ハイフライヤー

和名:ハイフライヤー

英名:Highflyer

1774年生

鹿毛

父:ヘロド

母:レイチェル

母父:ブランク

生涯無敗の競走成績を残した18世紀英国屈指の名馬にして、12年連続を含む13度の英首位種牡馬に輝いた18世紀最大の種牡馬

競走成績:3~5歳時に英で走り通算成績14戦14勝

サラブレッド三代始祖の1頭バイアリータークの直系子孫である名馬ヘロドの代表産駒で、フライングチルダースエクリプスと並ぶ18世紀有数の名馬であるが、単独の競走成績と種牡馬成績の総合評価ではこの3頭中おそらく最上位である。なお、日本ではこの3頭を総称して「18世紀3大名馬」と紹介される場合が多いが、フライングチルダースやエクリプスの項にも記載したように、これは日本のみの呼称であり、海外の資料には見当たらない表現である。

誕生からデビュー前まで

第5代准男爵チャールズ・バンベリー卿の生産馬として、英国サフォーク州グレートバートンホールスタッドで誕生した。本馬が産まれたのは、英国における馬産の中心地が、それまでの南ヨークシャー州やダラム州(いずれもイングランド北部)から、イングランド南部のサフォーク州ニューマーケット近郊へ移り始めた時期だった。その理由の一つが、本馬の父ヘロドが繋養されていたのがニューマーケット近郊のニーザーホールだった事にあるのは間違いないだろう。本馬が産まれたグレートバートンホールは、ニーザーホールから北東に少し行った辺りだった。

馬名は英語で「高く飛ぶもの(人、鳥、気球など)」又は「野心家」という意味であるが、実際には本馬が産まれた牧場に“highflyer walnut trees”という種類のクルミの木が生えており、これにちなんで命名されたらしい。本馬は全身が暗い茶色の毛に覆われており、左後脚の一部だけに白い毛があった。目は大きくて頭は小さく、首から背中に掛けての曲線は美しく、長い尾を持ち、見かけも体格も上品を絵に描いたような馬だったという。それでいて肩、胴回り、腰などはあくまで筋肉質で、特に下半身の筋肉は強靭だったという。

本馬の生産者チャールズ・バンベリー卿は、長きに渡る英国ジョッキークラブの会員であり、その理事長を務めたこともある人物である。しかし病的なまでに賭博好きの上に、猜疑心が強く、夫婦間の仲は悪くて多くのスキャンダルを起こしたという、かなり問題がある人間だったとされている。ちなみに彼の息子である第6代准男爵トマス・チャールズ・バンベリー卿は、エプソム競馬場で行う新しいレースの名前を決める際に、第12代ダービー伯爵エドワード・スミス・スタンリー卿とコイントスをして敗れた(この勝負の結果、レース名は“ザ・ダービー・ステークス”となった)事で知られている。本馬が産まれたのはこの第1回英ダービー創設の6年前だった。本馬は1歳時に第2代ボーリングブローク子爵フレデリック・セント・ジョン卿に購入され、トマス・ロブソン調教師により育成された。そしてフレデリック卿の馬主としての名前である「コンプトン氏」名義で3歳10月に競走馬デビューした(それまでは、競走馬のデビューは5歳くらいになってからが一般的だったが、この時期から早まる傾向にあった)。

競走生活(3・4歳時)

デビュー戦は、ニューマーケット競馬場で行われた距離2マイルの800ギニースウィープSだった。いずれも同世代のヘロド産駒だったジャスティス(種牡馬としてラダマントゥスとダイダロスの2頭の英ダービー馬と英オークス馬トライフルを出している)、ボルドー、スウィートマジョラムなどが対戦相手となったが、この3頭を2~4着に下して勝利した。

3歳時はこの1戦のみで終えた本馬は、4歳時はニューマーケット競馬場のみで出走を重ねた。まずは春先に行われた、距離4マイル1ハロン138ヤードの100ギニースウィープSに出走。ヘロド産駒のイルミオ、いずれもエクリプス産駒のサンダーボルトとジュピターなどを蹴散らして勝利した。次走は7月の25ギニースウィープSだった。ここでは、ゴールドファインダー産駒のストーマー、エクリプス産駒のサテライト、ヘロド産駒のドラゴンなどを破って勝利した。次走は10月の1400ギニーサブスクリプションパースだった。ここでは、イルミオ、ジュピター、ヘロド産駒のファームなどを破って勝利した。続いて100ギニープレートに出走して、ドッジ産駒のパール、ヘロド産駒のベスタルなどを下して勝利した。シーズン最後の出走となったのは、マッチェム産駒ディクテーターとの500ギニーマッチレースとなった。これも勝利した本馬は、4歳時を5戦全勝の成績とした。

競走生活(5歳時)

5歳時は春先にニューマーケット競馬場で行われた450ギニースウィープSから始動。マッチェム産駒のジョッキークラブプレート勝ち馬マゴグを破って勝利した。次走の200ギニースウィープSでは、ディクテーターやオットー産駒のドリマントを破って勝利。しかしこのレース後しばらくして、フレデリック卿は、賭博の負債を返済するために本馬を手放す羽目になってしまった。本馬はリチャード・タタソール氏により、2500ポンド(800ポンドとする資料もある)で購入された。ヨークシャー州出身のタタソール氏は、キングストン公爵家の競馬秘書を務めた経験から、馬の販売に興味を抱くようになり、サラブレッド競売会社タタソールズ社を創始して、急速に事業を拡大していた新進気鋭の実業家だった。タタソール氏の所有馬となってからの最初のレースは、ノッティンガム競馬場で行われた10ギニースウィープSだったが、対戦相手が集まらずに単走で勝利した。次走は8月にヨーク競馬場で行われた295ポンド50ソヴリンのグレートサブスクリプションパースだったが、これまた対戦相手が集まらず単走で勝利した。この翌日には前日と全く同じ条件のグレートサブスクリプションパース(距離は4マイル)に出走。ここではドッジ産駒のヴェネチアンという対戦相手がいたのだが、やはり本馬が勝利した。次走はリッチフィールド競馬場で行われた距離3マイルのヒート競走キングスパースだった。ここで2頭の対戦相手を蹴散らして勝利したのが本馬の現役最後のレースとなった。5歳時の成績は6戦全勝だった。

ここまで記載してきた本馬の成績を通算すると12戦全勝になるわけだが、困った事に海外の資料にはほぼ間違いなく14戦全勝と記載されている。5歳時にタタソール氏の所有となる前に2戦、その後は4戦で、リッチフィールド競馬場で行われたキングスパースが最後のレースだった事までは確実のようであるから、4歳以前に本項に記載した以外にも何か他のレースに出走したという事になるはずだが、詳細は不明である(この矛盾は、もしかしたら次に紹介する競走記録の混乱に起因するのかもしれない)。確実なレース記録が12回しかないためか、日本では本馬の通算成績を12戦全勝としている場合が多いようである。

なお、本馬が競走馬を引退した20年くらい後に、記録の混乱(1773年に創刊された「レーシング・カレンダー」第1巻には、ヘロドを父とする「無名の牡馬」(この無名馬には負けた記録がある)と本馬を混同している箇所があった)が生じて、実は本馬がデビュー直後のまだ名前が明確に付けられていない時期に2度敗れたことがあるのではないかという議論がされた事があった。しかし本馬を手掛けたロブソン師の息子が「ハイフライヤーは決して1度も負けたことがないし、罰金を払ってレースを回避した事も無い」と証言したうえに、様々な調査の結果などから、この敗戦記録は別の馬のものだったと断定されており、本馬が生涯不敗馬であった事は確定されている。英国血統書(ジェネラルスタッドブック)における本馬の欄にも、記録を混同しないようにとわざわざ注意書きが付せられている。

血統

Herod Tartar Croft's Partner Jigg Byerley Turk
Spanker Mare
Sister One to Mixbury Curwen Bay Barb 
Curwen Spot Mare
Meliora Fox Clumsey
Bay Peg 
Witty's Milkmaid  Snail 
Shields Galloway 
Cypron Blaze Flying Childers Darley Arabian 
Betty Leedes
Confederate Filly Grey Grantham 
Rutland's Black Barb Mare 
Salome Bethell's Arabian  ?
?
Champion mare Graham's Champion 
Darley Arabian Mare 
Rachel Blank Godolphin Arabian ? ?
?
? ?
?
Amorett Bartlet's Childers Darley Arabian 
Betty Leedes
Flying Whigg  Williams Woodstock Arabian 
Points 
Regulus Mare Regulus Godolphin Arabian ?
?
Grey Robinson Bald Galloway
Snake Mare
Soreheels Mare Soreheels  Basto
Sister One to Mixbury
Milbank's Black Mare  Makeless
Darcys Royal Mare 

ヘロドは当馬の項を参照。英首位種牡馬に8度輝いた大種牡馬で、勝ち上がった産駒数497頭は本馬より多い(勝利数1042勝は本馬より少ないが、いずれも当時としては破格の数字である)。

母レイチェルは、その父ブランクと母父レグルスが共にゴドルフィンアラビアン産駒だったため、ゴドルフィンアラビアンの2×3という強いインブリードの持ち主だった。レイチェルの初子には、本馬の半兄マークアンソニー(父スペクテーター)がいる。マークアンソニーはオルコックアラビアン系に属し、非三大始祖父系の最後の名種牡馬と言われており、英ダービー馬エイムウェルなどを出した。エイムウェルは非三大始祖父系では唯一の英ダービー馬だが、種牡馬として産駒を残したという記録が無く、オルコックアラビアン系は間もなく滅びた。もっとも、スペクテーターは第1回英ダービー馬ダイオメドの母父として、マークアンソニーはペイネイターの母父として後世に影響力を残している(マッチェム系に属するペイネイターは父として、49戦36勝の成績を挙げ種牡馬としても成功したドクターシンタックスを出し、ドクターシンタックスは母父としてニューミンスターを出した)。レイチェルはかなり長生きした馬で、没年は息子の本馬と同じ1793年で、享年30歳だった。それにも関わらず、レイチェルが生涯で出した牝駒は20歳時に産んだ子の1頭のみで、しかもこの子は生後2時間で骨盤骨折のために他界しているため、レイチェルの牝系子孫は存在しない。

レイチェルの2歳年上の全姉ルースの牝系子孫には、ファロスフェアウェイの兄弟、英セントレジャー馬インターメゾ(グリーングラスの父)、オペラハウスカイフタラの兄弟、香港三冠馬リヴァーヴァードン、東京優駿の勝ち馬シリウスシンボリなどが、レイチェルの6歳年下の全妹ルティリアの牝系子孫には、英ダービー馬オーランド、英ダービー馬ビーズマン、20世紀前半米国の歴史的名馬グレイラグ、仏ダービー馬エルナンド、ベルモントSの勝ち馬コロニアルアッフェアー、BCクラシックの勝ち馬キャットシーフ、香港の英雄サイレントウィットネス、新国出身の名馬ソーユーシンク、ビワハヤヒデとナリタブライアンの兄弟、ジャパンCの勝ち馬マーベラスクラウン、それにショットオーヴァーフリゼットとその子孫達(トウルビヨンパーソロンダリアシアトルスルーミスタープロスペクター等)などがおり、いずれもかなり繁栄している。→牝系:F13号族①

母父ブランクは競走馬としてのキャリアは良く分からないが、1762・64・70年と3度の英首位種牡馬になっている。先に記載したとおり、ゴドルフィンアラビアンの直子である。ブランクの半弟にはシェイクスピアがおり、この馬はエクリプスの実の父ではないかとの説もある(詳細はエクリプスの項を参照)。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、タタソール氏がレッドバーンに所有する牧場で種牡馬入りした。タタソール氏は本馬の交配数を可能な限り増やすために、初年度の種付け料を15ギニーという比較的安い価格に設定した(本馬の産駒成績が向上するにつれて徐々に上昇し、最高50ギニーまで達している)。そのために本馬のところには数多くの繁殖牝馬が集まったが、それでもタタソール氏は本馬の交配数に制限を設けなかった。本馬があまりにも多くの交配数をこなしていたので、後に本馬が突然衰弱して19歳で他界すると、タタソール氏は「あんなに多く交配させたからハイフライヤーは早死にしたのだ」と批判を受けたという。もっとも19年という生涯は長命とは言えない(父ヘロドは22年、母レイチェルは30年生きた)が、特別に短命というほどでもなく、本馬の死が交配過多の影響かどうかは不明である。タタソール氏はその急激な成功ぶりから、他の種牡馬を繋養する人々からかなり妬まれており、「鼻につく男」と言われていた(実際にどんな性格の人物だったかは不明)から、これは結果論にこじつけた悪口の類であろう。

また、タタソール氏はエクリプス牝駒と、本馬の父ヘロドとの間に良駒が多く出ていた事に目をつけ、ありったけのエクリプス牝駒を買い漁り、本馬を交配させて誕生した子馬を高く売るという商法を思いつき実践した。彼が友人や同僚に送った手紙には「私にエクリプス牝駒を送ってください。そうすれば、この国で最良の競走馬を得る事が出来るでしょう」とあった。タタソール氏の目論見は的中し、本馬は既に1780年に他界していた父ヘロドが最後に英首位種牡馬となった1784年の翌年1785年から1796年までの12年連続と、1798年の合計13回の英首位種牡馬に輝くという記録的大成功を収めた(1797年はキングファーガスが英首位種牡馬を獲得している)。この12年連続と13回という記録は、2004年に13年連続14回目の英愛首位種牡馬を獲得したサドラーズウェルズによって塗り替えられるまで200年以上も史上1位の座を保ち続け、一時は更新不可能と言われたほどの未曾有の大記録だった(セントサイモンさえも7年連続を含む9回止まりである)。勝ち上がった産駒は469頭、勝利数は1108勝にも及び、英ダービー馬はサーピーターティーズルなど3頭、英セントレジャー勝ち馬は4頭など、数々の優駿を送り出した。

本馬の成功により、タタソール氏は毎年1万5千ポンド以上の収益を得て、タタソールズ社は大企業となり、彼はレッドバーンに大邸宅を建造し、その家に「ハイフライヤー・ホール」と名付けた。本馬はタタソールズ社のシンボルとして扱われ、タタソール氏が主催するパーティの乾杯は、「ハンマーとハイフライヤーに」という言葉で行われた(ハンマーは、セリで落札が決定した際に競売人が机をたたく時に用いられる)。また、タタソールズ社最大のセリは「ハイフライヤー・セール」と呼ばれていた。

本馬は1793年に急速に身体の衰えを見せるようになり、同年10月に19歳で他界した。遺体は、タタソール氏の自宅ハイフライヤー・ホールの近くの小牧場に葬られた。墓碑にはタタソール氏が考案した「この場所には、その死により多くの人を嘆き悲しませたハイフライヤーの完璧かつ美しい均整が取れた馬体が眠っています。名高きタタソールズ社が素晴らしい富を得ることが出来たのは、彼と彼の驚くべき子孫達によってもたらされたものだという事実を認めるのに恥じ入ってはなりません」という文章が刻まれた。タタソール氏は本馬の後を追うように、1795年2月に死去している。

後世に与えた影響

本馬の直子サーピーターティーズルもまた種牡馬として大成功し、英首位種牡馬に10回輝いた。ヘロド、本馬、サーピーターティーズルの3代で、1777年から1809年までの33年間に英首位種牡馬31回獲得という凄まじい記録を打ち立てている。この凄まじさは、ヘロドや本馬と同時期に生きたエクリプスが種牡馬として活躍しながらも1度も英首位種牡馬になれなかったという事実が如実に物語っている。しかし、あまりに繁栄し過ぎた事が逆に仇となった。英国内にいるのがヘロドの血を引く馬ばかりになってしまったため、血の袋小路に陥ってしまい、19世紀末には本馬の直系勢力は勢いを完全に喪失。英国ではセントサイモン等新興勢力の登場で滅亡し、なんとか生き残っていた仏国と独国でも第二次世界大戦の影響で滅亡。かろうじてロシアに残っていた末裔もソヴィエト連邦の崩壊に伴って滅び、本馬の直系子孫は現在完全に滅んでいる(父ヘロドの直系はトウルビヨンを経由する血統がかろうじて現在も残っている)。ただし、直系が滅んでも、本馬がサラブレッド界に与えた影響は絶大で、現在世界中に存在するサラブレッドの中で、血統表を遡って本馬の名前がどこにも出てこない馬は1頭も存在しない。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1781

Omphale

英セントレジャー

1782

Cowslip

英セントレジャー

1782

Fairy

ドンカスターC

1782

Stargazer

ドンカスターC

1783

Noble

英ダービー

1784

Sir Peter Teazle

英ダービー・クレイヴンS2回

1784

Spadille

英セントレジャー

1785

Young Flora

英セントレジャー

1786

Skyscraper

英ダービー

1789

St. George

ジョッキークラブプレート

1789

Volante

英オークス

1790

Oberon

ドンカスターC

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