テューダーミンストレル

和名:テューダーミンストレル

英名:Tudor Minstrel

1944年生

黒鹿

父:オーエンテューダー

母:サンソネット

母父:サンソヴァーノ

英2000ギニー8馬身差圧勝などマイル以下の距離では不敗を誇り3歳馬としては英国競馬史上最強マイラーの評価を得る

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績10戦8勝2着1回

誕生からデビュー前まで

世界最大のスコッチ・ウイスキーのブランドであるデュワーズを世間に広めた功労者として知られる初代デューワー男爵トーマス・デューワー卿の甥で、生涯独身だった叔父から所有馬を受け継いでいたジョン・アーサー・デューワー氏により生産・所有された。本馬の父オーエンテューダーや、ハリーオンマンナコロナックボワルセルビッグゲームサンチャリオットなど数々の名馬を手掛けたフレッド・ダーリン調教師に預けられた。

体高は15.3ハンドと小柄だったが、非常に筋肉質でかっしりした馬体の持ち主だった。そしてデビュー前調教においても、筋肉質の身体を躍動させて爆発的なスピードを見せており、父も母父も英ダービー馬であるという事もあって、将来の英ダービー馬候補として期待されていた。主戦はダーリン厩舎の主戦騎手だったゴードン・リチャーズ騎手で、本馬の全レースに騎乗した。

競走生活(2歳時)

2歳春シーズンに英国バス競馬場で行われたランズダウンS(T5F)でデビューして、2着ワイルドレベルに5馬身差をつけて圧勝した。2戦目は5月末にソールスベリー競馬場で出走したフォールS(T5F)となり、これも2着オステラに8馬身差をつけて圧勝した。3戦目は6月にアスコット競馬場で出走したコヴェントリーS(T5F)となった。ここでは単勝オッズ1.15倍という圧倒的な1番人気に支持されると、やはり馬なりのまま走り、2着パトロールに4馬身差をつけて圧勝した。7月にサンダウンパーク競馬場で出走した4戦目ナショナルブリーダーズプロデュースS(T5F)では、対戦相手のレベルが上がったためか前走より少しオッズが上がって単勝オッズ1.44倍の1番人気だったが、余裕の走りを見せて、2着キングスクレアに4馬身差で勝利した。

そのスピードの絶対値の高さは、見る者に強烈な衝撃を与え、「これほどスピードのある2歳馬は見たことがない」と評価された。その後ダーリン師が健康を害した影響に加え、あまり短距離戦を使いすぎて長距離戦で折り合いがつかなくなるのを陣営が恐れたため、この年は8月以降にレースに出ずに休養入りして、2歳時は4戦全勝の成績となった。しかし本馬が休養入りした時点で、既に英ダービーの前売りオッズでは11倍の1番人気に支持されていた。また、シーズン後半はレースに出走しなかったにも関わらず、2歳フリーハンデにおいては133ポンドの評価を受け、ニューS・リッチモンドS・ジムクラックS・英シャンペンSの勝ち馬ペティション、デューハーストSの勝ち馬ミゴリ、ミドルパークSの勝ち馬サラヴァンなどを抑えてトップにランクされた。

競走生活(3歳前半)

3歳初戦はバス競馬場で行われたマイナー競走ソマーセットS(T7F)となった。これは殆ど調教代わりであり、2着グリークジャスティーに4馬身差で楽勝した。

次走の英2000ギニー(T8F)では当然のように単勝オッズ2.375倍の1番人気に支持された。対抗馬と目されていたのは、前年の2歳フリーハンデで第2位となる131ポンドの評価を受けていたペティションで、前哨戦のヘンリーⅧ世Sを10馬身差で圧勝して臨んできていた。ところがペティションはスタート時にテープに引っ掛かった拍子に鞍上のハリー・ラッグ騎手が落馬して自身も転倒。すぐにラッグ騎手が再騎乗してレースに戻ったが転倒の際に脚を痛めていたペティションは実力を全く出せずに敗退(記録上は競走中止)。それとは対照的な好スタートを切った本馬は悠々と先頭を走り、最後の1ハロンでは既にリチャーズ騎手が手綱を抑える余裕ぶりだったにも関わらず、2着サラヴァンに8馬身差、3着サヤジラオにさらに短頭差をつけて大圧勝した。これは現在でも同競走史上最大着差であるが、それでも控えめに記録がつけられているとも言われており、実際には後続に10馬身以上の差をつけていたともされる。リチャーズ騎手はゴール前で抑えなければ優に20馬身差はつけていたと語った。この記録的圧勝ぶりから、本馬は“Horse of The Century”という評価を受けるようになった。

次走の英ダービー(T12F)においては、単勝オッズ1.57倍という圧倒的な1番人気に支持された。英2000ギニーにおけるあまりの強さから、本馬のスタミナ能力を疑問視する意見もあったようだが、本馬にはたくさんのスタミナ血統が入っているから問題はないと主張する人のほうが多かった。中には、本馬が荷車を引きながら走ったとしても勝てるだろうとする意見も見受けられた。また、本馬の鞍上リチャーズ騎手は、1932年に当時史上最多となる259勝を挙げ、1933年には世界記録となる12連勝をマークし、1944年には英国競馬史上初めて3000勝を達成し、最終的には史上最多となる26回もの英国平地首位騎手に輝くなど通算4870勝(現在も英国記録)を挙げ、騎手として史上唯一英国王室からナイトの称号を授与されるなど数々の実績を誇る世界競馬史上有数の名騎手で、英国クラシック競走のうち4つは1942年の段階で既に制していたが、英ダービーには何度出走しても1度も勝った事が無いという不思議なジンクスがあった。しかし今年は騎手生活27年目にしてダービージョッキーの称号を戴冠できるだろうというのが大方の見方だった。エプソム競馬場には、名高き大物である本馬と、名手リチャーズ騎手の英ダービー戴冠を一目見ようと、英国王ジョージⅥ世とエリザベス王妃を含む40万人もの大観衆が詰め掛けていた。

しかしスタートが切られると本馬は行きたがる素振りを見せ、リチャーズ騎手の制止を振り切ってレース前半で早くも先頭に立ってしまった。そのまま先頭でタッテナムコーナーを回ってきたが、仏国から参戦してきた単勝オッズ41倍の伏兵パールダイヴァー(仏1000ギニー・仏オークス・ジャックルマロワ賞・ヴェルメイユ賞・凱旋門賞などを制した名牝パールキャップの息子)に直線入り口で差されるとそのまま失速し、勝ったパールダイヴァーから10馬身差をつけられた4着に敗退。パールダイヴァーから4馬身差の2着にはミゴリ、さらに3/4馬身差の3着には後に愛ダービー・英セントレジャーを勝つサヤジラオが入った。

本馬が敗北した瞬間、エプソム競馬場に詰め掛けた大観衆は静まり返ってしまったという。それは本馬が敗北したという事実に衝撃を受けただけでなく、1914年のダーバー以来33年ぶりに仏国調教馬に英ダービーを勝たれてしまったということも影響していたようである(その後、英国のマスコミは「痛恨事」「屈辱」「国家的悲劇」と書きたてた)。なお、本馬の敗因となったスタミナ不足に関しては、「調教で甘やかしすぎた」「第二次世界大戦の影響により質の悪いオート麦が飼料として英国内に流通していたからだ」などとする論調も見られたが、それが敗北に大きく影響したかどうかは立証不能である。

競走生活(3歳後半)

気を取り直して出走したセントジェームズパレスS(T8F)では単勝オッズ1.06倍という圧倒的な1番人気に応えて、2着タイトストリートに5馬身差をつけて快勝した。

次走は英国伝統の一戦エクリプスS(T10F)となった。距離12ハロンの英ダービーは距離が長すぎたが、距離10ハロンのこのレースなら何とかこなせると陣営は踏んだのである。レースではスタートから順調に先頭をひた走ったものの、残り2ハロン地点でスタミナ切れを起こして失速。それでも懸命に走ったものの、英ダービー2着後にキングエドワードⅦ世Sを勝って臨んできたミゴリ(同年の英チャンピオンSと翌年の凱旋門賞を勝っている)に差されて1馬身半差の2着に敗れた。それでも3着となったガルフストリーム(前年にエクリプスSを勝ち英ダービーと英チャンピオンSで2着していた)には10馬身差をつけており、能力の高さは十分に証明したとは言える。この敗戦によりマイラーとしての評価と、英ダービーの敗因は距離が長すぎたためということが確定した。

秋にはナイツロイヤルS(T8F・現クイーンエリザベスⅡ世S)に出走。英2000ギニーで負った怪我から復帰してきたペティションや、ジュライC・ナンソープS・ダイアデムS・コーク&オラリーSなど10連勝して史上有数の名短距離馬として名を馳せていたザバグ、フォレ賞・モートリー賞・セーネワーズ賞を勝っていた仏国調教馬ヴァガボンドなどが対戦相手となったが、スタートからゴールまで先頭を走り続け、2着ヴァガボンドに1馬身差、3着ペティションにはさらに8馬身半差をつけて鮮やかに逃げ切った。ゴール前ではリチャーズ騎手が手綱を緩める余裕の勝利だった。当時は古馬短距離路線がそれほど整備されていなかった影響もあり、この勝利を最後に3歳時6戦4勝の成績で競走馬を引退した。ダーリン師も本馬の引退とほぼ時を同じくして調教師生活に終止符を打っている。

競走馬としての評価

本馬は1マイル以下の距離では8戦全勝を誇ったが、1マイルより長い距離では2戦0勝だった。ブリガディアジェラードと並ぶ20世紀英国競馬界におけるマイラーの双璧とされるが、1マイルを超える距離でも問題なく走ったブリガディアジェラードと異なり、本馬は明らかに1マイルが限界だった。リチャード騎手は本馬が引退した6年後の1953年に、馬産に専念するようになっていたダーリン師の生産馬であるピンザに騎乗して、28回目の英ダービー挑戦にして遂に初優勝を飾っている。しかし彼は自分が乗った馬の中では本馬が一番強かったと言い続けたという。調教師として英ダービーを7勝したダーリン師はピンザが英ダービーを勝った年に死去したが、やはり自分が手掛けた馬の中では本馬が一番強かったと語っていたという。

本馬が引退した翌年の1948年に、競走馬がレースにおいて発揮したパフォーマンスを数学的に示すことを大きな目的として英タイムフォーム社が創設され、前年に走った馬達の評価が早速実施された。ここで本馬には144ポンドという数値が与えられた。それから70年近くが経過した現在においても、これより高い数値を獲得したのは1965年のシーバード(145ポンド)と2012年のフランケル(147ポンド)の2頭だけ(1972年のブリガディアジェラードは本馬と同じ144ポンド。リボーミルリーフダンシングブレーヴなどは本馬より下の数値である)という事実が、如何に本馬の評価が高かったかを物語っている。

本馬は祖父ハイペリオンに似て好奇心が強い馬だったようで、飛んでいった鳥を目で追いかけた後に物思いに耽ったり、トラックが走っていった音に聞き入っていたりしたという。

血統

Owen Tudor Hyperion Gainsborough Bayardo Bay Ronald
Galicia
Rosedrop St. Frusquin
Rosaline
Selene Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Serenissima Minoru
Gondolette
Mary Tudor Pharos Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
Anna Bolena Teddy Ajax
Rondeau
Queen Elizabeth Wargrave 
New Guinea
Sansonnet Sansovino Swynford John o'Gaunt Isinglass
La Fleche
Canterbury Pilgrim Tristan
Pilgrimage
Gondolette Loved One See Saw
Pilgrimage
Dongola Doncaster
Douranee
Lady Juror Son-in-Law Dark Ronald Bay Ronald
Darkie
Mother in Law Matchmaker
Be Cannie
Lady Josephine Sundridge Amphion
Sierra
Americus Girl Americus
Palotta

オーエンテューダーは当馬の項を参照。ハイペリオン直子の英ダービー馬であるにも関わらず産駒は非常にスピード色が強く、本馬の他にも英国競馬史上最強短距離馬アバーナントを出している。しかし本馬は父の初年度産駒(アバーナントは本馬より2歳年下)であり、本馬の現役時代は、オーエンテューダーの子が生粋の短距離馬になるなど誰も予想が付かなかったのは無理も無いところである。

母サンソネットは現役時代に7戦ほどしているが、詳細な競走成績は不明である。本馬の1歳年上の半姉にはネオライト(父ネアルコ)【チェヴァリーパークS・コロネーションS】がいる。ネオライトの孫にはオメヤド【愛セントレジャー】、曾孫にはセリーナ【愛オークス】、玄孫世代以降には、インディアンクイーン【ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)・アスコット金杯(英GⅠ)】、サイエダティ【英1000ギニー(英GⅠ)・モイグレアスタッドS(愛GⅠ)・チェヴァリーパークS(英GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)】、ゴールデンスネイク【ジャンプラ賞(仏GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)・ガネー賞(仏GⅠ)】などが、本馬の9歳年下の半妹レインクラウド(父ニンバス)の子にはフラッグ【ディキシーH・ニッカボッカーH・サンガブリエルH】がいる。

サンソネットの7歳年上の半兄にはザブラックアボット(父アボッツトレース)【ジムクラックS】、6歳年上の半兄にはザレコーダー(父キャプテンカトル)【クイーンアンS・プリンセスオブウェールズS】、4歳年上の半姉にはライオット(父コロラド)【ジュライS】、1歳年上の半兄には、本馬と同世代の強豪ペティションの父でもある名種牡馬フェアトライアル(父フェアウェイ)【クイーンアンS】がいる。サンソネットの8歳年上の半姉ジュリスディクション(父アボッツトレース)の曾孫にはカシミール【英2000ギニー・ロベールパパン賞】、玄孫にはエリモホーク【アスコット金杯(英GⅠ)】が、ライオットの子にはコモーション【英オークス・チャイルドS】、孫にはコンバット【サセックスS】、フォウティラージュ【セントジェームズパレスS】、亜国の歴史的名馬フォルリの父となったアリストファネス、アジテイター【サセックスS】、曾孫世代以降には、フューチャー【豪フューチュリティS・CFオーアS・アンダーウッドS2回・コーフィールドS】、日本で走ったカネケヤキ【桜花賞・優駿牝馬】、カネヒムロ【優駿牝馬】、カネミノブ【有馬記念】、ミホシンザン【皐月賞(GⅠ)・菊花賞(GⅠ)・天皇賞春(GⅠ)】などが、サンソネットの6歳年下の半妹ディッセンター(父カメロニアン)の子にはスコット【ロワイヤルオーク賞・カドラン賞・ドーヴィル大賞】がいる。

サンソネットの母レディジュラーはデューワー卿から甥のデューワー氏に継承された馬のうちの1頭で、ジョッキークラブSなど3勝を挙げている。レディジュラーは稀代の快速牝馬ムムタズマハルの半姉だが、快速馬ザテトラークを父に持つムムタズマハルと異なり、レディジュラーの父はスタミナの塊サンインローである。→牝系:F9号族③

母父サンソヴァーノはスウィンフォード直子で、現役時代は英ダービー・ジムクラックS・プリンスオブウェールズS勝ちなど12戦6勝。種牡馬としては自身と同様のスタミナ豊富な産駒を多く出した。この血統構成から本馬のような快速馬が出るのだから、血統だけで距離適性を測るのは難しい。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は英国で種牡馬入りし、自身と同様の快速馬を多く出した。産駒のステークスウイナーは43頭に上る。しかし当時の欧州では短距離路線がまだ整備されておらず、本馬の種牡馬としての活躍の場は限られていた。米国に輸出されていた産駒のトミーリーが1959年のケンタッキーダービーを勝利したのを機に本馬は米国に移り、1971年に27歳で他界した。

本馬の直系は主にキングオブザテューダーズ、シングシング、テューダーメロディーの3頭によって後世に伝えられた。日本にもテューダーメロディーの子テュデナムが輸入されて、サルノキングやホスピタリティを出したが、日本においては本馬の直系はほぼ途絶えている。欧州においても前述3頭の直系は廃れているが、その一方で競走馬としては二流だった直子ウィルサマーズから、バリダー、ヤングジェネレーションを経由する系統が細々と生き残り、その後に登場した欧州最優秀短距離馬カドゥージェネルーの種牡馬としての活躍により、21世紀になった今日でも本馬の血脈が受け継がれている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1949

Bob Major

ニューS・ジュライS

1949

Buckhound

ジョッキークラブS

1950

King of the Tudors

エクリプスS・サセックスS

1951

Minstrel

ケンブリッジシャーH

1951

Poona

サンタアニタH・サンフェルナンドS

1951

War of Roses

ジャージーS

1952

Feria

フレッドダーリンS

1954

Toro

仏1000ギニー・コロネーションS

1956

Ole Fols

サンヴィンセントS・ウィルロジャーズS・ビングクロスビーH・パロスヴェルデスH・マリブS

1956

Sallymount

ジャックルマロワ賞

1956

Tomy Lee

ケンタッキーダービー・ハリウッドジュヴェナイルCSS・デルマーフューチュリティ・ブルーグラスS

1957

Sing Sing

コーンウォリスS

1957

Tudorich

クレイヴンS・アーリントンH

1958

Rachel

ナッソーS

1960

Tzigane

チェリーヒントンS

1962

What a Treat

プライオレスS・アラバマS・ガゼルH・ベルデイムS・ブラックヘレンH

1964

Tumiga

カーターH・アーリントンH

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