和名:アニリン |
英名:Anilin |
1961年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:エレメント |
母:アナロジクナヤ |
母父:アグレガット |
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オイロパ賞3連覇・ワシントンDC国際Sで2度とも入着など、東側諸国でもその実力を存分に発揮したソビエト連邦史上最強馬 |
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競走成績:2~6歳時にソ連・東独・洪・西独・米・仏で走り通算成績28戦22勝2着1回3着2回 |
誕生からデビュー前まで
現在においてもロシア屈指の有力牧場であるヴァスホート牧場の生産・所有馬である。担当調教師は最初デムキンスキーという人物が務めたが、後に本馬の主戦を務めたニコライ・H・ナシボフ騎手が騎手兼任で管理したようである。
競走生活(2・3歳時)
2歳5月にモスクワ競馬場で行われた距離1000mのレースでデビューして勝利し、1か月後に行われた距離1500mのレースも勝利した。その3週間後にはソ連2歳最強馬決定戦のカリニナ記念賞(T1600m)も優勝した。その後は東独に遠征してミニシュテリウムデアDDR(T1200m)に出走するがアマチアの3着。ハンガリーに遠征して出走した平和賞(T1200m)は6着に敗れて、2歳時は5戦3勝の成績だった。
3歳5月に戦線に復帰。復帰初戦のオックリティア賞(T1800m)を同じヴァスホート牧場産馬であるグラフォログ以下に勝つと、ゾテヒニコフコニエフォドフ記念(T1600m)でもグラフォログを破って勝ち、43ゴトウチニエレフォルツィーフモンゴリー賞(T2000m)も勝利した。さらにソビエトダービー(T2400m・正式名称はボリショイフシエソユツニー賞)も優勝した。その後は再び東独に遠征し、ブカレスト賞(T1800m)・社会主義国家大賞(T2800m)を勝利。単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持されたロベルトプフェルトメンゲスレネン(T1800m)も2着グラフォログに4馬身差で圧勝して7連勝とした。
西側社会主義国圏内で敵無し状態となった本馬は、この後、特例措置で東側自由主義国圏に遠征した。そして3歳暮れに挑んだワシントンDC国際S(T12F)では、この年まで5年連続で米年度代表馬に選ばれる事になる米国の歴史的名馬ケルソ、この年だけでサンフェルナンドS・チャールズHストラブS・サンアントニオH・ガルフストリームパークH・ブルックリンH・ホイットニーH・ワシントンパークH・ウッドワードSを勝ち、ケルソがいなければ間違いなく米国現役最強馬だったガンボウに続く3着となり、日本から参戦した天皇賞秋・有馬記念勝ち馬リユウフオーレル(8着)に先着した。これが3歳時唯一の黒星で、3歳時の成績は8戦7勝となった。
競走生活(4歳時)
4歳時はまず5月に本国の復帰戦フスツォウピテルニー賞(T2000m)を勝ち、さらにフネグリュプ賞(T2400m)・ソビエト社会主義共和国賞(T3200m)を優勝。これで本馬は、カリニナ記念賞・ソビエトダービー・ソヴィエト社会主義共和国賞のソ連三冠を制した史上3頭目(ブドイノク、グロクに次いで3頭目。第二次世界大戦後では初)の馬となった。
秋には再び東側自由主義国圏に遠征して、今度は凱旋門賞(T2400m)に参戦(ソビエト連邦所属馬として史上初の凱旋門賞出走)。7番人気で迎えたレースではハイペースの中を先行し、直線で一度は先頭に立つ見せ場たっぷりの5着と好走(6着トムロルフには5馬身差をつけた)。この凱旋門賞の勝ち馬は20世紀欧州最強馬と讃えられるシーバード。シーバードが20世紀欧州最強馬と呼ばれるのは、史上最強メンバーが揃ったと言われるこの凱旋門賞を圧勝したのが大きいのだが、本馬もこの史上最強メンバーに欠かせない存在である。
その後は創設3年目だった西独の国際競走オイロパ賞(T2400m)に出走した。単勝オッズ1倍(元返し)の1番人気に支持された本馬は、アラルポカル勝ち馬でこの年の独年度代表馬に選ばれるクロンツォイゲを4馬身差の2着に破って完勝。4歳時の成績は5戦4勝で、敗戦は凱旋門賞のみであった。
競走生活(5歳時)
5歳時は7月のブディンカ賞(T2000m)から始動して勝ち、さらにソビエト社会主義共和国賞(T3200m)を2連覇した。続くペキン賞(T2000m)ではケンタッキーダービー・ドバイワールドC勝ち馬アニマルキングダムの6代母であるハンガリー産馬ディダーゴ以下に勝利。2年ぶりの出走となった社会主義国家大賞(T2800m)も優勝。
さらに三度東側自由主義国圏に遠征し、オイロパ賞(T2400m)に出走。前年と異なり単勝オッズ3倍止まりだったが、2着サルヴォ(翌年のバーデン大賞勝ち馬で、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSでバステッドの2着、凱旋門賞でもトピオの2着する実力馬)を頭差抑えて2連覇を達成した。サルヴォから5馬身差の3着に、前年のワシントンDC国際Sで凱旋門賞3着馬ダイアトムの鼻差2着だったクリテリウムドサンクルー勝ち馬カルヴァン(英オークスやキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを勝ったポーニーズの父)が入っている。
2年ぶりに挑んだワシントンDC国際S(T12F)では、リュパン賞を勝ち仏ダービー・サンクルー大賞で3着していた仏国調教馬ベイストウンの2馬身1/4差2着と惜しくも敗れた(本馬から1馬身1/4差の3着に、ユナイテッドネーションズHやマンノウォーSを勝ってきたこの年の米最優秀芝馬アサガイが入った)。5歳時の成績はワシントンDC国際Sで負けたのみの6戦5勝だった。
競走生活(6歳時)
6歳時も走り、本国でブダペスト賞(T2400m)を10馬身差で圧勝し、さらにシュタイナドラーレネン(T2400m)も勝って2連勝とした後、再び凱旋門賞(T2400m)に参戦したが、この時はトピオの着外と惨敗した。
しかし単勝オッズ3.4倍で出走した次走オイロパ賞(T2400m)では、ルチアノ(通算成績16戦10勝2着4回。独ダービー・アラルポカル2回・バーデン大賞・ベルリン大賞などを勝ち、2年連続で独年度代表馬に選ばれる事になる独国の歴史的名馬。獲得賞金総額59万5800マルクはオレアンダーが保持していた独国の賞金記録を約40年ぶりに塗り変えた大記録)を4馬身差の2着、この年のサンクルー大賞を勝っていたタネブをさらに5馬身差の3着に切り捨てて3連覇を達成。この年4戦3勝の成績を残して引退した。
本馬はシーバード、ケルソという欧米の史上最強馬候補といずれも対戦経験がある馬であり、戦った相手のレベルは全体的に高かった。それでも着外は僅か3回(うち2回は凱旋門賞。ワシントンDC国際Sでは2回とも入着している)であり、紛れも無く当時の世界的名馬の1頭だった。また、オイロパ賞3連覇は現在でも本馬しか成し遂げていない記録である(2連覇した馬はヴィントヴルフ、モンズーン、タイパンの3頭がいる)。
馬名のアニリンは、香料の原料などに使用される、ベンゼンの水素原子一つをアミノ基で置換した構造を持つ芳香族化学物質のこと。“Anilin”は独語表記であり、英語では“Aniline”、ロシア語では“Анилйн”と表記される。
血統
Element | Etalon Or | Massine | Consols | Doricles |
Console | ||||
Mauri | Ajax | |||
La Camargo | ||||
La Savoyarde | Filibert de Savoie | Isard | ||
Yolande | ||||
La Balladeuse | Badajoz | |||
Hallebarde | ||||
Margaritka | Gainslaw | Winalot | Son-in-Law | |
Gallenza | ||||
Margaret Burr | Gainsborough | |||
Most Beautiful | ||||
Macedonja | Mah Jong | Prunus | ||
Maja | ||||
Cylicja | Fils du Vent | |||
Francja | ||||
Analogichnaya | Agregat | Artist's Proof | Gainsborough | Bayardo |
Rosedrop | ||||
Clear Evidence | Tracery | |||
Honora | ||||
Abeba | Balbinus | Horkay | ||
Belvedere | ||||
Az a Hired | Dolomit | |||
Ardentrive | ||||
Giurza | Zator | Tagor | Floreal | |
Paraguay | ||||
Ziya | Satyr | |||
Zona | ||||
Gagara | Hetman Ney | Gertsog | ||
Napoli | ||||
Gortenzja | Galtee Boy | |||
Nedda |
父エレメントはセントサイモン直系7代目に当たるソビエトダービー馬。遡ると、エタロンオール、凱旋門賞・アスコット金杯・リュパン賞などの勝ち馬で仏首位種牡馬2回のマッシーン、コンソルス、英セントレジャー馬ドリクレス、セントジェームズパレスS・ゴールドヴァーズ・グッドウッドC・ジョッキークラブC勝ち馬フロリゼル(パーシモンとダイヤモンドジュビリーの全兄)を経てセントサイモンに行きつく。
母アナロジクナヤはソビエトオークス(正式名称はボリショイ賞)勝ち馬で、その母系はロシア・ハンガリーの土着血統である。→牝系:F27号族
母父アグレガットはハンガリー産馬。その父アーティスツプルーフはゲインズボロー産駒でロウス記念Sなどの勝ち馬。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はソビエト連邦で種牡馬入りした。1975・76・78年と3回ソ連首位種牡馬になるなどして活躍したが、1975年に事故のため14歳で他界した。現在もロシアで直系子孫は残っている模様である。