィレッジ【デルマーデビュータントS(米GⅠ)・シャンデリアS(米GⅠ)】などがいる。ハイドロプレーンの半兄にはボブスレー(父ゲインズボロー)【リッチモンドS】がいる。トボガンの半兄にはサイルリアン【ドンカスターC】が、半姉にはブルーアイス【ヨークシャーオークス】がいる他、トボガンの叔母である英1000ギニー馬キャニオンの子にコロラド【英2000ギニー・エクリプスS】、カーリアン【エクリプスS】がいる。→牝系:F3号族④

母父ハイペリオンは当馬の項を参照。

本馬は米国産馬ではあるが、その血統は基本的に欧州血脈で占められている。本馬の血統表における4世代前の馬16頭のうち、14頭が英国産馬である。他の2頭は仏国産馬のアジャックスと新国産馬のトレントンであり、米国産馬は1頭もいない。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のカルメットファームで種牡馬入りした。初年度産駒のファビアスがプリークネスSを優勝し、種牡馬として好調なスタートを切ったが、全体的に種牡馬成績は競走馬時代と比べると大きく見劣るものだった。1959年に米国競馬の殿堂入りを果たした。1969年に種牡馬を引退し、翌1970年8月に25歳で他界、遺体はカルメットファームに埋葬された。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選では第3位。

本馬の血を引く馬としては、日本に種牡馬として輸入されたフロリダダービーの勝ち馬コインドシルバー(祖母の父が本馬)、同じく日本に種牡馬として輸入されたジェロームHの勝ち馬アフリート(祖母の父グリーンチケットの母父が本馬)、豪州の名種牡馬エクシードアンドエクセル(祖母の父ウォッチユアステップの父が本馬)などが挙げられる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1953

Beyond

エイコーンS

1953

Fabius

プリークネスS・ジャージーS

1954

Manteau

オハイオダービー

1956

Silver Spoon

サンタアニタダービー・サンタイネスS・シネマH・サンタモニカH・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H・ミレイディH・ヴァニティH

1956

Watch Your Step

サプリングS

1957

Keenation

ピーターパンS

1957

Sky Clipper

サプリングS

1960

Get Around

ウィザーズS

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