ゲインズボロー

和名:ゲインズボロー

英名:Gainsborough

1915年生

鹿毛

父:ベイヤード

母:ローズドロップ

母父:セントフラスキン

第一次世界大戦の影響色濃い時代に史上13頭目の英国三冠馬となり種牡馬としてもハイペリオンなどを出して大きな成功を収める

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績9戦5勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

史上13頭目の英国三冠馬。英国でジェームズ・ダグラス女史により生産された。ダグラス女史は元々マーサ・ルーシー・ヘネシーという名前であり、高級ブランデーであるコニャックの著名な銘柄ヘネシーの製造で財を成したフレデリック・ヘネシー氏の娘として誕生した。18歳の時に従兄弟のリチャード・ヘネシー氏と結婚して5人の子どもをもうけたが、若くして未亡人となり、31歳の時に英国の政治家である第8代クイーンズベリー公爵アーチボルト・ウィリアム・ダグラス卿の息子ジェームズ・エドワード・ショルト・ダグラス卿と再婚した。

しかしダグラス卿の一族は悲劇的な運命を辿る人物が多かった。ダグラス卿の父である第8代クイーンズベリー公爵は銃の暴発事故で死去した(おそらく自殺だったと推測されている)。ダグラス卿の兄であるフランシス・ウィリアム・ダグラス卿は、1865年に当時未踏峰だったヨーロッパアルプスの名峰マッターホルンに登山家エドワード・ウィンパー達と一緒に挑み、見事に初登頂に成功したが、下山中の転落事故でパーティー7人中4人が犠牲となったうちの1人となってしまった(私事だが、筆者は子どもの頃から登山が趣味であり、マッターホルン初登頂までの経緯が書かれたウィンパー著の「アルプス登攀記」も既に小学生の時から幾度も読んでおり、この事故についてもよく知っていた。こんなところでその一件が出てくるとは思いもよらなかった)。そしてダグラス卿自身もアルコール中毒と認知症を発症して、1891年にロンドンのホテルで自殺してしまった。

37歳でまたも未亡人となったダグラス女史はその後再婚することは無く、1910年に英国ハンプシャー州ウールトンヒル村の近郊に土地を買って馬産を開始した。この際に、英国の伝説的名調教師ジョン・ポーター師の援助を受けたという。ダグラス女史は一種の暇つぶしとして馬産を開始したようであり、自身が馬主として所有馬を走らせるつもりはあまり無く、生産馬は他者に売ることを原則としていた。高く売れる馬を生産するために優秀な競走成績を残した牝馬を集めることから始め、1910年の英オークス馬ローズドロップを購入して本馬を誕生させた。

馬名は英国リンカンシャー州にあるゲインズボローという町(又は同町にある駅名)に由来する(18世紀英国の著名な画家にトマス・ゲインズボローという人物がいるが、本馬の名の由来はそれではないと海外の資料でわざわざ明記されている)。その理由は、たまたまゲインズボローという名前を目にしたダグラス女史が語感を気に入ったためだという。

本馬はそれほど大柄ではなかった(成長しても体高は15.3ハンドに留まったという)が、整った馬格の持ち主で、賢くて気性も素直だったという。そのため、生産馬は売却する事を原則としていたダグラス女史も売りに出すのを躊躇したほどだった。ある競馬評論家は本馬を「(第一次世界大戦の西部戦線において連合軍最高司令官を務めた)サー・ダグラス・ヘイグ元帥をその背に乗せて西部戦線の戦闘に立ち向かう馬」と評している。

それほどの馬であり、しかも英国競馬史上屈指の名馬ベイヤードと英オークス馬ローズドロップを両親に持つ良血馬だったにも関わらず、結局本馬を売ることに決めたダグラス女史により1歳時のセリに出品された時には、1800ギニーまでしか値が上がらず、最低落札価格2千ギニーに届かなかったために主取りとなってしまった。その原因は、父ベイヤードの種牡馬実績が当時未知数だっただけでなく、ダグラス女史が設定した最低落札価格が2千ギニーとかなり強気だったためでもある。通常時でも2千ギニーというのはかなり高額である上、当時は第一次世界大戦の影響で英国内の競馬開催が縮小されて賞金も減額されていたため、一層高値がつきにくい状況だった。それでもセリにおいて1800ギニーまで値が上がったというのは、むしろ本馬に対する評価の高さを示している。

なお、米国ニューヨーク州ハリケーナスタッドの馬産家兼馬主だったジョン・サンフォード氏(この年のケンタッキーダービーをジョージスミスで制覇していた)は、本馬を購入するためにこのセリに代理人を派遣していたが、この代理人は本馬の頭が重すぎて故障の危険があると勝手に判断してセリを降りてしまっていた。それを知ったサンフォード氏はダグラス女史から2千ギニーで本馬を購入してくるように当該代理人に命じたが、ダグラス女史は当該代理人の申し出を拒否した。

また、やはり米国の有力馬主だったジョセフ・アーリー・ワイドナー氏も本馬を買うためにセリに参加しようとしたが、濃霧のために列車が遅れてセリに間に合わずに機会を逸する羽目になった。ワイドナー氏はダグラス女史に2500ギニーで本馬を売ってほしいと持ちかけたが、本馬の父ベイヤードを手掛けていたアレック・テイラー・ジュニア調教師が本馬を自身で所有するようにダグラス女史に助言していたため、ダグラス女史はこの申し出も断った。

こうした経緯により、ダグラス女史は本馬を自身で所有する事になった。ダグラス女史はカレッジ・リーダー調教師に本馬を預けたが、時はまさに第一次世界大戦の真只中であり、間もなくリーダー師は兵役に行ってしまったため、結局本馬はテイラー・ジュニア師(父ベイヤードだけでなく、本馬より1歳年上で同父の英国三冠馬ゲイクルセイダーも手掛けていた)の管理馬となった。厩舎内ではベイヤードやゲイクルセイダーと比較されることになったが、本馬の素質や気性は厩舎関係者から常に好意的に迎えられたという。なお、本馬の現役当時は第一次世界大戦の最中で、英国内の大半の競馬場が使用できず、ニューマーケット競馬場の臨時開催以外のレースはほとんど行われていなかった。そのため、本馬も生涯全てのレースをニューマーケット競馬場で走ることとなる。

競走生活(3歳初期まで)

2歳7月にニューマーケット競馬場で行われたサーロウプレート(T5F)で、オットー・マッデン騎手を鞍上にデビューしたが、ジャイアントキラー、メロヴィジアン、ハーセルフの3頭に屈して、21頭立ての4着に敗退(同日午後に行われた英ダービーの代替競走ニューダービーをゲイクルセイダーが勝利している)。翌月のラムセイプレート(T5F140Y)ではゴール前で猛然と追い込むも、バイオリニスト、スカットウェルの2頭に届かず、バイオリニストの3馬身差3着に敗れた。斤量的にはスカットウェルが本馬やバイオリニストより10ポンド重く、この時点ではスカットウェルが世代トップの評価だった。9月のオータムS(T6F)では鮮やかな差し切りを決めて、後のチェヴァリーパークS勝ち馬フリージアを2馬身差の2着に、バイオリニストを3着に退けて初勝利を挙げた(このレースの直前に行われた英セントレジャーの代替競走セプテンバーSをゲイクルセイダーが勝利して英国三冠馬になっている)。2歳時は3戦1勝の成績に留まったが、それでも、この世代の2歳馬フリーハンデでは122ポンドが与えられ、スカットウェルの126ポンドに次いで2番目に高い評価を受けている。

3歳時は4月のセヴェラルS(T5F)から始動。このレースから、競馬開催の時だけ兵役を抜けられるという特例を得ていた現役軍人のジョー・チャイルズ騎手を主戦に迎えた。しかし英2000ギニーの前哨戦としては距離不適だった上に、重馬場になった影響もあってか、コンビ初戦はシンドリアンの5着という結果に終わった。

競走生活(3歳中期以降)

しかし2週間後の英2000ギニー(T8F)では、単勝オッズ3.25倍という高い評価を受けた。そして先行して抜け出し、2着となったニューマーケットSの勝ち馬ソンムキスに1馬身半差、3着となった同厩馬ブリンクにはさらに6馬身差をつけて快勝。ダグラス女史は女性として史上初めて英国クラシック競走勝ち馬の馬主になるという栄冠も手にする事になった(1890年の英ダービー馬セインフォインはヴィクトリア女王の、1901年の英ダービー馬ヴォロディオフスキーはミュー女史の生産馬であるから、女性の生産馬が英国クラシック競走を制した例は過去にもあるが、2頭共に競走馬としては男性の馬主に購入又は賃貸されて走っている)。また、チャイルズ騎手は自身が得た賞金を、自身が所属する第4軽騎兵連隊に寄付した(元々それが兵役を抜ける条件だったらしい)。

次の目標は英ダービーとなった。通常英ダービーが開催されるのはエプソム競馬場だが、当時は陸軍基地として接収されており使用できなかった。そのため、英ダービーの代替競走として、ニューマーケット競馬場でニューダービー(T12F)が開催された。本馬はこのレースで単勝オッズ1.62倍の1番人気に支持された。そして先行して抜け出す優等生的な競馬で、2着ブリンクに1馬身半差、3着トレクレアにはさらに2馬身差をつける完勝。ダグラス女史に史上初の女性馬主による英ダービー制覇という栄冠をプレゼントした。

その2週間後、アスコット金杯の代替競走であるニューマーケット金杯(T16F24Y)に出走。出走馬は本馬の他に、プラネット、前年のニューダービーでゲイクルセイダーの2着だったダンセロンの2頭の4歳馬だけだった。本馬は単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持されると、2着プラネットに半馬身差で勝利した。着差こそ小さかったが、勝ち方は楽勝と言えるもので、着差を広げる事無く器用に勝利したようである。

その後は英国三冠馬を目指して秋の英セントレジャーに直行した。やはり大戦の影響で通常英セントレジャーが開催されるドンカスター競馬場が使用できず、英セントレジャーの代替競走としてセプテンバーS(T14F)がニューマーケット競馬場で開催された(ニューセントレジャーという名称でないのは、ドンカスター競馬場が他の競馬場でセントレジャーの名がついたレースを実施することを認めなかったためである)。5頭立てとなったこのレースで、単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された本馬は、2着となった同厩馬マイディア(デューハーストS・英オークスの勝ち馬で後に英チャンピオンSも勝っている)に3馬身差、3着となったアスコットダービーの勝ち馬プリンスチメイにはさらに4馬身差をつけて逃げ切り、前年のゲイクルセイダーに続く2年連続史上13頭目の英国三冠馬となった。

その後、11月のジョッキークラブS(T14F)では、英セントレジャーで3着に下した同厩馬プリンスチメイの1馬身差2着に敗戦。プリンスチメイの鞍上はかつて本馬に騎乗していたマッデン騎手であり、本馬のレーススタイルを知っていた事を活用し、道中で出し抜け的に本馬をかわしてそのまま粘り切るという作戦を採って功を奏したようである。これが本馬の現役最後のレースとなり、3歳時の成績は6戦4勝だった。

競走馬としての評価

本馬の現役時代は、大戦中でまともに競馬が出来ず、馬の数も非常に限られていた時期であり、数少ないレースは軍馬の能力検定レースという意味合いが強かった。そのため、第一次世界大戦終了後、代替競走で英国三冠を制したポマーン、ゲイクルセイダー、本馬の3頭は伝統ある英国三冠馬として認めるべきではないという意見が出て、議論を呼んだ。しかし、本馬が種牡馬として名馬ハイペリオンを輩出したこともあって、現在は3頭ともに栄誉ある英国三冠馬として認められている。

なお、競走馬としての評価自体は本馬よりゲイクルセイダーの方が上であるようで、“Thoroughbred Heritage”でも「ゲイクルセイダーはトップクラスの競走馬ですが、ゲインズボローは明らかにそれより一枚落ちでした」と評されているし、“A Century of Champions”における20世紀世界の平地競走馬ランキングでは、ゲイクルセイダーが第37位なのに対して、本馬は第59位である。レースの勝ち方では本馬よりゲイクルセイダーの方が確かに派手ではあるが、直接対決が無いので実際の2頭の能力差は何とも言えない。

血統

Bayardo Bay Ronald Hampton Lord Clifden Newminster
The Slave
Lady Langden Kettledrum
Haricot
Black Duchess Galliard Galopin
Mavis
Black Corrie Sterling
Wild Dayrell Mare
Galicia Galopin Vedette Voltigeur
Mrs. Ridgway
Flying Duchess The Flying Dutchman
Merope
Isoletta Isonomy Sterling
Isola Bella
Lady Muncaster Muncaster
Blue Light
Rosedrop St. Frusquin St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Isabel Plebeian Joskin
Queen Elizabeth
Parma Parmesan
Archeress
Rosaline Trenton Musket Toxophilite
West Australian Mare
Frailty Goldsbrough
Flora Mcivor
Rosalys Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Rosa May Rosicrucian
May Queen

ベイヤードは当馬の項を参照。

母ローズドロップは英オークス・グレートヨークシャーSなど5勝を挙げた活躍馬で、亜麻色の鬣を有した非常に強健な馬だったという。しかし多くの所有者間を転々とした馬である。1歳時に最初の所有者が死去したためにウィリアム・バス卿の所有馬となって競走生活を送り、4歳時に4500ギニーでベイヤードの生産・所有者だったアルフレッド・W・コックス氏に購入された。7歳時に本馬の全姉に当たる初子のラトスカを産んだ後に、本馬を受胎した状態でダグラス女史により2300ギニーで購入された。本馬を産んだ翌年の9歳時にジョン・スコット卿に購入され、さらに15歳時に米国ケンタッキー州メアワースファームのウォルター・J・サーモン卿により550ギニーで購入されて米国で繁殖生活を送り、1930年に23歳で他界している。

ローズドロップが何度も所有者が変わったのは受胎率が悪かったのが一因であると思われ、死産を除けば生涯に産んだ子は6頭(ラトスカと本馬の他に、本馬の全弟ベイドロップとレンベルグ牡駒コッティンガム、米国で産んだフェアプレイ牡駒メアプレイ、マッドハター牝駒ロザーン)のみである。

原田俊治氏は「新・世界の名馬」の中で「ローズドロップは、ゲインズボローの母になるためこの世に生まれてきたようなものであった」と記しているが、決してそのような事はない。確かに本馬以外に競走馬として活躍した子はいないのだが、最後の子であるロザーンがサングロー【サラナクH・ディスカヴァリーH・ワイドナーH】の母となっている。サングローは種牡馬として名馬ソードダンサーを出したわけであるから、ローズドロップが米国でロザーンを産まなければソードダンサーもその代表産駒であるダマスカスもこの世に存在していなかった事になるのである。

ローズドロップの近親には活躍馬がそれほど多いわけではなく、牝系としては比較的目立たない部類に入るのは事実である。それでも、ローズドロップの曾祖母ローザメイの半姉レディエミリーの曾孫に名馬にして名種牡馬のテディが、ローザメイの全姉ローゼルの孫に牝馬ながらにプリークネスSを勝ったウィムジカルがいる。→牝系:F2号族③

母父セントフラスキンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、オールドダルビーホールスタッドで5歳時から種牡馬入りし、7歳時から生まれ故郷のハーウッドスタッドに移動した(4歳時は競走馬としても種牡馬としても活動していない。理由は不明であり、4歳時も現役を続行していたが故障等のアクシデントでレースに出られなかったとも、ダグラス女史が4歳時という若い時期から種牡馬生活を送らせるのを躊躇ったためとも言われている)。種付け料は400ギニーに設定され、これは同父の先輩三冠馬ゲイクルセイダーと同額だった。既に父ベイヤードは早世していたため、この2頭がその後継種牡馬として大きく期待されていたようである。

競走馬としての評価ではゲイクルセイダーに一歩を譲る本馬だが、種牡馬としての成績はゲイクルセイダーより本馬の方が断然上である。前述のハイペリオンを筆頭に、優れたスタミナを武器とする活躍馬を数多く出し、1932・33年と2度の英愛首位種牡馬に輝いている。産駒のステークスウイナーは少なくとも36頭いる。不思議なことに活躍馬は牡馬ばかりであり、牝馬の活躍馬はあまり見当たらない(本馬の牝駒で競走馬として最良の成績を残したのはコロネーションSを勝ち英1000ギニーで3着したゲインズボローラス程度という状況である)。それにも関わらず本馬は繁殖牝馬の父としても優秀な成績を収め、1931年には英愛首位種牡馬に先んじて英愛母父首位種牡馬にもなった(この順番は逆であるのが普通であり、これは結構珍しい記録である。なお、1931年の英愛種牡馬ランキングは2位であり、同一年に初首位という快挙は惜しくも逃している)。母父として優れた種牡馬は、優れた競走実績を残す牝馬を多く出しているのが一般的であり、この点でも本馬は異例である。

本馬の種牡馬としての名声は隣国の仏国にも轟いており、仏国の名馬産家マルセル・ブサック氏は所有する繁殖牝馬をしばしば本馬と交配させ、英チャンピオンS・ハードウィックS・イスパーン賞勝ち馬ゴイェスカスを生産した他に、後の大繁殖牝馬ラトロワンヌの初の交配相手にも指名している。

本馬が種牡馬として活躍した時期には、かつて暇つぶしに馬産を始めたダグラス女史もすっかり馬の魅力に取り付かれ、ハーウッドスタッドを見下ろせる場所に建てた小屋に住み、自身が所有する馬達が動き回るのを眺めることを楽しみにしていたという。1940年、本馬が25歳のときにダグラス女史は健康を害した(翌年1月に87歳で死去)為に、ハーウッドスタッドごと本馬をハーバート・ブラグレイヴ氏という人物に売却した。25歳時の交配相手は僅か8頭ながら全て受胎させるほど種牡馬能力を維持していた本馬だったが、翌26歳時の受胎数は1頭に留まり、ここで種牡馬を引退した。

種牡馬引退後も、本馬を売るときにダグラス女史が出した「ゲインズボローは生涯ハーウッドスタッドで快適に過ごさせること」という条件を守ったブラグレイヴ氏の保護の下、ハーウッドスタッド(本馬の存命中にその名にちなんでゲインズボロースタッドと改名されている)で悠々自適の余生を送った。1945年に老衰のため30歳で他界、遺体はゲインズボロースタッドに埋葬された。このゲインズボロースタッドは後にドバイのシェイク・マクトゥーム殿下により購入され、彼の馬産を支えることになる。

後継種牡馬としてはハイペリオンが記録的大成功を収めた。直系は現在かなり衰退しているが、それでも歴史上の名種牡馬の中には本馬やハイペリオンの血が入っている馬が少なくなく、現在でも血統界に多大な影響を与え続けている。日本にはトウルヌソルが種牡馬として輸入されて黎明期の日本競馬をリードした。繁殖牝馬の父としては、バーラムマームード、ミゴリ、カメロニアンなどを出した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1921

Maid of Bath

チャイルドS

1921

Old Master

ローマ賞

1922

Murillo

AJCメトロポリタンH

1922

Solario

英セントレジャー・アスコット金杯・コロネーションC・アスコットダービー・プリンセスオブウェールズS

1922

Sparus

グリーナムS

1922

Tournesol

プリンセスオブウェールズS

1922

Vermilion Pencil

チェスターヴァーズ

1923

Artist Glow

リブルスデールS

1923

High Art

ゴールドヴァーズ

1924

Chantrey

プリンスオブウェールズS

1926

Costaki Pasha

ミドルパークS・コーク&オラリーS

1927

Grace Dalrymple

デューハーストS

1927

Pinxit

チェスターヴァーズ・キングエドワードⅦ世S

1927

Singapore

英セントレジャー・ドンカスターC

1928

Goyescas

英チャンピオンS・ハードウィックS・エドモンブラン賞・ボイアール賞・サブロン賞・イスパーン賞・エドヴィル賞

1929

Orwell

英2000ギニー・英シャンペンS・ミドルパークS・グリーナムS

1930

Hyperion

英ダービー・英セントレジャー・デューハーストS・ニューS・チェスターヴァーズ・プリンスオブウェールズS

1930

Star of England

ヨークシャーオークス

1930

The Blue Boy

リブルスデールS

1930

Raymond

プリンセスオブウェールズS・ケンブリッジシャーH

1932

Bobsleigh

リッチモンドS

1932

J. R. Smith

ハードウィックS

1932

La Gaiete

モールコームS

1934

Gainsborough Lass

コロネーションS

1935

Gainly

パークヒルS

1935

Silvana

伊オークス

1936

Mon Tresor

ダリュー賞・フォンテーヌブロー賞

1937

Winterhalter

コロネーションC

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