和名:ウォーアドミラル |
英名:War Admiral |
1934年生 |
牡 |
黒鹿 |
父:マンノウォー |
母:ブラッシュアップ |
母父:スウィープ |
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シービスケットとの宿敵としても知られる、名馬マンノウォーの種牡馬としての最高傑作となった第4代米国三冠馬 |
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競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績26戦21勝2着3回3着1回 |
誕生からデビュー前まで
史上4頭目の米国三冠馬。父マンノウォーの所有者でもあった織物業者サミュエル・ドイル・リドル氏により、米国ケンタッキー州ファラウェイファームにおいて生産された。
本馬の好敵手シービスケットを主人公とした小説「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説」では、「とにかく見栄えのする馬だった」と記述されており、それを原作とする映画「シービスケット」でも本馬が強大な敵である事を強調するために体高18ハンドの大柄な馬が本馬を演じているが、実際にはそんなに見栄えがする馬ではなく、成長しても体高は15.2~15.3ハンド程度にしかならない小柄な馬だった(当時の米国競馬における競走馬の平均は16ハンドだったという。ちなみにシービスケットも本馬と同程度の体高だった)。大柄だった父マンノウォーよりも、小柄だった母ブラッシュアップに似たのだと思われる。毛色も燃えるような赤い栗毛だった父とは異なり、殆ど真っ黒に近い黒鹿毛であり、多くの人は本馬を黒馬(青毛馬)だと思っていたという。
小説「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説」には、本馬は産まれた時から誰もが目を離すことができないほど光り輝く馬だったと記述されているが、実際のところは上述のとおり父に似ず見栄えがしない馬だったため、種牡馬マンノウォーの名声が汚されることを何よりも恐れていたリドル氏は本馬に対して失望した。そして姪の夫であるウォルター・モリソン・ジェフォーズ卿に本馬を購入するよう薦めたが、ジェフォーズ卿が本馬に興味を示さなかったため、結局本馬はリドル氏所有のまま、米国ジョージ・コンウェイ調教師に預けられた。
既に老齢期を迎えていたコンウェイ師だったが、ベテランだけにその相馬眼は確かであり、本馬の秘められた能力に気づくのにさほど時間はかからなかった。父親には外見上まるで似ていなかった本馬だが、炎のような気性と競走能力の高さは父親譲りだった。本馬の気性の激しさが頂点に達したのは、スターティングゲートに入れられたときであり、しばしば暴れて発走を遅らせた。しかしその激しい気性は、スタート後には抜群の加速力と猛獣のような闘争心に転化され、圧倒的な強さを発揮した。もっともデビューした当初は、その実力を発揮できないレースも多かった。
競走生活(2歳時)
2歳4月にハヴァードグレイス競馬場で行われたダート4ハロンの未勝利戦でデビューしたときは2着ソニージョーに鼻差の辛勝だった。ベルモントパーク競馬場に場所を移して出走した次走のダート5ハロンの一般競走は、2着シンチレーターに2馬身差で快勝した。しかし3戦目のナショナルスタリオンS(D5F)では、勝ったポンプーンから2馬身半差、2着フェンシングからも1馬身差をつけられて3着に敗れた。次走のグレートアメリカンS(D6F)では直線で差されて、フェアリーヒルの1馬身半差2着に敗北。なお、このグレートアメリカンSから本馬の主戦は、後に米国競馬の殿堂入りを果たす名手チャーリー・E・カートシンガー騎手が務めることになった。
レース後に咳が出たために2か月半ほど休養し、9月のイースタンショアH(D6F)で復帰すると、2着オリエンタリストに5馬身差をつける圧勝。しかし続くリチャードジョンソンH(D6F)では、泥だらけの不良馬場に脚を取られたのか、ボトルキャップの1馬身半差2着に敗退。6戦3勝で2歳時を終えた。この3年前に創設された2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)においては同世代第8位の評価であり、世代トップの座にはまだまだだった。
競走生活(3歳前半)
3歳時は4月にハヴァードグレイス競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動して、2着クリンゲンダールに2馬身半差で快勝。それから11日後のチェサピークS(D8.5F)では、前年のグレートアメリカンSで本馬を破ったサンタアニタダービー馬フェアリーヒルや、同厩のユースフルS・フラミンゴS勝ち馬コートスキャンダルが対戦相手となった。本馬はスタート前に暴れて発走を7分遅らせたが、いざレースが始まると2着コートスキャンダルに6馬身差をつけて圧勝した。
次走はケンタッキーダービー(D10F)となった。以前からケンタッキーダービーを始めとするケンタッキー州のレースを軽視しており、マンノウォーもケンタッキー州で行われるレースには1度も出走させようとしなかったリドル氏だが、この頃にはケンタッキーダービーの地位は米国3歳競走の最高峰として揺るがないものとなっており、自身の所有馬として初めて本馬をケンタッキーダービーに出走させる事になったのだった。出走馬は本馬の他に、前年のナショナルスタリオンSで本馬を破った後にベルモントフューチュリティS・カウディンSも制して米最優秀2歳牡馬に選出されたポンプーン、ユナイテッドステーツホテルS・ケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬リーピングリワード、前年のナショナルスタリオンSで本馬に先着していたブルーグラスS勝ち馬フェンシング、ウッドメモリアルSを勝ってきたメロディスト、ジュヴェナイルH勝ち馬でブリーダーズフューチュリティ2着のヒールフライ、後のトラヴァーズS勝ち馬バーニングスター、サンヴィンセントHの勝ち馬メリーメイカー、サンタアニタダービー2着馬ミリタリー、ウッドメモリアルS2着馬サーダミオン、ホープフルSとブルーグラスSで2着のビリオネア、フェアリーヒル、コートスキャンダルなど19頭だったが、本馬が堂々の1番人気に支持された。例によってスタート前に暴れて発走を8分遅らせた本馬だが、スタートから先手を奪うと、そのまま後続馬を従えてレースを支配し続けた。最終コーナーでポンプーンが本馬に並びかけてきたが、直線に入ると突き放した。そしてゴール前では馬なりで走り、ポンプーンを1馬身3/4差の2着に下して楽勝した。勝ちタイム2分03秒2は1931年にトゥエンティグランドが計時した2分01秒8に次いで当時同競走史上2番目に速いものだった。
翌週のプリークネスS(D9.5F)では、本馬を徹底マークしたポンプーンに最終コーナーで並びかけられた。そして直線で2頭の激戦が展開された。手に汗握る一騎打ちの末に、本馬がポンプーンを頭差競り落として1分58秒4の好タイム(プリークネスSがこの距離になって以降では1934年にハイクエストが計時した1分58秒2に次ぐ当時2位)で勝利した。
次走のベルモントS(D12F)ではまたしてもスタート前に8分間も暴れたあげく、スタート後にはあまりに速く突進したために前脚と後脚をぶつけて右前脚の蹄を4分の1インチほど切り落とす怪我をしてしまった。それでも先手を取った本馬は蹄からの出血で腹部を血塗れにさせながらも先頭を走り続け、2着シーンズヒフターに3馬身差、3着ヴァミューズにはさらに10馬身差をつけて、2分28秒6の全米レコードタイ(ベルモントSがベルモントパーク競馬場ダート12ハロンで行われるようになって以降では最速。なお、マンノウォーが勝った時は距離11ハロンだった)で米国三冠を達成した。米国三冠馬の誕生は1935年のオマハ以来2年ぶり史上4頭目だったが、過去の3頭(サーバートン、ギャラントフォックス、オマハ)の時はまだこの3競走を総称して三冠と呼ぶ習慣が確立しておらず(米国三冠という用語が一般的になったのはギャラントフォックスの三冠達成の年からだが、オマハの時はまだ三冠と呼ぶことに抵抗がある競馬記者が何人かいたという)、ベルモントS勝利と同時に万人から三冠達成を賞賛されたのは本馬が最初であると言われている。レース中における本馬には負傷している気配が微塵も見えず(筆者が映像で見ても全く分からない)、勝ち馬表彰式場に入る直前になって、コンウェイ師とカートシンガー騎手はようやく本馬の腹部が血で赤く染まっているのに気付いたという(勝ち馬表彰式場で下馬したカートシンガー騎手が本馬の腹部を見やっている様子が映像で捉えられている)。
競走生活(3歳後半)
怪我の治療のため夏場は休養に充て、秋はローレル競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走から始動。一般競走ではあったが、この年のカーターH・サバーバンHを勝ちブルックリンHで2着していた4歳馬アネロイドも出走していた。しかし本馬がアネロイドを2馬身半差の2着に下して勝利した。
次走のワシントンH(D10F)には、本馬が主戦場としていた米国東海岸とは遠く離れた米国西海岸で快進撃を続けていたシービスケットも出走を予定しており、2頭の対戦が大きく期待された。しかし調教の調子が思わしくなかったシービスケットは回避してしまった。結局レースは本馬が2着ヒールフライに1馬身半差で勝利した。
さらにこの年に創設されたピムリコスペシャルH(D9.5F)でも、128ポンドの斤量をものともせずに2着ゼヴソンに1馬身半差で勝利。3歳時は8戦全勝の完璧な成績で、米最優秀3歳牡馬に選出されたのは勿論、米年度代表馬も621票中603票という圧倒的な得票数を獲得して、本馬より多い年間獲得賞金で米最優秀ハンデ牡馬に選ばれたシービスケットを退けて受賞した。
競走生活(4歳前半)
4歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走から始動した。自身満々のカートシンガー騎手は一度も鞭を振るうことなく、2着サーオラクルに1馬身半差で勝利した。次走のワイドナーH(D10F)では130ポンドが課されたが、26ポンドのハンデを与えた2着ゼヴソンに1馬身半差で勝利した。
この後、本馬とシービスケットとの10万ドルを賭けたマッチレースがベルモントパーク競馬場で組まれたが、本番6日前にシービスケット陣営が体調不良を理由に回避したためレースは中止になった。本馬はその代わりにクイーンズカウンティH(D8F)に出走した。本馬には132ポンドが課されたが、126ポンドの斤量だった前年のメトロポリタンH勝ち馬スナークを1馬身差の2着に、この年のメトロポリタンHを勝つ事になるデンジャーポイントを3着に退けて勝利した。次走にはサバーバンHが予定されていたが、ディキシーHなど目下10連勝中だった元好敵手ポンプーンに4ポンドのハンデを与えることになったために回避した(結果はスナークがポンプーンを鼻差の2着に下して勝利している)。
本馬陣営が次走に選んだマサチューセッツH(D9F)にはシービスケットも出走を予定しており、いよいよ2頭の直接対決が実現するはずだったが、シービスケット陣営が直前になって故障を理由に出走を取り消したため、またも対決は実現しなかった。本馬はレースに出走したものの、ベルモントSと同様に右前脚の蹄を負傷してしまった。しかもベルモントSと異なりこのレースは不良馬場で行われており、負傷した本馬は脚を取られてまともに走れず、結局勝ったメノウから8馬身1/4差の4着に敗れて連勝は11で止まってしまった。
競走生活(4歳後半)
勝つのが当たり前だった本馬の敗戦は、勝った時よりも大きく騒がれたが、すぐに本馬は立て直しを図った。次走のウィルソンS(D8F)は、マサチューセッツHと同様に不良馬場で行われた。対戦相手も、先輩米国三冠馬ギャラントフォックスの全弟でグランドユニオンホテルS・ウッドメモリアルSを勝っていた3歳馬ファイティングフォックス、エンパイアシティH・サラトガH・ウィルソンS・ホイットニーS・ボウイーH・デラウェアHなどの勝ち馬で、ディスカヴァリーやシービスケットを破った事もあり、前年に続いてこの年も2年連続で米最優秀ハンデ牝馬に選ばれる名牝エスポサといった強敵だった。しかし蓋を開けてみれば本馬が2着ファイティングフォックスに8馬身差をつけて圧勝し、前走の敗因が馬場状態ではなく負傷によるものだった事を立証した。
次走のサラトガH(D10F)では130ポンドを背負いながら、14ポンドのハンデを与えたエスポサとの叩き合いを制して首差で勝利。さらにホイットニーS(D10F)でも、前年の覇者であるエスポサを1馬身差の2着に、ファイティングフォックスを3着に下して勝利した。ホイットニーSに勝利した米国三冠馬は2015年現在でも本馬のみとなっている。次走のサラトガC(D14F)でもエスポサとの対戦となったが、エスポサを4馬身差の2着に下して完勝した。勝った本馬が特別観覧席前を通過する際には、賞賛の声が山彦となって轟き渡ったという。ジョッキークラブ金杯(D16F)では、この年のローレンスリアライゼーションS勝ち馬マジックアワーを3馬身差の2着に、この年のトラヴァーズS2着馬ジョリータールをさらに10馬身差の3着に下して圧勝し、連勝を5に伸ばした。
ジョッキークラブ金杯の後、本馬とシービスケットとのマッチレースがピムリコ競馬場で組まれる事が正式に決定した。そして11月1日、遂に全米の競馬ファンが待ち望んでいた2頭の直接対決がピムリコスペシャル(D9.5F)で実現した。斤量はそれぞれ120ポンドで、距離も2頭とも勝利経験がある距離に設定された。マッチレースは先手を取った方が有利とされていたが、本馬は逃げ先行馬で、シービスケットは差し馬だったため、前評判は本馬の方が上位だった。本馬のスタートの悪さを懸念したリドル氏がピムリコ競馬場のスターターに難色を示したので、名スターターだったジョージ・キャシディー氏がニューヨークから呼び出されていたが、それでも2回ほどスタートでフライングがあり、3回目にようやく正当なスタートが切られた。レースは事前の予想に反して、密かにスタート特訓をしていたシービスケットが先手を奪い、本馬はしばらくその2馬身ほど後方を追走した。そして向こう正面ではシービスケットに外側から並びかけて一騎打ちに持ち込んだ。2頭の一騎打ちは直線入り口まで続いたが、遂に本馬は力尽き、シービスケットに4馬身突き放されて完敗してしまった。
その10日後に出走したロードアイランドH(D9F)は2着ムーチョグストに2馬身半差で楽勝を収め、4歳時を11戦9勝で締めくくった。しかしピムリコスペシャルの敗戦が響いて、米年度代表馬と米最優秀ハンデ牡馬の座はいずれもシービスケットに持っていかれてしまった。
競走生活(5歳時)
5歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走から始動。前年のベルモントS勝ち馬パスチャライズドとの対戦となったが、本馬がパスチャライズドを半馬身差の2着に抑えて勝利した。しかしこのレース後に脚を故障したためにそのまま5歳時1戦1勝の成績で現役を退いた。
気性の激しさで知られた本馬だが、それはレース時に限られていたようであり、平素は大人しく愛嬌があったという。調教助手を務めたトム・ハーバット氏(マンノウォーの担当厩務員だったウィル・ハーバット氏の息子)によると、外に連れ出すたびにおどけて3回飛び跳ねる癖があったという。また、毎日2回はうたた寝する癖があり、日頃は他の馬よりも寧ろリラックスしていたという。愛称は“The Mighty Atom(ザ・マイティ・アトム。直訳すると「強力な原子力」という意味。漫画家手塚治虫氏の代表作「鉄腕アトム」の洋題と同じだが、「鉄腕アトム」は戦後の作品であり本馬の方が時代は古い)”、又は単に“The Admiral(ジ・アドミラル)”と呼ばれた。
血統
Man o'War | Fair Play | Hastings | Spendthrift | Australian |
Aerolite | ||||
Cinderella | Tomahawk | |||
Manna | ||||
Fairy Gold | Bend Or | Doncaster | ||
Rouge Rose | ||||
Dame Masham | Galliard | |||
Pauline | ||||
Mahubah | Rock Sand | Sainfoin | Springfield | |
Sanda | ||||
Roquebrune | St. Simon | |||
St. Marguerite | ||||
Merry Token | Merry Hampton | Hampton | ||
Doll Tearsheet | ||||
Mizpah | Macgregor | |||
Underhand Mare | ||||
Brushup | Sweep | Ben Brush | Bramble | Bonnie Scotland |
Ivy Leaf | ||||
Roseville | Reform | |||
Albia | ||||
Pink Domino | Domino | Himyar | ||
Mannie Gray | ||||
Belle Rose | Beaudesert | |||
Monte Rosa | ||||
Annette K. | Harry of Hereford | John o'Gaunt | Isinglass | |
La Fleche | ||||
Canterbury Pilgrim | Tristan | |||
Pilgrimage | ||||
Bathing Girl | Spearmint | Carbine | ||
Maid of the Mint | ||||
Summer Girl | Sundridge | |||
Permission |
父マンノウォーは当馬の項を参照。
母ブラッシュアップは現役成績3戦未勝利。非常に小さな可愛らしい馬で、体高は14.3ハンドしかなかったという。本馬の全妹アワカラーズの子にブラッドリー【サンフォードS】が、本馬の全妹ミリタリーブラッシュの孫にシーダーキー【ディキシーH・ドンH・サンフアンカピストラーノ招待H・ボーリンググリーンH・アーケイディアH・サンルイレイS2回】がいる。
また、ブラッシュアップの半弟にはウォーグローリー(父マンノウォー)【ドワイヤーS・ローレンスリアライゼーションS・サラナクH・メリーランドH・ウォルデンH・ケナーS】がいる。ブラッシュアップの従兄妹ディナータイムの子には、米国顕彰馬エイトサーティ【トラヴァーズS・ホイットニーS・サバーバンH・メトロポリタンH】がいる。→牝系:F11号族①
母父スウィープは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のファラウェイファームで種牡馬入りした。本馬は種牡馬としても40頭のステークスウイナーを出す好成績を収め、1945年の北米首位種牡馬、1948年の北米2歳首位種牡馬となった。1958年に、シービスケットと共に米国競馬の殿堂入りを果たした。この年にファラウェイファームからハンブルグプレイスファームに移動し、翌1959年に25歳で他界した。遺体はいったんファラウェイファームにあった父マンノウォーの墓の隣に埋葬され、後にマンノウォー共々ケンタッキーホースパークに改葬された。1962・64年には北米母父首位種牡馬になっている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選ではシービスケット(第25位)を上回る第13位。
活躍馬が牝駒に偏る傾向があり、有力な後継種牡馬が出なかったため、直系は既に途絶えているが、母父としてバックパサーやネヴァーセイダイを輩出したことで、後世に影響力を保ち続けている。日本との繋がりでは、ブリッカバックが種牡馬として輸入され中山大障害4連覇のフジノオーを出した。また、競走馬として輸入され23戦9勝を挙げたリンボーも種牡馬として天皇賞馬ヒカルタカイを出している。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1941 |
Bee Mac |
ホープフルS |
1941 |
Bric a Bac |
サンフアンカピストラーノ招待H |
1941 |
Iron Maiden |
デルマーH |
1942 |
メイトロンS・セリマS・サンヴィンセントS・サンタマルガリータ招待H・アーリントンH・ワシントンパークH・ハリウッドダービー・ヴァニティH |
|
1942 |
War Date |
ベルデイムH・モデスティH・アーリントンメイトロンH・レディーズH |
1942 |
War Jeep |
ジャマイカH・ディスカヴァリーH |
1944 |
Grand Admiral |
サラトガスペシャルS |
1945 |
Inheritance |
メイトロンS |
1946 |
Blue Peter |
サプリングS・サラトガスペシャルS・ベルモントフューチュリティS・ホープフルS・ガーデンステートS |
1947 |
Admiral Drake |
アーゴノートH・アメリカンH |
1947 |
Busanda |
アラバマS・サバーバンH・デラウェアH・トップフライトH・ダイアナH・サラトガC2回 |
1947 |
Striking |
スカイラヴィルS |
1949 |
Cold Command |
ウエストチェスターH |
1949 |
Great Captain |
サンマルコスH・サラトガC |
1950 |
Navy Page |
ジェロームH・加国際CSS |
1950 |
Parnassus |
ブーゲンヴィリアH |
1950 |
War Command |
ディスプレイH |
1951 |
Make a Play |
アスタリタS |
1952 |
Admiral Vee |
ナッソーカウンティH・ギャラントフォックスH |
1952 |
Blue Banner |
テストS・ディスタフH・フィレンツェH |
1952 |
Brother Tex |
サンフォードS・ブリーダーズフューチュリティS |
1952 |
ヴェイグランシーH・ギャロレットH2回・ダイアナH2回・マスケットH・トップフライトH・ディスタフH・モリーピッチャーH |
|
1959 |
Kilmoray |
トボガンH |