ドノヴァン

和名:ドノヴァン

英名:Donovan

1886年生

青鹿

父:ガロピン

母:モワリナ

母父:スコッティシュチーフ

サラブレッドの見本と言われ19世紀末の英国最強クラスの馬でありながら種牡馬としては不遇だった英ダービー・英セントレジャー優勝馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績21戦18勝2着2回3着1回

誕生からデビュー前まで

セントサイモンの所有者としても知られる第6代ポートランド公爵ウィリアム・キャベンディッシュ・ベンティンク卿の生産・所有馬。成長すると体高は16ハンドに達し、非常にがっちりとしたバランスの取れた馬体を有しており、サラブレッドの偉大な見本と評されるほどだった。ジョージ・ドーソン調教師(著名な調教師マット・ドーソン師の甥)に預けられた本馬は、陣営の方針により2歳時から多くのレースに出走した。

競走生活(2歳時)

2歳時は英国平地競走シーズンにおける最初の週にリンカーン競馬場で行われたブロックレスビーSでデビューして、2着ポエムに2馬身差で勝利した。さらにレスター競馬場に向かい、当時は英ダービーより多い賞金6千ポンドを誇っていたポートランドS(T5F)に出走した。この段階における本馬の評価は意外と低く、単勝オッズ9倍止まりだった。しかし後に幾度か対戦する事になるエルドラドを3馬身差の2着に破って勝利した。マンチェスター競馬場で出走したウィットサンタイドプレートでは、2歳3戦目にして136ポンドの斤量が課されてしまい、チタボブの4馬身差2着に敗れた。

夏場はアスコット競馬場に向かい、ニューS(T5F)に出走。ここでは単勝オッズ2倍の1番人気に応えて、後のリッチモンドS・ハードウィックSの勝ち馬ガリバーを首差の2着に抑えて勝利した。ストックブリッジ競馬場で出走したホームブレッドフォールSも勝利した。さらに同じくストックブリッジ競馬場で出走したハーストボーンSでは、単勝オッズ1.67倍の1番人気に応えて、2着プレゼントアルムスに2馬身差で勝利した。

その後はニューマーケット競馬場に向かい、ジュライS(T5.5F)に出走。ウッドコートSの勝ち馬ゴールドを半馬身差の2着に抑えて勝利した。その後はグッドウッド競馬場に向かい、ハムSを勝利した。しかし同じくグッドウッド競馬場で出走したプリンスオブウェールズS(T6F)では非常に反応が悪く、エルドラド、ゴールドという既に破ったことがある2頭の馬に屈して、勝ったエルドラドから6馬身以上の差をつけられた3着に終わった。

秋はニューマーケット競馬場でバッキンガムS・ホープフルSと連勝し、ミドルパークプレート(T6F)に出走した。ここでは129ポンドのトップハンデを課せられたが、単勝オッズ1.73倍の1番人気に支持された。そして、後の英1000ギニー・パークヒルSの勝ち馬で英オークス・ヨークシャーオークス2着のメンテー、エンスージアスト(日本の名牝系の祖ビューチフルドリーマーの父)、後に仏ダービー・カドラン賞を勝つクローバーといった面々を一蹴し、2着ゴンドリアーに2馬身差をつけて、1分15秒2のレースレコードで完勝した。

次走のデューハーストプレート(T7F)では斤量がさらに増えて131ポンドとなった。それでも単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持されると、10ポンドのハンデを与えたエンスージアストを馬なりのまま半馬身差の2着に破って勝利した。

2歳時の成績は13戦11勝で、同世代の2歳馬では文句無しに最強という評価を得た。過去に英国最高の2歳馬と評されていたトーマンバイザバード、無敗の英国三冠馬オーモンドなどと比較する声も大きかった。血統面から英ダービーは長いのではないかという意見もあったらしいが、英ダービーの前売りオッズでは4倍というこの時期としては抜群の評価を得た。

競走生活(3歳前半)

3歳時は4月にレスター競馬場で行われた英2000ギニーの前哨戦であるプリンスオブウェールズSから始動した。この当時のアルバート・エドワード皇太子(後の英国王エドワードⅦ世)は、暗殺の対象になっているという噂が流れていた(当時は英国と独国の関係がぎくしゃくしており、エドワード皇太子の母ヴィクトリア女王が高齢だったため、次の英国王が狙われるのではないかという憶測があった)にも関わらず、本馬見たさにレスター競馬場まで出向いてきていた。本馬はその期待を裏切らず、単勝オッズ1.62倍の1番人気に応えて、メンテーや後にセントジェームズパレスSを勝つパイオニアといった馬達を一蹴。2着パイオニアに2馬身差、3着メンテーにはさらに4馬身差をつけて勝利した。このレースにおける本馬の楽勝ぶりは「馬なりの中の馬なり」「怪物」と評されるほどだった。

当然次走の英2000ギニー(T8F11Y)では単勝オッズ1.24倍という断然の1番人気に支持された。レースでは中盤まで先頭をキープしていたが、ここでパイオニアに並びかけられた。パイオニアを唯一の強敵と見ていた本馬鞍上のフレッド・バレット騎手はパイオニアとの叩き合いに持っていき、パイオニアを競り落とした。ところがゴール前で単勝オッズ26倍の伏兵エンスージアストに差されて頭差の2着に終わり、全英中に大きな衝撃を与えた。バレット騎手は過去に何度も打ち負かしたエンスージアストを軽視しており、追い上げてきたエンスージアストを無視した事が招いた敗戦だったという。この敗戦にも関わらず、本馬の英ダービーの前売りオッズは3倍まで下がっていた。

次走のニューマーケットS(T10F)では単勝オッズ2.375倍の1番人気となった。前走や前々走よりオッズが高かったのは、エンスージアストも出走していた事に加えて、距離不安が影響したためと思われる。しかしレースではエンスージアストや、後にケンブリッジシャーHやロイヤルハントCを勝つローリエットなど他馬16頭を打ち負かして、2着ザターコフォンに2馬身差をつけて楽勝した(エンスージアストは4着だった)。

次走が英ダービー(T12F29Y)となったわけだが、大本命だった本馬に対して悪徳ブックメーカーが危害を加えるのではないかという噂が流れており、エプソム競馬場に向かう本馬の周囲は警察官や警備員により固められており、随分と物々しい雰囲気だった。レースは、エドワード皇太子とアレクサンドラ皇太子妃が見守る中、絶好の晴天で行われた。本馬は最終的に単勝オッズ1.73倍の1番人気に支持された。しかしレース前にそわそわする神経質なところを見せ、他馬と一緒に入場せずに直接スタートへ誘導された。鞍上がトミー・ローテス騎手に交代していた本馬は、道中は13頭立ての4番手という一番無難な位置につけた。そしてタッテナムコーナー手前で逃げ馬を捕らえて直線入り口で先頭に立つと、馬なりのまま直線を走り抜け、2着ミゲルに1馬身半差をつけて完勝。ミゲルからさらに6馬身後方の3着がエルドラドで、エンスージアストは4着だった。このレースの6日後には本馬の所有者ベンティンク卿の結婚式が施行されており、ベンティンク卿はこの時期幸運の絶頂にあった。

その後はアスコット競馬場に向かい、プリンスオブウェールズS(T13F)に出走した。このレースにはエンスージアストも出走しており、2頭とも英国クラシック競走の勝ち馬ということで揃って131ポンドのトップハンデが課せられた。しかし単勝オッズ1.22倍の1番人気に支持された本馬が、6ポンドのハンデを与えたクリテリオンSの勝ち馬ロイヤルスターを1馬身半差の2着に、エンスージアストを3着に破って楽勝した。

競走生活(3歳後半)

その後はしばらく休養に充て、秋は英セントレジャー(T14F132Y)に出走した。鞍上は英2000ギニーで本馬に騎乗して敗戦させてしまったバレット騎手だった。単勝オッズ1.62倍の1番人気に支持された本馬に対抗できる可能性を秘めているとみられていたのは、2歳時のウィットサンタイドプレートにおいて本馬を4馬身差の2着に破り、その後は調教上の問題からしばらくレースに出ていなかったチタボブ程度だった。本馬については血統的に距離不安が囁かれていたのは前述したとおりだが、それにも関わらずバレット騎手は早めに本馬を先頭に立たせて直線で押し切りを図った。しばらくはチタボブが追いかけてきたが、チタボブは先に失速してしまった。それに代わって英ダービー2着のミゲルが本馬を追撃するも到底及ばなかった。最後は本馬が2着ミゲルに3馬身差、3着ダベンポートにもさらに3馬身差をつけて楽勝した。

その10日後にはマンチェスター競馬場でランカシャープレート(T7F)に出走した。前走からいきなり半分以下の距離となるこのレースに出走した目的は、1万2千ポンドという高額賞金だった。このレースは、同時代の強豪馬がずらりと並び、本馬が出走した全てのレースの中で最も対戦相手の層が厚くなった。プリンスオブウェールズS3着後にサセックスSを勝ってきたエンスージアスト、英1000ギニー・パークヒルSを勝ってきたメンテー、チタボブといった同世代トップクラスの他に、前年の英オークス・英セントレジャー・コロネーションS・ランカシャープレート・ニューマーケットオークスを勝っていた4歳牝馬シーブリーズ、仏国でサラマンドル賞やフォレ賞を勝ってきた2歳牝馬アリカンテ(後にロワイヤルオーク賞・ケンブリッジシャーHなども勝っている)なども参戦してきたのである。スタートが切られるとバレット騎手鞍上の本馬が真っ先に馬場に飛び出していき、そのまま逃げを打った。チタボブが本馬に競りかけてきたが、本馬は悠々とリードを保ち続け、そのまま2着チタボブに2馬身差をつけて楽勝した。さらにニューマーケット競馬場に移動してロイヤルSに出走し、唯一の対戦相手となったメンテーを一蹴して勝利した。3歳時の成績は8戦7勝だった。

4歳時もアスコット金杯を目標に現役を続行した。しかし調教中の故障のため、4歳時には一度も出走することなく6月に競走馬引退が決定した。獲得賞金総額5万5443ポンド(資料によっては5万5153ポンドとなっている)は当時の世界記録だった。

本馬に関しては、同時代に卓越した馬がいなかったから優秀な競走成績を残せたのだという軽視する意見もあるらしいが、基本的には19世紀末の英国に登場した競走馬の中では最強クラスの馬であると多くの人から評価されている。

血統

Galopin Vedette Voltigeur Voltaire Blacklock
Phantom Mare
Martha Lynn Mulatto
Leda
Mrs. Ridgway Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Nan Darrell Inheritor
Nell
Flying Duchess The Flying Dutchman Bay Middleton Sultan
Cobweb
Barbelle Sandbeck
Darioletta
Merope Voltaire Blacklock
Phantom Mare
Juniper Mare Juniper
Sorcerer Mare
Mowerina Scottish Chief Lord of the Isles Touchstone Camel
Banter
Fair Helen Pantaloon
Rebecca
Miss Ann The Little Known Muley
Lacerta
Bay Missy  Bay Middleton
Camilla
Stockings Stockwell The Baron Birdcatcher
Echidna
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Go-Ahead Melbourne Humphrey Clinker
Cervantes Mare
Mowerina Touchstone
Emma

ガロピンは当馬の項を参照。

母モワリナはデンマーク産馬で、現役時代は英国で走りポートランドプレート・ホーソンH・モリヌーCに勝つなど37戦16勝を挙げた活躍馬だった。モワリナが活躍したのは距離6ハロン以下の短距離戦であり、本馬が現役時代に距離不安を囁かれていたのはそれが原因である。モワリナの父はアスコット金杯の勝ち馬で種牡馬としても一定の成功を収めたスコッティシュチーフ、モワリナの母ストッキングの父は種牡馬の皇帝ストックウェル、ストッキングの母ゴーアヘッドは初代英国三冠馬ウエストオーストラリアンの全妹であるから、相当な良血馬である。

モワリナは英国における最上級の繁殖牝馬になり得る器であるという評価を耳にしたベンティンク卿は、モワリナを1400ポンドで購入して繁殖入りさせた。実際にモワリナは優れた繁殖成績を残し、1885年の英最優秀2歳牝馬になった本馬の全姉モドワナ【チェスターフィールドS・グレートチャレンジS】、半妹セモリナ(父セントサイモン)【英1000ギニー】、ランカシャープレートで英国三冠馬アイシングラスに唯一の黒星をつけた半弟レーバーン(父セントサイモン)なども産んでいる。

モドワナの牝系子孫には、1980年の英愛首位種牡馬ピットカーン、テリモン【英国際S(英GⅠ)】、アセッサー【ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)・カドラン賞(仏GⅠ)】、インヴィンシブルスピリット【スプリントC(英GⅠ)】、バチアー【仏2000ギニー(仏GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)】などがいる。また、セモリナの牝系子孫には、ロイヤルガイト【カドラン賞(仏GⅠ)・ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)・英チャンピオンハードル(英GⅠ)】、アルマンスール【QTCサイアーズプロデュースS(豪GⅠ)・ザTJスミス(豪GⅠ)・ジョージライダーS(豪GⅠ)】、フォークナー【コーフィールドC(豪GⅠ)・コーフィールドS(豪GⅠ)・マカイビーディーヴァS(豪GⅠ)】などがいる。→牝系:F7号族①

母父スコッティシュチーフは前述のとおりアスコット金杯の勝ち馬で、英ダービーではブレアアソールの3着だった。スコッティシュチーフの父ロードオブジアイルズはタッチストン産駒で、英2000ギニーを勝ち英ダービーで3着している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はラフォードアビースタッドに移り、5歳時の1891年から種付け料200ギニーで種牡馬供用された。しかしこの1891年はベンティンク卿が所有するウエルベックアビースタッドで種牡馬入りしていた同父馬セントサイモンの初年度産駒が4歳の時であり、セントサイモンが猛威を振るい始めた当にその時期だった。また、本馬の父ガロピンも現役種牡馬だったため、本馬の種牡馬人気は上がらず、やがてワークソップマナースタッドに移動させられた。優秀な繁殖牝馬がセントサイモンやガロピンに集まった影響もあり、本馬の種牡馬成績は英種牡馬ランキングにおいて7位が最高であり、英国クラシック競走の勝ち馬は一頭も出す事が出来ず、失敗種牡馬の烙印を押された。最終的な種付け料は25ギニーまで下落していた。

本馬の産駒最大の大物と思われる3年目産駒のヴェラスケスは、2歳時にニューS・ジュライS・英シャンペンSを勝つ活躍を見せ、2歳戦から大活躍した父を彷彿とさせた事から大きく期待されたが、同世代に英国三冠馬ガルティモアがおり、英国クラシック競走は勝てなかった。それでも3歳時にプリンセスオブウェールズS・英チャンピオンSを、4歳時にエクリプスS・英チャンピオンSを勝つ活躍を見せている。

本馬は19歳時の1905年2月に繋養先のワークソップマナースタッドにおいて、自ら木に激しく体当たりするという自殺行為で大怪我を負い、そのまま安楽死の措置が執られた。遺体はウエルベックアビースタッドに埋葬された。後継種牡馬としてはマッチメイカーがまずまずの活躍を示し、また、マッチメイカーが母父としてサンインローを出した事で本馬の血を後世に伝える事に成功している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1892

Matchmaker

プリンスオブウェールズS・アスコットダービー

1894

Pfaueninsel

独オークス

1894

Velasquez

エクリプスS・英チャンピオンS2回・ニューS・ジュライS・英シャンペンS・プリンセスオブウェールズS

1895

Washington

モルニ賞

1896

Sesara

サラマンドル賞・仏1000ギニー・ヴェルメイユ賞・フロール賞

1897

O'Donovan Rossa

モールコームS

1898

Veronese

プリンスオブウェールズS

1904

Donna Caterina

グリーナムS

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