アソールト

和名:アソールト

英名:Assault

1943年生

栗毛

父:ボールドヴェンチャー

母:イグアル

母父:エクワポイズ

幼少期に杭を踏み抜いて右前脚が生涯不自由になったという競走馬としては致命的なハンデを克服して米国三冠を達成した「蟹脚の彗星」

競走成績:2~7歳時に米で走り通算成績42戦18勝2着6回3着7回

誕生からデビュー前まで

史上7頭目の米国三冠馬。米国テキサス州のキングランチ牧場において同牧場主のロバート・クリーバーグ・ジュニア氏により生産された。1歳時に右前脚で測量用の杭を踏み抜いてしまい、蹄叉と蹄壁を釘が貫通するという殺処分寸前の大怪我を負った。そのため右前脚の蹄は変形し、生涯歩様が不安定となってしまった。しかも本馬は腎臓、腓骨(後脚の膝から先の骨)、脚首、膝などにも問題を抱えており、しばしば出血していたという。また、本馬を生産したキングランチ牧場は馬産の中心地だったケンタッキー州から離れていた事もあり、サラブレッドよりも牛やクォーターホースの生産に重きを置いていた。

そんなところで誕生した上に健康面でも問題ばかりだった本馬を評価する者がいるはずもなく、買い手が付かなかった本馬はキングランチ牧場の所有馬のまま、本馬と同じくテキサス州出身だったマックス・ハーシュ調教師に預けられた。ハーシュ師はかつてグレイラグサラゼン、本馬の父であるボールドヴェンチャーといった多くの名馬を手掛けた名伯楽で、晩年はキングランチ牧場の専属調教師になっていたのである。ハーシュ師は脚のハンデをフォローするため、本馬のために特製の蹄鉄を用意した。調教時に下手に乗るとバランスを崩して横にジャンプしてしまい、乗り手を振り落としてしまうため、騎乗する際は細心の注意が必要とされたという。

競走生活(2歳時)

2歳6月にベルモントパーク競馬場で行われたダート4.5ハロンの未勝利戦でデビューしたが、勝ち馬から14馬身差の12着に沈んだ。同コースで出走した次走の未勝利戦では、主戦となるW・マーテンズ騎手とコンビを組んだが、勝ち馬から1馬身3/4差の5着に敗退。さらに同コースで出た未勝利戦では、勝ち馬ミストオゴールドから3馬身差の2着に敗退。7月に出走したアケダクト競馬場ダート5.5ハロンの一般競走を1馬身1/4差で制して、4戦目にしてようやく勝ち上がった。

5戦目のイーストビューS(D6F)では、ミストオゴールドの8馬身半差5着と完敗した。しかし6戦目のフラッシュS(D5.5F)では単勝オッズ71倍の11番人気ながら、ミストオゴールドと写真判定に持ち込まれる激戦を演じ、鼻差で勝利を収めて2勝目を挙げた。

しかしその後はバビロンH(D6F)でサザンプライドの4馬身差3着。カウディンS(D6.5F)でノックダウンの4馬身差4着。ジャマイカ競馬場ダート6ハロンの一般競走では後の好敵手ロードボスウェルの3馬身差2着と、3戦続けて勝つことが出来ず、2歳時は9戦して2勝を挙げるに留まった。

競走生活(3歳前半)

3歳時は4月にジャマイカ競馬場で行われたエクスペリメンタルフリーH(D6F)から始動して、4馬身半差で圧勝。続くウッドメモリアルS(D8.5F)では、フラミンゴS勝ち馬ラウンドビュー、シャンペンS勝ち馬マリーンヴィクトリー、サンフェリペS2着馬ハムデンなどを蹴散らして、2着ハムデンに2馬身1/4差で快勝。これで一気にケンタッキーダービー候補となった。しかしダービートライアルS(D8F)ではリッピーの4馬身半差4着に敗れてしまい、これで少し評価を落とした。

そのためにケンタッキーダービー(D10F)では4番人気となった。1番人気はブルーグラスS勝ち馬ロードボスウェルとノックダウンのカップリング、2番人気がハムデンで、3番人気はダービートライアルSで本馬に先着する2着だったアーリントンフューチュリティ勝ち馬スパイソングだった。しかしレースでは逃げるスパイソングを見る形で先行した本馬が、直線インコースからあっさり抜け出すと瞬く間に後続との差を広げ、2着に逃げ粘ったスパイソングに8馬身差という同レース史上最大着差タイで圧勝した。鞍上のマーテンズ騎手にとってはこれが最初で最後のケンタッキーダービー騎乗だった。

1番人気となった次走のプリークネスS(D9.5F)では、馬群がごちゃついたために前が塞がる事を懸念したマーテンズ騎手は本馬を早めに先頭に立たせた。ゴールまで残り1ハロン地点で後続に4馬身差をつけていた本馬だが、ここで失速してしまい、猛然と追い込んできたロードボスウェルとの差が一気に縮まった。しかし最後は本馬がロードボスウェルの追撃を首差凌いで優勝した(3着にはケンタッキーダービーに続いてハムデンが入った)。

次走のベルモントS(D12F)では、前走のレースぶりからスタミナ不足が指摘され、米国三冠馬誕生が懸かっているにも関わらずロードボスウェルに1番人気の座を譲る事になった。レースではスタート直後に躓いてマーテンズ騎手が危うく落馬する寸前となった。その結果として後方からのレースとなり、最終コーナーで大外を回る際に他馬に接触するというアクシデントもあったが、最後は後のトラヴァーズS勝ち馬ナチェズに3馬身差をつける完勝を収め、1943年のカウントフリート以来3年ぶり史上7頭目の米国三冠馬の名誉を手にした。なお、テキサス州産まれの米国三冠馬は現在のところ本馬唯一頭である。

競走生活(3歳後半)

2週間後のドワイヤーS(D10F)も2着ウインドフィールズに4馬身半差で圧勝し、ここでようやく世代最強馬として万人に認められた。もっとも、米国三冠競走やドワイヤーSの勝ちタイムが全般的に遅かったため、世代のレベルには疑問が投げかけられていた。弱い世代の三冠馬という評価は、次走アーリントンクラシックS(D10F)で1番人気に応えられずザデュードの8馬身1/4差6着最下位と惨敗してしまった時には決定的なものと思われた。もっとも、本馬はこのレース後に痛みを訴えており、診察の結果腎臓の感染症である事が判明した。

感染症の治療のために40日ほどの休養を経て出走したディスカヴァリーH(D9F)では、マイティーストーリーの3馬身半差3着。ジャージーH(D9F)でも、ディスカヴァリーHで2着だったマハウトの半馬身差2着と連敗。次走のマンハッタンH(D12F)では、ブルックリンH・グレイラグH2回・ウエストチェスターHを勝っていたスタイミー、サラトガスペシャルS・ベルモントフューチュリティS・ホープフルS・マサチューセッツHなども勝っていた前年のベルモントS勝ち馬パヴォットという古馬の強豪2頭と顔を合わせた。実はスタイミーは本馬と同じキングランチ牧場で誕生した馬で、生産者は本馬の調教師ハーシュ師だった。しかし2歳時のクレーミング競走でハーシュ・ジェイコブス調教師夫妻に購入され、ハーシュ師の元を離れていた。もしかしたら同厩になっていたかも知れない2頭の初対戦は、本馬が9ポンドのハンデを貰いながらスタイミーの3着(フレアバックという馬と同着。パヴォットが2着だった)に敗れてしまった。

さらに、この年の米最優秀3歳牝馬に選ばれるデラウェアH・ガゼルH・ベルデイムH勝ち馬ブライダルフラワーとの対戦となったローマーH(D9.5F)では、ブライダルフラワーに半馬身屈して2着に敗れ、世代最強の座も危うくなってしまった。ギャラントフォックスH(D13F)では再度スタイミーとの対戦となった。斤量差はマンハッタンHよりさらに広がって11ポンド差となっていたにも関わらず、コースレコードで勝ったスタイミーから4馬身半、2着リコモンテからも2馬身離された3着に終わり、とうとう6連敗となった。そのため、ハーシュ師は本馬の主戦をマーテンズ騎手からエディ・アーキャロ騎手に交替する決断を下した。

次走のピムリコスペシャルS(D9.5F)では、スタイミー、ブライダルフラワーとの対戦となった。ハーシュ師はアーキャロ騎手に対して、スタイミーが後方から本馬に接近してくるまで仕掛けを待つよう指示した。アーキャロ騎手がその指示どおりにスタイミーが来るのを待ってから本馬をスパートさせると、本馬は素晴らしい伸びを見せてスタイミーを引き離し、最後は2着スタイミーに6馬身差をつけて完勝した(ブライダルフラワーは3着だった)。

さらにメトロポリタンH・ブルックリンH・ベルデイムH・エイコーンSなどを勝っていた古馬牝馬最強のギャロレットとの対戦となったウエストチェスターH(D9.5F)では、2着ラッキードローに2馬身差で勝利した(ギャロレットは6着最下位だった)。この2戦により本馬の実力はようやく認められたと言える。この年15戦8勝の成績を残した本馬は、米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬に選出された。

競走生活(4歳時)

冬場の休養中に本馬の競走能力はさらに向上したが、同時に気性が荒くなり、常に空腹を訴え、空腹が満たされないと身食い癖(馬服を噛んだり、自分を噛んだりする癖)を出すために厩務員はいつも早めに食事を与える必要が生じるようになった。

半年の休養明け初戦となった5月のグレイラグH(D9F)では、早速スタイミーとの再戦となった。斤量は同競走を2連覇していたスタイミーの126ポンドに対して本馬が128ポンドと前年から逆転していたが、本馬が2着レッツダンスに首差で勝利した(スタイミーは4着だった)。続くディキシーH(D9.5F)も、2着リコモンテに半馬身差で勝利。再度スタイミーと顔を合わせたサバーバンH(D10F)の斤量は、スタイミーの126ポンドに対して本馬が130ポンドとなったが、結果は本馬が2着ナチェズに2馬身差で勝利を収め、スタイミーは本馬から10馬身差の4着に沈んだ。次走ブルックリンH(D10F)でもスタイミーとの対戦となり、斤量はスタイミーの123ポンドに対して本馬は133ポンドとかなりのハンデ差となったが、それでも本馬が2着スタイミーに3馬身差をつけて完勝した。本馬がもしサバーバンHの前にメトロポリタンHに出走して勝っていれば、米国三冠とニューヨークハンデ三冠を両方達成した史上唯一の馬になっていたところだった。本馬不在のメトロポリタンHはスタイミーが勝っているが、本馬が出ていたら果たしてどうなっていただろうか。

次走バトラーH(D9.5F)ではスタイミーだけでなくギャロレットも参戦してきた。本馬は135ポンドの負担重量を負わされ、他の2頭とはかなりの差(スタイミーは126ポンド、ギャロレットは117ポンド)があった。レースではスタイミーとギャロレットの2頭が先頭を争う後方で本馬は進路を失って立ち往生したが、僅かな隙間を突いて先頭に踊り出ると、2着スタイミーに頭差、3着ギャロレットにはさらに1馬身半差をつけて勝利した。このレースは本馬のベストレースの1つである。

次走のベルモント金杯(D13F)では、スタイミーに雪辱を許して4馬身1/4差の3着(スタイミーから首差の2着がナチェズ)に敗れ、連勝は7で止まった。

次走はベルモントパーク競馬場ダート10ハロンで施行されたマッチレースだった。対戦相手のアームドは、ピムリコスペシャルS・ワイドナーH2回・ディキシーH・サバーバンH・ワシントンパークH2回・ガルフストリームパークH・スターズ&ストライプスH・アーリントンHなど数多くのステークス競走を勝ち、やはりスタイミーを幾度も下してきた強豪馬だった。このマッチレースは当初8月末に予定されていたが、本馬の負傷により9月末に延期されていた。レース前の調教で本馬の調子は悪かったが、2頭のマッチレースは大きな注目を集めていたためにこれ以上の延期は出来ないと考えたクリーバーグ氏は本馬の出走を決断した。アメリカ動物虐待防止協会が本馬の状態を確認した上でレースは行われたが、本馬はレース中に負傷してしまい、アームドから8馬身差の大敗を喫してしまった。アーキャロ騎手を始めとする本馬の関係者は口を揃えて出走させるべきではなかったと後悔の弁を残した。それでも4歳時の成績は7戦5勝で、アームドと共にこの年の米年度代表馬に選出された(ただし米最優秀ハンデ牡馬騙馬はアームドのみが受賞)。

競走生活(5歳時以降)

本馬は4歳いっぱいで競走馬を引退してキングランチ牧場で種牡馬入りする予定だったが、受精能力が非常に低いことが判明したため現役を続行することになった。しかし、その後の本馬はアームドとのマッチレースで負った怪我が悪化して管骨瘤に悩まされ、往年の勢いを失ってしまう。5歳時は初戦となった2月のハイアリアパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走を2着ランパートに頭差で何とか勝利し、次走のワイドナーH(D10F)でアームドと2度目の対戦となった。しかし2頭とも既にかつての面影は無く、本馬はコースレコードで勝ったエルモノから7馬身差の5着、アームドはエルモノから5馬身半差の4着と惨敗してしまい、2頭揃って長期休養入りとなった(本馬とアームドは2度と顔を合わせなかった)。

1年4か月のブランクを経た本馬は、6歳6月にアケダクト競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走で復帰して、鼻差の2着。次走のブルックリンH(D10F)は、ベルモントS・ウッドメモリアルS・ドワイヤーS・ジョッキークラブ金杯を勝っていた1歳年下の米最優秀3歳牡馬ファランクス、エイコーンS・ピムリコオークス・アーリントンクラシックS・アラバマS・アーリントンメイトロンH・ベルデイムHを勝っていた一昨年の米最優秀ハンデ牝馬及び米最優秀3歳牝馬バットホワイノット、前年のブルックリンH・ベルデイムHを勝って米最優秀ハンデ牝馬に選ばれていたコナイヴァー、サンタアニタH・サバーバンH・シャンペンS・ウィザーズSを勝っていたヴァルカンズフォージ(本馬の母の従兄弟に当たる)といった強敵揃いのレースとなった。しかし本馬が2着ヴァルカンズフォージに3/4馬身差で勝ち、同競走2年ぶりの勝利を挙げた。

しかし復活を思わせたのは束の間で、その後はマサチューセッツH(D10F)でファーストナイターの3馬身差4着。エッジメアH(D9F)でマイリクエストの3馬身3/4差3着(かつての好敵手スタイミーは5着。これが本馬とスタイミーの最後の対戦であり、対戦成績は本馬の6勝3敗だった)。この年のプリークネスS・ベルモントSを勝っていたカポットとの顔合わせとなったグレイラグH(D8.5F)では、ロイヤルガヴァナーの6馬身1/4差8着(カポットは3着)と惨敗。その後は再度長期休養入りとなり、6歳時の成績は5戦1勝となった。

1年間の休養を経た本馬は、初めて米国西海岸に姿を現し、7歳11月にハリウッドパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走に出走。しばらく本馬の主戦を離れていたアーキャロ騎手を鞍上に2馬身差で勝利を収めた。しかし続くハリウッドパーク競馬場ダート9ハロンの一般競走では、この年頭角を現して米国三冠馬サイテーションに4連勝していた新星ヌーアに8馬身差をつけられ3着に敗退。翌週のハリウッド金杯(D10F)で勝ったヌーアから10馬身差の7着に敗れたのを最後に、完全に現役生活にピリオドを打った。

数々の名馬に騎乗したアーキャロ騎手は本馬を自分が乗った中ではサイテーションに次ぐ馬と評価し、同じく数々の名馬を手掛けたハーシュ師は本馬を自分が調教した中では最高の馬と評価している。名前は「襲撃」という意味で、本馬の先祖(父ボールドヴェンチャーの母父父と、母父エクワポイズの曽祖父)である名馬コマンド(名前は「奇襲攻撃隊」の意味)に敬意を表して命名されたという。

血統

Bold Venture St. Germans Swynford John o'Gaunt Isinglass
La Fleche
Canterbury Pilgrim Tristan
Pilgrimage
Hamoaze Torpoint Trenton
Doncaster Beauty
Maid of the Mist Cyllene
Sceptre
Possible Ultimus Commando Domino
Emma C.
Running Stream Domino
Dancing Water
Lida Flush Royal Flush Favo
Flush
Lida H Lisbon
Luella
Igual Equipoise Pennant Peter Pan Commando
Cinderella
Royal Rose Royal Hampton
Belle Rose
Swinging Broomstick Ben Brush
Elf
Balancoire Meddler
Ballantrae
Incandescent Chicle Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Lady Hamburg Hamburg
Lady Frivoles
Masda Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token

父ボールドヴェンチャーは現役成績11戦6勝。ケンタッキーダービー・プリークネスSを制したが、ベルモントS前に故障で引退した。種牡馬としては当初の産駒が振るわず人気を落としたが、本馬を生産したロバート・クリーバーグ・ジュニア氏によって見出され、本馬の活躍によって再び脚光を浴び、その後もケンタッキーダービーとベルモントSを制したミドルグラウンドや、サラブレッドだけでなくクォーターホースの種牡馬として成功したデプスチャージ(米国三冠馬カウントフリートの半弟)などを出して成功した。ボールドヴェンチャーは父としてケンタッキーダービー馬を2頭輩出した史上唯一のケンタッキーダービー馬である。ボールドヴェンチャーの父セントジャーマンズはトゥエンティグランドの項を参照。

母イグアルは不出走馬だが、母としては本馬の全妹オンユアオウン【ガゼルH】も産んでいる。イグアルの牝系子孫はなかなかの発展ぶりを示しており、本馬の全妹シンイグアルの牝系子孫にウェルチョーズン【アッシュランドS(米GⅠ)】とテリング【ソードダンサー招待S(米GⅠ)2回】の母子や、アカデミーアワード【マンハッタンH(米GⅠ)】、ゴールデンチケット【トラヴァーズS(米GⅠ)】が、全妹イコールヴェンチャーの子にサイダム【グレイラグH】、ハートランド【テストS・ディスタフH・ベッドオローゼズH】、プルーヴアウト【ウッドワードS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)・グレイラグH(米GⅡ)】、孫にソルフォード【エクリプスS(英GⅠ)】とノービアス【サンカルロスH(米GⅡ)・ヴォスバーグS(米GⅢ)】、牝系子孫にホワイホワイホワイ【ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)】、パンクティリオス【ヨークシャーオークス(英GⅠ)】、クリスプ【サンタアニタオークス(米GⅠ)】、ステイサースティ【トラヴァーズS(米GⅠ)・シガーマイルH(米GⅠ)】が、全妹バランカの玄孫に日本の地方競馬で活躍したサクラハイスピード【川崎記念】がいる。

イグアルの母インカンデセントの半妹バーニングブライトの子にはブルックリンHで本馬と対戦経験があるヴァルカンズフォージ【サンタアニタH・サバーバンH・シャンペンS・ウィザーズS】がいる。インカンデセントの母マスダはマンノウォーの2歳年上の全姉であるから、本馬の牝系はかなり優秀である。→牝系:F4号族①

母父エクワポイズは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、キングランチ牧場で余生を送った。前述のとおり授精能力が低く、全うな種牡馬生活は送れなかった。完全な不妊ではなく、クォーターホースとして登録された子を含めて産駒は僅かにいるが、競走馬として活躍した産駒はいない。1964年に米国競馬の殿堂入りを果たした。1971年に左前脚骨折のためキングランチ牧場において28歳で他界し、遺体は同牧場内に埋葬された。本馬はその不自由な歩き方から“蟹脚(びっこ、足曲がりの意味)”などと揶揄されたこともあった。最初に本馬が駆け足で走るのを見たハーシュ師は、勝ち上がるどころかデビューできるかどうかさえも危うんだという。実際にレースに向かう際に躓いたり転んだりする事もあったという。しかし不思議な事にレースを走る段階になると驚くほど安定した脚取りに変わっていた。そのため、本馬はいつしか賞賛の意味合いを込めて“Club-footed Comet(蟹脚の彗星)”と呼ばれるようになった。本馬が三冠を達成した年は第二次世界大戦終了の翌年であり、本馬は復興に向けて歩みだした米国の不屈の精神の象徴として人々の希望の星となったという。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第33位。

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