スタネーラ

和名:スタネーラ

英名:Stanerra

1978年生

栗毛

父:ギヨームテル

母:レディオリオーラ

母父:オリオール

4歳時までは平凡な馬だったが5歳になって急激に強くなり、天皇賞馬キョウエイプロミスとの死闘を制して第3回ジャパンCを優勝した愛国の名牝

競走成績:3~6歳時に愛英日仏で走り通算成績24戦7勝2着2回3着3回

誕生からデビュー前まで

愛国の名門牧場モイグレアスタッドファームの生産馬で、1歳時のセリにおいて愛国の馬主兼調教師ジェームズ・“ジム”・ボルジャー師により5千ギニーで購入された。後にセントジョヴァイトアレクサンダーゴールドランニューアプローチフィンシャルベオなどこの名馬列伝集で紹介する多くの活躍馬を手掛けることになるボルジャー師も、まだ30代の若さだったこの時点ではこれといった実績を残していなかった。かなり大柄な馬(後にジャパンCに2回参戦した時の馬体重は、初回が506kgで2回目が510kg)だった本馬は成熟が遅く、デビューは3歳までずれ込んだ。

競走生活(4歳中期まで)

3歳4月に愛国ナヴァン競馬場で行われた芝10ハロンの未勝利戦でデビューして勝利した。次走のアサシS(愛GⅢ・T7F)では、後の愛1000ギニー3着馬マルティノワの着外に敗れた。

それからしばらくして、本馬は愛国の事業家フランク・ダン氏により購入された。ダン氏は食料・衣服等を取り扱う愛国有数のスーパーマーケットチェーン会社ダンズ・ストアの創業者ベン・ダン氏の息子で、既に老齢だった父に代わり、兄弟達と一緒にダンズ・ストアの経営を担っていた。ダン氏はダンズ・ストアの経営に携わる傍らで、調教師の勉強もしており、この1982年に調教師免許を獲得していた。そして何頭かの馬を購入して自分で調教を開始しており、本馬もその中の1頭となったのだった。

まだ新米調教師だったダン師の育成ではなかなか本馬を仕上げ切れなかったのか、それともあえて長い目で仕上がりを待ったのかは定かではないが、ダン師の所有・管理馬となった本馬が次に競馬場に姿を現したのは、前走アサシSから11か月が経過した4歳3月のことだった。

まずはムーアズブリッジS(T10F)に出走して、ニジンスキーS・バリモスSとGⅡ競走を2勝していたノエリーノの3/4馬身差2着と健闘。しかし次走のバリモスS(愛GⅡ・T10F:現タタソールズ金杯)では、1歳年下のゴールデンフリースの着外に終わった。次走のリステッド競走クールモアゲイファンダンゴS(T8F)では、バリモスSで3着だったサルートリーの着外に敗退。次走のニジンスキーS(愛GⅡ・T10F)でも、ゴールデンフリースの着外に敗れた。ゴールデンフリースは続いて英ダービーに駒を進めて見事に栄冠を勝ち取ったし、ニジンスキーSで2着だったアサートは仏ダービー・愛ダービー・ベンソン&ヘッジズ金杯・ジョーマクグラス記念Sとこの年にGⅠ競走を4勝する活躍を見せるが、本馬はそれらトップクラスの馬とはまだ縁遠い存在だった。

次走はカラー競馬場で行われた芝10ハロンのハンデ競走となり、ここでは4馬身差で快勝した。続いてブリガディアジェラードS(英GⅢ・T10F)に駒を進めたが、この後にエクリプスS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを連勝するカラグロウの4着に敗退。次走のハードウィックS(英GⅡ・T12F)では、カンバーランドロッジS勝ち馬クリティーク、伊グランクリテリウム・伊ダービー・パリ大賞・オイロパ賞・グレートヴォルティジュールS・ジョンポーターSを勝ち英ダービー・英セントレジャー・コロネーションCで2着していた名馬グリントオブゴールドに続く3着に食い込み、初めてグループ競走で入着する事が出来た。

次走のブランドフォードS(愛GⅡ・T12F)では、1歳時のキーンランドセールにおいて105万ドルの値がついた米国産馬ローズ(何故こんな値がついたのかというと、母プリンセスネシアンがハリウッド金杯やサンタマルガリータ招待Hを勝った名牝だったからである)の3着に入った。次走のブラウンズタウンS(愛GⅢ・T12F)でも、ミラフローラの3着に入り、これで3戦連続3着。しかし次走のジョーマクグラス記念S(英GⅠ・T10F)では、前述アサートの4着に敗れてしまった。次走のサンチャリオットS(英GⅡ・T10F)では、英オークス馬タイムチャーターの3/4馬身差2着と好走した。次走のプリンセスロイヤルS(英GⅢ・T12F)ではビリーバーの6着だった。

第2回ジャパンC

この時期、日本では第2回ジャパンC(T2400m)の準備が着々と進められていた。前年の第1回ジャパンCでは様子見という事で欧州調教馬の招待は無かったが、この年からは欧州調教馬も招待対象に加えられていた。そして本馬も招待を受けたために来日して、第2回ジャパンCの参戦馬の1頭として名を連ねることになった。

前年の海外招待組はお世辞にもレベルが高いとは言えないメンバー構成だった(それにも関わらず日本馬は5着が最高だった)が、この年は一転してかなりハイレベルな海外馬が出走してきた。最大の目玉は既にGⅠ競走を11勝していた米国競馬史上最強芝馬の誉れ高いジョンヘンリーで、さらにヴェルメイユ賞・ターフクラシックS2回・ワシントンDC国際SとGⅠ競走4勝を挙げていた名牝エイプリルラン、ヴェルメイユ賞勝ち馬オールアロング、前哨戦の富士Sを勝ってきた前年のジャパンC2着馬フロストキング、新ダービーとローズヒルギニーを勝っていたオセアニア代表アイルオブマン、セクレタリアトS勝ち馬ハーフアイストなども参戦。

対する日本馬は八大競走勝ち馬が不在で、安田記念・七夕賞・牝馬東京タイムズ杯と重賞3連勝中のスイートネイティブ、朝日チャレンジC勝ち馬で前走天皇賞秋2着だった公営出身馬ヒカリデユール、前年の宝塚記念を勝っていた公営出身馬カツアール、マイラーズC・高松宮杯・函館記念を勝っていた公営出身馬カズシゲ、弥生賞・オールカマー勝ち馬トドロキヒホウの5頭が出走していた。

海外の一流半の馬に日本のトップクラスが完敗を喫した前年の結果を受けて、今回は上位人気6頭までを海外馬が占めた。1番人気はジョンヘンリーで、2番人気がエイプリルラン、3番人気がオールアロングと実績どおりの人気順となった。グループ競走勝ちが無い本馬は海外馬の中でも注目度が低い部類であり、海外馬では7番目、全体では9番目の人気だった。

スタートが切られるとカズシゲが先頭に立ち、注目のジョンヘンリーは中団好位につけ、ウォルター・スウィンバーン騎手騎乗の本馬はスタートで後手を踏んだ後に内側に進路を取り、そのまま後方待機策を採った。カズシゲが刻むペースはかなり遅く、スローペースを見越したジョンヘンリーが三角で早めに仕掛けて上がっていくと、本馬を含む後続各馬も一斉に上がっていった。直線に入るとジョンヘンリーは失速し、代わりに4番手で直線を向いた本馬が粘るカズシゲに並びかけていった。そしてカズシゲを競り落としたのだが、その段階では既に内側を掬ったオールアロング、外側を追い込んできたハーフアイストとエイプリルランにかわされており、勝ったハーフアイストから1馬身半差の4着に敗れた。

4歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は13戦1勝だった。英タイムフォーム社のレーティングは118ポンドで、古馬牝馬トップのエイプリルラン(130ポンド)とは12ポンドもの差があり、まだ一線級という評価は得ていなかった。それでも英愛調教の古馬牝馬では最高評価(エイプリルランは仏国調教馬)であり、この年の愛最優秀古馬牝馬となっている(日本語版ウィキペディアには英最優秀古馬牝馬に選ばれたとあるが、英語版ウィキペディアには愛国のフリーハンデでトップだったため愛最優秀古馬牝馬に選ばれたとある。もっとも、英愛調教の古馬牝馬でトップだったのは間違いないため、英最優秀古馬牝馬として評価されたと書いても誤りではないだろう)。

競走生活(5歳時)

5歳時は4月のアールオブセフトンS(英GⅢ・T9F)から始動したが、久々が影響したのか、イヴァノの着外に敗退した。この時期にダン師の父親ベン・ダン氏が心臓発作のため75歳で死去した。するとあたかもダン氏の霊が乗り移ったかのような本馬の快進撃が始まった。

5月のブリガディアジェラードS(英GⅢ・T10F)では、単勝オッズ21倍で5番人気の低評価ながらも、2着イヴァノに1馬身差をつけて勝ち、グループ競走初勝利を挙げた。なお、ここで本馬に騎乗していたのは初コンビのブライアン・ラウス騎手であり、これ以降は彼が本馬の主戦として固定される事になる。

6月のプリンスオブウェールズS(英GⅡ・T10F)では単勝オッズ8倍の3番人気だったが、直線入り口7番手から最内の狭い隙間を突いて鋭く伸び、2着サブレダンスに4馬身差をつけて圧勝した。

それから僅か3日後に出走したハードウィックS(英GⅡ・T12F)では、2週間前のコロネーションCを勝ってきたビーマイネイティヴという強敵が現れ、本馬は単勝オッズ5倍の2番人気だった。しかし前走と異なり四角で一気に位置取りを上げて直線入り口で先頭に立った本馬がそのまま押し切り、2着エレクトリックに1馬身半差、3着ビーマイネイティヴにはさらに12馬身もの差をつけて勝利した。そしてこのレースで本馬が計時した勝ちタイム2分26秒95は、1975年のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSでグランディバスティノとの歴史に残る死闘を繰り広げた末にマークした驚異的コースレコード2分26秒98を僅かながら更新する衝撃的なものだった(2010年のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSでハービンジャーが2分26秒78を計時したが、これは2005年にアスコット競馬場が改修された後の話であり、本馬のコースレコードを破ったとは言えない)。

それから2週間後に出走したエクリプスS(英GⅠ・T10F)では、前年のサンチャリオットSで本馬を破った後に英チャンピオンSを勝っていたタイムチャーターが出走していた上に、100年近い同競走の歴史において牝馬が勝った事は一例も無いという嫌なデータがあったにも関わらず、本馬が単勝オッズ3.75倍の1番人気に支持された。しかしここではスローペースの罠に嵌り、ソルフォードの4着と結果を残せなかった(この年の英2000ギニー3着馬マスカティテが2着、この年のアーリントンミリオン勝ち馬トロメオが3着で、タイムチャーターは6着だった)。

その後は一間隔を空けて、秋のジョーマクグラス記念S(愛GⅠ・T10F)に向かった。前年にも本馬が出走したこのレースは現在、愛チャンピオンSとして施行されているものであり、当時愛国内における古馬出走可能な唯一のGⅠ競走だった。レース前の本馬はベスト体重よりも痩せていると言われていた。しかし直線で豪快な末脚を見せて残り1ハロン地点で先頭に立ち、2着となったこの年の愛2000ギニー馬ワッスルに2馬身半差をつけて勝利。これでようやくGⅠ競走勝ち馬となった。

続いて渡仏して凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)に挑戦。エクリプスS敗戦後にキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・フォワ賞を勝っていたタイムチャーター、この年の英オークス・ヨークシャーオークス・英セントレジャーを勝ってきたサンプリンセス、ミラノ大賞・サンクルー大賞・バーデン大賞の勝ち馬でキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS2着のダイヤモンドショール、ヴェルメイユ賞を勝ってきたシャラヤ、ヨークシャーオークス・伊ジョッキークラブ大賞の勝ち馬で前年の凱旋門賞3着のアワーシフ、ジャックルマロワ賞・ムーランドロンシャン賞勝ち馬ルースエンシャンティ、前年のジャパンCで2着だったオールアロングなどが参戦していた。本馬はタイムチャーター、サンプリンセス、ダイヤモンドショールに次ぐ4番人気(出走頭数26頭)に支持された。しかしスタートで出遅れてしまい、直線でいったんは2番手まで順位を上げるも、ゴール前で失速。勝ったオールアロングから僅か1馬身3/4差の6着に敗れた。

その後は米国に遠征する計画があったが、体調が整わなかったために中止となった。

第3回ジャパンC

そして前年に続いて招待を受けたため、第3回ジャパンC(T2400m)に参戦するため再来日した。

本馬以外の海外馬は、この年は12戦してセネカHの1勝のみと不振だった前年の優勝馬ハーフアイスト、ローマ賞・リブルスデールS・パークヒルS・ロワイヤリュー賞勝ち馬で伊オークス・愛オークス2着のハイホーク、オイロパ賞勝ち馬で英セントレジャー2着・仏ダービー3着のエスプリデュノール、愛国でバリモスS・ガリニュールSを勝った後に米国に移籍してカリフォルニアンS・サンセットH・サンルイレイS・サンフアンカピストラーノ招待H・ハリウッドパーク招待ターフHとGⅠ競走を5勝していた本馬の同世代馬エリンズアイル、新国のGⅠ競走ジョージアダムスH・ニュージーランドSと豪州のGⅠ競走カンタベリーギニー・コーフィールドSを勝っていたマクギンティ、独2000ギニー・ウニオンレネンの勝ち馬トンボス、イタリア大賞・伊セントレジャーの勝ち馬チェリオルーフォ、加国の大競走ボウイーSなどの勝ち馬カナディアンファクターの8頭(当初は凱旋門賞勝利後に米国でGⅠ競走を3連勝したオールアロングも出走予定だったが直前で辞退した)。

日本馬が、前年の天皇賞秋を筆頭にセントライト記念・日経賞を勝っていたメジロティターン、有馬記念・天皇賞春・目黒記念秋・アメリカジョッキークラブC2回を勝っていたアンバーシャダイ、前走の天皇賞秋を筆頭にダイヤモンドS・毎日王冠を勝っていたキョウエイプロミス、宝塚記念・スプリングS・神戸新聞杯・京都新聞杯・スワンS・高松宮杯を勝っていた「黄金の馬」ことハギノカムイオー、東京新聞杯・ダイヤモンドS・毎日王冠の勝ち馬タカラテンリュウ、京都牝馬特別・阪神牝馬特別・京都金杯・朝日チャレンジCの勝ち馬でエリザベス女王杯2着のミスラディカル、川崎記念や浦和記念を勝っていた公営代表馬ダーリンググラスの計7頭だった。

この年の中央競馬三冠馬ミスターシービーが不参戦だったとは言え、前年は1頭もいなかった八大競走勝ち馬が3頭いるなど、日本馬の層は前年より明らかに上だったが、過去2回の結果から日本馬の勝ち目は薄いと思われ、前年同様に上位人気は海外馬が占めた。ハイホークが1番人気、エスプリデュノールが2番人気、本馬が単勝オッズ4.2倍の3番人気、エリンズアイルが4番人気、マクギンティが5番人気で、ハギノカムイオーが日本馬最上位の6番人気、不振の前年覇者ハーフアイストが7番人気と続いていた。

人気の一角を占めた本馬だったが、輸送中に崩した体調がなかなか戻らず、筋肉痛を発症してしまった。本馬に同行して来日した担当厩務員は、愛国に残っていたダン師に電話で指示を仰いだ。ダン師が本馬をひたすら歩かせるように指示したため、厩務員は地元愛国の調教時間に合わせた深夜の6時間に及ぶ曳き運動を毎日のように実施させた。調教タイムを計測する事など勿論できなかったため、専門家達は揃って辛口の意見を述べた。

本馬にとっては得意な堅い馬場状態の中でスタートが切られると、逃げ宣言をしていたハギノカムイオーが先頭に立ち、前年に続いてスタートが良くなかった本馬は内側に進路を取ってそのまま後方を進み(前年もそうだったが、コースロスを少なくするために意図的に出遅れ気味にゲートを出たようにも見受けられる。特に今回は16頭立ての14番枠発走だった)、やはりスタートで後手を踏んだ1番人気のハイホークも後方待機策を採った。ハギノカムイオーは2番手のトンボスに10馬身以上の差をつける大逃げを打ったが、三角に入る頃には既に脚色が怪しくなって瞬く間に馬群に飲み込まれた。代わりに三角で先頭に立ったのは3番手集団で先行していたエスプリデュノールだった。さらにその外側からアンバーシャダイが得意の叩き合いに持ち込むべく並びかけようとしたが、エスプリデュノールに並ぶことは出来なかった。そして最内を突いたマクギンティがエスプリデュノールに並びかけた状態で直線を向いた。直線ではエスプリデュノールとマクギンティが叩き合いながら先頭争いを演じたが、そこへ外側から10番人気のキョウエイプロミスが追い上げてきた。さらに四角で外側に持ち出していた本馬がキョウエイプロミスに並びかけ、この2頭が叩き合いながらエスプリデュノールとマクギンティを追撃。残り150m地点で、追い上げてきた2頭が内側で粘る2頭をかわし、勝ち負けは本馬とキョウエイプロミスの競り合いで決着がつく事になった。過去2回は殆ど見せ場が無かった日本馬が初めてジャパンCで勝てるかもしれないという事で、東京競馬場に詰め掛けていた8万人のファン達は挙ってキョウエイプロミスを応援した。一瞬だけキョウエイプロミスが体勢有利になる場面もあったが、しかし最終的には本馬が競り勝ち、2着キョウエイプロミスに頭差、3着エスプリデュノールにもさらに頭差をつけて優勝した。過去2回のジャパンCはいずれも米国調教馬が勝っていたため、これは欧州調教馬として初のジャパンC制覇となった。

惜しくも日本馬のジャパンC初勝利は成らなかったが、キョウエイプロミス鞍上の柴田政人騎手にとっては納得の走りだったらしく、ゴール直後に本馬鞍上のラウス騎手とハイタッチをかわした。しかしながらキョウエイプロミスはレース中に右前脚繋靱帯不全断裂を発症したために馬運車に乗せられて競馬場を後にしており(生命には大事なかったがそのまま競走馬引退)、もし故障していなければ勝負の結果は分からなかった。

この年のジャパンCに関しては、キョウエイプロミスの好走により日本馬でも勝負になる事が分かって希望の灯が見えたという前向きな意見と、現役日本トップクラスの馬が脚を壊すほどの激走を見せたのに勝てなかったという悲観的な意見が交錯したと言われる(翌年にカツラギエースが大逃げを打って勝利することなどこの段階では誰も予想していなかった)。

また、レース前に本馬がひたすら曳き運動を行って勝利したのは、ジャパンCにおける1つの伝説となっている。5歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は8戦5勝。英タイムフォーム社のレーティングでは128ポンドで、古馬牝馬では134ポンドのオールアロング、130ポンドのタイムチャーターに次ぐ評価を受けた。

競走生活(6歳時)

6歳時も現役を続けた(日本語版ウィキペディアにはジャパンC勝利を最後に引退したとあるが誤り)が、調整が上手くいかずに、8月のナッソーS(英GⅡ・T10F)がシーズン初戦となった。しかし、ムシドラS勝ち馬オプティミスティックラスや、チェヴァリーパークS勝ち馬で英1000ギニー3着のディザイアラブルなどに屈して、オプティミスティックラスの4着に敗れ、6歳時はこの1戦のみで現役を引退した。

血統

Guillaume Tell Nashua Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Segula Johnstown Jamestown
La France
Sekhmet Sardanapale
Prosopopee
La Dauphine Princequillo Prince Rose Rose Prince
Indolence
Cosquilla Papyrus
Quick Thought
Baby League Bubbling Over North Star
Beaming Beauty
La Troienne Teddy
Helene de Troie
Lady Aureola Aureole Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Angelola Donatello Blenheim
Delleana
Feola Friar Marcus
Aloe
Lady Godiva Royal Charger Nearco Pharos
Nogara
Sun Princess Solario
Mumtaz Begum
Princess Toi Scarlet Tiger Colorado
Trilogy
Primtoi Achtoi
Princess Pam

父ギヨームテルはナシュア産駒で、現役時代は英国で走りゴードンS(英GⅢ)を勝利したが、故障のため4戦3勝の成績で引退した。競走成績はそれほどではなかったが、競走馬としては不出走だった母ラドフィネの半姉が米国の歴史的名牝ブッシャーという血統も買われて、米国ケンタッキー州スペンドスリフトファームで種牡馬入りした。種牡馬としては本馬が代表産駒といった成績だった。

母レディオリオーラの競走成績はよく分からない。レディオリオーラの母レディゴディバは愛1000ギニー2着馬だが、近親には活躍馬に乏しく、あまり優れた牝系とは言えない。→牝系:F7号族②

母父オリオールは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は愛国で繁殖入りした。母としては記録の残る限りで6頭の産駒を産んだが、初子の牝駒スタネーラズソング(父シアトルソング)は不出走、2番子の牝駒スタネーラズスター(父シャディード)は1戦未勝利、3番子の牝駒スタネーラズウィッシュ(父カーリアン)も1戦未勝利、4番子の牝駒スタンズホープ(父グロウ)は4戦未勝利、5番子の牝駒サンドリーン(父カーリアン)は9戦未勝利、6番子の牡駒スタネーラズストーリー(父デザートストーリー)は騙馬になった後にようやく1勝を挙げたのみと、繁殖牝馬としてはほぼ完全な失敗に終わった。5番子のサンドリーンを産んだのは14歳時だが、6番子のスタネーラズストーリーを産んだのは23歳時であり、この空白の9年間がどのような状況だったのかはよく分からない。没年も不明となっている。サンドリーンは日本に繁殖牝馬として輸入されており、牝系は現在も残っているが、特筆できる成績を残した馬は登場していない。

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