グランディ

和名:グランディ

英名:Grundy

1972年生

栗毛

父:グレートネフュー

母:ワードフロムランディ

母父:ワードン

キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSにおけるバスティノと世紀の名勝負を制した英ダービー馬だが種牡馬としては不遇のまま日本に骨を埋める

競走成績:2・3歳時に英愛で走り通算成績11戦8勝2着2回

誕生からデビュー前まで

英国ウスターシャー州テュークスベリー近郊にあるオーバーベリースタッドで馬産を行っていたティム・ホランド・マーティン氏により生産された愛国産馬で、1歳10月のニューマーケットセールに出品され、伊国の銀行家・馬産家で英国ビーチハウススタッドにおいて馬産も行う事になるカルロ・ヴィッタディーニ博士の代理人キース・フリーマン氏により1万1千ギニーで購入され、英国ピーター・ウォルウィン調教師に預けられた。主戦はパット・エデリー騎手で、本馬の全レースに騎乗した。

競走生活(2歳時)

2歳7月にアスコット競馬場で行われたグランヴィルS(T6F)でデビューして、同厩馬ノーアリモニー(後にクレイヴンS・プレドミネートSを勝っている)を2馬身差の2着に従えて勝ち上がった。なお、このレース直後に同じアスコット競馬場で行われたキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSで2連覇を果たしたダリアとは、翌年に合間見えることになる。翌月のサイレニアS(T6F)でも、2着プロスペクトレインボーに2馬身半差で快勝。

次走の英シャンペンS(英GⅡ・T7F)では、コヴェントリーSを勝ってきたホイップイットクィック、リッチモンドSで2着してきた後のサンロマン賞勝ち馬ボールドパイレート、未勝利ステークスを5馬身差で勝ち上がってきたアンズプリテンダーなどが対戦相手となった。単勝オッズ2.625倍の1番人気に支持された本馬は、馬群の壁に阻まれてなかなか抜け出せなかったが、残り1ハロン地点で隙間を突いて伸びると、エデリー騎手が鞭を使う間もなく、2着ホイップイットクィックに半馬身差で勝利した。

次走のデューハーストS(英GⅠ・T7F)では、ジムクラックS・ミドルパークSを連勝してきた愛国調教馬スティールハートとの対戦となったが、本馬が単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。レースは初めて経験する重馬場となったが、残り2ハロン地点で先頭に立つと、2着スティールハートに6馬身差をつけて圧勝。

2歳時は4戦全勝の成績を残し、英タイムフォーム社のレーティングでは仏グランクリテリウム勝ち馬マリアッチ(133ポンド)や、オブザーヴァー金杯で本馬の同厩馬ノーアリモニーを2馬身差3着に下して勝利したグリーンダンサー(132ポンド)を上回る134ポンドという高評価を得た。

競走生活(3歳前半)

3歳時は本命視されていた英2000ギニーを目指して調整されていたが、3月のある朝、同厩のコルビーという3歳牡馬に顔を蹴られて鼻骨を骨折するという不慮の事故に見舞われてしまった。これで調整に狂いが生じてしまい、シーズン初戦となった4月のグリーナムS(英GⅢ・T7F)では、不良馬場の中を先頭で駆け抜けたベレスフォードSの勝ち馬マークアンソニーから2馬身差の2着に敗退した(マークアンソニーの勝ちタイム1分41秒7は同レースにおける通常の勝ちタイム1分30秒前後より10秒以上遅いもので、非常に馬場状態は悪かった)。

それでも本番の英2000ギニー(英GⅠ・T8F)では、単勝オッズ4.5倍で24頭立ての1番人気に支持された。しかし厩務員のストライキの影響によりレース開始が20分ほど遅延してしまい、その影響があったかどうかは不明だが、残り2ハロン地点で先頭に立って粘り込みを図ったものの、単勝オッズ34倍の伏兵ボルコンスキーにかわされて半馬身差の2着に敗れた。ただしボルコンスキーはこの後セントジェームズパレスS・サセックスSを勝っており決して弱い馬ではなかったし、3着ドミニオンは3馬身後方、マークアンソニーはさらに5馬身後方だったため、本馬が凡走したというわけではない。

その2週間後に出走した愛2000ギニー(愛GⅠ・T8F)では、単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持された。ここではレース中盤で早々と先頭に立つと、2着となった仏国調教のフォンテーヌブロー賞勝ち馬モンサントに1馬身半差、3着マークアンソニーにはさらに1馬身差をつけて快勝した。

次走の英ダービー(英GⅠ・T12F)では、オブザーヴァー金杯・仏2000ギニー・リュパン賞を連勝してきたグリーンダンサー、フェニックスパークトライアルSを勝ってきたオブザーヴァー金杯2着馬シーブレイク、後の英セントレジャー馬ブルーニ、ミドルパークS2着馬ロイヤルマナクル、サンタラリ賞・グロット賞の勝ち馬で仏1000ギニー2着の牝馬ノビリアリー(年末にはワシントンDC国際Sを勝っている)、ダンテSを勝ってきたホブノブ、ニジンスキーSを勝ってきたナットハッチなどが対戦相手となった。前評判では本馬とグリーンダンサーの2頭が高かったが、両馬ともスタミナ面において疑問の声もあったようである。グリーンダンサーが単勝オッズ2.5倍で18頭立ての1番人気に支持され、本馬は単勝オッズ6倍の2番人気だった。エプソム競馬場には英国のエリザベスⅡ世女王陛下、夫のエディンバラ公フィリップ殿下、前王妃のエリザベス王太后を含む75万人もの大観衆が詰め掛けた。

レースで本馬は後方待機策を採り、内側から徐々に位置取りを上げてタッテナムコーナーを4番手で回った。そして逃げ粘るアンズプリテンダーを残り1ハロン地点で捕らえるとそのまま突き抜けて、追い上げて2着と健闘したノビリアリー(1916年に英ダービーを勝ったフィフィネラ以来59年ぶりとなる牝馬の英ダービー入着。2015年現在、これ以降に牝馬が英ダービーで入着した事例は無い)に3馬身差、3着ハンザダンサーと4着アンズプリテンダーにはさらに4馬身差をつけて完勝した(グリーンダンサーは6着)。

このレース後に英国ナショナルスタッドが本馬の権利の75%を75万ポンドで購入し、本馬はこの年に英愛両国のみであと4戦して引退することを発表した。凱旋門賞にも参戦しないという方針だったため、欧州競馬界からは不満の声が挙がったという。

3週間後の愛ダービー(愛GⅠ・T12F)では、単勝オッズ1.9倍で13頭立ての1番人気に支持された。レースでは直線入り口7番手から豪快な追い込みを決めて残り1ハロン地点で先頭に立ち、最後はエデリー騎手が後方を振り返る余裕を見せながら、2着となったガリニュールSの勝ち馬キングペリノア(大繁殖牝馬スペシャルの半弟)に2馬身差、3着アンズプリテンダーにはさらに6馬身差をつけて快勝した。

競走生活(3歳後半):“Race of the Century”と評されたキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS

3歳最強馬となった本馬の次走は、古馬相手のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ・T12F)となった。このレースはメンバーが非常に揃った。仏国からは、同競走2連覇に加えてサンタラリ賞・愛オークス・ワシントンDC国際S・サンクルー大賞・ベンソン&ヘッジズ金杯・マンノウォーSとGⅠ競走8勝を挙げていた歴史的女傑ダリア、ドーヴィル大賞・ジャンドショードネイ賞の勝ち馬でコロネーションC・サンクルー大賞2着のアシュモア、ドーヴィル大賞・アルクール賞の勝ち馬でミラノ大賞・イタリア大賞・バーデン大賞・ガネー賞とGⅠ競走2着4回のカードキング、前年のサンクルー大賞でダリアの首差2着だったオンマイウェイが、独国からはバーデン経済大賞・ミラノ大賞・エクリプスSと3連勝中だった後の凱旋門賞馬スターアピールが参戦。地元からは本馬の他に、前年の愛オークス・ヨークシャーオークスの勝ち馬ディビデイル、愛ダービーで本馬の4着に敗れた後にプリンセスオブウェールズSを勝ってきたリブラズリブ、そして前走コロネーションCをコースレコードで勝ってきた前年の英セントレジャー馬バスティノが出走してきた。特にバスティノがコロネーションCで樹立したレコードタイム2分33秒31は、その3日前に同コースで行われた英ダービーにおける本馬の勝ち時計2分35秒35より2秒以上も速く、本馬にとってバスティノはかつてない強敵であった(誤解が無いように書いておくが、本馬の英ダービーにおける勝ち時計も当時としてはかなり速い部類である)。そしてこのキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSにおいて、本馬とバスティノは後に“Race of the Century”と称される英国競馬史上最高級の名勝負を演じることになるのである。

本馬が単勝オッズ2.25倍の1番人気、バスティノが単勝オッズ5倍の2番人気、3連覇を狙うダリアが3番人気で世紀の一戦のゲートが開かれた。まずは、キングレット、ハイエストの2頭が先頭に立った。この2頭は共にバスティノと同じディック・ハーン厩舎の所属馬であり、持ち時計で優位に立つバスティノ陣営がハイペースの時計勝負に持ち込むために用意したペースメーカーだった。それをバスティノ、本馬、スターアピールが先団で追走し、ダリアはいつもどおり後方待機策を採った。バスティノ陣営の目論見どおりにレースは驚異的なハイペースで進み、1マイル通過地点で役割を果たした2頭のペースメーカーがバテ始めると、すかさずバスティノが先頭を奪った。それを本馬が必死に追撃する形で直線を向いた。直線入り口で2頭の差は4馬身ほどあったが、少しずつその差が縮まり始めた。残り1ハロン地点で2頭が並んだ。そして一瞬本馬が前に出た。しかしここからバスティノが驚異的な闘争心を発揮して差し返した。すると本馬もまた驚異的な闘争心を発揮して再度差し返した次の瞬間がゴールだった。勝った本馬と2着バスティノの着差は半馬身差で、さらに5馬身遅れた3着にダリアが入った。

勝ちタイム2分26秒98は、第1回の同競走でシュプリームコートが計時したレースレコード2分29秒66を2秒68、コースレコードをも2秒以上更新する驚異的なレコードタイムとなった。このコースレコードは1983年のハードウィックSでスタネーラが2分26秒90を計時して破られたが、レースレコードとしては2005年にアスコット競馬場が改修されるまで遂に破られることは無かった(レースレコードは2010年にハービンジャーが2分26秒78を計時して破られ、さらに2013年にノヴェリストが2分24秒60という非常識なタイムを計時して更新したが、いずれもアスコット競馬場改修により以前よりコースが平坦になった後の出来事である)。

バスティノを管理していたハーン師は負けて悔いは無かったのか、呆然とレースを眺めていたウォルウィン師の元へ真っ先に駆け寄って握手をしたという。ウォルウィン師は「素晴らしい白熱した戦いでした。レース終了まで感覚が麻痺していました」と語り、英国の名物司会者ジョン・ブラフ・スコット氏は「私がかつて見た中で最も激しく、最も容赦が無く、最も感動的な平地競走でした」と語った。また、日本の競馬評論家石川ワタル氏も現地でこのレースを観戦して「鳥肌が立つようなゴール前の情景でした」と述懐している。アスコット競馬場に詰め掛けた観衆は2頭を取り囲んで大きな歓声を上げた。

しかしこの激走で2頭とも燃え尽きていた。これは結果論や比喩などでは無く、実際に2頭ともレース後に脱鞍所に戻った際にはまるで故障した馬のように消耗しきっていたという。バスティノはその後の調教中に故障を起こしてそのまま引退してしまった。そして本馬もある程度体力が回復したように見えたために出走した3週間後のベンソン&ヘッジズ金杯(英GⅠ・T10F110Y)で、ダリア、カードキング、スターアピールという前走で下した3頭に屈して、ダリアの10馬身差4着と完敗。そのまま3歳時7戦4勝の成績で競走馬引退となった。本馬の獲得賞金総額32万6421ポンドは、英愛調教馬としてはミルリーフの30万9225ポンドを上回る史上最高額となった。

血統

Great Nephew Honeyway Fairway Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
Honey Buzzard Papyrus Tracery
Miss Matty
Lady Peregrine White Eagle
Lisma
Sybil's Niece Admiral's Walk Hyperion Gainsborough
Selene
Tabaris Roi Herode
Tip-Toe
Sybil's Sister Nearco Pharos
Nogara
Sister Sarah Abbots Trace
Sarita
Word From Lundy Worden Wild Risk Rialto Rabelais
La Grelee
Wild Violet Blandford
Wood Violet
Sans Tares Sind Solario
Mirawala
Tara Teddy
Jean Gow
Lundy Princess Princely Gift Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Blue Gem Blue Peter
Sparkle
Lundy Parrot Flamingo Flamboyant
Lady Peregrine
Waterval Friar Marcus
Lilaline

父グレートネフューは現役成績22戦5勝、ムーランドロンシャン賞・ドラール賞勝ちなど主にマイル路線で活躍した。エクリプスSでは本馬の好敵手バスティノの父バステッドの2着に入っている。種牡馬としては数奇な運命を辿った世紀の英ダービー馬シャーガーなどを出し、1975・81年には英愛首位種牡馬に輝く成功を収めた。グレートネフューの父ハニウェイはフェアウェイ直子で、現役成績は30戦16勝。当初は短距離戦で活躍し、ジュライC・コーク&オラリーS・キングジョージSなどを勝っていたが、5歳時には英チャンピオンSを勝つなど10ハロン戦でも一流の能力を見せた。種牡馬としては1956年の英愛種牡馬ランキングで2位に入っている。

母ワードフロムランディは現役成績10戦3勝で、主な勝ち鞍はサドルコンビS。その産駒には1982年の第2回ジャパンCに参戦(結果はハーフアイストの14着)して引退後は新国で種牡馬入りした本馬の全弟センチュリアス【ブルーリバンドトライアルS(英GⅢ)】がいる。ワードフロムランディ自身は距離12~16ハロンの長距離競走で勝ち星を挙げているが、母系は基本的にスピード色が強く、ワードフロムランディの従姉妹の子であるタワーウォーク【ナンソープS・アベイドロンシャン賞】や、近親と言うには少し遠いが、フォーローンリヴァー【ジュライC・ナンソープS】、ラリベラ【チェヴァリーパークS】、1992年のカルティエ賞最優秀短距離馬ミスターブルックス【ジュライC(英GⅠ)・アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)】、ファーストトランプ【ミドルパークS(英GⅠ)】など快速馬の名前が多く見られる。→牝系:F8号族②

母父ワードンはディクタスの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は英国ナショナルスタッドで種牡馬入りした。欧州ではGⅠ競走の勝ち馬を3頭出すなど、まずまずの種牡馬成績を挙げた。本馬の競走馬・種牡馬としての活躍は日本でも注目されており、1981年暮れに競走馬を引退した桜花賞・エリザベス女王杯・高松宮杯などの勝ち馬ハギノトップレディが本馬と交配するためにわざわざ渡英してきたほどだった(しかし2頭の間に産まれた牝駒は放牧中の事故で他界してしまった)。

1983年11月に本馬は日本中央競馬会によって160万ポンド(当時の為替レートで約7億円)で購入され、鳴り物入りで日本に輸入された。かつて本馬をセリで購入したフリーマン氏は「日本があまりに高額のオファーを出してきたので、拒否することが出来なかった」と語っている。来日後は日本軽種馬協会静内種馬場で繋養され、欧州最強馬ということで大変な期待を背負った(祖母の父がプリンスリーギフトという点も日本ではアピールポイントだったはずである)。日本における供用初年度の1984年は、初子が死んでしまったために再度本馬と交配することになったハギノトップレディを筆頭に50頭の繁殖牝馬を集めた。2年目はハギノトップレディこそ来なかったものの、桜花賞・ビクトリアCの勝ち馬アチーブスター、中山記念2連覇など重賞4勝のエイティトウショウ、優駿牝馬の勝ち馬リニアクイン、エリザベス女王杯の勝ち馬アグネステスコなど59頭がやってきた。3年目は北海道営競馬の女帝シバフイルドーなど64頭、4年目は優駿牝馬の勝ち馬ケイキロクなど65頭、5年目は64頭、6年目は49頭の繁殖牝馬を集めた。

ところが重厚な欧州長距離血統が日本の高速馬場に合わなかったのか、中央競馬・地方競馬ともに1頭の重賞勝ち馬も出すことが出来ず、全日本種牡馬ランキングでは1990年の98位が最高と、日本における種牡馬成績は完全な失敗に終わった。ハギノトップレディのように本馬との間に活躍馬を出せなかった繁殖牝馬が別の種牡馬との間に活躍馬を出してしまった事も、本馬の評価を押し下げる要因となったと思われる。

日本における種牡馬生活7年目の1990年には追われるように北海道から栃木の那須種馬場に移動し、この年の交配数は10頭だった。翌8年目の交配数は6頭。9年目の1992年には鹿児島の九州種馬場に移動したが、九州でも本馬の評価は低く、同年の交配数は6頭だった。そして同年5月に九州種馬場において20歳で病死した。このことが「日本は種牡馬の墓場である」と海外で言われるようになるきっかけとなったとされる事が多いが、少なくとも筆者が調べた範囲における海外の資料では特にそのような記載は見当たらなかった。ただし、本馬が日本に輸出された際に欧州競馬界から不満の声が挙がっていたのは事実のようである。なお、実際には海外で「日本は種牡馬の墓場である」などとは言われていないという意見もあるようだが、ファーディナンド屠殺事件がエクセラー屠殺事件と並んで不幸な結末を迎えた種牡馬の代表例として紹介されている事から、本馬が直接のきっかけではないにしても、実際にそのような印象を抱いている海外の競馬関係者は少なくないだろうとは感じる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1977

Bireme

英オークス(英GⅠ)・ムシドラS(英GⅢ)

1978

Kirtling

イタリア大賞(伊GⅠ)・ディーS(英GⅢ)

1978

Little Wolf

アスコット金杯(英GⅠ)・ジャンドショードネイ賞(仏GⅡ)・グッドウッドC(英GⅡ)・セントサイモンS(英GⅢ)・ジョッキークラブC(英GⅢ)

1979

Glancing

アランベール賞(仏GⅢ)

1980

Gordian

サンダウンクラシックトライアルS(英GⅢ)

1980

Tom Seymour

ウニレ賞(伊GⅢ)・ミラノ金杯(伊GⅢ)2回・ナポリ市大賞(伊GⅢ)・エリントン賞(伊GⅢ)

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