ブリンクボニー

和名:ブリンクボニー

英名:Blink Bonny

1854年生

鹿毛

父:メルボルン

母:クイーンメアリー

母父:グラディエイター

56年ぶり史上2頭目の牝馬の英ダービー馬となり2日後の英オークスも圧勝した19世紀屈指の名牝は、早世するも繁殖牝馬としても成功を収める

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績20戦14勝2着1回3着2回

誕生からデビュー前まで

英国ノースヨークシャー州スプリングコテージにあるハンガーフォードハウスステーブルにおいて、同牧場の所有者ウィリアム・イアンソン氏により生産・所有・調教された。体高は15.25ハンドとそれほど大きくはなかったが、非常に逞しい馬体の持ち主で、特に首から肩にかけてと下半身の強さは特筆物だったという。気性面に関しては「厄介な気性の持ち主で牧場スタッフを困らせた」というものと、「大変優れた気性の持ち主でとても従順だった」という、全く相反する評価がある。馬名は、イアンソン氏が移動の際にしばしば通過していた、スコットランドのエジンバラにある地名ブリンクボニー(又は同地区にあった道路もしくは通行料金徴収施設の名前)に由来するらしい。

競走生活(2歳時)

2歳4月にヨーク競馬場で行われたゼトランドS(T4F)でデビューしたが、マグニファイアーの3着に敗れた。5月にチェスター競馬場で出走したモスティンSも3着に敗退。それから2週間後にマンチェスター競馬場で出走したサプリングSで初勝利を挙げた。その後はビヴァリー競馬場で出走したビショップバートンSを勝利。ニューカッスル競馬場で出走したタイロSも勝利した。さらにリヴァプール競馬場で出走したグレートランカシャープロデュースSも勝利。グッドウッド競馬場で出走したベンティック記念Sも勝利した。しかし8月にヨーク競馬場で出走したコンヴィヴィアルSでは、名牝アリスホーソンの娘レディホーソンの2着に敗れた。しかし僅か2日後のジムクラックS(T6F)では、後のアスコット金杯の勝ち馬スカーミッシャーを破って勝利した。9月にはドンカスター競馬場に向かい、フィリーSを勝利。さらにスウィープSでは、スカーミッシャーや後のリヴァプールセントレジャーの勝ち馬アダマスといった牡馬勢に4ポンドのハンデを与えて勝利した。2歳時の成績は11戦8勝だった。

本馬は翌年の英ダービーに登録があった。牝馬が英ダービーを勝った事例は1801年のエレノア以来久しく絶えていたが、本馬の実力なら十分に勝てると見込まれ、英ダービー馬の最有力候補として挙げられた。イアンソン氏の元には本馬を売ってほしいという申し出が相次いだが、彼はそのすべてを断った。

競走生活(3歳前半)

しかし本馬は2歳から3歳にかけての冬場に歯の病気(虫歯ではなく、新しい歯が生えてくる際に炎症を起こしたようである)に罹ってしまい、自分で食物を咀嚼する事が出来なくなってしまった。そのために牧場スタッフは本馬に流動食を与え続けた。しばらくして歯の病気は完治したが、この段階で本馬の体重は激減していた。こうした状況下にも関わらず、本馬が英ダービーの大本命である事には変わりが無かった。そのために損をすることを恐れた悪徳ブックメーカーが本馬に何かするのではないかという噂が流れ、イアンソン氏は番犬を入手して厩舎を厳重に監視した。

本馬は英1000ギニーにも登録があった。イアンソン氏は本馬の状態は不十分だと感じていながらも、それでも勝てると考えて英1000ギニー(T7F178Y)に本馬を送り出した。英シャンペンSの勝ち馬タスマニアなどを抑えて単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された本馬はスタートから逃げ馬を見るように先行したものの、残り2ハロン地点で失速。勝った単勝オッズ13.5倍の伏兵インペリュースから4馬身以上の差をつけられて5着に敗れた。

この敗戦により本馬の評価は急激に下がり、次走の英ダービー(T12F)では単勝オッズ21倍まで人気を下げた。ジョン・“ジャック”・チャールトン騎手が騎乗する本馬は、レース序盤から先行集団につけた。そして直線に入ってすぐに先頭に立ち、エプソム競馬場の長い直線を押し切ろうとした。後方からはアダマス、単勝オッズ201倍の超人気薄馬ブラックトミーなどを含む5頭の馬が押し寄せてきて、本馬を含む6頭が次々にゴールになだれ込んできた。しかし本馬が粘り切り、2着ブラックトミーに首差、3着アダマスにはさらに短頭差で勝利を収め、エレノア以来56年ぶり史上2頭目の牝馬の英ダービー馬となった。着差こそ僅かだったが、勝ちタイムの2分45秒0は、1848年にサープライスが計時した2分48秒0のレースレコードを3秒も更新するものだった。

その2日後には英オークス(T12F)に出走。英1000ギニー馬インペリュースなどを抑えて、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。チャールトン騎手は前走と異なり今回は後方待機策を選択。英ダービーは30頭立てだったが、今回は13頭立てだったために、じっくりとレースを進めることが可能だった。そして直線に入ってから残り2ハロン地点で先頭に立つと、馬なりのまま後続馬との差を広げ続け、2着スニーズに8馬身差、3着モエスティッシマにはさらに4馬身差をつけて圧勝した。

競走生活(3歳後半)

その後はアスコット競馬場に向かい、スウィープSに出たが、対戦相手が現れなかったために単走で勝利した。7月にはリヴァプール競馬場でランカシャーオークス(T12F)に出走。他馬より3ポンド斤量が重かったが、この程度の斤量差では本馬と他馬の実力差を埋めることは出来ず、単勝オッズ1.2倍の1番人気に応えて楽勝した。同月にはグッドウッド競馬場でベンティック記念Sにも出走。対戦相手は前月のエプソム金杯で2着していたシュバリエディンドゥストリーという3歳牡馬のみだった。結果は本馬がシュバリエディンドゥストリーを20馬身ちぎって勝利した。

9月には英セントレジャー(T14F132Y)に参戦。名高い本馬の走りを見るために、チャールズ・ディケンズやウィルキー・コリンズといった当時の人気作家を含む大観衆がドンカスター競馬場に押し寄せ、かなり騒々しい状況となった。本馬は単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持された。ところが結果は4着に敗退。勝ったのは、英オークスでは着外だった単勝オッズ17.67倍の英1000ギニー馬インペリュースだった。このレースにおいてチャールトン騎手は本馬をかなり強く抑えて走らせていた。そのために、悪徳ブックメーカーに買収されたチャールトン騎手が意図的に本馬を負けさせたのではないかという噂が立った。本馬が英セントレジャーの直後に出走した同コースのパークヒルS(T14F132Y)で、他馬より10ポンド重い斤量を背負いながらも、英セントレジャーにおけるインペリュースの勝ちタイムより2秒も速いタイムで6馬身差の圧勝を飾ると、その噂はますます信憑性を帯びてきた。そのために英セントレジャーの敗戦は八百長だと確信した2千人もの人々が、本馬やチャールトン騎手がいる厩舎に大勢押しかけてきた。チャールトン騎手が殺されかねない雰囲気だったため、イアンソン氏は元警察官の人々を臨時の警備員として雇い、事態の沈静化に努めた。この事件は後に「ブリンクボニー騒動」と呼ばれるようになった。しかし本当にチャールトン騎手が八百長をしたのかどうかは定かではない。余談だが、チャールトン騎手は本馬が他界した数か月後に後を追うように死去している。3歳時の成績は8戦6勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続けたが、なかなかレースには出てこず、ようやく競馬場に姿を現したのは3年連続出走となる7月のベンティック記念Sだった。しかし本馬はレース前からあまり調子が良くなさそうだった。そしてレース中盤で競走を中止。そのまま2度と競馬場に姿を現すことは無かった。そのために本馬は肺炎を発症して死んだのだという事実と異なる噂が流れた(実際には普通に5歳時から繁殖入りしている)。

56年ぶりに牝馬の英ダービー馬に輝き、立て続けに英オークスも圧勝した本馬は現役当時から英国競馬史上屈指の名牝と称えられ、「これまで競馬場に姿を現した中では最も素晴らしい牝馬」と賞賛された。本馬の競走馬引退から28年が経過した1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、全体の第22位(ちなみに本馬の息子ブレアアソールは第5位)にランクインした。牝馬としてはヴィラーゴプレザントゥリクルシフィックスに次ぐ第4位だった。こうした評価は今日においてもあまり変わっていないようで、「世界競馬史上最高の牝馬の1頭」「史上最高の3歳牝馬の1頭」など各方面で賞賛されている。

血統

Melbourne Humphrey Clinker Comus Sorcerer Trumpator
Young Giantess
Houghton Lass Sir Peter Teazle
Alexina
Clinkerina Clinker Sir Peter Teazle
Hyale
Pewett Tandem
Termagant
Cervantes Mare Cervantes Don Quixote Eclipse
Grecian Princess
Evelina Highflyer
Termagant
Golumpus Mare Golumpus Gohanna
Catherine
Paynator Mare Paynator
St. George Mare 
Queen Mary Gladiator Partisan Walton Sir Peter Teazle
Arethusa
Parasol Pot-8-o's
Prunella
Pauline Moses Seymour
Gohanna Mare
Quadrille Selim
Canary Bird
Plenipotentiary Mare  Plenipotentiary Emilius Orville
Emily
Harriet Pericles
Selim Mare
Myrrha Whalebone Waxy
Penelope
Gift Young Gohanna 
Sir Peter Teazle Mare

父メルボルンはウエストオーストラリアンの項を参照。

クイーンメアリーと母父グラディエイターはクイーンメアリーの項を参照。→牝系:F10号族②

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はイアンソン氏の所有のもとで繁殖入りした。しかし3番目の子を産んだ直後に8歳の若さで夭折した。産駒は僅か3頭しかいないが、そのいずれもが活躍馬となっており、もっと余命があればと惜しまれた。初子は6歳時に産んだ牝駒ボレアリス(父ニューミンスター)で、英オークスで3着する活躍を見せた。2番子は7歳時に産んだ牡駒ブレアアソール(父ストックウェル)で、英ダービー・英セントレジャーを勝ちパリ大賞で2着するなど7戦5勝の成績を挙げる活躍馬となった(詳細は当馬の項を参照)。3番子は8歳時に産んだ牡駒ブレッダルベーン(父ストックウェル)で、生後すぐに母が他界したために乳母馬に育てられた。競走馬としてはプリンスオブウェールズSを勝利した。

本馬の血は、ボレアリスとブレアアソールの2頭を経由して後世に受け継がれた。4度の英首位種牡馬に輝いたブレアアソールは直系こそ伸ばせなかったものの、牝駒パラフィンを経由して、プリンスパラタインネヴァーセイダイハワイアホヌーラジェニュインリスクシャーリーハイツスウェイルシャディードブラッシングジョンフォーティナイナーエルプラドスターオブコジーンシャーミットマライアズモンアルファベットスープアナバーペンタイアハイシャパラルハリケーンランアゼリストリートクライシャマルダルイェーツディヴァインプロポーションズコンデュイットゲームオンデュード、ファウンド、スーパークリーク、アグネスフローラ、ヤマニンゼファー、フラワーパーク、フサイチコンコルド、サニーブライアン、レディパステル、アグネスフライト、アグネスタキオン、ネオユニヴァース、ヴィクトリー、アンライバルド、エリンコート、エイシンアポロン、マカヒキなど多くの活躍馬にその血を伝えた。

ボレアリスの牝系子孫からは、ベイヤード【英セントレジャー・アスコット金杯・デューハーストS・ミドルパークS・エクリプスS・英チャンピオンS】、レンベルグ【英ダービー・デューハーストS・ミドルパークS・エクリプスS・英チャンピオンS2回・コロネーションC】、マイディア【英オークス・デューハーストS・英チャンピオンS】、ピカルーン【ミドルパークS・英チャンピオンS】、エラードキング【ピムリコフューチュリティ・アーリントンクラシックS・アメリカンダービー】、エスキモープリンス【AJCサイアーズプロデュースS・ゴールデンスリッパー・ローズヒルギニー】、ネルシウス【仏ダービー】、イメージル【AJCサイアーズプロデュースS・ローズヒルギニー・カンタベリーギニー・AJCダービー】、アラモサ【ダイヤモンドS(新GⅠ)・ソーンドンマイルH(新GⅠ)・オタキマオリWFA(新GⅠ)・トゥーラックH(豪GⅠ)】、日本で走ったヒカルメイジ【東京優駿】、コマツヒカリ【東京優駿】などが出ている。特に牝系からベイヤードを登場させた功績は非常に大きいと言える。

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