ビーズマン

和名:ビーズマン

英名:Beadsman

1855年生

黒鹿

父:ウェザービット

母:メンディカント

母父:タッチストン

2歳時は目立たなかったが3歳になって急成長して英ダービーを制し、種牡馬としてもエクリプス直系第3勢力の中心的存在として活躍する

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績7戦5勝3着2回

誕生からデビュー前まで

本馬より7歳年上の名馬テディントンなどを所有していた名馬主にして保安官も務めていた第3代准男爵ジョセフ・ヘンリー・ハーレイ卿により生産・所有された。テディントンはハーレイ卿の生産馬ではなかったが、ハーレイ卿は当時の英国の有力馬主の多くと異なり、自分で馬を生産して、育成やレース出走にも積極的に口を出すタイプの人物だった。そのために彼の馬を預かった調教師にはあまり権限は与えられておらず、ハーレイ卿がほぼ全てを取り仕切っていた。このやり方は当時の英国ジョッキークラブの会員には歓迎されず、彼は他の馬主からはあまり好かれていなかったようであるが、調教師、騎手、厩務員などには惜しみなく報酬を与えていたため、彼の元で働く人々からは意外と慕われていたそうである。

本馬は成長後の体高が15.25ハンドとあまり背が高い馬ではなかったが、その割には脚が長かったと伝えられている。その脚は細くて折れそうであり、頭は扁平で、見栄えはあまり宜しくなかったようである。それでも母メンディカントが1846年の英1000ギニー・英オークスを勝った名牝という魅力的な血統の持ち主でもあったし、下半身の筋肉とその優雅な動きには見るべきものがあった。

英国ハンプシャー州キングスクレアに厩舎を構えていたジョージ・マニング調教師に預けられた。このキングスクレア厩舎は、後に英国を代表する名伯楽ジョン・ポーター調教師に受け継がれて、本馬の代表産駒ブルーガウンオーモンドアイソノミーコモンオームラフレッチェフライングフォックスウィリアムザサードなど数え切れないほどの名馬が育成され、さらに後にはミルリーフも巣立っていった英国きっての名門厩舎となる場所だった。ところがこの当時のキングスクレア厩舎の環境は極めて劣悪だった。すぐ近くに沼地と森林があったために、カエルと昆虫の大合唱にさらされていた。しかも沼地から蚊が大量発生するために、厩舎で働く人の間でマラリアが流行する引き金になることがしばしばだったというから酷い話である。当時既にマラリアの特効薬キニーネは発見されていたが、生命に関わる危険な病気であることは当時も今も変わっておらず、マニング師はしばしば非難の対象となったという。

競走生活(3歳初期まで)

2歳6月にグッドウッド競馬場で行われたハムSでデビューした。しかし結果は牝馬ブランシェオブミドルビーが勝利を収め、本馬は3着同着で、辛うじて着外を免れるのが精一杯だった。その僅か2日後には同じグッドウッド競馬場で200ポンドスウィープSに出走した。ハムSの賞金は100ポンドだったから、こちらのほうが賞金的には上位だった。しかし結果は、後に19世紀豪州最高の名馬カーバインの父方の祖父となるタクサファライトが楽々と勝利を収め、本馬は3着に敗退。斤量はタクサファライトのほうが本馬より8ポンド軽かったが、その斤量差がなくてもタクサファライトが勝っただろうと言われた内容だった。2歳時はこの2戦のみの出走で、2戦未勝利に終わった。脚がひょろ長かった本馬はおそらく脚部不安を抱えていたと思われ、2歳時に無理に調教や実戦をすることは出来なかったのだろうと推察される。

3歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたスウィープSから始動して、2着スターオブジイーストに首差でなんとか勝利を収めて勝ち上がった。その2週間後には前走と全く同じコースの100ポンドスウィープSに出走して、ここでも勝利を収めた。それからさらに2日後にはニューマーケットS(T10F)に出走。このレースではクリアウェルSの勝ち馬エクリプス(言うまでもないが18世紀無敗の名馬エクリプスとは同名の別馬。ただしこのエクリプスも後に米国で種牡馬入りして、アラームルースレスなどを出しヒムヤー系の始祖となる重要な馬である。そのためにエクリプスⅡと表記する場合が多く、この名馬列伝集でも同表記としている)との大激戦となった。当時の英国のスポーツ紙ベルズライフ紙をして「過去に英国内で見られた競走の中でも最高の名勝負の1つ」とまで評せしめたこの一騎打ちは1着同着という形で決着した。これにより本馬は英ダービーの有力候補として名乗りを挙げることになった。

英ダービー

ところで本馬と同馬主同厩同世代には、本馬不在の英2000ギニーを勝ったフィッツローランドという有力馬がおり、これまた英ダービーの有力候補だった。しかし本馬とフィッツローランドの優劣に関しては陣営内で意見が真っ二つに分かれた。2頭を管理するマニング師は、フィッツローランドのほうが実力上位だと判断した。しかし2頭の所有者であるハーレイ卿は、本馬のほうが実力上位だと判断した。馬主と調教師の力関係に関しては、調教師が一切を取り仕切る事例も散見されるが、この2人の場合は本項の最初で述べたとおりハーレイ卿がほぼ全ての決定権限を有していた。そのためにハーレイ卿の意見が通り、マニング厩舎の主戦だったジョン・ウェルズ騎手は本馬に騎乗する事になった。

しかしハーレイ卿は表向きには、本馬よりフィッツローランドのほうが上位だと公言するようになった。これは、フィッツローランドの人気を高めて、逆に本馬の人気を下げることにより、自分は本馬に賭けて儲けようという、せこい魂胆によるものだった。現在ではそんな手に引っ掛かる競馬ファンは少ないはずだが、当時もそんな手にまんまと引っ掛かる人は少なく、迎えた英ダービー(T12F)では、単勝オッズ11倍の本馬のほうが、単勝オッズ12倍のフィッツローランドより評価が上だった。単勝オッズ8倍の1番人気に支持されていたのは、かつて本馬を破った事があるタクサファライトだった。そして本馬と激闘を演じたエクリプスⅡが単勝オッズ10倍の2番人気で、本馬は3番人気だった。

馬も騎手も観衆達も汗だくになるような非常に気温が高い中でスタートが切られると、単勝オッズ23倍の11番人気馬フィジシャンが先手を取り、エクリプスⅡが直後の2番手を追走。その少し後方の先行集団に本馬やフィッツローランドがつけ、タクサファライトはそのさらに少し後方につけた。しばらくするとエクリプスⅡが後退して、その代わりにフィッツローランドが2番手に上がったが、本馬鞍上のウェルズ騎手はそのままの位置を維持し続けた。坂の頂上付近で再びエクリプスⅡが2番手に上がると、その後はタッテナムコーナーへ向けての下り坂であり、各馬が一斉に加速を開始。最初にフィッツローランドが先頭を奪い、そこへエクリプスⅡや後方から上がってきたタクサファライトが並びかけていった。しかし本馬はこの段階に至っても最初からの位置取りを堅持し続けた。そして直線に入ると、フィッツローランドは失速。いったん先頭に立ったエクリプスⅡも直線半ばからの伸びが無く、タクサファライトが堂々と先頭に立った。しかしそこへ満を持して仕掛けた本馬がやってきて、残り1ハロン地点で内側からタクサファライトを一気にかわした。そして最後は、2着タクサファライトに1馬身差、3着に入った単勝オッズ21倍の8番人気馬ザハッジにはさらに2馬身差をつけて優勝。エクリプスⅡはさらに4馬身差をつけられた4着で、フィッツローランドは6着だった。

この日はあまりにも暑かったために、参加した騎手の大半は1レースだけで体重が大幅に減少していた。それは本馬鞍上のウェルズ騎手も例外ではなく、検量をパスするために手綱を持ったまま体重計に乗ったと伝えられている。ハーレイ卿は本馬の勝利に大金を賭けており、優勝賞金とは別に8万ポンドもの巨額の利益を手にしたという。過去の彼の行動からして、彼はその利益の多くをマニング師やウェルズ騎手を始めとする関係者に惜しみなく与えたと思われる。

競走生活(英ダービー以降)

英ダービーを勝った本馬はその後にストックブリッジ競馬場に向かい、距離12ハロンのトリエニアルSに出走して勝利した。英セントレジャーにはどうやら登録が無かったようで当初から参戦計画は無かった。ハーレイ卿はどうも英セントレジャーというレースに対する関心が低かったようで、所有する有力馬を英セントレジャーに参戦させないことが多かった。彼は、テディントン、本馬、本馬より1歳年下のマスジッド、本馬の代表産駒ブルーガウンの4頭で英ダービーを勝ったが、4頭全て英セントレジャーには不参戦である。彼は本馬が3歳時の1858年までに他の英国クラシック競走4つを全て勝ったが、英セントレジャーのみは勝っていなかった。彼の所有馬が英セントレジャーを勝ったのは、11年後の1869年にペロゴメスで制したのが最初で最後だった。

それはさておき、英セントレジャーに出走しない本馬の秋は、3つのマッチレースに出走する計画が組まれた。その中には、前年のシザレウィッチHとこの年のグレートヨークシャーSの勝ち馬プライオレスとのマッチレースや、エクリプスⅡとのマッチレースも含まれていた。しかしこの3競走は、いずれも本馬又は対戦相手のいずれかが罰金を支払って回避したために施行されなかった。そして本馬は3歳限りで競走馬を引退。外見上は特に脚部不安を発生していたようには見受けられなかったそうだが、実際のところは関係者以外には分からない。3歳時の成績は5戦全勝だった。

血統

Weatherbit Sheet Anchor Lottery Tramp Dick Andrews
Gohanna Mare
Mandane Pot-8-o's
Young Camilla
Morgiana Muley Orville
Eleanor
Miss Stephenson Sorcerer
Precipitate Mare
Miss Letty Priam Emilius Orville
Emily
Cressida Whiskey
Young Giantess
Orville Mare Orville Beningbrough
Evelina
Buzzard Mare Buzzard
Hornpipe
Mendicant Touchstone Camel Whalebone Waxy
Penelope
Selim Mare Selim
Maiden
Banter Master Henry Orville
Miss Sophia
Boadicea Alexander
Brunette
Lady Moore Carew Tramp Dick Andrews Joe Andrews
Highflyer Mare
Gohanna Mare Gohanna
Fraxinella
Kite Bustard Castrel
Miss Hap
Olympia Sir Oliver
Scotilla

父ウェザービットは、ジョン・ガリー氏というブックメーカー業者の所有馬として走り、グッドウッドC・グレートメトロポリタンH・クレイヴンSで2着しているが、英ダービー・英セントレジャーでは着外であり、決して一流の競走馬では無かった。種牡馬としての成績は競走馬時代よりは明らかに上だが超一流というほどでもなかった。ウェザービットの父シートアンカーは英セントレジャー3着馬。シートアンカーの父ロタリーはドンカスターCの勝ち馬。ロタリーの父トランプもドンカスターCの勝ち馬。さらにディックアンドリューズ、ジョーアンドリューズを経て、初代エクリプスに行きつく血統である。

母メンディカントは英1000ギニー・英オークスをいずれも1番人気に応えて勝った名牝。3歳時にはハーレイ卿の所有馬ではなく前述のガリー氏の所有馬で、4歳時にハーレイ卿により2500ギニーで購入されて、彼の牧場で繁殖入りしていた。ちなみにメンディカント(Mendicant)とは英語で「托鉢、物乞い」という意味で、本馬の馬名ビーズマン(英語で「救貧院、又は救貧院に入っている人」の意味)はそれに由来すると思われる。

本馬の半妹ヴァガ(父ストックウェル)は世界的名牝系の祖となっている。その子にはヴァガボンド【トライアルS】、ベルフィービー【英1000ギニー・コロネーションS】が、孫にはショットオーヴァー【英2000ギニー・英ダービー】がいる。ショットオーヴァーの牝系子孫からは根幹繁殖牝馬フリゼットが出ており、ここにその主だった子孫を書き込むのは相当な労力なので、ショットオーヴァーの牝系子孫に関してはショットオーヴァーやフリゼットの項に譲るとして、本項ではショットオーヴァーを経由しないヴァガの牝系子孫に絞って主な活躍馬を列挙する。ヴァガの曾孫にロードボブズ【デューハーストS・ジュライC】、プリンセスマーガレット【フォレ賞】、玄孫世代以降にノーズマン【ロベールパパン賞・サブロン賞】、ワードン【ワシントンDC国際S・ローマ賞】、プリンスリーギフト、ルファビュリュー【仏ダービー・リュパン賞・クリテリウムドサンクルー】、トロメオ【アーリントンミリオン(米GⅠ)】、デザートオーキッド【キングジョージⅥ世チェイス4回・チェルトナム金杯・ティングルクリークチェイス・愛グランドナショナル】、ロックソング【ナンソープS(英GⅠ)・アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)2回】、キャンディライド【サンイシドロ大賞(亜GⅠ)・ホアキンSデアンチョレーナ大賞(亜GⅠ)・パシフィッククラシックS(米GⅠ)】、日本で走ったビワハヤヒデ【菊花賞(GⅠ)・天皇賞春(GⅠ)・宝塚記念(GⅠ)】、ナリタブライアン【朝日杯三歳S(GⅠ)・皐月賞(GⅠ)・東京優駿(GⅠ)・菊花賞(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)】、ファレノプシス【桜花賞(GⅠ)・秋華賞(GⅠ)・エリザベス女王杯(GⅠ)】、アドマイヤジュピタ【天皇賞春(GⅠ)】、キズナ【東京優駿(GⅠ)】などが出ている。

メンディカントの母レディムーアカリューは1844年の英ダービー馬オーランドの伯母に当たり、やはり世界的名牝系の祖となっている。特にメンディカントの半姉レディサラ(父ヴェロシペード)の牝系子孫からは多くの活躍馬が出ているが、既にオーランドの項に記載したので本項では省略させてもらう。→牝系:F13号族①

母父タッチストンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ハーレイ卿がケント州レイボーンに所有する牧場で種牡馬入りした。後にヨークシャー州ミドルソープの牧場に移り住み、1872年7月に急に発症した腸捻転のため17歳で他界するまでその地で過ごした。本馬は種牡馬としてかなりの成功を収めた。産駒は英国だけでなく米国にも輸出され、サクソンが1874年のベルモントSを勝っている。なお、本馬の生産・所有者だったハーレイ卿は本馬が他界すると、気落ちして健康を害し、翌年には馬主を辞めてしまい(サクソンが米国に輸出されたのはそのためでもある)、その2年後の1875年に本馬の後を追うように62歳でこの世を去っていった。ポテイトウズキングファーガスと並ぶエクリプス直系第3勢力の中心的存在としての活躍を担った本馬だが、直系はやがて衰退して現在では完全に滅んだ。しかし代表産駒の1頭ザパルマーがピルグリメージュの父となり、ピルグリメージュがカンタベリーピルグリムの母となった事により、本馬の血は後世に大きな影響力を保ち続けている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1864

The Palmer

アスコットダービー

1865

Blue Gown

英ダービー・アスコット金杯・クレイヴンS

1865

Green Sleeves

ミドルパークS

1866

Morna

英シャンペンS・ナッソーS

1866

Pero Gomez

英セントレジャー・ミドルパークS・アスコットダービー

1871

Saxon

ベルモントS

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