和名:クサール |
英名:Ksar |
1918年生 |
牡 |
栗毛 |
父:ブリュルール |
母:キジルクールガン |
母父:オムニウム |
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第一次世界大戦終戦の年に生まれた史上初の凱旋門賞2連覇の名馬は大種牡馬トウルビヨンの父ともなる |
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競走成績:2~4歳時に仏で走り通算成績15戦11勝2着3回 |
誕生からデビュー前まで
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が暗殺されたサラエボ事件をきっかけとして始まった戦争は、後世に第一次世界大戦と呼ばれるようになったとおり世界中に戦火が飛び火した。仏国も戦場となり、仏国内における馬産は壊滅的な被害を受けたが、仏国においてもいくつかの牧場は辛うじて戦火を免れて馬産を継続することが出来た。そのような牧場の一つにノルマンディー地方カルヴァドス県にあるサン・ペア・デュモン牧場があった。本馬は第一次世界大戦が終結に向かっていた1918年に、サン・ペア・デュモン牧場の創設者である仏国競馬界の重鎮エヴレモン・ド・サンタラリ氏により生産された。
父ブリュルールは名長距離馬、母キジルクールガンは英国の誇る女傑セプターをパリ大賞で撃破した名牝であり、両親の競走成績だけで見れば抜群の組み合わせで誕生した本馬だったが、「後脚の飛節は鎌のように湾曲し、どた靴を履いたようにのろまで不器用で貧弱な動きをする」と酷評されたほど幼少期はぱっとしない馬だった。あまりに出来が悪かったためにサンタラリ氏は1歳時に本馬をドーヴィルのセリに出してしまった(本馬以前におけるキジルクールガンの繁殖成績が期待を下回っていた事も彼が本馬をセリに出した一因だったのではないかと言われている)。
しかしそんな不出来な本馬を気に入って当時の仏国史上最高価格となる15万1千フランという大枚を叩いて落札した人物がいた。それはサンタラリ氏やマルセル・ブサック氏と並ぶ仏国の大馬産家エドモン・ブラン氏だった。彼は1900年に英国三冠馬フライングフォックスをこれまた当時の英国史上最高価格となる3万7500ギニーで購入するなど、思い切った買い物をする人物だった(フライングフォックスはアジャックスの父となり、アジャックスはテディの父となったわけであるから、彼の相馬眼はかなりのものだったようである)。こんな見栄えがしない馬にこんな大金を出した理由を尋ねられたブラン氏は「確かに彼は不恰好です。しかし彼はまさにオムニウム(筆者注:フォレ賞・仏ダービー・カドラン賞・コンセイユドパリ賞2回を制し種牡馬としても成功した名馬。キジルクールガンの父でブリュルールの母父でもあった)と同じように不恰好なのです。しかもなんて美しい歩き方でしょう!」と言ったという。本馬は仏国ウォルター・R・ウォルトン調教師に預けられた。
競走生活(2・3歳時)
ブリュルール産駒は全体的に仕上がりが遅い傾向があったのだが、本馬は2歳時における調教から優れたスピード能力を示し、ブリュルール産駒としては例外的に2歳戦から走り出した。まずはいきなり仏国の主要2歳戦の一つであるサラマンドル賞(T1400m)でデビュー。ベテランのジョルジュ・ステルヌ騎手の巧みな手綱捌きにも助けられて、1番人気のペトシクを頭差の2着に破って初勝利を挙げた。次走は創設1年目の凱旋門賞当日に同じロンシャン競馬場で行われたサンロマン賞(T1800m)となったが、ここではソルダの半馬身差2着に敗れて、2歳時の成績は2戦1勝となった。
本馬が3歳になる直前の1920年12月に、ブラン氏は本馬がさらなる大活躍を披露するのを見ることなく64歳で死去してしまった。そのために本馬はブラン未亡人に受け継がれた。3歳時はオカール賞(T2400m)から始動して、1番人気のグレフュール賞勝ち馬タシトを3馬身差の2着に破って快勝。レース後にステルヌ騎手は「この馬は特別な馬です」と語った。次走のリュパン賞(T2100m)でも、2着タシトに3/4馬身差で勝利した。
そして迎えた仏ダービー(T2400m)では、ステルヌ騎手がマルセル・ブサック氏の所有馬だったダフニ賞・ギシュ賞の勝ち馬グレージングに乗る先約があったために、フランク・ブロク騎手とコンビを組んだ。レースでは中団から鋭く抜け出して、2着グレージングに1馬身半差をつけて完勝した。2週間後には両親が共に制したパリ大賞(T3000m)に圧倒的1番人気で出走した。しかし結果は、英シャンペンSの勝ち馬で英2000ギニー2着・英ダービー3着だった英国調教馬レモノラの4着に敗れてしまった。敗因はよく分からないが、3歳になってからの3戦連続の激戦で疲労が溜まっていたためとも、堅すぎる馬場状態が本馬に合わなかったためとも言われている。
夏場は完全休養に充て、秋はロワイヤルオーク賞(T3000m)から始動。パリ大賞で本馬に先着したフレショワ、ハルポクラトの2頭や、タシト、グレージングなどが対戦相手となったが、2着フレショワ以下にあっさりと勝利した。3週間後には創設2年目の凱旋門賞(T2400m)に出走。カドラン賞の勝ち馬オドル、英国でジョッキークラブSを勝っていたトアロア、ドーヴィル大賞の勝ち馬ザグレユ、タシトなどが対戦相手となったが、再びステルヌ騎手とコンビを組んだ本馬が単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持された。レースでは四角先頭から押し切って2着フレショワに2馬身差で勝利した。10日後のエドガールジロワ賞(T2400m)ではヴァテールと1着同着で勝利し、3歳時7戦6勝の成績を残して休養入りした。
競走生活(4歳時)
4歳時は4月のサブロン賞(T2000m・現ガネー賞)から始動した。ここではブロク騎手とコンビを組んで、2着シドカンペアドール以下に楽勝した。次走のカドラン賞(T4000m)でも、フレショワやハルポクラトを撃破して、2着フレショワに1馬身差で勝利した。続く仏共和国大統領賞(T2500m・現サンクルー大賞)では英国人騎手のジョー・チルズ騎手が騎乗した。しかしチルズ騎手が本馬を抑え過ぎたために折り合いを欠いてしまった上に仕掛けも遅れて、愛セントレジャー・イスパーン賞を勝ってきたカーカビンの頭差2着に敗れてしまった。その後はプランスドランジュ賞(T2400m)に出走。エドモンブラン賞・ドーヴィル大賞の勝ち馬バハドゥールを2着に破って楽勝して前走の汚名を返上した。
そして2度目の凱旋門賞(T2400m)に登場した。スターン騎手が騎乗予定だった仏ダービー馬ラムズが発走除外となったが、ロワイヤルオーク賞を勝ってきたケロール、パリ大賞・仏グランクリテリウムの勝ち馬ケファリン、仏2000ギニー馬モンブラン、バハドゥール、前年の同競走2着馬フレショワといった強敵が対戦相手となった。しかし単勝オッズ1.3倍という断然の1番人気に支持されたブロク騎手鞍上の本馬が、先行抜け出しの優等生的競馬で2着フレショワに2馬身半差で楽勝して、同レース初の2連覇を達成した。次走はグラディアトゥール賞(T6200m)となったが、さすがに距離が長すぎた上にスタミナを消耗する重馬場になった事も影響したのか、フレショワの2馬身差2着に敗れてしまった。これを最後に4歳時6戦4勝の成績で競走馬を引退した。本馬の獲得賞金総額は163万4775フランに達したが、これは当時のレートで25万ドル以上に相当したため、マンノウォーの24万9465ドルを上回り世界賞金王に君臨した。また、両親共に10万フラン以上を稼いでおり、親子3頭全てが10万フランを獲得したのも史上初のことであった。
血統
Bruleur | Chouberski | Gardefeu | Cambyse | Androcles |
Cambuse | ||||
Bougie | Bruce | |||
La Lumiere | ||||
Campanule | The Bard | Petrarch | ||
Magdalene | ||||
Saint Lucia | Rosicrucian | |||
Rose of Tralee | ||||
Basse Terre | Omnium | Upas | Dollar | |
Rosemary | ||||
Bluette | Wellingtonia | |||
Blue Serge | ||||
Bijou | St. Gatien | The Rover | ||
Saint Editha | ||||
Thora | Doncaster | |||
Freia | ||||
Kizil Kourgan | Omnium | Upas | Dollar | The Flying Dutchman |
Payment | ||||
Rosemary | Skirmisher | |||
Vertumna | ||||
Bluette | Wellingtonia | Chattanooga | ||
Araucaria | ||||
Blue Serge | Hermit | |||
Blue Sleeves | ||||
Kasbah | Vigilant | Vermouth | The Nabob | |
Vermeille | ||||
Virgule | Saunterer | |||
Violet | ||||
Katia | Guy Dayrell | Wild Dayrell | ||
Reginella | ||||
Keapsake | Gladiateur | |||
Humming Bird |
父ブリュルールは本馬と同じくサンタラリ氏の生産馬で、現役成績は14戦5勝。パリ大賞・ロワイヤルオーク賞などを制した名長距離馬だった。種牡馬としても4頭の仏ダービー馬を含む数々の活躍馬を送り出し、1921・24・29年と3度の仏首位種牡馬となっている。ブリュルールの父チョウベルスキーは1戦未勝利だが、その父ガルドフューはリュパン賞・仏ダービーの勝ち馬。さらに直系を遡ると、イスパーン賞の勝ち馬カンビュス、アンドロクレス、リュパン賞の勝ち馬ドラールを経て、ザフライングダッチマンに行きつく。
母キジルクールガンは当馬の項を参照。競走成績では抜群だったキジルクールガンも死産や不受胎が多かったため当初の繁殖成績は期待外れであり、19歳時に産んだ本馬の活躍によりようやく繁殖牝馬としても優秀だったという評価を得るに至った。→牝系:F3号族①
母父オムニウムはキジルクールガンの項を参照。オムニウムはブリュルールの母父でもあるため、本馬はオムニウムの2×3という強いインブリードを有することになる。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はブラン未亡人が所有していたジャルディ牧場で種牡馬入りした。本馬は種牡馬としても優秀で、父ブリュルールと種牡馬成績で凌ぎを削り、多くの活躍馬を出した。1931年には代表産駒トウルビヨンの大活躍により仏首位種牡馬となった。1935年、17歳時に米国の馬産家アブラム・S・ヒューイット氏により購入されて渡米した。しかし既に老年期に差し掛かっていた本馬には太平洋の横断はかなり過酷だったようで、米国到着時には一時期危篤状態だったという。なんとか体調が戻ったために米国ヴァージニア州のモンタナホールスタッドで種牡馬生活を開始したが、2年後の1937年に内臓出血のため19歳で他界し、遺体はモンタナホールスタッドに埋葬された。
トウルビヨンが後継種牡馬として大成功し、貴重なヘロド系の血筋を後世に伝えている。また、本馬の血を引く馬は障害競走や馬術競技で活躍した馬も多かった。繁殖牝馬の父としては凱旋門賞・仏ダービー・パリ大賞・ロワイヤルオーク賞・リュパン賞などを制した名馬ルパシャを出している他、1960年のローマオリンピックにおける馬術競技で米国チームの銀メダル獲得に貢献したクサールデスプリなども出している。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1926 |
Meeting |
トーマブリョン賞 |
1926 |
Ukrania |
仏オークス |
1927 |
Advertencia |
モーリスドギース賞 |
1927 |
Amfortas |
アルクール賞2回・ビエナル賞・リューテス賞・サブロン賞 |
1927 |
Diademe |
ペネロープ賞 |
1927 |
Ut Majeur |
シザレウィッチH |
1928 |
Confidence |
ポモーヌ賞・アスタルテ賞・ドーヴィル大賞 |
1928 |
仏ダービー・リュパン賞・オカール賞・グレフュール賞 |
|
1928 |
Wood Violet |
クインシー賞 |
1930 |
La Circe |
ヴェルメイユ賞 |
1930 |
Thor |
仏ダービー・カドラン賞 |
1931 |
Fedor |
リューテス賞 |
1934 |
Barberybush |
マルレ賞 |
1934 |
Le Ksar |
英2000ギニー |
1934 |
Malkowicze |
ビエナル賞 |
1935 |
Castel Fusano |
リュパン賞・コンデ賞 |