和名:ドミノ |
英名:Domino |
1891年生 |
牡 |
黒鹿 |
父:ヒムヤー |
母:マニーグレイ |
母父:エンクワイアラー |
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19世紀末の米国短距離競走において圧倒的な強さを誇った「黒い旋風」は僅か6歳で夭折するも後世の血統界に大きな影響を残す |
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競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績25戦19勝2着2回3着1回 |
マイル以下の距離ではほとんど無敵を誇った19世紀末米国の快速馬。愛称は当時の競馬記者が考案した“The Black Whirlwind(黒い旋風)”であり、その後に一般の競馬ファンの間にも普及した。
誕生からデビュー前まで
父ヒムヤーの生産者でもあったバラク・G・トーマス少佐により、米国ケンタッキー州ディキシアナスタッドにおいて生産された。全身が殆ど真っ黒という黒鹿毛馬で、身体の白い箇所は、両後脚に履いたソックスと、額と鼻にある僅かな星の部分のみだった。
1歳6月にニューヨーク州でタタソールズ社が行ったセリに出品され、ウォール街の著名な投資家で、既にベルモントSの勝ち馬スペンドスリフトやパリ大賞の勝ち馬フォックスホールなどを所有して馬主としても成功を収めていたジェームズ・R・キーン氏と、息子のフォックスホール・P・キーン氏により購入された。ジェームズ・キーン氏はあまり本馬の事を評価していなかったようであるが、フォックスホール・キーン氏は本馬に高い評価を下したようで、購入額3000ドルは、トーマス少佐がこのセリに出品した1歳馬の平均取引価格875ドルを大きく上回るものであった。
キーン親子の共同名義で競走馬となった本馬は、すぐにアルバート・クーパー調教師の元に送られ、その年のうちに初期調教が施された。しかしクーパー師が試しに本馬を走らせて見たところ、信じがたいほどの好タイムを出した。これはおかしいと翌日もう一度試走を行ったために、本馬は両前脚に損傷を負ってしまい、生涯を通じて痛みに悩まされる事になった。この失態を責められたクーパー師は本馬の調教師を解任され、改めてウィリアム・レークランド師が本馬の管理調教師として任用された。レークランド師は本馬の脚に包帯を巻きつけて少しでも苦痛が軽減されるようにした。この包帯は本馬がレースに出る際にも巻かれたままであり、本馬がレースを走る姿を描写した絵画においても、本馬の前脚に包帯が巻かれているのを見ることができる。なお、エイブラハム・S・ヒューイット氏という人物が、本馬を撮影した写真からすると脚を損傷していたようには見受けられないという意見を述べているらしい(確かに筆者が本馬の写真を見ても脚は普通に見える)が、この意見は米国では一般的とはなっておらず、筆者が調べた本馬について紹介された資料には例外なく初期調教で脚を痛めたという話が掲載されており、それに疑問を差し挟む余地はないようである。
競走生活(2歳時)
2歳5月にグレーヴセンド競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走で、フレッド・タラール騎手を鞍上にデビューを迎え、6馬身差で圧勝した。このタラール騎手が本馬の主戦となるのだが、彼は乱暴な騎乗をする人物であり、本馬に対しても鞭や拍車を乱用した。それから5日後には同コースで行われたグレートアメリカンS(D5F)に出走。2着ドビンズを4馬身突き離して楽勝した。翌6月にモリスパーク競馬場で出走したグレートエクリプスS(D6F)も、2着ドビンズに2馬身差をつけて勝利した。同月末にシープスヘッドベイ競馬場で出走したグレートトライアルS(D6F)は重馬場となり苦戦を強いられたが、2着ハイデラバードと3着ドビンズに首差で勝利した。翌7月にオールドワシントン競馬場で出走したハイドパークS(D6F)は、2着ピーターザグレートに2馬身差で勝利した。翌8月にオールドモンマス競馬場で出走したプロデュースS(D6F)では128ポンドを背負わされたが、2着ディスカウントに3/4馬身差で勝利した。
それから10日後には、当時としては破格の賞金4万5千ドルを誇ったベルモントフューチュリティS(D5.75F)に出走した。ところでこれは余談だが、この当時にベルモントパーク競馬場は存在しておらず(完成は1905年)、この年に同競走が施行されたのはシープスヘッドベイ競馬場である。しかし同競走は一般的にベルモントフューチュリティSと呼称されているため、この名馬列伝集では原則としてその名称を用いることにしている。さて、このレースには高額賞金を狙って、本馬やドビンズを含む20頭が出走してきた。本馬には130ポンドが課せられた上に、レースは重馬場で行われた。しかも悪い事に、道中で本馬の前を走っていた僚馬ハイデラバードが落馬してしまい、本馬はそれを避けるためにほとんど停止するくらいの不利を蒙った。しかしタラール騎手が鞭を乱打したために、仕方なく再び走り始めた本馬は、ゴール寸前でフラッシュSの勝ち馬ガリリーとドビンズの2頭を捕らえて、2着ガリリーに頭差、3着ドビンズにもさらに頭差をつけて勝利を収めた。
この過酷なレースで本馬は疲労困憊だったはずだが、直後にドビンズの所有者リチャード・クロッカー氏から賞金1万ドルを賭けたマッチレースの申し込みがあり、ジェームズ・キーン氏がそれを承諾したために、ベルモントフューチュリティSからたった2日後に、ベルモントフューチュリティSと同じシープスヘッドベイ競馬場ダート5.75ハロンで行われたドビンズとのマッチレースに出走する羽目になった。このレースの様子が当時の新聞記事で次のように描写されている。「1度、2度、3度、ドミノの横腹に鞭が入れられました。しかしドビンズはそれでも食い下がり、ゴール前1ハロン地点では僅かに前に出ました。するとタラール騎手は鞭を右手から左手に持ち替えて、まるで太鼓を叩くようにドミノの肋骨の辺りを連打しました。ドミノの脚はふらふらで、しかも脇腹には血が流れていました。しかし未だに敗北を知らないドミノは闘争心を発揮して残り100ヤード地点から盛り返しました。このレースの勝者を予測できる人は誰もいませんでした。」並んでゴールインした2頭の着順を確定する事は出来ずに、同着という結果となった。
ドビンズもこの年のトレモントS・オータムS・バートウS・フォームS・ゼファーSを勝った有力2歳馬であり、このレースでは意地を見せた格好になった。一方の本馬は前述したようにデビュー前調教で脚を痛めていたのだが、この2戦でさらに悪化したという。このためにさすがに1か月間の休養が与えられた。また、この2戦で本馬はタラール騎手を非常に憎むようになり、彼の姿が視界に入ったり、彼の足音が聞こえたりするだけで大暴れするようになった(本馬自身は後に各方面から「寛大な馬」と評されているくらいだから、特に気性が激しい馬ではなかったようである)。そのため、タラール騎手が本馬に跨る際には、本馬の頭に毛布を被せて視覚と聴覚を遮断する必要が生じるほどだった。
9月末にモリスパーク競馬場で出走したメイトロンS(D6F)では128ポンドが課せられたが、2着となったユナイテッドステーツホテルSの勝ち馬ピースメーカーに1馬身差をつけ、1分09秒0のコースレコードを計時して勝利。2歳シーズンを9戦全勝で締めくくった。本馬が2歳時に獲得した賞金17万790ドルは、1931年に21万9千ドルを稼いだトップフライトにより破られるまで39年もの間、北米の2歳馬収得賞金記録だった。この頃には、かつて米国競馬の主流だったヒート競走はあまり見られなくなっており、重要視される競走馬の能力はスタミナからスピードに移行し始めていた。そういった時期に出現した本馬は、当時の米国競馬において最も速い馬であると考えられていた。そのため、これは後年の話ではあるが、この年の米最優秀2歳牡馬に選出されたのは勿論、米年度代表馬にも選出された。
競走生活(3歳時)
8か月以上の休養を経た本馬は、3歳6月にモリスパーク競馬場で行われたウィザーズS(D8F)で復帰した。このレースは、好敵手ドビンズに加えて、前年のブリーダーズS・ダッシュS・ゴールデンロッドS・アルジェリアHを勝っていた後の米国顕彰馬にして本馬最大の好敵手ヘンリーオブナヴァルとの初顔合わせとなった。本馬にとっては初のマイル戦となったが、ヘンリーオブナヴァルを頭差の2着に、ドビンズを3着に抑えて勝利した。
続いてオールドワシントン競馬場に向かい、前走から11日後のアメリカンダービー(D12F)に出走した。しかし結果から見れば12ハロンという距離は明らかに長過ぎた。道中全く抑えが効かなかった本馬は、レイエルサンタアニタの9着最下位に敗れてしまい、デビューからの連勝は10で止まった。
2か月間の調整期間を経て再び短距離路線に戻り、8月にシープスヘッドベイ競馬場でフライングS(D6F)に出走した。ここでは130ポンドを課せられたが、2着ピースメーカーに3馬身差をつけて完勝。勝ちタイム1分10秒0はコースレコードだった。それから3日後に同じくシープスヘッドベイ競馬場で出走した新設競走オーシャンH(D8F)は、2着デュカットに頭差で辛うじて勝利した。
その1週間後には同じシープスヘッドベイ競馬場ダート8ハロンで、後年になって前年の米最優秀3歳牡馬とこの年の米最優秀ハンデ牡馬、及び米国顕彰馬にも選ばれるフェニックスホテルH・シーフォームS・フライトSなどの勝ち馬クリフォードとのマッチレースが組まれた。結果は本馬が3/4馬身差で勝利した。さらに5日後にグレーヴセンド競馬場で参戦したカルヴァーS(D6F)も、アメリカンホテルSの勝ち馬ストンネルを1馬身半差の2着に破って勝利した。
それから4日後にはグレーヴセンド競馬場において、ウィザーズS2着後にベルモントS・トラヴァーズSなどを勝っていたヘンリーオブナヴァルと本馬のマッチレースが、サードスペシャルSの名称で施行された。距離は9ハロンであり、本馬にとっては明らかに不適当だった。レースは本馬が先行して、ヘンリーオブナヴァルが少し後方を追撃する展開となった。そしてゴール直前で差を縮めてきたヘンリーオブナヴァルと2頭並んでゴールイン。結果は同着だったが、距離を考えるとかなり頑張ったと言える。
翌10月にはモリスパーク競馬場において、本馬、ヘンリーオブナヴァル、クリフォードの3頭マッチレースが、スペシャルSの名称で施行された。距離は今回も9ハロンで、本馬にとっては明らかに不利だったが、当時の米国競馬界を代表する3頭の強豪馬が一堂に会したレースだけに、“The Race of the Decade(10年に1度の大一番)”として大きく盛り上がった。しかしここで再び脚を痛めた本馬は、2着クリフォードを1馬身抑えて勝ったヘンリーオブナヴァルから11馬身も離された3着に敗れた。この年はこれを最後に休養入りし、3歳時の成績は8戦6勝となった。後年になって、ヘンリーオブナヴァルと共にこの年の米最優秀3歳牡馬に選ばれているが、米年度代表馬にはヘンリーオブナヴァルだけが選ばれた。
競走生活(4歳時)
4歳時は5月にグレーヴセンド競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動。重馬場であったが、2着ウェーンベルグに2馬身差で順当に勝利した。しかし1か月後にシープスヘッドベイ競馬場で出走したサバーバンH(D10F)では距離が長すぎたようで、アトランティックS・グレートアメリカンS・グレートエクリプスS・ロリラードS・オムニウムS・タイダルS・ロングアイランドHを勝っていたサーウォルター、ラッツァローネ、ソングアンドダンスの3頭に屈して、勝ったラッツァローネから3馬身1/4差の4着に敗退した。それから3日後に出たシープスヘッドベイ競馬場ダート5.5ハロンの一般競走では、2着ファクトタムに3馬身差で快勝した。さらに4日後に同じくシープスヘッドベイ競馬場で出走したコニーアイランドH(D6F)は、2着ウェーンベルグに2馬身差で勝利。それから1週間後に出たシープスヘッドベイH(D8F)では、セプテンバーSの勝ち馬ドリアンを2馬身差の2着に、サバーバンHで2着だったサーウォルターを3着に破って勝利した。
その後はしばらく間隔を空けて、8月にシープスヘッドベイ競馬場でフォールH(D5.75F)に出走。しかし133ポンドを背負わされてしまい、24ポンドものハンデを与えたザバタフライズの頭差2着に敗退。これが本馬のマイル以下の距離における生涯唯一の敗戦となった。ザバタフライズは前年にベルモントフューチュリティSなど無敗の成績を残して後年になって米最優秀2歳牝馬に選ばれたほどの馬であり、さすがにこの斤量差は不適当だったようである。このレースには135ポンドを背負ってカルヴァーHを勝ったり、同年のプリークネスS・ベルモントSの勝ち馬ベルマーをブロックウッドHで撃破したりしたレイデルカーレレスも出走していたが、本馬はこの馬には先着している。
翌9月に出走した次走のシープスヘッドベイ競馬場ダート9ハロンの一般競走では、不向きな距離をよく頑張ったが、ヘンリーオブナヴァルに首差敗れて2着。その6日後にグレーヴセンド競馬場で出走したファーストスペシャルS(D10F)では、ヘンリーオブナヴァル、この年もオムニウムH・オリエンタルHを勝つなど活躍していたクリフォード、サーウォルター達との対戦になった。しかしこの距離でこの3頭相手では成すすべなく、勝ったヘンリーオブナヴァルから6馬身1/4差をつけられて5着最下位に敗れてしまった。このレースを最後に、4歳時8戦4勝の成績で競走馬を引退した。獲得賞金総額19万3650ドルは、1920年にマンノウォーによって破られるまで北米記録だった。
本馬はマイル以下の距離では19戦して18勝2着1回と圧倒的な強さを誇った快速馬である。その反面、マイルを超える距離では6戦して1着同着が1度あるだけで、明らかな距離の限界があった。しかしスタミナには問題があったが、その闘争心に疑問を抱く人は皆無だったという。
血統
Himyar | Alarm | Eclipse | Orlando | Touchstone |
Vulture | ||||
Gaze | Bay Middleton | |||
Flycatcher | ||||
Maud | Stockwell | The Baron | ||
Pocahontas | ||||
Countess of Albemarle | Lanercost | |||
Velocipede Mare | ||||
Hira | Lexington | Boston | Timoleon | |
Sister to Tuckahoe | ||||
Alice Carneal | Sarpedon | |||
Rowena | ||||
Hegira | Ambassador | Plenipotentiary | ||
Jenny Mills | ||||
Flight | Leviathan | |||
Charlotte Hamilton | ||||
Mannie Gray | Enquirer | Leamington | Faugh-a-Ballagh | Sir Hercules |
Guiccioli | ||||
Pantaloon Mare | Pantaloon | |||
Daphne | ||||
Lida | Lexington | Boston | ||
Alice Carneal | ||||
Lize | American Eclipse | |||
Gabriella | ||||
Lizzie G | War Dance | Lexington | Boston | |
Alice Carneal | ||||
Reel | Glencoe | |||
Gallopade | ||||
Lecomte Mare | Lecomte | Boston | ||
Reel | ||||
Edith | Sovereign | |||
Judith |
父ヒムヤーは当馬の項を参照。
母マニーグレイは現役成績8戦1勝。6歳時にトーマス少佐により購入されてディキシアナスタッドで繁殖入りしていた。本馬の他に、本馬の半姉バンダラ(父キングバン)【レディーズS・マーメイドS】、半姉レディリール(父フェロークラフト)【ビーコンS】、全姉コレクション【トボガンH】と3頭のステークスウイナーを産んでいる。
マニーグレイは米国競馬界における根幹繁殖牝馬の1頭と言える存在で、その牝系子孫には以下のような数々の活躍馬がいる。
バンダラの曾孫にはペノブスコット【米グランドナショナル】、オーダシャス【カーターH2回・サバーバンH】、玄孫には英ダービー馬パパイラスとのマッチレースを勝利した米国顕彰馬ゼヴ【ケンタッキーダービー・ベルモントS・ウィザーズS・ローレンスリアライゼーションS】、フローレンスナイチンゲール【CCAオークス】、エディスキャヴェル【CCAオークス】がいる。
レディリールの子には名種牡馬にして米国顕彰馬のハンブルグ【ローレンスリアライゼーションS】、牝系子孫にはコンプライアンス【モンマスオークス・アラバマS】、アウタースペース【マザーグースS・ベルデイムH】、アヴィゲイション【ラカナダS(米GⅠ)・サンタバーバラH(米GⅠ)・サンタアナH(米GⅠ)】、メンデス【ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、ビッグドラマ【BCスプリント(米GⅠ)】、シェアードラマ【デラウェアH(米GⅠ)・パーソナルエンスンS(米GⅠ)】などがいる。
コレクションの子にはヤンキー【ベルモントフューチュリティS】、孫にはヘイスト【サラトガスペシャルS・ウィザーズS】、牝系子孫にはロイヤルネイティヴ【モンマスオークス・スピンスターS・アーリントンメイトロンH・トップフライトH】、アファームド【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・ホープフルS(米GⅠ)・ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・ローレルフューチュリティ(米GⅠ)・サンタアニタダービー(米GⅠ)・ハリウッドダービー(米GⅠ)・チャールズHストラブS(米GⅠ)・サンタアニタH(米GⅠ)・カリフォルニアンS(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)】、リルイーティー【ケンタッキーダービー(米GⅠ)】、カルーカンクイーン【サンタモニカH(米GⅠ)・エインシェントタイトルBCH(米GⅠ)】、ゴーストザッパー【BCクラシック(米GⅠ)・ヴォスバーグS(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)】、日本で走ったフジノスラッガー【中山大障害秋】、バシケーン【中山大障害(JGⅠ)】などがいる。
本馬の全妹マニーヒムヤーの牝系子孫には、トワイライトティアー【アーリントンラッシーS・エイコーンS・CCAオークス・アーリントンクラシックS・ピムリコスペシャル】、ワンヒッター【マンハッタンH・ピムリコスペシャル・ホイットニーS・サバーバンH・モンマスH】、フリートナスルーラ【カリフォルニアンS】、ウエストコーストスカウト【モンマス招待H・ウッドワードS・エイモリーLハスケルH・ガルフストリームパークH(米GⅠ)・エイモリーLハスケルH(米GⅠ)】、エストラペイド【バドワイザーミリオン(米GⅠ)・サンタアナH(米GⅠ)・ゲイムリーH(米GⅠ)・イエローリボンS(米GⅠ)・オークツリー招待H(米GⅠ)】、クリミナルタイプ【ピムリコスペシャルH・メトロポリタンH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)】、エクシードアンドエクセル【ドバイレーシングクラブS(豪GⅠ)・ニューマーケットH(豪GⅠ)】、日本で走ったリンドシェーバー【朝日杯三歳S(GⅠ)】などがいる。→牝系:F23号族②
母父エンクワイアラーはリーミントン産駒で、3歳時にフェニックスホテルS・ロビンズS・ケナーS・コンティネンタルホテルS・オーシャンホテルS・シチズンSと6戦全勝を誇った。種牡馬としても活躍している。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ジェームズ・キーン氏が所有するケンタッキー州キャッスルトンファームで種牡馬入りした。ケンタッキー州への移動中に病気になり、途中のシンシナティで治療を受けて回復するという一幕もあったという。ジェームズ・キーン氏はこの当時、米国の快速血統と英国古来のスタミナ豊富な血統の交配理論に熱中しており、キャッスルトンファームには、彼が英国から輸入した英国産の繁殖牝馬が溢れかえっていた。そのうちの一部が本馬の交配相手として指名された。
ところが本馬は種牡馬入り2年目の1897年に6歳という若さで急死してしまった。本馬の死の様子は英ブラッドストックエージェンシー社が発行している“The Bloodstock Breeders' Review(ブラッドストック・ブリーダーズ・レビュー)”において次のように描写されている。「6歳のドミノは、2度目の繁殖シーズンが終わって1か月経過した頃にはまったくの健康体に見えました。しかしそれから間もなくして、全身が麻痺して地面に横たわっている状態で発見されました。キャッスルトンファームの管理者デインジャーフィールド少佐はすぐにレキシントンにいた馬に詳しい獣医6名を呼び集めて治療に当たらせました。しかし全ては無駄に終わり、僅か数時間後にドミノは死にました。公式な死因は脊髄の髄膜炎とされました。しかしそれには少し疑問があり、本当の理由は事故だったのではないでしょうか。種牡馬としてはとても温厚な部類に入る上に、いたって元気な馬でしたが、後脚だけで立ち上がり、前脚を空中で漂わせた後に静かにそれを降ろすという癖を持っていました。その日の朝も同じようにしていたドミノは、躓いて脚を交差させるなどした拍子に致命的な怪我を負ってしまったのではないでしょうか。」
本馬の死の一報を聞いたジェームズ・キーン氏は大いに嘆き、生産者であるトーマス少佐が所有する牧場に遺体を埋葬する事を要望した。トーマス少佐もそれを承諾したため、遺体は死の数日後にトーマス少佐が所有するヒラヴィラファームに運ばれて埋葬された。このときの様子が“The Bloodstock Breeders' Review”において次のように描写されている。「1897年7月30日の金曜日、不思議と印象的な場面がケンタッキー州レキシントンの近郊で展開されました。ヒラヴィラファームからそれほど離れていないハフマンミルパイクに、50人以上の男女の集団がいました。彼等は、布に包まれた種牡馬の遺体が墓穴に入れられる様子を、手を合わせながら見つめていました。彼等はトーマス少佐とデインジャーフィールド少佐、それにその家族、友人、従業員達でした。遺体を包んだ布には彼等が流した涙が零れ落ちていました。その場は沈黙に包まれており、誰も言葉を発しようとはしませんでした。やがて埋葬が完了し、献花が終了すると、彼等はゆっくりと解散しました。」
本馬の墓碑にはジェームズ・キーン氏の要望により、「米国競馬史上最も速く、最も勇猛果敢で、最も寛大な馬がここに眠ります」と刻まれており、100年以上が経過した今日でもその文言を見る事が出来る。
種牡馬として残した産駒は2世代の僅か20頭で、名前を付けられた産駒は19頭だった。しかしそのうち15頭が勝ち上がり、さらにうち8頭がステークスウイナーになった。ステークスウイナー率は42%であり、当時の平均3%と比較すると桁違いの高さだった。産駒の質は極めて高く、牝駒のキャップアンドベルは2歳時に米国で走った後に英国に移動して1901年の英オークスを制し、北米産馬として史上初の英オークス馬となった(日本語版ウィキペディアには、北米産馬による初の英国クラシック制覇と書かれているが、1881年の英ダービー・英セントレジャーを勝ったイロコイの方が早いので誤りである)。キャップアンドベル以外にも、ベルモントSの勝ち馬コマンドや、ジョッキークラブSで英国三冠馬ダイヤモンドジュビリーを破って勝利したディスガイズなど、父が克服できなかった中長距離の大競走を制した産駒もいた。これらの成功は、キーン氏が試みた英国古来の血統を有する繁殖牝馬との交配が功を奏した結果でもある。1955年には初年度で米国競馬の殿堂入りを果たした。
本馬と同じく早世したコマンドがそれでも種牡馬として成功し、貴重なヒムヤー直系の血を21世紀まで伝えている。また、直系でなくても本馬の血を有する馬は多く、本馬の死から40年が経過した1937年には、米国における全ステークスウイナー267頭のうち約68%に当たる181頭が本馬の血を受けていたという。現在の世界競馬界において、本馬の血を全く持たない馬は少数派(もしかしたら1頭もいないかも)となっている。例えばサンデーサイレンスの血統表をひたすら遡ると、本馬の名前がごろごろと出てくる(筆者が数えてみると、本馬の名前を少なくとも13箇所で見つける事ができた)。そうした意味では、本馬もまた今日のサラブレッドの根底を支える1頭であると言えるだろう。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1897 |
Disguise |
ジョッキークラブS |
1898 |
Cap and Bells |
英オークス |
1898 |
ベルモントS |
|
1898 |
Running Stream |
ジュライC |