バックパサー

和名:バックパサー

英名:Buckpasser

1963年生

鹿毛

父:トムフール

母:ブサンダ

母父:ウォーアドミラル

完璧な馬体と気まぐれな性格を併せ持つ米国競馬史上有数の個性的最強馬は数々の名競走馬・名種牡馬の母の父として名を馳せる

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績31戦25勝2着4回3着1回

誕生からデビュー前まで

米国の名馬産家であるオグデン・フィップス氏により、米国ケンタッキー州クレイボーンファームにおいて生産・所有された。フィップス氏は、世界的大富豪アンドリュー・カーネギー氏の事業仲間として莫大な富を築いたヘンリー・フィップス・ジュニア氏の孫であり、その財産を受け継いだ人物だった。若い頃はコートテニス(現在一般的に「テニス」と呼ばれるローンテニスとは別)選手であり、米国選手権で7回、英国選手権でも1回優勝した名選手だった。

また、母グラディス・ミルズ夫人と母の弟オグデン・ミルズ氏がホイートリーステーブルを設立して競馬に携わっていたため、彼も競馬に関心を持つようになり、23歳で馬主となった。第二次世界大戦に従軍して復員した後の1946年にアイドルアワーストックファームの経営者エドワード・ライリー・ブラッドリー大佐が死去した際に、ブラッドリー大佐の所有馬を買い取り、アーサー・ハンコック氏が所有するクレイボーンファームで競走馬の生産を開始した。1959年にはニューヨーク競馬協会の創設にも携わり、米国ジョッキークラブの会長も20年に渡って務めた。彼は馬産家・馬主としても優秀であり、数々の名馬を生産・所有して、1988年には北米首位馬主と北米首位生産者を同時に獲得している。

本馬はそんなフィップス氏が生産・所有した最大の傑作である。本馬を預かったのは、かつてネイティヴダンサーを手掛けたウィリアム・C・ウィンフレイ調教師だった。

完璧な馬体と気まぐれな性格

本馬は万人が認める素晴らしい馬体の持ち主だった。チャールズ・ハットン氏の著書「アメリカン・レーシング・マニュアル1966年版」によると、2歳時には既に体高16.5ハンドに達しており、首の長さ、肩幅、腰の大きさ、脚の長さと太さまで非の打ち所が無かった。外見だけでなく、内臓面も競走馬として理想的だった。「アメリカン・レーシング・マニュアル1966年版」には、「胃腸の質量は大きすぎると速度低下の要因になるし、小さすぎると体力面で問題が生じるのですが、本馬の場合はちょうど良い具合です」と書かれている。ハットン氏の記述の基準となった身体検査を実施したニューヨーク競馬協会の獣医師マヌエル・ギルマン博士は「一般的に、全ての馬には百の欠点があります。しかしバックパサーの馬体の欠点を指摘する人がいたら、私はそれに反論します」と述べている。また、本馬の肖像画を描いた20世紀最高の馬画家リチャード・ストーン・リーヴス氏は「私がかつて見た中でも最も完璧で均整が取れたサラブレッドでした。それに匹敵するのはセクレタリアトアファームドの2頭のみでした」と述懐している。本馬の完璧な馬体は、父トムフールの祖母の父であるエクワポイズからの隔世遺伝だという説があるが、エクワポイズが生涯悩まされた裂蹄の持病も本馬は受け継いでしまったと言われている。

また、気性は非常に大人しく、小さな子どもでも安全に本馬と一緒に遊ぶことができたという。リーヴス氏が肖像画を描くために本馬の元を訪れた際には「まるで座席を勧めて飲み物を提供するかのような」歓待を受けたそうであり、「馬ではなく人間と会っているようでした」という。こうした落ち着いた気性でありながら、一方では非常に頑固な面があり、自分の意に反する事は絶対にしようとしなかった。父のトムフールも同様の気性の持ち主だったから、本馬の性格は父親譲りであると思われる。まず、調教で走る気を見せることは稀だった。前を他馬が走っているときは追い抜こうとしたため、ウィンフレイ師は本馬を調教するために、他馬を順番に本馬の前で走らせるリレーを行った。ウィンフレイ師はハットン氏に対して「レース当日朝の調教時には全然走らないのに、午後になってレースが近づくとやる気を出すという、神経が図太い馬でした」と述べている。しかしいざレースに出てもスタートで頻繁に出遅れたり、直線で先頭に立つと気を抜いて勝手に減速したりと、陣営を冷や汗ものにする気まぐれなレースが多かった。そうかと思えば前を他馬が走っている時は凄まじい闘争心を発揮して差し切るなど、良くも悪くもハートで走るタイプの競走馬だった。レースに集中させるためにブリンカーを装着している事が多かったが、その効果がどれほどのものだったかどうかは不明である。

競走生活(2歳前半)

2歳5月にアケダクト競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦で、主戦となるブラウリオ・バエザ騎手を鞍上にデビュー。結果は最後方からの追い込み及ばず、勝った名馬ティムタム産駒のロンリーギャンブラー(最終的に100戦23勝の成績を残す)から1馬身1/4差の4着に敗退してしまったが、これが本馬にとって最初で最後の着外となる。その16日後にアケダクト競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦では、不良馬場の中を先頭で走り抜け、2着エキシビジョニスト(後にダービートライアルS・サンタカタリナS・ウッドローンS・アーゴノートSを勝っている)に2馬身差で勝利した。翌6月に出走したアケダクト競馬場ダート5.5ハロンの一般競走では、2着ケンタッキーキンに1馬身半差で勝利。同月末のナショナルスタリオンS(D5.5F)では、一時は先頭から9馬身も離された後方から怒涛の追い込みを見せて、ホスピタリティと1着同着に持ち込んだ(ケンタッキーキンが3着だった)。翌7月のトレモントS(D5.5F)でも殿一気の競馬を見せて、後にファーザーズイメージやアンバロイドを破ってピムリコフューチュリティを勝つスプリングダブルを首差の2着に抑えて勝利した(ホスピタリティは3着だった)。

その後はモンマスパーク競馬場に向かい、7月末のダート6ハロンの一般競走に出走。ここでは2着となった後のエルカミノリアルH・センチュリーHの勝ち馬モデルフール(後に日本に種牡馬として輸入され、ダイナアクトレスの母モデルスポートなどを出している)に7馬身差をつける圧勝だった。しかしこの勝ち方は本馬の気まぐれによる産物だったらしく、本馬が2着馬に4馬身を超える差をつけて勝つ事は二度と無かった。

翌8月のサプリングS(D6F)では、ジュヴェナイルS・タイロS・グレートアメリカンS・クリスティアーナSの勝ち馬アワマイケルに1番人気を譲り、生涯最初で最後の2番人気での出走となった。しかもスタートで5馬身も出遅れてしまい(デイリーレーシングフォーム紙の記事に5馬身と明記されている。筆者も映像で見たが、確かにそのくらいの出遅れである)、敗戦確実と思われたが、三角手前から他馬を次々と抜き去って直線入り口で3番手まで押し上げると、ゴール前で鋭く伸びて、2着となった後のベイショアS・ジョンBキャンベルHなど勝ち馬クインタに半馬身差、3着アワマイケルにはさらに半馬身差をつけて勝利した。

同月末のホープフルS(D6.5F)では、スタートで躓いてまたしても出遅れてしまったが、同厩のサラトガスペシャルSの勝ち馬インプレッシヴを2馬身半差の2着に、フラッシュSの勝ち馬でグレートアメリカンS2着のインデュルトを3着に破って勝利した。9月にはアーリントンパーク競馬場に向かい、アーリントンワシントンフューチュリティ(D7F)に出走した。レースでは最後の直線で先頭に立った途端に気を抜いて減速し、ファーザーズイメージ(後に日本に種牡馬として輸入され、皐月賞馬ハワイアンイメージなどを出している)にあわや差し返される寸前だったが、何とか半馬身差で勝利した。

競走生活(2歳後半)

その後はニューヨーク州に戻り、同月末にアケダクト競馬場で行われたベルモントフューチュリティS(D6.5F)に出走した(この当時のベルモントパーク競馬場は改修中であり、本馬は生涯一度もベルモントパーク競馬場で出走していない)。しかし米国顕彰馬サーチングの娘で、米国顕彰馬アフェクショネイトリーの半妹であるプライスレスジェムが完璧にレースを支配して勝利を収め、本馬は逃げるプライスレスジェムを早い段階から必死に追いかけるも半馬身差届かず2着に敗れてしまい、連勝は8でストップした(後のカウディンS・セミノールH・トボガンH・ウエストチェスターHの勝ち馬アドボケーターが3位入線だったが降着となり、インデュルトが繰り上がって3着になっている)。なお、プライスレスジェムは後に、20世紀世界最高の名牝とも言われる凱旋門賞馬アレフランスの母となっており、結果的にこの敗戦は本馬の競走成績をむしろ彩るものとなっている。

翌10月のシャンペンS(D8F)では、プライスレスジェム、アワマイケル、10日前のカウディンSでファーザーズイメージやアワマイケルを破って勝ってきたアドボケーター達との対戦となった。ウィンフレイ師はプライスレスジェムを潰すために、インプレッシヴをラビット役として出走させていた。前走で敗れたプライスレスジェムがいた事が本馬のやる気に火をつけたのかどうかは定かではないが、本馬にしては珍しく2着アワマイケルに4馬身差をつける圧勝だった。インプレッシヴに競られたプライスレスジェムは7着(資料によっては6着と書かれている)に大敗した。もっとも、このレースで本馬が見せた爆発的な末脚からすると、インプレッシヴがいなくても本馬が勝っただろうと評されている。

2歳時はこれが最後のレースで、この年は11戦9勝の成績を挙げ、米最優秀2歳牡馬に選ばれた。また、2歳時の獲得賞金は58万6090ドルに達し、これは北米の2歳馬収得賞金記録だった。しかし2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)では同世代馬では最上位ながらも126ポンドという意外と低い評価だった。これは、後続に大きな差をつけて勝つことが少なかった事の他に、この世代の2歳馬は牡馬より牝馬のほうがレベルは高いと判断された事も影響しているのではないかと推察される。この年の米最優秀2歳牝馬はシャンペンS後に骨膜炎を発症して戦線離脱したプライスレスジェムではなく、スピナウェイS・メイトロンS・セリマS・ガーデニアS・アルキビアデスSなど9戦全勝のモカシンが選ばれているからである。しかもモカシンはウッドワードS・ジョッキークラブ金杯を制した4歳馬ローマンブラザーと並んで米年度代表馬にも選出されており、これは2歳牝馬が米年度代表馬となった史上唯一の例となっている。

競走生活(3歳前半)

本馬が3歳になるとウィンフレイ師が勇退したため、エドワード・ネロイ厩舎に転厩となった。バエザ騎手にはこの時期に本馬の他にグロースタークという有力なお手馬がおり、彼はケンタッキーダービーにはグロースタークと共に向かう旨を表明した。そのため、本馬はウィリアム・シューメーカー騎手と共にケンタッキーダービーを目指すことになった。

まずは2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走から始動した(資料によっては同距離のハイビスカスSから始動したとなっているが、この年のハイビスカスSは1月下旬に既に終わっている)。このレースは馬券が発売されないエキシビションとなった事もあってか、シューメーカー騎手は本馬に無理をさせなかった。その結果、ハイビスカスSを勝っていた同厩馬インプレッシヴが勝利を収め、本馬は4馬身半差の2着となった。ただし、インプレッシヴの走破タイム1分21秒8はコースレコードであり、インプレッシヴが後にピムリコH・スウィフトS・フォールハイウェイトH・スポートページHなどを制してこの年の米最優秀短距離馬に選ばれる第一歩となった。なお、3着馬はホイートリーステーブル所有のステューペンダス(後のゴーサムS・アーリントンH・ホイットニーHの勝ち馬で、ケンタッキーダービーで4着、プリークネスSで2着する。後に日本に種牡馬として輸入され、東京優駿勝ち馬ラッキールーラや、帝王賞・宝塚記念勝ち馬カツアールなどを出している)だった。

9日後に出走したエヴァーグレーズS(D9F)では、ステューペンダスを頭差の2着に、ホーソーンジュヴェナイルS2着馬エイブズホープを3着に抑えて勝利した。

翌3月のフラミンゴS(D9F)では、あまりにも本馬に人気が集中して、5~10万ドルの赤字が生じることを懸念したハイアリアパーク競馬場の経営者ジーン・モリ氏の指示により馬券発売窓口が閉鎖されてしまい、エキシビションとなった。このハイアリアパーク競馬場の対応について、ニューヨーク州のスポーツ記者レッド・スミス氏は“The Chicken Flamingo(弱虫フラミンゴ)”と呼んで非難した。この“The Chicken Flamingo”という言葉は、日本で本馬が紹介されるときに触れられているのを筆者は見たことが無いのだが、米国ではかなり有名であるらしく、本馬に関する資料には大抵載っている。さて、馬券に関係なくなったにも関わらず3万11人が詰め掛けたレースでは、ケンタッキーダービーに向けて前に行く競馬も覚えさせようとしたシューメーカー騎手が、本馬を3番手で先行させると、直線入り口で早めに先頭に立たせた。そのまま楽勝かと思われたのだが、ここで例の気抜き癖が顔を出して失速。大外から一気に追い上げてきたエイブズホープに残り1ハロン地点で瞬く間にかわされて2馬身の差をつけられてしまった。本馬が2番手に落ちたとき、馬券発売を中止したモリ氏を始めとするハイアリアパーク競馬場の経営陣達は心臓が止まりそうになったというが、残り20ヤード地点でギアチェンジした本馬が僅か3完歩で差し返して鼻差で勝利を収め、モリ氏達を安堵させた(後のルイジアナダービーの勝ち馬でケンタッキーダービー3着のブルースカイヤーが3着だった)。また、レース前にハイアリアパーク競馬場を非難するブーイングを起こした観衆達も、歴史的レースを見ることが出来て満足したという。

シューメーカー騎手が本馬に騎乗したのは結果的にこれが最後となったが、さすがの名手も本馬の気まぐれには翻弄されっぱなしであり、彼はレース後に「私は(抜かれたときに)諦めました。あそこから僅か3完歩で差し返す馬がいるなんて思いもよりませんでした。それは途方も無い能力と闘争心でした」と唖然として語っている。筆者もこのレースの映像を見たが、特に失速したわけでもない先頭のエイブズホープを、ゴールまでほんの僅かの地点から差し切った末脚はまるで刃物のようだった。

これでケンタッキーダービーの最有力候補となった本馬だったが、次走に予定されていたフロリダダービーの直前になって、右前脚に裂蹄が発見されて3か月間の休養に入ることになり、ケンタッキーダービーを始めとする米国三冠競走は全て棒に振ることになってしまった。本馬と並んでケンタッキーダービーの有力候補と目されていたグロースタークも、本番直前のブルーグラスSのレース中に故障を起こしてエイブズホープの2着に敗れ、そのまま引退に追い込まれてしまった。最有力馬2頭が相次いで回避したケンタッキーダービーは、ファウンテンオブユースS・プリンスジョージズS・ガヴァナーズ金杯を勝ってきた上がり馬カウアイキングが、アドボケーターを2着に、ブルースカイヤーを3着に、ステューペンダスを4着に、エイブズホープを5着に破って勝利を収め、その父ネイティヴダンサーが生涯唯一の敗戦を喫した雪辱を果たした。カウアイキングは次走のプリークネスSもステューペンダスを2着に破って勝利したが、ベルモントSでは、ケンタッキーダービー7着・プリークネスS3着だったウッドメモリアルSの勝ち馬アンバロイドの4着に敗れた。

競走生活(3歳後半)

そのベルモントSと同日にアケダクト競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走において、スタンダードブレッドの調教師ジョー・グラッソ氏が開発した裂蹄防止のための特殊プラスチック製の特製蹄鉄を装着した本馬は実戦復帰した。鞍上には改めて主戦に固定されることになったバエザ騎手の姿があった。この復帰戦は2馬身差で軽く勝利したが、勝ちタイム1分09秒2はこの年のアケダクト開催におけるダート6ハロンの最速タイムだった。2週間後に出走したレオナルドリチャーズS(D9F)も、他馬より12ポンド以上重い126ポンドを課せられながらも、ベルモントSで2着してきたバッフルを3/4馬身差の2着に抑えて勝利した。

その後はアーリントンパーク競馬場に向かい、前走から1週間後のアーリントンクラシックS(D8F)に出走。ここでは、カウアイキング、ステューペンダス。ジャージーダービーの勝ち馬でウィザーズS2着のクレームデラクレーム、バッシュフォードマナーS・ラファイエットS・ミシガンダービーなどの勝ち馬ヒージュニアとの対戦となった。インプレッシヴがペースメーカー役となって先導したレースは、本馬が2着クレームデラクレームに3/4馬身差をつけて、同年のエクワポイズマイルHでヘッドエヴァーが計時したダート1マイルの世界レコード1分33秒2を更新する1分32秒6の快タイムで勝利した。なお、管理するヘンリー・フォレスト調教師の猛反対を押し切った馬主側が強行出走させたカウアイキングはレース中に靱帯を損傷して5着に敗れ、そのまま現役引退となってしまった。このカウアイキングは後に日本に種牡馬として輸入され、前述のハワイアンイメージやスプリンターズS2連覇のメイワキミコの母となったハワイアンドーンの父となっている。

翌7月に出走したシカゴアンS(D9F)は、初の古馬との対戦となった。さらにペースメーカー役の馬も不在だったのだが、2着ウィスパージェットに3/4馬身差、3着エイブズホープにさらに首差をつけて勝利を収め、ニューヨーク州に戻ってきた。

そして前走から2週間後のブルックリンH(D10F)に出走した。ここでは、レオナルドリチャーズS2着後に出走したサバーバンHで古馬勢を破って勝ってきたバッフルに7ポンドのハンデを与えたが、2番手追走から逃げるバッフルに直線で並びかけ、叩き合いを頭差で制した。

それから2週間後には再度アーリントンパーク競馬場に向かい、8月のアメリカンダービー(D9F)に出走。ここではベルモントSで3着だったアドボケーターに加えて、そのベルモントSの勝ち馬アンバロイドとの対戦となった。本馬には128ポンドという3歳馬としては厳しい斤量が課せられたが、1分47秒0のコースレコードを計時して、2着ジョリージェットに首差で勝利した(アンバロイドは6着だった)。これで本馬はアーリントンクラシックH・シカゴアンS・アメリカンダービーの米国中部三冠を達成した。

ニューヨーク州に戻って出走した同月のトラヴァーズS(D10F)では、アンバロイド、バッフル、ステューペンダス、エイブズホープなどとの顔合わせとなった。道中は後方2番手につけた本馬は、直線に入ると豪快に伸びて、2着アンバロイドに3/4馬身差で勝利した。勝ちタイム2分01秒6はコースレコードタイだった。この勝利により本馬の獲得賞金総額は103万8369ドルとなり、3歳時に100万ドルホースとなった史上初の馬となった(最終的な獲得賞金総額は146万2014ドル)。余談だが、アンバロイドも後に日本に種牡馬として輸入されているが、まったく活躍できなかった。

その後は9月初めにニューハンプシャー州ロッキングハムパーク競馬場で行われるニューハンプシャーダービーに出走する予定だったが、調教で跨ったバエザ騎手が本馬の不調を感じたために回避し、短期休養入りした。

トラヴァーズSから1か月半後のウッドワードS(D10F)で復帰した。ここではトラヴァーズS3着後に本馬不在のニューハンプシャーダービーを勝っていたバッフル、前年の米最優秀3歳牡馬に選ばれていたプリークネスS・サイテーションH・シカゴアンS・アーリントンクラシックS・アメリカンダービーの勝ち馬トムロルフ、前年のアーリントンクラシックS・アメリカンダービー・ウッドワードSの他にシャンペンS・ガーデンステートSでも2着していたロイヤルガンナー(名牝シュヴィーの半兄)との対戦となった。レースは泥々の不良馬場となったが、好位を追走した本馬が直線入り口で早くも先頭に立ち、追いすがってきた2着ロイヤルガンナーに3/4馬身差で勝利。シューメーカー騎手騎乗のトムロルフは本馬から6馬身半差の4着だった。

次走のローレンスリアライゼンションS(D13F)は、ベルモントSに出走していない本馬にとって初の長距離戦となった。しかもスタミナを消耗する不良馬場となったのだが、10ポンドのハンデを与えた2着リングトゥワイスに2馬身半差で楽勝した(後にシアトルスルーシルバーチャームの母父として名を馳せる同厩馬ポーカーが3着だった)。

次走はさらに距離が伸びたジョッキークラブ金杯(D16F)となった。しかしこの距離でも本馬の走り方はいつもと変わらず、序盤は4番手、中盤は2番手につけ、逃げるニアルコス(亜国でダルドロチャ大賞・ホセペドロラミレス大賞といった大競走を勝った後に米国に移籍してきた馬で、後にサンルイレイS・サンフアンカピストラーノ招待H2回を勝っている)に三角で並びかけると、直線半ばで悠々と競り落として1馬身3/4差で楽勝した。

その後はストラブシリーズやサンタアニタHを目指して米国西海岸に向かい、前走から2か月後の大晦日にサンタアニタパーク競馬場で行われたマリブS(D7F)に出走。例によってスタートで出遅れてしまったが、直線では内埒沿いを突いて差し切り、2着となったデルマーダービー・シネマHの勝ち馬でハリウッドダービー2着のドリンに3/4馬身差、3着となった後のロングエイカーズマイルH・サンパスカルH2回の勝ち馬キングスフェイヴァーにさらに1馬身差をつけて勝ち、13連勝を達成した。

3歳時は14戦13勝の成績で、この年の米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬に選ばれた。また、チャールズHストラブS・モンマスH・ワシントンパークH・ホーソーン金杯Hを勝った4歳馬ボールドビダー(スペクタキュラービッドの父)と並んで米最優秀ハンデ牡馬にも選ばれた。

競走生活(4歳時)

4歳時はまず1月のサンフェルナンドS(D9F)に出走して、2着となったハリウッドダービーの勝ち馬でデルマーダービー2着のフリートホストに1馬身半差で勝利した。

しかし次走に予定していたチャールズHストラブSの直前に右前脚の裂蹄を発症してしまい(同じ右前脚でも前年とは別の箇所だったらしい)、ニューヨーク州に戻って休養入りした。なお、本馬不在のチャールズHストラブSはドリンが勝利している。また、おそらく何事も無ければ出走していたであろうサンタアニタHは、サンフェルナンドSで本馬の3着に敗れていたパロスヴェルデスH・サンパスカルH・サンアントニオHの勝ち馬プリテンスが西海岸の名馬ネイティヴダイヴァーを2着に破って勝っている。この年のうちに夭折するネイティヴダイヴァーと本馬は1度も対戦する機会が無かった。

本馬が休養している時期に、仏国に遠征してサンクルー大賞に出走する計画が持ち上がった。

4か月半の休養を経た本馬は、5月末のメトロポリタンH(D8F)で復帰した。130ポンドを課せられたが、珍しく直線で早めに先頭に立って押し切り、22ポンドのハンデを与えた2着ヨンダーに1馬身1/4差で勝利した(3着は17ポンドのハンデを与えたインプレッシヴだった。ちなみにこの時点のインプレッシヴはフィップス氏により売却されて他者の所有となっており、本馬の同厩ではなくなっていた)。

その後は仏国遠征の試金石として、初の芝競走となるボーリンググリーンH(T12F)に出走した。しかし、前年にマンノウォーS・ユナイテッドネーションズH・バーナードバルークH・タイダルHを勝ちワシントンDC国際Sで3着して米最優秀芝馬に選ばれていたアッサガイより8ポンド重い135ポンドの斤量も災いしたのか、同厩馬ポーカーとアッサガイの2頭に屈して、勝ったポーカーから4馬身半差の3着に敗れてしまった。連勝記録は15で止まり、サイテーションの16連勝に並ぶことは出来なかった。このレースにおいて本馬はいつもと異なり頭を横に向けて走っていたらしく、どうも慣れない芝競走で集中力が削がれてしまったようである。また、この時期から本馬の膝には関節炎の兆候が見られており、斤量・芝・脚部不安の三重苦では、さすがの本馬も負けて当然だったとも言える。この敗戦により仏国遠征の計画は白紙となった。

次走のサバーバンH(D10F)では、トップハンデの133ポンドを背負っての出走となった。レースでは、前年のローレンスリアライゼーションSで本馬の2着に敗れた後にワイドナーHを勝っていた斤量111ポンドのリングトゥワイスに残り80ヤード地点で2馬身のリードを許しながら、そこから一瞬にして差し切り半馬身差で勝利という、いかにも本馬らしいレースぶりを展開した。フランク・タルメッジ・フェルプス氏は「ブラッドストックブリーダーズレビュー」の1967年版において、「少なくとも過去20年間の米国競馬における最大のパフォーマンスの1つでした」と賞賛しており、ハットン氏も「アメリカン・レーシング・マニュアル1968年版」の中で「それは信じられない勝利でした」と記載している。なお、サバーバンHは父トムフールと母ブサンダの両方が勝っており、両親に続く同競走制覇となった。

続いて、1961年のケルソ以来6年ぶり史上4頭目のニューヨークハンデキャップ三冠馬の栄冠を目指して、ブルックリンH(D10F)に出走。しかし前年勝利時よりも16ポンドも重い136ポンドを課せられた結果、トレントンH・ナッソーカウンティHに加えて1週間前のエイモリーLハスケルHを勝って勢いに乗る同世代馬ハンサムボーイ(斤量116ポンド)に8馬身差をつけられて2着に敗退(ドワイヤーH・ローマーHの勝ち馬で後にサンタアニタH・ウッドワードS・サバーバンH・トレントンH3回・クイーンズカウンティHを勝つミスターライトが3着だった)。父トムフールとの親子二代ニューヨークハンデキャップ三冠達成は成らなかった。

次走のウッドワードS(D10F)が引退レースとなった。このレースには、本馬より1歳年下の強豪馬2頭も出走していた。その2頭とはすなわち、プリークネスS・ベルモントS・レムセンS・ウッドメモリアルS・ドワイヤーH・アメリカンダービー・トラヴァーズSなどを勝っていたダマスカスと、カウディンS・ゴーサムS・ウィザーズS・アーリントンクラシックSなどを勝っていたドクターファーガーだった。本馬も含めて3頭全てが米国競馬史上に燦然とその名を残す歴史的名馬であり、このレースは“Race of the Century”と呼ばれて絶大な盛り上がりを見せていた。出走馬はこの3頭の他に、ハンサムボーイ、逃げ馬ドクターファーガーを潰すために本馬陣営が用意したラビット役のグレートパワー、ダマスカス陣営が用意したラビット役のヘッドエヴァー(本馬がアーリントンクラシックSで1分32秒6を計時する前のダート1マイルの世界レコードホルダー)の3頭だけだった。本馬が単勝オッズ2.6倍の1番人気に支持され、シューメーカー騎手が騎乗するダマスカスと、主戦だったバエザ騎手に代わってビル・ボランド騎手が騎乗したドクターファーガーが、並んで単勝オッズ2.8倍の2番人気となった。

スタートが切られると、ドクターファーガーとヘッドエヴァーの2頭が猛然と競り合いながら先頭を飛ばし、グレートパワーが少し離れた3番手、ハンサムボーイがかなり離れた4番手で、本馬とダマスカスの2頭は最後方を追走した。ドクターファーガーとヘッドエヴァーの2頭が刻んだペースは非常に速く、それについていけなくなったグレートパワーは向こう正面で早くも失速。三角手前でヘッドエヴァーも失速してドクターファーガーが単独で先頭に立った。三角に入るとダマスカスが仕掛けて上がっていき、続いて本馬もそれを追って上がっていった。しかし四角途中でドクターファーガーをかわしたダマスカスとの差はどんどん開いていき、直線半ばでは既に勝敗は完全に決してしまった。本馬はゴール直前でなんとかドクターファーガーを半馬身かわして2着に上がったが、勝ったダマスカスには10馬身差をつけられてしまった。しかし本馬が凡走したわけではなく、4着ハンサムボーイは3着ドクターファーガーからさらに13馬身後方でゴールインしており、このレースにおけるダマスカスが強すぎたと言うべきであろう。また、本馬は膝に関節炎を発症していたために本調子ではなかった事も念頭に入れておくべきである。

4歳時の成績は6戦3勝だったが、ダマスカスと並んでこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選出されている。

競走馬としての特徴

本馬が挙げた25勝において、2着馬につけた平均着差は僅か1馬身1/3差だった。うち15勝は着差が1馬身以下(同着が1回)であり、騎乗する騎手には仕掛けのタイミングを計る絶妙の判断が要求された。また、着差が小さいために次こそは勝てると思って何度も本馬に挑んできた馬も多かったが、本馬はそれらの馬達を何度でも最小着差で撃破した。

なお、バエザ騎手が本馬の引退後にインタビューに応じた際の一問一答が残っているから、それをここに掲載しておく。

質問者(以下「Q」)「バックパサーに乗る際にはどんな事を意識していましたか?」バエザ騎手(以下「B」)「落馬だけはしないように、しっかりと掴まっている事だけでした。」

Q「彼は走るのを嫌がって逃げようとする馬でしたか?」B「そうでもないです。その辺を軽く走り回ることはありましたが、逃げ出すことはありませんでした。」

Q「なぜ軽く走り回ったのですか?」B「彼は少し遊び心がある馬だったからです。レースでも先頭に立つと自分で勝手に減速していました。」

Q「そんな走り方でも勝ってばかりだったというわけですね?」B「はい。」

Q「午前中の調教ではどんな感じでしたか?」B「非常に怠け者だったので、一緒に走る他馬が必要でした。」

Q「彼単独では一生懸命に走ろうとしなかったという事ですか?」B「はい。彼は他馬に勝利すること自体は好きでした。そのため、他馬に順番に彼の前を走らせるリレー式調教を施しました。そうでない調教のときはせいぜい並みの馬程度でしたし、全然走ろうとしないときもありました。いつもリレー式調教を行うことも出来ないので、調教代わりに実戦を頻繁に使う必要がありました。実戦では彼は進んで走りました。彼は神経質な一面があり、鞭で叩かれる事を非常に嫌がりました。そのため、私が彼に鞭を使うのは、コーナーを左に回る際に右鞭を使うときだけでした。直線では鞭を使わなくても勝手に他馬を追い抜いていきましたが、2馬身ほどリードすると耳を上げて勝手に減速しました。」

Q「それでは、どのような心掛けでレースに勝ち続けたのですか?」B「彼が先頭に立った次の瞬間にゴールできるように、仕掛けのタイミングを計る事でした。」

Q「ニューハンプシャーダービーの回避時には何があったのですか?」B「ロッキングハムパーク競馬場における調教で跨ったのですが、彼はいつも以上に走る気を見せませんでした。これではレースに勝てないと思いました。裂蹄の持病は未だに彼を悩ませており、それが原因で走ろうとしなかったのです。」

Q「厩舎に戻ってからどうしましたか?」B「ネロイ調教師が私に彼の様子を尋ねてきたので、良くないと答えました。何があったのか聞かれたので、彼は何かに悩まされており、走るのは辛そうですと答えました。」

Q「ネロイ師はどのように言いましたか?」B「それはレース前週の水曜日か木曜日でしたが、バックパサーは単勝オッズ1.1倍となっていましたので、レースに乗ってくれるように私に頼んできました。しかし、バックパサーは走りたくないので、私もそんな彼には乗りたくないと答えました。」

Q「するとネロイ師はどのように返事をしましたか?」B「オーケー、出走はやめましょうと答えてくれました。それから彼は記者達に出走回避の旨を伝えました。記者達はすぐに私のもとにやってきました。競馬場の関係者達はとても取り乱していました。しかし私は敗戦確実の馬に乗りたくはありませんでした。バックパサーは勝つ気が無かったし、私も彼に強要したくありませんでした。私は、バックパサーがそのときの状態で勝てるとは思えませんでした。」

Q「その次のレースはどうでしたか?」B「確か1か月後か、1か月半後だったと思いますが、いずれにしても彼は勝ちました。」

Q「彼が引退した経緯はどうでしたか?」B「最後のレース(ダマスカスの2着に敗れたウッドワードS)を勝つために彼は苦闘していました。普通なら、彼は心の赴くままに走って勝てるのですが、あのレースでは勝つために苦しんでいました。彼は勝つという信念を持っていたチャンピオンでした。結局彼は最後のレースを勝てませんでした。裂蹄がひどくなっており、とても彼を悩ませていました。さらに、どのレースに出ても非常に厳しい斤量を背負う必要がありました。そして引退という事になったのです。」Q「本日はありがとうございました。」

馬名はフィップス氏の直感により命名されたもので、愚かな官僚が他者に責任を転嫁するという意味の“passes the buck”という言葉を1つの単語としたものである。この直感は、父トムフールの馬名が「馬鹿者」を意味する事からの連想であると推察される。

血統

Tom Fool Menow Pharamond Phalaris Polymelus
Bromus
Selene Chaucer
Serenissima
Alcibiades Supremus Ultimus
Mandy Hamilton
Regal Roman Roi Herode
Lady Cicero
Gaga Bull Dog Teddy Ajax
Rondeau
Plucky Liege Spearmint
Concertina
Alpoise Equipoise Pennant
Swinging
Laughing Queen Sun Briar
Cleopatra
Busanda War Admiral Man o'War Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token
Brushup Sweep Ben Brush
Pink Domino
Annette K. Harry of Hereford
Bathing Girl
Businesslike Blue Larkspur Black Servant Black Toney
Padula
Blossom Time North Star
Vaila
La Troienne Teddy Ajax
Rondeau
Helene de Troie Helicon
Lady of Pedigree

トムフールは当馬の項を参照。

母ブサンダは、小柄だったその父ウォーアドミラルとは対照的に、体高16ハンドを超える大柄な馬であり、その体格はまるで牡馬のようだったという。大柄なだけでなく頑健な馬でもあり、現役時代は65戦10勝の成績を残した。2歳時はセリマSで名牝ベッドオローゼズ、自身の従姉妹であるストライキングに続く3着に入ったのが目立つ程度だった。3歳時はCCAオークスで同年の米最優秀3歳牝馬ネクストムーヴの3着、デラウェアオークスでもネクストムーヴの2着に入ると、暮れのアラバマSではネクストムーヴを2着に破って勝利した。4歳時は牡馬相手に好走し、サバーバンH・ニューキャッスルH(現デラウェアH)・サラトガC・トップフライトHを勝利した。5歳時もサラトガC・ダイアナHを勝って引退した。繁殖牝馬としても優秀で、本馬の半兄ビュアラクラシー(父ポリネシアン)【ドワイヤーH】、半兄ビュパーズ(父ダブルジェイ)【ベルモントフューチュリティS】も産んでいる。

ブサンダの母ビジネスライクは世界的名牝系の祖であるラトロワンヌの8番子であり、近親には凄まじい数の活躍馬がいる。その大半の紹介はラトロワンヌの項に譲るとして、ここではビジネスライクの牝系子孫の活躍馬のみ列挙する。本馬の半姉ファイナンス(父ナスルーラ)の孫に1984年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬アウトスタンディングリー【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・ハリウッドスターレットS(米GⅠ)】、玄孫世代以降にスカイメサ【ホープフルS(米GⅠ)】、ルミエール【チェヴァリーパークS(英GⅠ)】などが、本馬の半姉オーククラスター(父ナスルーラ)の子にマニトゥーリン【ブランドフォードS(愛GⅡ)・ロイヤルホイップS(愛GⅢ)】、孫にスプレンディドスプルース【サンタアニタダービー(米GⅠ)】、玄孫世代以降にオフィサー【シャンペンS(米GⅠ)】、ホームスウィートアスペン【サンタモニカS(米GⅠ)】などが、本馬の半妹ナヴサップ(父タタン)の子にポリッシュネイビー【カウディンS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)・ジムダンディS(米GⅡ)】がいる。

また、ブサンダの半姉ビジーワール(父ワーラウェイ)の牝系子孫にコーレイ【ジアナ大賞(ガヴェア)(伯GⅠ)・マルシアノデアギアルモレイラ大賞(伯GⅠ)・クルゼイロドスル大賞(伯GⅠ)】が、ブサンダの半妹ヒズダッチェス(父ブレニム)の子にコミック【ディスカヴァリーH】、玄孫世代以降にマイビッグボーイ【バーナードバルークH(米GⅠ)】、1993年のエクリプス賞最優秀3歳牡馬騙馬プレイリーバイユー【プリークネスS(米GⅠ)】、リアズプリンセス【ガゼルS(米GⅠ)】、コンマトゥザトップ【キャッシュコールフューチュリティ(米GⅠ)】、ニックネーム【フリゼットS(米GⅠ)】などがいる。→牝系:F1号族②

母父ウォーアドミラルは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、当時史上最高額となる480万ドル(15万ドル×32株)という巨額のシンジケートが組まれて、クレイボーンファームで種牡馬入りした。そして種牡馬としても期待に違わない活躍を示した。1978年3月に大動脈破裂により15歳という比較的若い年齢で他界したため、産駒のステークスウイナーは36頭(資料によっては35頭)と意外に少ない(ただし産駒数は313頭であり、ステークスウイナー率は11%以上とかなり高い割合である)のだが、主に牝駒の活躍馬を多く出した。さらに、その牝駒達が母となって一流馬を続々誕生させ、北米母父首位種牡馬に1983・84・88・89年の4度輝いた(本馬を紹介した資料には1983・84・89年の3度と記載されている場合が殆どなのだが、各種の北米母父首位種牡馬の一覧表には例外なく1988年のところにも本馬の名前がある)。牝駒のうちリラクシング(イージーゴアの母)とトウルブース(1980年のエクリプス賞最優秀短距離馬プラグドニクルの母)の2頭がケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選ばれている。繁殖牝馬の父として輩出したステークスウイナーは142頭にも上る。

牡駒の活躍馬が少なかったために、後継種牡馬の数は少ないが、1983/84年シーズンにおける亜種牡馬ランキング2位のロジカル、エクリプス賞最優秀短距離馬グルービーなどを出したノークリフ、1985年の北米首位種牡馬バッカルー、1993/94年シーズンの亜首位種牡馬エッグトス、シルバーバックなどが後継種牡馬として活躍した。本馬の直系から登場した最大の大物であるシルバーバック産駒のシルバーチャームや、ノークリフの直系の孫であるケンタッキーダービー馬リルイーティーはいずれも種牡馬として不振だが、シルバーチャームと並ぶ直系最大の大物であるバッカルー産駒のスペンドアバックが活躍して本馬の直系を維持しており、他にもロジカルやエッグトスの系統が南米で頑張っている。1970年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第14位。母父としては、プライヴェートアカウントミスワキシーキングザゴールドポリッシュプレシデントエルグランセニョール、イージーゴア、ウッドマン、マルゼンスキー、ラシアンルーブル、ヤマニンスキーなどを輩出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1969

Numbered Account

スカイラヴィルS・スピナウェイS・メイトロンS・フリゼットS・セリマS・プライオレスS・テストS・マスケットH・マッチメイカーS・スピンスターS

1970

La Prevoyante

スカイラヴィルS・スピナウェイS・メイトロンS・フリゼットS・セリマS

1971

Beau Buck

ラクープ(仏GⅢ)

1971

Pass The Glass

レイクサイドH(米GⅡ)2回・アメリカンH(米GⅡ)・ゴールデンゲートH(米GⅢ)2回

1972

L'Enjoleur

ローレルフューチュリティ(米GⅠ)・クイーンズプレート・加プリンスオブウェールズS

1973

Cunning Trick

アーリントンH(米GⅡ)・ギャラントフォックスH(米GⅡ)

1973

Norcliffe

クイーンズプレート・加プリンスオブウェールズS

1974

Buckfinder

ウイリアムデュポンジュニアH(米GⅡ)

1974

Squander

ソロリティS(米GⅠ)

1975

Balzac

オークツリー招待H(米GⅠ)・ノーフォークS(米GⅡ)

1975

Buckaroo

サラナクS(米GⅡ)・ピーターパンS(米GⅢ)

1975

Ethnarch

ディスプレイH(米GⅢ)

1975

State Dinner

センチュリーH(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)・ビヴァリーヒルズH(米GⅡ)・サンタマリアH(米GⅡ)・ホイットニーH(米GⅡ)・コーク&オラリーS(英GⅢ)・ダイアデムS(英GⅢ)・ラスパルマスH(米GⅢ)

1976

Buckpoint

モーリスドニュイユ賞(仏GⅡ)・WLマックナイトH(米GⅢ)

1976

Relaxing

デラウェアH(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・フィレンツェH(米GⅡ)・ギャラントフォックスH(米GⅡ)・ジョンBキャンベルH(米GⅡ)

1977

Quick As Lightning

英1000ギニー(英GⅠ)・フィリーズマイル(英GⅢ)

1978

Akureyri

ファウンテンオブユースS(米GⅢ)

1978

Paristo

イリノイダービー(米GⅢ)

1978

Silver Buck

サバーバンH(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)

1978

What Glitter

フォールズシティH(米GⅢ)

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