和名:ヴォルティジュール |
英名:Voltigeur |
1847年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ヴォルテアー |
母:マーサリン |
母父:ムラット |
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好敵手ザフライングダッチマンと名勝負を演じた英ダービー・英セントレジャー優勝馬はセントサイモンの直系先祖ともなる |
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競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績11戦6勝2着2回 |
誕生からデビュー前まで
父ヴォルテアーの生産者でもある英国の馬産家ロバート・スチーブンソン氏により生産された。体高15.3ハンドで筋肉質の力強い馬で、頭部の造りはやや粗末だったが、優れた膝の持ち主だったという。また、気性は非常に大人しく従順だった。しかし、1歳時にドンカスターで行われたセリに出された時は、首と身体が重すぎると評されたため、買い手が付かずにスチーブンソン氏の元に戻ってきてしまった。しかしこのセリにはロバート・ヒル調教師が参加していた。彼は英国の政治家で英国ジョッキークラブの古参メンバーでもあった第2代ゼトランド伯爵トマス・ダンダス卿の専属調教師だった。ヒル師は本馬を非常に気に入り、翌年の秋にダンダス卿を説得して、ダンダス卿がヨークシャーに所有していたアスクホール邸に本馬を連れてきてもらった。そして1歳年上のヨークシャーオークス勝ち馬エレンミドルトンと2回の試走を行ったところ、2回とも本馬が信じられないほど圧倒的な勝利を収めた。それを見たダンダス卿は本馬を購入することを決定した。購入額は1000ポンドで、本馬が英ダービーを勝った際にはさらに500ポンドをスチーブンソン氏に支払うオプション付きだった。
競走生活(英ダービーまで)
体重を絞ろうとしたヒル師の厳しい調教を受けた本馬は、2歳10月にリッチモンド競馬場で行われたライトSで競走馬デビューした。パドックから印象的な姿を見せていた本馬は、2着マークタップリーに1馬身差をつけて勝利した。2歳戦はこの1戦のみで終え、3歳時は英2000ギニーを回避して目標を英ダービーに絞った。
ところが英ダービーの直前になって、本馬の生産者スチーブンソン氏が出走のための正式な登録をしていなかった事が発覚した。追加登録料は400ポンドと非常に高額だったため、ダンダス卿は本馬の英ダービー回避を検討した。しかしダンダス卿がヨークシャーに所有していた広大な土地の借地人が既に本馬の英ダービー制覇に高額のお金を賭けており、本馬が英ダービーに出走しなかった場合は悲惨な憂き目に遭う状況だった(英国のブックメーカーは、出走馬が取り消しをした場合でも、賭け金を返還しなくても良いようになっていた)。そのため借地人は追加登録料を支払うようにダンダス卿を説得した。この説得に折れたダンダス卿は、本馬の英ダービー(T12F)出走に踏み切った。
そしてエプソム競馬場に到着した本馬だったが、列車による旅行の疲労により最初の調教の調子が悪かったために多くの人から無視された。2度目の調教では申し分ない動きを見せたが、それでも懐疑的に捉えられ、最終的には単勝オッズ17倍の伏兵扱いだった。出走予定馬は24頭だったが、そのうちディークーンという馬が発走直前に年齢詐称が発覚して除外となり、発走は遅れた。ようやくスタートが切られると、ジョブ・マーソン騎手鞍上の本馬は7番手を追走した。そして直線では内側を突いて残り1ハロン地点で先頭に立ち、人気を集めていた英2000ギニー馬ピッツフォードを1馬身差の2着に、クリンチャーをさらに半馬身差の3着に下して優勝した。勝ちタイム2分50秒0は前年のザフライングダッチマンのものより10秒も速かった。なお、本馬が英ダービーを勝った暁には500ポンドを生産者のスチーブンソン氏に支払う約束をしていたダンダス卿が、くだんの登録漏れで余計に必要となった400ポンドと相殺して100ポンドだけ支払ったのかどうかは資料に何の記載も無いため定かではない。
英セントレジャー
英ダービーの後にダンダス卿とヒル師は、本馬をこの年の英セントレジャーと、その2日後に行われるドンカスターCの両方に出走させる壮大な野望を抱いた。そのため本馬はしばらくレースに出ず、秋の英セントレジャー(T14F127Y)に直行した。ここでは単勝オッズ1.62倍という断然の1番人気に支持された。出走馬は本馬やピッツフォードを含めて8頭だったが、他馬の騎手が本馬を馬群に閉じ込めるようにレースを進めたため、マーソン騎手は当初思い描いていたような直線で早めに抜け出す作戦を採る事が出来そうになかった。マーソン騎手は直線で仕掛けが遅れて敗れるよりはと、直線に入る前のコーナーで開いた馬群の隙間を抜けて先頭で直線に入り、超ロングスパートで粘り込む作戦を採った。ゴール前ではさすがにスタミナが尽きて失速し、マーソン騎手が必死で拍車を入れる中、追い込んできたラズボローと並んでゴールインした。主催者側は同着を宣言したが、両馬の所有者が同着優勝をよしとしなかったために、同日午後に同コースで決勝戦が行われる事になった。
ヒル師は決勝戦まで本馬を厩舎で完全に休ませるつもりだったが、当時英国有数の名伯楽として名を馳せていたジョン・スコット調教師が「それをすると身体が固くなります」と助言したため、それに従い、歩行運動をさせながら備えることにした。そして迎えた決勝戦では、ラズボローを先に行かせて後方を追走。残り1ハロン地点で内側から悠々とラズボローを抜き去って1馬身差で勝利した。
1日で2回も英セントレジャーの長い距離を走ったにも関わらず、その翌日に行われたスカーバラSに本馬は参戦。これは英ダービーの後、英セントレジャーとドンカスターCの間にこのレースに出走する約束をしていたためであるらしい。しかし対戦相手が出現しなかったため、単走で勝利した。
ザフライングダッチマンとの対決
そのまた翌日には予定どおりドンカスターC(T20F)に出走した。このレースの出走馬は本馬を含めて2頭だったが、もう1頭は英ダービー・英セントレジャー・ロシア皇帝プレート(現アスコット金杯)など14戦無敗を誇った1歳年上のザフライングダッチマンだった。無敗馬同士とは言え、実績ではザフライングダッチマンが上であり、斤量は本馬が19ポンド軽かったが、単勝オッズ1.18倍の1番人気に支持されたのはザフライングダッチマンだった。
ところがザフライングダッチマンの鞍上チャールズ・マーロウ騎手はレース前から泥酔しており、序盤から例外的に速いペースで飛ばしまくった。そのため、マーソン騎手鞍上の本馬はじっくりと勝機を伺うことが出来た。そして直線で脚色が鈍ったザフライングダッチマンを捕らえると半馬身差をつけて勝利し、ザフライングダッチマンに生涯初めての黒星をつけて波乱を演出した。
レース直後に本馬の所有者ダンダス卿とザフライングダッチマンの所有者第13代エリントン伯爵アーチボルド・モントゴメリー卿の2名の間で話し合いが行われ、翌春にヨーク競馬場において、2頭による再戦として2000ギニーマッチレースが行われることが決定した。本馬は3歳時を4戦全勝で終え、4歳時は来るべきザフライングダッチマンとの再戦に向けて他のレースには出ずに調整を続けた。
そして迎えた翌1851年5月13日、もはや伝説となった“The Flyer”と“Volti”による世紀のマッチレースが行われた。このレースはヨーク競馬場の距離2マイルで行われ、公式ハンデキャッパー担当で馬齢重量戦を考案した事で知られる英国ジョッキークラブ事務長ヘンリー・ジョン・ロウズ氏により、斤量はザフライングダッチマンが120.5ポンド、本馬は112ポンドと定められ、オッズは互角であった。このレースは通常競馬に興味を持たない人々の間でも話題となり、ヨーク競馬場には約10万人という大群衆が集まった。これは1799年にニューマーケット競馬場で行われたハンブルトニアンとダイアモンドのマッチレースでさえも無意味に帰するほどの一大イベントであると評された。2頭の調教においても、両馬の状態を知ろうとする大群衆が集まった。レース当日の大群衆は2頭の応援団に分割され、凄まじい熱気に包まれた。
レースではナット・フラットマン騎手が騎乗した本馬が先手を取り、その後方をマーロウ騎手鞍上のザフライングダッチマンが追いかける展開となった。直線に入ると2頭が並んで激しい叩き合いになったが、残り1ハロン地点でフラットマン騎手が鞭を落としてしまった影響もあったのか、ザフライングダッチマンが徐々に前に出て、最後は1馬身差で勝利。本馬は生涯初の敗戦を喫した。
ザフライングダッチマンとの対決以降
ザフライングダッチマンはこのレースを最後に引退したが、本馬はこのレースの翌日にアンスティハントC(T16F)に出走した。しかし37ポンドのハンデを与えた3歳牝馬ナンシーの2着に敗れた。しかしナンシーはこの後にグレートヨークシャーS・エボアH・グッドウッドCを勝つ実力馬であり、この敗戦で本馬の評価が下がる事はなかった。4歳時はこの2戦のみで終えた。
5歳時は4月にヨーク競馬場で行われた、好敵手の名を冠したザフライングダッチマンHから始動した。125ポンドのトップハンデを課されたが、名牝クイーンメアリーの娘でハンプトンの祖母となるハリコットの追撃を頭差凌いで勝利を収めた。次走のロシア皇帝プレート(T20F・現アスコット金杯)では単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持されたが、泥だらけの不良馬場に脚を取られて、ジョーミラーの5着に敗退。8月にはヨーク競馬場でエボアH(T14F)に出て、ここでもトップハンデが課された。結果は、46ポンドのハンデを与えていた牝馬アディーネの8着に惨敗した。それにも関わらず、同日午後にはカントリープレート(T5F)に出走した。この出走は実に奇妙な決定だったと評された。結果は5頭立ての最下位に終わり、これが現役最後のレースとなった。5歳時の成績は4戦1勝だった。
1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第30位にランクインした。
血統
Voltaire | Blacklock | Whitelock | Hambletonian | King Fergus |
Grey Highflyer | ||||
Rosalind | Phoenomenon | |||
Atalanta | ||||
Coriander Mare | Coriander | Pot-8-o's | ||
Lavender | ||||
Wildgoose | Highflyer | |||
Co-Heiress | ||||
Phantom Mare | Phantom | Walton | Sir Peter Teazle | |
Arethusa | ||||
Julia | Whiskey | |||
Young Giantess | ||||
Overton Mare | Overton | King Fergus | ||
Herod Mare | ||||
Walnut Mare | Walnut | |||
Ruler Mare | ||||
Martha Lynn | Mulatto | Catton | Golumpus | Gohanna |
Catherine | ||||
Lucy Gray | Timothy | |||
Lucy | ||||
Desdemona | Orville | Beningbrough | ||
Evelina | ||||
Fanny | Sir Peter Teazle | |||
Diomed Mare | ||||
Leda | Filho da Puta | Haphazard | Sir Peter Teazle | |
Miss Hervey | ||||
Mrs.Barnet | Waxy | |||
Woodpecker Mare | ||||
Treasure | Camillus | Hambletonian | ||
Faith | ||||
Hyacinthus Mare | Hyacinthus | |||
Flora |
父ヴォルテアーは当馬の項を参照。
母マーサリンは現役時代3勝で、本馬以前には活躍馬を産んでいないが、本馬を産んだ後は、本馬の全妹ヴィヴァンディエール【ヨークシャーオークス】、半妹ヴォールトレス(父バードキャッチャー)【ファーンヒルS】などを産んでおり、本馬を含めて6頭の勝ち馬の母となっている。
本馬の半姉ユーロジー(父ユークリッド)の子にはインペリュース【英1000ギニー・英セントレジャー】、インペラトリス【パークヒルS】、マーティアドム【プリンスオブウェールズS】が、孫にはデリアヌ【仏オークス】が、曾孫にはエンゲランデ【仏2000ギニー・英オークス・カドラン賞】、ラジョンシェール【仏オークス】、ザントライユ【仏2000ギニー・リュパン賞】、イヴランデ【仏1000ギニー】、フライアーズバルサム【ミドルパークプレート・デューハーストプレート・英チャンピオンS】、ビターズ【ヨークシャーオークス】が、牝系子孫にはネイティヴダイヴァー【ハリウッド金杯3回】、ベストパル【ノーフォークS(米GⅠ)・ハリウッドフューチュリティ(米GⅠ)・チャールズHストラブS(米GⅠ)・サンタアニタH(米GⅠ)・オークローンH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)】、デヴィルヒズデュー【ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)2回】などがいる。しかしユーロジーの牝系子孫が最も発展したのはオセアニアや南米であり、ユーロジーの曾孫に当たる19世紀豪州最高の名馬カーバイン【メルボルンC・AJCプレート3回・シドニーC2回・AJCオールエイジドS2回・マッキノンS】を筆頭に数々の有力馬が登場し、今日においても活躍馬が頻繁に出ている。
本馬の全姉ヴォリーの孫には、英首位種牡馬にも輝いたロードクリフデン【英セントレジャー・英シャンペンS】とカンバロ【英2000ギニー】がいる他、牝系子孫には、20世紀初頭の日本競馬を代表する名競走馬・名種牡馬だったコイワヰがいる。
本馬の半姉メイドオブハート(父ザプロヴォースト)の子にはエトワールデュノール【仏オークス】、コンピエーニュ【カドラン賞】、モンセニュール【バーデン大賞】がいる。
ヴィヴァンディエールの曾孫にはバルギャル【デューハーストプレート】とダッチオーブン【英セントレジャー・デューハーストプレート・ヨークシャーオークス】の姉妹がいる。
ヴィヴァンディエールの牝系子孫は廃れているが、ヴォリーやメイドオブハートの牝系子孫は今日も残っている。→牝系:F2号族③
母父ムラットはドンカスターCの勝ち馬で、遡るとドンカスターC勝ち馬キャトン、ゴランパス、ゴハンナ、マーキュリーを経てエクリプスに行きつく。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はヨークシャー近郊のミドルソープで種牡馬入りした。種付け料は15ギニーに設定された(ちなみにザフライングダッチマンの種付け料は当初40ギニー、同時代の大種牡馬ストックウェルや英国三冠馬ウエストオーストラリアンは当初30ギニー)。初年度産駒からいきなり英2000ギニー馬ヴェデットが出た。結果的にはこれが本馬の産駒唯一の英国クラシック競走勝ち馬だったが、その後も活躍馬を何頭か送り出した。種牡馬生活後半には、競走馬だけでなく狩猟馬の生産にも活用された。
晩年はアスクホール邸で友達の三毛猫2匹と一緒に余生を送った。1861年に有名な動物画家エドウィン・ヘンリー・ランドシーア卿(ロンドンのトラファルガー広場にあるライオンの彫刻を作ったのも彼)は、本馬の絵を描くようにダンダス卿から依頼された。彼は犬の絵が得意だったが競走馬の絵を描いた事は無かった事もあり、その依頼を断った。しかし本馬が三毛猫を常に同伴していると聞いて興味を抱き、1870年になってようやく依頼を承諾した。そして2匹の三毛猫が遊んでいるのを優しそうに見守る本馬の絵を描いた。これは彼が描いた生涯唯一の競走馬の絵である。
1874年2月、タイムテストという名前の牝馬に蹴られた本馬は後脚を骨折したため、27歳で安楽死の措置が執られた。遺体はアスクホール邸に埋葬されたが、脚の骨だけは保存されてヨーク競馬場で現在も展示されている。本馬の死に際して、英国シェフィールド・テレグラフ紙は「英国競馬界において最も優れており、かつ、最も人気があった馬の1頭でした」と本馬を評した。1950年にヨーク競馬場が英セントレジャーのトライアルレースを創設した際には、本馬にちなんでグレートヴォルティジュールSと命名された。
代表産駒ウェデットはザフライングダッチマンの娘フライングダッチェスとの間にガロピンを輩出し、ガロピンからはセントサイモンが出現して後世に絶大な影響力を残している。また、産駒のビレットは米国に種牡馬として輸出され、ベルモントS勝ち馬サーディクソンなどを出し、1883年の北米首位種牡馬に輝く成功を収めた。クイーンメアリーとの間に産まれた娘のボニーベルはオーエンテューダー、カドゥージェネルー、カルストンライトオなどの牝系先祖となった。母父としては英ダービー馬キングクラフトなどを出している。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1854 |
Skirmisher |
アスコット金杯 |
1854 |
英2000ギニー・ドンカスターC2回・エボアH |
|
1855 |
Hepatica |
パークヒルS |
1856 |
Qui Vive |
パークヒルS |
1857 |
Dulcibella |
シザレウィッチH |
1857 |
Sabreur |
ドンカスターC |
1858 |
Prudence |
ジムクラックS |
1859 |
Buckstone |
クイーンズスタンドプレート・アスコット金杯 |
1859 |
Hartington |
シザレウィッチH |
1860 |
The Ranger |
パリ大賞 |
1861 |
Bradamante |
ナッソーS |
1864 |
Tibthorpe |
スチュワーズC |
1866 |
Judge |
ロイヤルハントC |