コロンボ

和名:コロンボ

英名:Colombo

1931年生

鹿毛

父:マンナ

母:レディーネイアー

母父:チョーサー

2歳時7戦全勝の成績で、無敗のまま英2000ギニーを勝利するも英ダービーでは敗戦を喫した「完全なるレーシングマシーン」

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績11戦9勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

英国の海運業者だった初代准男爵アレク・ブラック卿により生産された英国産馬である。本馬の誕生直後にブラック卿は所有するサラブレッドを全て売り払う事にした。そして本馬は510ギニーという比較的安い価格で、やはり英国の海運業者で英国ジョッキークラブの会員でもあった初代グランエリー男爵ウィリアム・ターテム卿に購入された。かつて英国三冠馬グラディアトゥールが育成された英国ニューマーケットのラグランジュ厩舎を1919年に購入したターテム卿は、同年の英ダービーをグランドパレードで勝つなど馬主としても活躍しており、最終的には英国クラシック5競走全てを制覇する事になる。本馬は彼の専属調教師だったトマス・ホッグ師に預けられた。安値で取引された本馬だったが、大柄で力強く、楽々と大跳びで走る馬だった。

競走生活(2歳時)

早い段階から素質を見せたためか、デビューはかなり早く、2歳4月にニューマーケット競馬場で行われたスプリングSだった。本馬にはまだ正式な名前が付けられておらず、“Colt by Manna-Lady Nairne(マンナとレディーネイアーの間に産まれた牡馬)”という呼称で出走した。このレースには後に英1000ギニーを勝ち英チャンピオンSで2着するカンパニュラという強豪牝馬が出走していたのだが、本馬がカンパニュラを頭差の2着に抑えて勝ち上がった。翌5月にヨークシャー競馬場で行われたスカボローSでは、正式にコロンボと命名された状態で登場して勝利。翌6月にはアスコット競馬場でニューS(T5F)に、ゴードン・リチャーズ騎手を鞍上に出走。後にジュライS・ディーS・ロウス記念S・グレートフォールSに勝つアリシャーを一蹴して勝利した。さらにその2週間後にはニューマーケット競馬場でフルボーンSに出走して勝利した。翌7月にはサンダウンパーク競馬場でナショナルブリーダーズプロデュースS(T5F)に出走して馬なりのまま勝利を収めた。翌8月にグッドウッド競馬場で出走したリッチモンドS(T6F)では、スティーヴン・ドノヒュー騎手とコンビを組んだ。本馬にとっては初の6ハロン戦となったが、残り1ハロン地点で先頭に立つと、コヴェントリーSの勝ち馬メディエヴァルナイトを3馬身差の2着に破って危なげなく勝利した。

10月にはケンプトンパーク競馬場でインペリアルプロデュースS(T6F)に出走。ここでは17ポンドのハンデを与えた2着ヴァレリウス(後にチェスターヴァーズやヨークシャーCを勝っている)との着差は短頭差ながらコースレコードで勝利した。接戦だったにも関わらず、鞍上のドノヒュー騎手は鞭を使う仕草も見せなかった。ドノヒュー騎手は自信があってそうしたようだが、ターテム卿は彼の騎乗に不満を抱き、後に本馬の鞍上がラファエル・ジョンストン騎手に交代となる理由となったという。本馬はミドルパークSやデューハーストSといった英国2歳戦最大の競走には出走せず、2歳時を7戦全勝の成績で終えた。

本馬不在のミドルパークSは、リッチモンドSで本馬に一蹴されたメディエヴァルナイトが勝利した。さらにデューハーストSは、そのミドルパークSで2着に敗れたジムクラックSの勝ち馬ミセスラストムが勝利(後のアスコット金杯・グッドウッドCの勝ち馬で英セントレジャー2着のティベリウスが2着だった)と、この2競走は敗者復活戦の様相を呈した。そのために本馬は、「今世紀最も驚くべき馬の一頭」「ザテトラーク以来の2歳馬」「完全なるレーシングマシーン」と最大級の賛辞を受け、2歳フリーハンデにおいても2位の馬に7ポンドもの大差をつける133ポンドで第1位にランクされた。血統的にも単なる早熟の快速馬ではなく、距離が伸びても大丈夫だろうと目された本馬は翌年の英国クラシック競走の大本命となった。

競走生活(3歳時)

冬場を順調に過ごした本馬は、3歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたクレイヴンS(T8F)から始動した。前述のとおり鞍上はジョンストン騎手に乗り代わっていたが、馬なりのまま走り、20ポンドのハンデを与えた2着オスマンパシャに4馬身差をつけて勝利を収めた。

その2週間後に行われた同コースの英2000ギニー(T8F)では、1896年に単勝オッズ1.12倍となったセントフラスキン以降では最少となる、単勝オッズ1.29倍という圧倒的な1番人気に支持された(ただし資料によってオッズが異なり、単勝オッズ1.57倍となっているものもある)。不安要素は本馬自身よりも鞍上のジョンストン騎手の方にあると言われた。豪州出身だった彼は主に豪州や仏国で騎乗しており、当時は英国における騎乗経験が浅かったからである。しかしレースでは2着イーストンに1馬身差、3着となった後のサセックスSの勝ち馬バドルディン(ムムタズマハルの5番子)にはさらに1馬身半差をつけて楽勝し、9連勝で英2000ギニーを優勝した。

次走の英ダービー(T12F5Y)でも当然のように1番人気に支持されたが、血統面や英2000ギニーの鮮やかすぎる勝ち方からスタミナ面に一抹の不安を唱える人も多く、単勝オッズは2.375倍と前走より上昇していた。結論から言えば本馬は敗れたが、そのレース内容は現在でも論争の的になっている。道中はインコースを進んだ本馬はそのまま直線に入ってきたが、逃げて失速したメディエヴァルナイトに進路を塞がれて後退してしまい、外に持ち出す分だけ仕掛けのタイミングが遅れ、その結果ゴール前で追い込むも、勝ったウインザーラッドから1馬身1/4差、2着イーストンから首差の3着に終わったのである。本馬の進路を塞いだメディエヴァルナイトに騎乗していたのは皮肉にも、かつてリッチモンドSで本馬に騎乗してメディエヴァルナイトを一蹴したドノヒュー騎手だった。

このレースにおいて論争の対象となっているのは、敗因が進路を塞がれるような位置取りをしたジョンストン騎手の騎乗ミスなのか、それとも本馬のスタミナが英ダービーを勝ち切るには不足していたからなのかである。ゴール前で本馬はいつものスピード能力を発揮できていないように見えたという人もいたそうである。この英ダービーの映像を見た筆者も同じ感想を抱いた。ウインザーラッドは無理にしてもイーストンはかわせそうだったのに差し切れておらず、少なくとも脚を余して負けたようには見えなかった。したがって不利が無くても本馬が勝ったかどうかは微妙だと思われる。ただ、この英ダービーで本馬は4着馬に優に4~5馬身以上はつけており、本馬の後方でゴールした馬の中には、後のアスコット金杯の勝ち馬ティベリウス、後のパリ大賞の勝ち馬アドミラルドレイク(大繁殖牝馬プラッキーリエージュの10番子)、後の英チャンピオンS・ジョッキークラブSの勝ち馬ウミッドウォー、後の愛ダービー・愛セントレジャーの勝ち馬プリメロ(日本競馬黎明期の大種牡馬)といった、英ダービーの距離を走り切るのに十分なスタミナを有していた馬が多くいた事を考慮すると、ウインザーラッドという歴史的名馬がいなければ本馬は英ダービー馬になる資格十分だったとは思われる。当時の英国競馬界においても筆者が上記に記したような内容が議論されたのだろうが、確固たる結論は出なかったようである。しかし少なくともターテム卿はジョンストン騎手の騎乗ミスであると判断したらしく、それからしばらくして自分の所有馬にジョンストン騎手を乗せることを止めてしまった。しかしジョンストン騎手は後に、マルセル・ブサック氏、アガ・カーンⅢ世殿下、ピエール・ウェルトハイマー氏といった名馬主達の所有馬に騎乗して欧州各国で活躍し、1948年のマイラヴ、1950年のガルカドール、1956年のラヴァンダンと英ダービーで3勝を挙げているから、平凡な騎手で無かった事は確かである。

次走はセントジェームズパレスS(T8F)となった。ここでは少なくとも距離に問題は無かったはずである。それにも関わらず、単勝オッズ1.2倍という断然の1番人気に応えられずに、逃げる英2000ギニー4着馬フラメンコを捕まえられず半馬身差の2着に敗れてしまった。この敗因も英ダービーの疲労なのか、それとも調子がピークを過ぎていたのかは判然としない。ただ、フラメンコは英2000ギニー敗戦後にニューマーケットSで1馬身差2着した実績があり、そのニューマーケットSの勝利馬は英ダービーで本馬を負かしたウインザーラッドだったという事実は念頭に入れておくべきであろう。その後は英セントレジャーに向けて調整されていたが、膝の故障のため、「支持者にとっての大災害」と評されたセントジェームズパレスSの敗戦を最後にレースに復帰する事は無く、3歳時4戦2勝の成績で競走馬を引退した。

血統

Manna Phalaris Polymelus Cyllene Bona Vista
Arcadia
Maid Marian Hampton
Quiver
Bromus Sainfoin Springfield
Sanda
Cheery St. Simon
Sunrise
Waffles Buckwheat Martagon Bend Or
Tiger Lily
Sesame St. Simon
Maize
Lady Mischief St. Simon Galopin
St. Angela
Vain Duchess Isinglass
Sweet Duchess
Lady Nairne Chaucer St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Canterbury Pilgrim Tristan Hermit
Thrift
Pilgrimage The Palmer
Lady Audley
Lammermuir Sunstar Sundridge Amphion
Sierra
Doris Loved One
Lauretta
Montem Ladas Hampton
Illuminata
Kermesse Cremorne
Hazledean

マンナは当馬の項を参照。

母レディーネイアーは未勝利馬。本馬の半姉フライアーズレディ(父フライアーマーカス)の曾孫にはブティアバ【愛1000ギニー】がいる。レディーネイアーの半弟にはエランガウアン(父レンベルグ)【英2000ギニー・セントジェームズパレスS・英チャンピオンS】がいる他、レディーネイアーの半妹プリシラ(父ファラリス)の子にはハイペライズ【コロネーションC】がいる。

レディーネイアーの祖母モンテムはニューS・ジュライSの勝ち馬であるだけでなく優れた牝系を構築しており、その主な子孫には、サントップ【愛1000ギニー・愛オークス】、カーボンコピー【コックスプレート・AJCダービー・AJCプレート・シドニーC】、マーテロタワーズ【ローズヒルギニー・カンタベリーギニー・AJCダービー・ジョージメインS】、スウィートソレラ【英1000ギニー・英オークス】、アーントエディス【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・ヴェルメイユ賞】、バッフル【デルマーフューチュリティ・カリフォルニアンS】、オネストプレジャー【アーリントンワシントンフューチュリティ(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)・ローレルフューチュリティ(米GⅠ)・フラミンゴS(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)・ブルーグラスS(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)】、フォーザモーメント【ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・ブルーグラスS(米GⅠ)】、フランクリーパーフェクト【サンルイレイS(米GⅠ)・ハリウッドターフカップS(米GⅠ)】、ビッグストーン【サセックスS(英GⅠ)・クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅠ)・イスパーン賞(仏GⅠ)・フォレ賞(仏GⅠ)】、アーチボルト【ファイティングフィフスハードル(英GⅠ)2回・クリスマスハードル(英GⅠ)2回】、ブラインドラック【オークリーフS(米GⅠ)・ハリウッドスターレットS(米GⅠ)・ラスヴァージネスS(米GⅠ)・ケンタッキーオークス(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)・ヴァニティH(米GⅠ)】、スレイドパワー【ダイヤモンドジュビリーS(英GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)】、日本で走ったキーストン【東京優駿】、ミノル【朝日杯三歳S】、ウイングアロー【フェブラリーS(GⅠ)・ジャパンCダート(GⅠ)】などがいる。→牝系:F11号族①

母父チョーサーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ターテム卿が所有していた英国サフォーク州エクスニング村の牧場で種牡馬入りした。種牡馬としては2頭の英国クラシック競走の勝ち馬を出すなど一定の成功を収めた。英愛種牡馬ランキングは1941年の2位が最高だった。産駒は本馬の現役時代と同様に2歳戦やマイル戦で活躍する傾向が強く、種牡馬成績だけ見れば本馬は仕上がり早いマイラーだったという評価に落ち着く。1954年に23歳で他界した。後継種牡馬としてはブリティッシュエンパイヤとクラロが南米で一定の成功を収め、特にブリティッシュエンパイヤの直系からは快速馬シャムが出て、それなりに発展したが、現在では殆ど見かけなくなっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1936

Olein

サセックスS・コロネーションS・ナッソーS

1937

British Empire

ジュライS

1938

Dancing Time

英1000ギニー

1938

Eastern Echo

サセックスS

1943

Claro

愛2000ギニー

1943

Happy Knight

英2000ギニー

1945

Fortuity

コロネーションS

1945

Pride of India

デューハーストS

1948

La Taglioni

ロシェット賞

1948

Rose Linnet

クイーンメアリーS

1950

Parakeet

チャレンジS

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