ラムタラ

和名:ラムタラ

英名:Lammtarra

1992年生

栗毛

父:ニジンスキー

母:スノーブライド

母父:ブラッシンググルーム

わずか4戦のキャリアで英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・凱旋門賞の3競走を完全制覇した奇跡の馬

競走成績:2・3歳時に英仏で走り通算成績4戦4勝

僅か4戦という少ない経歴でありながら、英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・凱旋門賞の3競走を史上初めて無敗で制覇した名馬。競走馬引退後に日本に種牡馬として輸入された際に大きな話題になった事もあり、海外競馬に興味が無い日本の競馬ファンであっても、その名前を知る人が当時は多かった。本馬に関しては日本語で書かれた資料も随分と多いのだが、競走馬時代に関してはこの名馬列伝集の原則に従って日本の資料をなるべく参考にせず、海外における資料に基づいてのみ記載する事にする(もっとも、本馬に関しては日本と海外の資料でそれほど決定的な違いは無い)。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ゲインズボローファームにおいて、同牧場の所有者であるドバイの首長シェイク・マクトゥーム殿下により生産された。父ニジンスキーは言わずと知れた歴史的名馬・名種牡馬だったが、本馬が誕生した僅か2か月後に他界している。そのため、本馬はニジンスキーにとって最晩年の産駒(最終世代ではなく最後から2番目の世代)という事になる。種牡馬としても英2000ギニー・英ダービー・愛ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・ケンタッキーダービー・BCクラシックなど世界中の大競走中の大競走は軒並み制したニジンスキーだったが、自身が惜しくも勝てなかった凱旋門賞を産駒が勝つ日はなかなか訪れなかった。オカルティックな書き方をすれば、ニジンスキーが本馬の誕生直後に他界したのは、この子なら自分の果たせなかった夢を果たしてくれると思って安心して逝ったからかもしれない。本馬の母スノーブライドは繰り上がりながらも英オークスを勝った名牝で、ニジンスキーとは対象的に本馬が初子だった。

本馬の所有者名義はマクトゥーム殿下の息子で現在はスポーツ選手として活躍しているサイード・ビン・マクトゥーム・ラーシド・アル・マクトゥーム氏だった。もっとも本馬が誕生した1992年の時点でマクトゥーム氏はまだ16歳、本馬のデビュー時点でも18歳の学生だったため、実質的に本馬の所有者だったのはマクトゥーム殿下とその弟シェイク・モハメド殿下が設立した馬主団体ゴドルフィンだった(本馬が勝った英ダービーの翌日に発行されたインデペンデント紙では、ゴドルフィンの代表者であるモハメド殿下を当然のように本馬の所有者として扱っている)。ゴドルフィンの創設は1992年12月だが、国際的な活動が本格化したのは1994年の事であり、本馬がデビューする直前の英オークスと愛ダービーを制した名牝バランシーンが最初の大物競走馬だった。

さて、本馬を預かったのは英国ニューマーケットでオークスステーブルという厩舎を構えていたアレクサンダー・アーチボルド・スコット調教師だった。1960年に英国で生まれたスコット師は大学で神学と経済学を学んだのだが、馬好きだった両親の影響を受けたのか、調教師の道を選んだ。英国のディック・ハーン厩舎などで修行を積み、1988年6月にマクトゥーム殿下の英国における専属調教師に抜擢された。そして1989年のジュライCとスプリントCSを勝ったカドゥージェネルー、1991年の愛オークスと伊オークスを勝ったポゼッシヴダンサー、BCスプリント・ナンソープS・ジュライC・スプリントCを制した1991年のカルティエ賞最優秀短距離馬シェイクアルバドゥなどを手掛けていた。シェイクアルバドゥをBCスプリントに向かわせる5か月前からダートとポリトラックの混合調教を施すなど、時代の一歩先を行く調教を実施していた新進気鋭の若手調教師だった。

マクトゥーム殿下はスコット師の手腕を非常に高く評価していたらしく、1992年にゲインズボローファームで誕生した1歳馬達を自身が懇意にしていた欧州の調教師達に順番に選んでもらうに際して、英国のサー・マイケル・スタウト調教師や仏国のクリケット・ヘッド調教師といった名伯楽達を差し置いて、スコット師を選択順位1番とした。そしてスコット師が真っ先に指名したのが本馬だったのである。

本馬の馬名由来に関して日本では諸説が入り乱れているが、前述のインデペンデント紙にはアラビア語で“invisible”という意味であると明記されているし、他の海外の資料にも1つの例外もなくそのように書かれているから、これが正解と考えて間違いないだろう。“invisible”は英語で「目に見えないもの」といった意味であるが、転じて「神・霊界」といった意味もあり、本馬の後の経歴を考えると結果的に実に的を射た命名となった。

後に種牡馬入りした本馬に関わった人達が「非常に知的で紳士的であり、1度たりともトラブルがあった事はありません」「非常に親切で温厚な馬です」と口を揃えた本馬だったが、それは成長後の性格であるらしく、スコット師の元にやって来た当初の本馬はそれほど従順な馬では無かったという。ニューマーケットのウォーレンヒルにあるベリーサイド調教場で調教が施されたのだが、オークスステーブルからベリーサイドに連れて行かれるのを嫌がって暴れて抵抗したり、いざ調教に出ても真面目に走らなかったりと、なかなか上手くいかなかったという。

デビュー戦と調教師の死

そんな本馬のデビュー戦は、2歳8月12日に英国ニューベリー競馬場で行われたリステッド競走ワシントンシンガーS(T7F)だった。鞍上はスコット師の友人でもあったウォルター・スウィンバーン騎手。本馬は単勝オッズ4倍の2番人気だった。このレースで単勝オッズ2倍の1番人気に支持されていたのは、後にネルグウィンSに勝利するマイセルフという牝馬だった。マイセルフは6月の未勝利ステークスを勝ち上がった後にクイーンメアリーSで2着、チェリーヒントンSで3着と既にグループ競走で実績を残していた。マイセルフの母は、ジャパンCの勝ち馬ジュピターアイランドの1歳年下の半妹に当たるクイーンメアリーS・ジョエルSの勝ち馬プッシィーで、マイセルフの半姉にはプリンセスマーガレットS・フレッドダーリンS・セーネワーズ賞を勝ったブルーブックがおり、血統的にも実績的にもここで人気になるのは当然だった。

スタートが切られると、F・デットーリ騎手が騎乗する単勝オッズ7倍の4番人気馬ウィグベルトが先頭に立ち、マイセルフがそれを追って先行。本馬は馬群の中団好位につけた。残り2ハロン地点でマイセルフが先頭に立つのとほぼ同時にスウィンバーン騎手が仕掛けると本馬は鋭く伸びた。残り1ハロン地点でマイセルフをかわして先頭に立つと、2着マイセルフに3/4馬身差、3着ペトスキンにもさらに3/4馬身差をつけて勝利した。

それほど目立つ勝ち方ではなく、このレース直後における本馬の英ダービー前売りオッズは34倍に過ぎなかった。しかしスコット師はこの段階で本馬は英ダービーを勝てる器であると感じ取ったようで、英国の大手ブックメーカーであるラドブロークス社に赴き、本馬の勝利に1000ポンドを賭けた。

本馬のデビュー戦から7週間が経過した9月30日、スコット師は自身の厩舎で以前から厩務員をしていたウィリアム・オブライエンという男に胸を撃たれて、34年の生涯を閉じた。スコット師は1992年12月にグリーブファームスタッドという牧場をニューマーケットに開設して馬産も開始していたのだが、オブライエンは自分の仕事が増える事を懸念してそれに反対していた。両者の対立は次第に激しくなり、スコット師はオブライエンに対して解雇を通告した。そしてオブライエンとスコット師はグリーブファームスタッド内で口論となり、憤激したオブライエンが所持していた銃でスコット師を射殺したのだった。

グリーブファームスタッドはスコット師のジュリア未亡人に引き継がれたが、スコット厩舎は当然解散となり、本馬はゴドルフィンの専属調教師サイード・ビン・スルール師の元へと転厩して、11月にドバイへと移動した。

英ダービー

スコット師の夢だった英ダービーを目標としてドバイで調整を積まれていた本馬だったが、3歳3月にウイルス性肺炎を起こし、英ダービーどころか生命も危ぶまれる状態となった。しかし陣営の尽力により何とか回復した本馬は、前走ワシントンシンガーSから302日後の6月10日、絶対に間に合わないと思われていた英ダービー(英GⅠ・T12F10Y)に参戦してきたのだった。

対戦相手の筆頭格は、英2000ギニー・サラマンドル賞・デューハーストSなど6戦全勝のペニカンプだった。ペニカンプは前走の英2000ギニーで、英国三冠馬宣言をしていた史上最強の2歳馬ケルティックスウィングを頭差の2着に退けて勝っていた。ケルティックスウィングが英ダービー6日前の仏ダービーを勝った事や、ペニカンプの血統構成(父が仏ダービー馬ベーリング、母の父がニジンスキー産駒のグリーンダンサー、祖母の父がワシントンDC国際Sの勝ち馬ダイアトムで、ペニカンプの半兄には距離10~14ハロンのGⅠ競走を4勝したナスルエルアラブがいた)からしても不動の本命であると目されていた。他の出走馬は、愛2000ギニーなど3戦無敗のスペクトラム、仏2000ギニー馬ヴェットーリ、リングフィールドダービートライアルSなど3連勝中のムンウォー、デリンスタウンスタッドダービートライアルSなど4戦全勝のハンベル、本馬の実質的な所有者と言えるモハメド殿下が送り込んできた3戦無敗のタムレ、リングフィールドダービートライアルS2着馬リヤディアン、愛オークス馬ナイツバロネスの息子で4戦無敗で出走したダンテSで3着だったプレゼンティング、伊ダービーとチェスターヴァーズで続けて2着してきたコートオブオナーなどだった。

ペニカンプが単勝オッズ2.375倍の1番人気、スペクトラムが単勝オッズ6倍の2番人気、ムンウォーが単勝オッズ9倍の3番人気、タムレが単勝オッズ10倍の4番人気、プレゼンティングが単勝オッズ13倍の5番人気で、スコット師の葬儀の席で英ダービーの勝利を約束していたスウィンバーン騎手騎乗の本馬は単勝オッズ15倍の6番人気だった。

本馬に関しては、僅か1戦の経歴の上に長期休養明け、しかも病み上がりというマイナス要素に加えて、英ダービー馬と英オークス馬の間に誕生した馬が勝った事例が200年以上の英ダービー史上で1度も無かったという嫌なジンクスもあった(それを理由に本馬を評価しなかったマスコミもあった)。それでも6番人気というのは予想以上の人気であり、亡きスコット師が評価していたという事情を知る人が本馬に賭けることを想定したブックメーカー側が、それなりに安い数値を設定したものだった。

晴天続きのため絶好の良馬場となった中でスタートが切られると、単勝オッズ501倍の最低人気馬ダファックと単勝オッズ201倍の14番人気馬マラリンガの2頭が先頭を引っ張り、ペニカンプ、スペクトラム、ムンウォーといった有力馬勢は馬群の中団からやや後方辺りにつけた。一方の本馬は長期休養明けが響いたのかスタートで出遅れてしまい、後方からの競馬となっていた。しかしスウィンバーン騎手は慌てずに本馬を内埒沿いに寄せて、後方5番手を進ませた。ダファックは坂の頂上に達する前に後退して、代わりにコートオブオナーとファハルが2~3番手に上がった。この頃には本馬も少しずつ進出を開始しており、馬群の中団まで上がってきた。やがてマラリンガも後れ始めるとコートオブオナーがいったん先頭に立ち、ファハルとタムレが2~3番手に上がった。タッテナムコーナーでファハルが先頭を奪って直線に入ると、粘るファハル、それを追いかけるタムレ、プレゼンティングといった先行馬勢が先頭争いを始めた。ペニカンプやスペクトラムは後方馬群に沈んだまま一向に浮上してくる気配が無く、先頭争いを演じる馬達のいずれかが勝ち馬になると思われた。しかしそこへ外側から1頭の栗毛馬が飛んできた。道中はずっと馬群の中団内側に閉じ込められていた本馬だった。本馬は馬群の内側8番手で直線に入ってくると、ちょうど上手い具合に右側前方に進路が開いたために、そこから抜け出して追い上げてきたのだった。残り1ハロン地点でも先頭から5馬身ほどの差があったが、ここから次々に内側の馬達を抜き去ってくる本馬。残り半ハロン地点でデットーリ騎手騎乗のタムレがファハルをかわして先頭に立ったが、次の瞬間に他馬がまるで止まって見えるかのような豪脚を繰り出した本馬がタムレを瞬く間に抜き去ってしまった。そして2着タムレに1馬身差、3着プレゼンティングにはさらに3/4馬身差をつけて優勝。ゴールの瞬間にガッツポーズを見せたスウィンバーン騎手の脳裏にはおそらくスコット師が喜んでいる姿があった事だろう。

勝ちタイム2分32秒31は、1936年にマームードが樹立した2分33秒8のレースレコードを59年ぶりに、またバスティノが1975年のコロネーションCで樹立した2分33秒31のコースレコードをも20年ぶりに更新する素晴らしいものだった(このレースレコードは2010年にワークフォースが2分31秒33を計時するまで15年間保持された)。しかしそのタイム以上に衝撃的だったのは、「獲物に襲い掛かる豹」に例えられたほど凄まじかったゴール前の切れ味であり、それはほとんど神懸かっていた。

勝ち馬表彰式においてモハメド殿下は「アレックス(スコット師)から私に受け継がれた夢が現実になりました。かなり早い段階からアレックスはラムタラがダービー馬になると確信していたのです」と、スウィンバーン騎手は「もっと前に行くつもりでしたが、うまくペースに乗ることができず、あんな後方になってしまいました。直線に入るところで私は神とアレックスに祈りました。すると私の前方が開きました。まるでモーゼが海を割ったかのように。私は今まで以上に神を信じるようになりました」とコメントを残した。また、スウィンバーン騎手は後に自身が騎乗した馬のトップ3を挙げたが、その中に本馬も含まれていた(残り2頭はシャーガージルザル)。

生前にスコット師は本馬の勝利に1000ポンドを賭けていたが、賭けた人が死亡した場合には賭けは無効になるのが原則だった。しかしスコット師の賭けを受け付けていたラドブロークス社は英国最古参のブックメーカーらしく懐の広いところを見せて例外的に賭けを有効とし、レース2日後に3万4千ポンド(当時の為替レートで約460万円)分の小切手をジュリア未亡人に送った。

なお、この英ダービーの前日にはゴドルフィン所属のムーンシェルが英オークスに勝利しており、ゴドルフィン軍団の勢いを象徴する2日間ともなった。また、3歳初戦で英ダービーを勝ったのは1919年のグランドパレード以来76年ぶり(本馬が20世紀初とする資料もあるが誤り)、デビュー2戦目で英ダービーを勝ったのは1973年のモーストン以来22年ぶりだった。

キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS

次走は愛ダービーが予定されていたが右後脚の挫石のために回避し、7月22日のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ・T12F)に直行した。このレースからスウィンバーン騎手に代わってデットーリ騎手が本馬の主戦を務める事になった。

対戦相手は、前年の凱旋門賞を筆頭にサンクルー大賞・ユジェーヌアダム賞・ニエル賞を勝っていたカーネギー、サンダウンクラシックトライアルS・キングエドワードⅦ世Sなど4連勝中だった英ダービー不参戦の大物3歳馬ペンタイア、本馬不在の愛ダービーを勝ってきた仏ダービー3着馬ウイングドラヴ、ミラノ大賞で2着してきたチェスターヴァーズ・ゴードンSの勝ち馬で前年の英セントレジャー2着のブロードウェイフライヤー、ジョンポーターSの勝ち馬でミラノ大賞3着のストラテジックチョイス、競走馬と種牡馬の両立を図っていた4年前のエクリプスS・ダンテSの勝ち馬で愛チャンピオンS・コロネーションC2回2着のエンヴァイロンメントフレンドの6頭だった。

本馬が単勝オッズ3.25倍の1番人気、モハメド殿下の所有馬だったカーネギーが単勝オッズ3.75倍の2番人気、ペンタイアが単勝オッズ4倍の3番人気、ウイングドラヴが単勝オッズ5.5倍の4番人気、ブロードウェイフライヤーが単勝オッズ13倍の5番人気と、上位人気4頭の人気は割れていた。

スタートが切られるとブロードウェイフライヤーが先頭に立ち、ストラテジックチョイスが2番手、エンヴァイロンメントフレンドが3番手、ウイングドラヴ、カーネギー、本馬の3頭が4~6番手で、ペンタイアが最後方からレースを進めた。三角に入る手前で本馬は外側からスパートをかけたが、ここで内側を走っていたエンヴァイロンメントフレンドが外側に膨らんで本馬に衝突。その衝撃で本馬は外側に押しやられ、さらに外側を走っていたペンタイアにぶつかってしまった。しかし本馬もペンタイアもそれで走る気を失くすような事はなく、むしろ加速していった。直線に入ると内埒沿いに逃げるブロードウェイフライヤーにストラテジックチョイスが並びかけて抜け出そうとしたところに、外側から本馬とペンタイアの2頭がやって来て、4頭が横一線となった。ブロードウェイフライヤーは直線半ばで失速し、続いてストラテジックチョイスも後れたため、最後は本馬とペンタイアの一騎打ちとなった。4頭横一線となった際にペンタイアが前に出る場面も一瞬あったのだが、ストラテジックチョイスが後れると同時に内側のストラテジックチョイスからスタミナを吸収したかのように伸びた本馬がペンタイアを差し返した。そして2着ペンタイアに首差、3着ストラテジックチョイスにはさらに1馬身半差で勝利した。

このレース後に陣営は本馬を10月1日の凱旋門賞に直行させる旨を発表した。英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・凱旋門賞の3競走を全て制覇した馬は過去にミルリーフの1頭のみ。無敗のままこの3競走を全て制覇した馬は過去に1頭もおらず、25年前の1970年にその偉業に挑んだ本馬の父ニジンスキーはササフラに頭差で敗れて2着に終わっていた。また、凱旋門賞は地元仏国の馬が優勢であり、前年まで5年連続で仏国調教馬が勝っていた。

凱旋門賞

そして迎えた凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)。対戦相手は、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSでは6着だったが前哨戦のフォワ賞を勝ってきたカーネギー、そのフォワ賞で2着だった本馬と同厩の英オークス・愛ダービーの勝ち馬で英1000ギニー2着のバランシーン、リス賞・ドーヴィル大賞など5戦無敗だった遅れてきた大物スウェイン、仏オークス・ヴェルメイユ賞・レゼルヴォワ賞の勝ち馬で仏1000ギニー2着のカーリング、愛チャンピオンSでペンタイアの首差2着してきたアルクール賞・メルセデスベンツ大賞・ジョンシェール賞・パース賞の勝ち馬フリーダムクライ、ラクープドメゾンラフィットを3馬身差で快勝してきたノアイユ賞・シェーヌ賞の勝ち馬ガンボートディプロマシー、愛オークス・ヨークシャーオークス・プレステージS・ムシドラSの勝ち馬で英オークス3着のピュアグレイン、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS3着後に愛セントレジャーを勝っていたストラテジックチョイス、独ダービー・バーデン大賞2回・伊ジョッキークラブ大賞・ミラノ大賞・メルクフィンク銀行賞・ハンザ賞を勝っていた独国最強馬ランド、伊ダービー・チェスターヴァーズの勝ち馬でサンクルー大賞2着のルソー、南米から参戦してきたアルゼンチンジョッキークラブ大賞・ブラジル大賞の勝ち馬エルセンブラドール、エヴリ大賞・エドヴィル賞の勝ち馬トウタール、ポモーヌ賞の勝ち馬サンライズソング、モーリスドニュイユ賞の勝ち馬パルティプラルなど15頭だった。

本馬が単独で単勝オッズ3.1倍の1番人気に支持され、カーネギー、バランシーン、スウェインの3頭カップリングが単勝オッズ3.2倍の2番人気、カーリングが単勝オッズ6.4倍の3番人気、フリーダムクライとガンボートディプロマシーのカップリングが単勝オッズ7.4倍の4番人気、ピュアグレインが単勝オッズ9.7倍の5番人気となった。

スタートが切られるとまずは単勝オッズ23倍の7番人気馬ルソーが先頭に立った。単勝オッズ22倍の6番人気馬ストラテジックチョイスがそれに続き、その外側3番手に本馬がつけた。過去3戦は全て後方からレースを進めて勝ってきたにも関わらず、今回先行した理由は定かではないが、馬場状態が悪かった事、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSより出走頭数が2倍以上多かった事などをデットーリ騎手が考慮したものと思われる。カーネギーやスウェインは好位につけ、バランシーンなどがそれに続いていた。最初の1000mを通過した辺りで本馬がストラテジックチョイスの前に出て、先頭のルソーから3馬身ほど後方の2番手を進んだ。そのままの態勢でフォルスストレートまで来ると、早くもデットーリ騎手が仕掛けてルソーに並びかけ、そのまま直線へと入ってきた。そしてロンシャン競馬場の長い直線で押し切りを図った。後方からはスウェイン、フリーダムクライといった馬達が一斉に押し寄せてきた。今にも本馬は馬群に飲み込まれそうに見えたが、英国のレースであれば騎乗停止処分確実なほど鞭を振るうデットーリ騎手の激に応えた本馬は先頭を死守し続けた。残り200m地点で先にスウェインが根を上げて、本馬を追ってくるのはフリーダムクライのみとなった。しかしフリーダムクライも最後まで本馬を捕らえられなかった。英ダービーとは正反対のレース内容で押し切った本馬が、2着フリーダムクライに3/4馬身差、3着スウェインにさらに2馬身差をつけて勝利した。

このレースでバランシーンに騎乗して10着に敗れたかつての相棒スウィンバーン騎手は「私の感情は英ダービーを勝った直後のままです」と清清しい表情を浮かべていた。鞍上のデットーリ騎手がレース後に発した「この馬はライオンのハートを持っています」はあまりにも有名である。そして続けてデットーリ騎手は「私が乗った最高の馬はラムタラになる事でしょう。何故なら彼は無敗馬になるからです」と語った。その言葉どおりに本馬はこのレースを最後に競走馬を引退(BCターフ参戦の噂もあったが実現しなかった)。僅か4戦のキャリアで英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・凱旋門賞の3競走を全て制覇という前代未聞の記録が残った。

競走馬としての評価

この年のカルティエ賞最優秀3歳牡馬のタイトルを受賞したが、カルティエ賞年度代表馬は受賞できなかった(愛1000ギニー・コロネーションS・クイーンエリザベスⅡ世S・BCマイルとGⅠ競走4勝を含む6戦5勝のリッジウッドパールが受賞)。また、国際クラシフィケーションの評価が130ポンドだった事も議論を呼んだ。この130ポンドは3歳馬ではこの年世界第1位、他世代馬を含めても世界第2位(1位は米国調教馬シガー)ではあったが、1977年に国際クラシフィケーションが創設されてから前年までの18年間で、131ポンド以上の評価を受けた3歳馬は48頭(うち13頭は135ポンド以上)いたから、英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・凱旋門賞の3競走を全て制覇したという実績の割には低評価だと思われたのも無理もないだろう(ただし2013年のレーティング見直しにより、上記48頭中27頭が130ポンド以下に下方修正されている。13頭いた135ポンド以上も6頭まで減少した。なお、本馬の評価は変わっていない)。

これらについては、日本を含む各国で盛んに議論がなされ、本馬の所有者であるマクトゥーム一族に対する反感が影響したのではという論調も存在する。しかし年度代表馬の件については、前年にBCマイルのGⅠ競走1勝だけで受賞したバラシアがシェイク・モハメド殿下の所有馬だった事を考えると、マクトゥーム一族に対する反感だけで説明できるものではない。しかし本項を書いている最中である2015年の世界情勢を見ると、イスラム圏の人に対する偏見を有する欧州人が少なくないことがはっきりと見て取れるから、マクトゥーム一族に対する反感が全く影響しなかったとは言い切れないだろうが。カルティエ賞は、レースごとに定められたポイントに記者達による投票ポイントが加えられた数値で決められるのだが、レースポイントを集計した時点で既にリッジウッドパールが本馬を上回っていた事は特記されるべきだろう。これでリッジウッドパールを逆転して本馬が選出されていたら、それはそれで論争になっていたのではないだろうか。1999年の中央競馬年度代表馬選考において、最初に得票数1位だったスペシャルウィークを抑えてエルコンドルパサーが選出されたときは大論争になり、現在でも色々と言われているではないか。本馬がカルティエ賞年度代表馬を受賞できなかった理由は1つではないかも知れないが、その最大の理由は別路線で本馬より実績上位の馬がいたからなのである。

国際クラシフィケーションの件については、そもそもレーティングとはそういったものであるから、本馬に与えられた数値が不当に低かったとは筆者は思わない。本馬が勝ったGⅠ競走で2着だった馬3頭のうち、タムレとフリーダムクライは結果的にGⅠ競走未勝利に終わった馬である。3頭のうち名馬だったと言えるのはペンタイア(3歳時に愛チャンピオンSを、4歳時にキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを勝利)のみであるが、ペンタイアが130ポンド以上の評価を受けるような超一流馬だったかというと、失礼ながら筆者はそうは思わない。そういった馬相手に僅差で勝った本馬が、着差を基準に数値付けするレーティングにおいて高い評価を得られないのは当然なのである(本馬に限らず僅差で大競走を勝ち続けた馬はレーティングが低くなりがちで、1度だけ圧勝劇を演じた馬のほうが高評価となる)。本馬に敗れた名馬は他にもいるが、その多くは全実力を如何なく発揮したにも関わらず敗れたのだとは言い難く、本馬のレーティングを押し上げる理由にはならない。ただし、この名馬列伝集を読み込んでくれた人はもはや承知してくれている事と思うが、筆者はレーティングだけでは競走馬の実力を正確に測れないと思っている。そのため筆者は「本馬のレーティングが低くなるのは当然」とは思っていても「本馬が弱かった」とは思っていない事に留意されたい。本馬に対して134ポンドのレーティングを与えた英タイムフォーム社は、「この栗毛馬の真の偉大さを正確に評価する事は不可能です」とコメントを出している。関係者の中にレーティング絶対主義者が少なくない英タイムフォーム社であっても、本馬をレーティングだけで評価するのは無理であると認めているのである。

血統

Nijinsky Northern Dancer Nearctic Nearco Pharos
Nogara
Lady Angela Hyperion
Sister Sarah
Natalma Native Dancer Polynesian
Geisha
Almahmoud Mahmoud
Arbitrator
Flaming Page Bull Page Bull Lea Bull Dog
Rose Leaves
Our Page Blue Larkspur
Occult
Flaring Top Menow Pharamond
Alcibiades
Flaming Top Omaha
Firetop
Snow Bride Blushing Groom Red God Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Spring Run Menow
Boola Brook
Runaway Bride Wild Risk Rialto
Wild Violet
Aimee Tudor Minstrel
Emali
Awaasif Snow Knight Firestreak Pardal
Hot Spell
Snow Blossom Flush Royal
Ariana
Royal Statute Northern Dancer Nearctic
Natalma
Queen's Statute Le Lavandou
Statute

ニジンスキーは当馬の項を参照。

母スノーブライドは現役成績7戦5勝。英オークス(英GⅠ)・ムシドラS(英GⅢ)・プリンセスロイヤルS(英GⅢ)を勝っている。ただし、英オークスは1位入線のアリーサがレース後1年以上経過してから薬物検査に引っ掛かって失格になったための繰り上がりだった。英ダービー馬と英オークス馬の両親から英ダービー馬が出たのは本馬が史上初である(2014年のオーストラリアが史上2頭目)。本馬の半妹にはサイタラ(父シーキングザゴールド)【オマール賞(仏GⅢ)】がいる他、本馬の半妹アブヒシェカ(父サドラーズウェルズ)の子にはイソップスフェイブルズ【ジャンプラ賞(仏GⅠ)】がいる。

スノーブライドの母アワーシフもヨークシャーオークス(英GⅠ)・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)を勝った名牝で、その産駒にはスノーブライドの半弟ジャラール(父ミスタープロスペクター)【ニューオーリンズH(米GⅢ)】、半弟イブンアルハイサム(父ザフォニック)【サラナクH(米GⅢ)】がいる。アワーシフの半姉コナファの孫にはヘクタープロテクター【仏2000ギニー(仏GⅠ)・モルニ賞(仏GⅠ)・サラマンドル賞(仏GⅠ)・仏グランクリテリウム(仏GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)】、シャンハイ【仏2000ギニー(仏GⅠ)】、ボスラシャム【英1000ギニー(英GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)・フィリーズマイル(英GⅠ)】の3兄妹、曾孫にはシーロ【仏グランクリテリウム(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)・セクレタリアトS(米GⅠ)】、インターナリーフローレス【デルマーオークス(米GⅠ)】、レッドジャイアント【クレメントLハーシュ記念ターフCSS(米GⅠ)】、カリフォルニアメモリー【香港C(香GⅠ)2回】、玄孫にはアクトワン【クリテリウム国際(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)】が、アワーシフの半妹ロイヤルローナ【バグッタ賞(伊GⅢ)】の孫にはサンストラッチ【ローマ賞(伊GⅠ)】が、アワーシフの半妹ヴィクトレスの孫にはプールモア【英ダービー(英GⅠ)】がいるなど、かなりの名門牝系である。→牝系:F22号族②

母父ブラッシンググルームは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、4歳時の1996年から英国ニューマーケットのダルハムホールスタッドにおいて種付け料3万ポンドで種牡馬となり、凱旋門賞馬アーバンシーなど質が高い繁殖牝馬を集めた。この時期、北海道日高のアロースタッドなどを運営していた株式会社ジェイエスを中心とする日高の馬産者達は、本馬を種牡馬として輸入する事を計画していた。最初に提示した2000万ドル、次に提示した2500万ドルはいずれもモハメド殿下によって拒否されるなど交渉は難航したらしいが、7月になって契約が成立した。購入金額は3000万ドル(当時の為替レートで約44億円)で、日本競馬史上最高額だった。そして同年10月に来日した本馬は、翌1997年からアロースタッドで種牡馬生活を開始した。本馬の輸入については、日本の一般マスコミにおいても大きく取り上げられた。競馬にあまり興味が無かった筆者の母親が本馬の名前を耳にして「ラムタラって何者?」と言ったため、筆者が母親に対して本馬の経歴を簡単に紹介したほどだった。

日本における初年度は112頭、2年目は93頭、3年目は96頭、4年目は94頭、5年目は91頭の繁殖牝馬を集めた。日本における初年度産駒は2000年にデビューした。しかし翌2001年終了時点における重賞勝ちはロイヤルエンデバーが勝った南関東GⅢ競走・埼玉新聞杯の1勝のみだった。この状況を受けて6年目の2002年以降は交配数が減少し、この年は59頭、7年目は55頭、8年目は55頭、9年目は57頭、10年目の2006年は29頭となった。2002年以降は散発的に重賞勝ち馬が出て、2003年には全日本種牡馬ランキングで自己最高の16位に入ったが、最終的にGⅠ競走勝ち馬は0頭という結果に終わった。欧州に残してきた産駒からもGⅠ競走勝ち馬は出ず(アーバンシーとの間に愛オークス2着馬メリカーが出ているが、GⅠ競走勝ち馬を4頭産んだアーバンシーの子としてはあまり目立つ存在ではなかった)、海外と日本を通算したステークスウイナー数は6頭と、種牡馬としては完全な失敗に終わった。この理由については、本馬の直系の祖父と本馬の曾祖母の父がいずれもノーザンダンサーであるための配合的難しさが挙げられる事もあるが、欧州でも日本でも可能な限り優秀な繁殖牝馬が交配されている事を考えると、単純に種牡馬としての能力が残念ながら本馬には欠けていたと考えるのが妥当ではないだろうか。

本馬が日本で種牡馬として不成功に終わった旨は、日本の馬産に関してそれほど注意を払わない欧米においても噂になった。株式会社ジェイエスの職員だった大西恵介氏は、レーシングポスト紙のサイモン・ミルハム記者からなぜ本馬が種牡馬として失敗したのかを質問されて、非常に難しい質問ですと応じている。

2006年8月にモハメド殿下によって買い戻された本馬は日本を去り、英国ダルハムホールスタッドに戻った。買い戻し額は僅か24万ドル(当時の為替レートで約2750万円)で、購入金額の1%にも満たなかった。本馬が輸出される報を耳にした日本の競馬ファンの中には、輸出先の英国で本馬が種牡馬として奇跡を起こすことを願いたいと前向きな意見を述べた人もいたが、買い戻し発表時点で既にモハメド殿下は本馬を種牡馬として供用する考えが無い旨を明らかにしており(8月1日付けレーシングポスト紙の記事による)、日本を去ることが決まった時点で本馬の種牡馬生活は終焉を迎えた。奇跡の馬ラムタラは種牡馬としては奇跡を見せられなかったが、奇跡はそう滅多に起こるものではないから奇跡なのである。筆者に言わせると英ダービーを勝った時点で本馬の奇跡の蓄えは尽きており、後の2競走は本馬が実力で勝ち取ったものである。

本馬はその後にダルハムホールスタッドで余生を送った。この時期には繁殖牝馬を引退していた母スノーブライドもダルハムホールスタッドで余生を送っており、離乳後は二度と顔を合わせる機会が無い場合が多いサラブレッドの母子が一緒に暮らすという珍しい光景が見られた(スノーブライドは2009年6月10日に23歳で他界した)。本馬がモハメド殿下を始めとするゴドルフィンの人々のお気に入りである事実には変わりが無く、頻繁にやってくる訪問客に対してダルハムホールスタッドの職員達は誇らしそうに本馬を見せたという。2014年7月6日に病気(具体的な病名は明らかにされていない)のため22歳で他界した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1998

マルカセンリョウ

名古屋大賞典(GⅢ)・かきつばた記念(GⅢ)・梅見月杯(SPⅠ)2回・東海桜花賞(SPⅠ)2回・東海菊花賞(SPⅠ)・名古屋記念(SPⅠ)

1998

ミレニアムスズカ

阪神ジャンプS(JGⅢ)

1998

メイショウラムセス

富士S(GⅢ)

1998

ロイヤルエンデバー

埼玉新聞杯(南関GⅢ)・テレビ埼玉杯(南関GⅢ)

1999

Simeon

サンダウンクラシックトライアルS(英GⅢ)

1999

タニノミストラル

酒田まつり賞(上山)

2001

ベルモントノーヴァ

トゥインクルレディー賞(SⅡ)・しらさぎ賞(南関GⅢ)・東京シンデレラマイル(SⅢ)

2003

レッドスターリリー

黒潮菊花賞(高知)

2004

タニノウィンザー

肥後の国グランプリ(荒尾)3回・大阿蘇大賞(荒尾)2回・九州記念(KJ3)2回

2005

マサノミネルバ

エーデルワイス賞(GⅢ)・栄冠賞(H2)

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