レキシントン

和名:レキシントン

英名:Lexington

1850年生

鹿毛

父:ボストン

母:アリスカーネル

母父:サーペドン

14年連続を含む16度の北米首位種牡馬獲得という大記録を樹立して現在でも米国の誇りと言われる米国競馬黎明期の名競走馬にして大種牡馬

競走成績:3~5歳時に米で走り通算成績7戦6勝

米国競馬黎明期を代表する名馬の1頭で、14年連続を含む通算16度の北米首位種牡馬に輝き、米国のみならず世界中の血統界に多大な影響を与えた大種牡馬。米ブラッドホース誌が毎年発行する“Stallion Register(種牡馬録)”の表紙は必ず本馬の肖像画となっており、直近2015年号もそうであった。20世紀以降の米国競馬界には数え切れないほど多くの名競走馬・名種牡馬が登場したが、本馬は未だに米国競馬史上最大の英雄として評価されているのである。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州レキシントン南西部にあったザメドウズファームにおいて、同牧場の所有者エリシャ・ウォーフィールド博士により生産された。ウォーフィールド博士はケンタッキー州トランシルヴァニア大学の医学部を卒業して同大学で外科と産科の医師をしていた人物で、エイブラハム・リンカーン大統領の妻メアリー夫人の母親が娘を産む際に産褥熱になった際に呼び出されて救命に当たった人物でもあった。しかし何を思ったのか(原田俊治氏の「新・世界の名馬」には、健康上の理由ともっと金持ちになりたいという動機と記載されている)医師を辞めて競馬界に身を投じ、ケンタッキー競馬協会の創設にも携わり、同州の競馬場整備に貢献していた(彼が整備した競馬場は現存せず、入場門だけがキーンランド競馬場に残されている)。

本馬は最初、肖像画に描かれたダーレーアラビアンの姿に体格などが似ていると言う理由で“Darley(ダーレー)”と命名された。本馬とダーレーアラビアンの肖像画を見比べると、額に走った流星や、脚のソックス(ただし本馬は四白だが、ダーレーアラビアンは右前脚だけ白毛がない)など共通点が多く、言われてみれば似ていないことも無い(本馬の肖像画と本馬が似ているという保証はないのだが)。体高は15.3ハンドと当時としては中型の身長だった(ダーレーアラビアンの体高は15ハンドだったと伝えられている)が、父ボストンから受け継いだ筋肉質で非常にバランスが取れた素晴らしい馬体の持ち主だった。その動作も非常に美しかったという。

気性面に関しては、海外の複数の資料に“good conformation plus an excellent disposition(見事な馬体の構成に加えて優れた気性の持ち主だった)”と書かれている。しかし「優れた」と「大人しい」は意味が違っており、後の数々の逸話からしても本馬の気性が激しかった事に疑いを挟む余地は無い。本馬が未デビューだった2歳のとき、当時72歳のウォーフィールド博士は体調を崩していた(これから7年後の1859年5月に死去)。そのために妻から競馬を止めるよう迫られて馬産を全て止めることにした。以下は「新・世界の名馬」に載っているけれども海外の資料にはどこをどう探しても発見できなかった話なのだが、あまりにも有名な話なので引用して掲載する。「サラブレッドの競馬から手を引き、持ち馬の全部を去勢しなさいという夫人の強い主張をしぶしぶ受け入れた(ウォーフィールド博士の指示により)、レキシントンは、ほかの牡の生産馬と一緒にロープで縛りあげられ横倒しにされた。そしてナイフが股間に当てられた瞬間、ボストンを父に持つこのすばしこい三歳馬はロープがゆるんだのに気がつくや全力を振り絞り、ナイフを持っている男の手をいきなり後肢で蹴り上げたものだからたまらない。ナイフが吹っ飛ぶはずみにその男は指を切ったため、結局この手術は取りやめ」になったのだという。もっとも、ウォーフィールド博士の経歴を紹介した海外の資料にさえ載っていない話である(「妻から競馬を止めるよう迫られた」までは載っているのだが)ため、この逸話の信憑性には疑問符がつく。

いずれにしても本馬は牡馬のまま競走馬デビューを迎えることになった。しかし妻にきつく言われていたウォーフィールド博士は自分の所有馬として本馬を走らせる事はせず、知人であるアフリカ系米国人ヘンリー・ブラウン調教師に本馬をリースした。しかしブラウン師は“Burbridge's Harry(バーブリッジのハリー)”と呼ばれていた解放奴隷であり、南北戦争前の当時の米国では解放奴隷が馬主になる事が出来なかったため、名義上の馬主はウォーフィールド博士となっていた。

競走生活(3歳時)

3歳5月に地元ケンタッキー州キーンランドで行われた1マイルのヒート競走(1日に複数回レースを行い、最初に2度1着になった馬が勝利という競走)であるフェニックスホテルH(現フェニックスS)でデビューした。レースは泥だらけの不良馬場で行われた。かなり焦れ込んでいた本馬はスタートでフライングして2マイルも余分に走ってしまい、公式スタート時には縄か何かで身体を固定されていた。しかし結局は公式スタートとなったレースを2連勝して勝利した。この数日後には距離2マイルのヒート競走シチズンSに出走。初戦は同父の牝馬ミッドウェイに敗れたが、その後に2連勝して勝利した。

このヒート競走の1レース目の直後に、リチャード・テン・ブロック氏という人物が、本馬を2500ドル(5千ドルとする資料もある)で購買したいとウォーフィールド博士に申し出た。ブロック氏は本馬の最初のレースだったフェニックスホテルHを観戦して本馬を購入する事を決め、エイブラハム・ビュフォード将軍、ウィラ・ビレー大佐、ユニウス・R・ワード氏といった人達に声をかけて、共同馬主団体を結成していたのである。既に競馬からの完全撤退を決めていたウォーフィールド博士はこの申し出に応じ、ブラウン師とのリース契約を解除して本馬をブロック氏達に売却した。

新馬主となったブロック氏は、本馬を生まれ故郷の町の名前にちなんで「レキシントン」と改名し、本馬はジョン・B・プライアー調教師の管理馬となった。ブロック氏は「新・世界の名馬」においてかなりのアウトローとして紹介されているとおりの法螺吹き人間だったらしく、本馬に関しても「この馬は私が生産しました。この馬の母親も私が生産しました。今まではウォーフィールド氏の所有馬になっていましたが」などと嘘八百を書いたらしい。しかしその後に本馬はトウモロコシ市場に乱入して怪我をしてしまい、しばらくレースには出られなかった。復帰したのは3歳12月で、サリーウォーターズというグレンコー牝駒との距離3マイルヒート競走マッチレースだった。結果は2戦連続で独走した本馬の圧勝。3歳時の成績は3戦全勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳4月には、当時米国競馬の中心地であったルイジアナ州ニューオーリンズで行われた当時最大級のレースである距離4マイルのヒート競走グレートステートポストSに出走した。このレースには本馬の好敵手となる同父のルコントも参戦していた。最初の競走では本馬がスタートからルコントの前を走ってそのまま逃げ切って勝利。2戦目では今度はルコントが本馬の前を走ったが、残り1マイル地点で本馬が抜き去って勝ち、2連勝で勝利馬となった。

このレース直後に共同馬主達の間で、本馬のその後の出走に関する意見の不一致があった。その結果ブロック氏は他の馬主達に5千ドルを支払い、本馬はブロック氏の単独所有となった。前走から1週間後、本馬は距離4マイルのヒート競走ジョッキークラブパースに出走して、再びルコントと対戦した。しかし初戦ではルコントが7分26秒0という世界レコードで走って勝ち、2戦目もルコントが勝ったため、本馬は生涯唯一の敗戦を喫した。

この後、ブロック氏はルコント陣営にマッチレースを申し込んだが断られた。止むを得ず対戦相手を求めてブロック氏と本馬はニューヨーク州ロングアイランドに向かった。ウィリアム・スチュアート氏という人物が所有する馬と対戦する目的だったが、スチュアート氏がコレラで急死してしまったため、予定されていたレースは中止となった。そのため今度はチャールズ・ロイド氏という人物が所有する馬と対戦するためにニュージャージー州ベセルに移動。そしてアスターハウスSというレースに出走する予定だったが、その事前調教中に本馬は手綱を振りほどいて逃げ回り、脚を負傷して出走不能となってしまった。そのまま休養入りとなり、4歳時の出走は2回のみとなった。

競走生活(5歳時)

5歳4月2日には、前年ルコントが本馬を破ったときに樹立した世界レコード7分26秒0に挑戦するトライアルレースに出走した。本馬は道中で落鉄しながらも、7分19秒75で走破し、見事にレコードを6秒25も更新。このトライアルレースの勝者として認められた。このタイムは、1874年に名馬スペンドスリフトの全兄フェロークラフトがサラトガ競馬場で行われたレースで7分19秒5を計時するまで19年間破られなかった。

この22日後の4月24日(12日後の4月14日とする資料もある)、本馬は前年に続いてジョッキークラブパースに出走。このレースにはルコントも出走しており、3回目の対戦となった。しかしルコントは疝痛から回復したばかりだった。初戦は本馬が勝ち、2戦目はルコントが体調不良を理由に棄権したため、本馬が勝利馬として認定された。このレースは、19世紀米国競馬における最大のマッチレースの一つと言われている。

しかし本馬は持病の眼病(2010年に行われた調査により、顔面に患った広範囲の感染症が原因だった事が判明している)が急激に悪化して、ほとんど失明に近い状態となったため、そのまま競走馬を引退した。2年間の競走生活の間に僅か7戦しかしていないが、これはブロック氏が高額の賭け金を提示して、他の馬主達がそれに応じない事が多かったためだとされている。それでも獲得賞金総額5万6600ドルは米国競馬における当時3番目の高額だった。

血統

Boston Timoleon Sir Archy Diomed Florizel
Sister to Juno
Castianira Rockingham
Tabitha
Saltram Mare Saltram Eclipse
Virago
Symes Wildair Mare  Syme's Wildair
Driver Mare 
Sister to Tuckahoe Ball's Florizel Diomed Florizel
Sister to Juno
Atkinsons Shark Mare Shark
Eclipse Mare
Alderman Mare Alderman  Pot-8-o's
Lady Bolingbroke
Clockfast Mare Clockfast
Wildair Mare
Alice Carneal Sarpedon Emilius Orville Beningbrough
Evelina
Emily Stamford
Whiskey Mare
Icaria The Flyer Vandyke Junior
Azalia
Parma Dick Andrews
May
Rowena Sumpter Sir Archy Diomed
Castianira
Robin Redbreast Mare Robin Redbreast
Sting 
Lady Grey Robin Grey Royalist 
Belle Mariah
Maria  Hoskin's Melzar
Highflyer Mare 

ボストンは当馬の項を参照。競走能力の高さ、馬体の見事さ、ついでに気性の激しさなど、ボストンと本馬はよく似ている。しかも、ボストンも晩年失明する不運な運命に見舞われており、これも本馬と同じである(ただしボストンの失明理由は怪我であり本馬とは異なるから、遺伝という訳ではない)。

母アリスカーネルは競走馬としては3年間走って1勝だけ挙げているという。本馬の半妹ラベンダー(父ワーグナー)の子にはヘルムボルド【サラトガC】、バーデンバーデン【ケンタッキーダービー・トラヴァーズS】がいる。また、本馬の半妹アネット(父スキティアン)の孫娘ミスモスティンは豪州に繁殖牝馬として輸入された。ミスモスティンの子にはモスティン【グッドウッドH2回・トゥーラックH】、孫にはレディウォレス【コーフィールドギニー・クラウンオークス・ヴィクトリアダービー・オールエイジドS】、レディサン【クラウンオークス】、曾孫にはシスコ【AJCダービー・ローソンS】、バララング【豪フューチュリティS】、フジサン【ドンカスターH・オールエイジドS・レイルウェイH】、玄孫にはヴェルダン【ドゥーンベンC】などが出たが、その後が続かずにこの牝系は途絶えた。

アリスカーネルの祖母レディグレイは優秀な牝系を構築しており、アリスカーネルの母ロウェナの半姉ルーシーの牝系子孫には、リオネイタス【ケンタッキーダービー】、米国顕彰馬ルークブラックバーンザバード【プリークネスS・ブルックリンH・ジェロームH】、モンタギュー【プリークネスS】、サルヴェイター【ローレンスリアライゼーションS・サバーバンH】、フォックスフォード【ベルモントS】、ノーマン【英2000ギニー】、スウォーンズサン【アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・クラークH】、ピュイッサンシェフ【凱旋門賞・ロワイヤルオーク賞・カドラン賞・ジャンプラ賞】、キングストンタウン【コックスプレート(豪GⅠ)3回・スプリングチャンピオンS(豪GⅠ)・ローズヒルギニー(豪GⅠ)・タンクレッドS(豪GⅠ)・シドニーC(豪GⅠ)・AJCダービー(豪GⅠ)・クイーンズランドダービー(豪GⅠ)・ジョージメインS(豪GⅠ)2回・コーフィールドS(豪GⅠ)2回・ウエスタンメイルクラシック(豪GⅠ)】、イブンベイ【イタリア大賞(伊GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)・ベルリン銀行大賞(独GⅠ)・愛セントレジャー(愛GⅠ)】、ザフェロー【チェルトナム金杯(英GⅠ)・キングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ)2回・パリ大障害・ラエジュスラン賞】、アルカポネ【パリ大障害・モーリスジロワ賞・ラエジュスラン賞6回・ラエジュスラン賞(仏GⅠ)】、コートスター【キングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ)5回・チェルトナム金杯(英GⅠ)2回・ティングルクリークチェイス(英GⅠ)2回・ベットフェアチェイス(英GⅠ)4回・アスコットチェイス(英GⅠ)・JNワインチャンピオンチェイス(愛GⅠ)2回】、ウィジャボード【英オークス(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)・BCフィリー&メアターフ(米GⅠ)2回・香港ヴァーズ(香GⅠ)・プリンスオブウェールズS(英GⅠ)・ナッソーS(英GⅠ)】、オーストラリア【英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・英国際S(英GⅠ)】といった活躍馬が出ている。本馬の牝系はエクリプスと同じである。 →牝系:F12号族①

母父サーペドンはエミリウス産駒。現役成績19戦8勝で、英2000ギニーで2着している。最初は英国で種牡馬入りし、後に米国に移動していた。種牡馬としてはあまり実績を残していない。

本馬の直系はバイアリータークからヘロドを経由する系統でありダーレーアラビアンの直系ではないのだが、母父はダーレーアラビアンからエクリプスを経由する系統であるし、他にも血統表を遡ればダーレーアラビアンの血が何本も入っているから、当初の馬名の由来となったダーレーアラビアンの血は本馬にもきちんと受け継がれているわけである。

競走馬引退後:ウッドバーンの盲目の英雄

競走馬を引退した本馬は、ブロック氏の知人であるジョン・ハーパー氏がケンタッキー州ミッドウェイに所有していたナンチュラストックファームで種牡馬入りした。そして2年後にハーパー氏の隣人ロバート・A・アレクサンダー氏により、1万5千ドルという当時としてはかなりの高額(米国内で取引された馬としては過去最高額だったとする資料もある)で購入され、ケンタッキー州ウッドバーンスタッドで種牡馬生活を続けた。アレクサンダー氏は馬鹿げた金額で本馬を購入したとして人々から嘲笑されたらしいが、瞬く間に元を取って余りある収入を手にする事になった(本馬の代表産駒の1頭ノーフォークをアレクサンダー氏が1万5001ドルで売った逸話は有名)。本馬は種牡馬として記録的大成功を収め、1861年から74年までの14年連続に加えて、1876・78年にも北米首位種牡馬に輝いたのである。14年連続首位種牡馬と、16度首位種牡馬獲得というのは、現在でも北米記録であるのは勿論、世界の競馬主要国においても、このような記録は見当たらない(サドラーズウェルズが13年連続を含む14度の英愛首位種牡馬に輝いたのが次点である)。

不幸にも本馬の初年度産駒がデビューして間もない1861年に南北戦争が勃発し、産駒の多くは徴用されて戦争で命を落とした。そんな中にあっても本馬の産駒は236頭が勝ち馬となり、合計で1176勝2着348回3着42回の成績を挙げ、合計で115万9321ドルを獲得した。南北戦争の影響で賞金額が減っていたことを考えると、この金額は驚異的でもある。種牡馬時代の本馬は完全に盲目になってしまったが、盲目ながらもウッドバーンスタッドの人々に大切にされ続けた。南北戦争が勃発した際には、徴用されないようにウッドバーンスタッドの関係者は本馬を戦争終結の1865年まで雲隠れさせた。1864年、既に売却されていた代表産駒の1頭アステロイド(当時3歳)が盗まれるという事件があり、ウッドバーンスタッドに家宅捜索が入るところだったが、たまたまアステロイドが発見されて無事に馬主の元に返されたために、本馬の不在が発覚する事を免れたという逸話もある。

“The Blind Hero of Woodburn(ウッドバーンの盲目の英雄)”と讃えられた本馬は、1875年7月1日に鼻カタル(単純性鼻炎。鼻の粘膜が埃に刺激されて炎症を起こすもので、人間にとってはたいした病気では無いが、口呼吸できない馬にとっては致命的になる場合がある)のため25歳で他界した。遺体はウッドバーンスタッドに埋葬されたが、3年後の1878年にJ・M・トナー博士という人物の依頼により掘り返され、自然科学の研究者ヘンリー・オーガスタス・ワード博士によって骨格が組み立てられて、ワシントンDCにあるスミソニアン博物館に寄贈されて、国立自然史博物館の哺乳類進化コーナーに展示された。

1955年には父ボストンと共に米国競馬の初代殿堂入りを果たした。本馬の骨格は長い間スミソニアン博物館にあったが、2010年に第6回世界馬術選手権大会が本馬の生誕の地であるケンタッキー州レキシントンで実施された(同大会が欧州外で行われたのは史上初)のを機に、同地にあるケンタッキーホースパークの国際博物館に貸し出された(この際に骨格の修復、清掃及び研究が行われ、本馬の失明の原因が感染症であると確認された)。そして3年後の2013年にスミソニアン博物館に戻ってきている。

後世に与えた影響

本馬の牡駒には種牡馬として活躍しサイヤーラインを伸ばした馬も決して少なくないが、南北戦争で多くの優秀な産駒が命を落とした事もあってか、16度もの北米首位種牡馬に輝いた割には後継種牡馬の数には恵まれなかった。また、19世紀以前の米国競馬界はサイヤーラインよりも米国独自の牝系を維持する事に重点を置いており、本馬の血を引く繁殖牝馬の交配相手として数々の優秀な種牡馬を英国から導入し続けた。そのために本馬の直系は押され、3代目あたりで衰退した。20世紀に入る頃には本馬の直系馬が大競走を勝つ事は殆ど無くなっていた。20世紀末までかろうじて残っていた直系も今世紀には完全に姿を消している様子である。

しかし、種牡馬として大成功した本馬は、後の血統界に大きな影響を残した。米国だけではなく、19世紀欧州においても、本馬を母父に持つパロールがシティ&サバーバンHを勝ったり、同じく本馬を母父に持つフォックスホールがパリ大賞・アスコット金杯を勝ったり、本馬の直系3代目に当たるジョングレールが仏グランクリテリウム・リュパン賞・仏ダービー・ロワイヤルオーク賞・ケンブリッジシャーH・イスパーン賞を制する大活躍を見せたりしている。しかし、本馬の血統中には、英国血統書(ジェネラルスタッドブック)に載っていない米国由来の所謂「不詳血統」の血が含まれていた(父ボストンの父ティモレオンの母系がアメリカンファミリーであり、それ以外は一通り英国血統書に遡ることができる)ため、英国では20世紀初頭に制定されたジャージー規則によって排除された(この規則は後に本馬の血を母方にもつトウルビヨン等の活躍により撤廃された)。

一方、米国競馬界においては本馬の血を引く系統が幅を利かせ、ハンブルグ系の始祖ヒンドゥーヒムヤー系の始祖ヒムヤー、マンノウォー系の始祖スペンドスリフトの母父は本馬である。また、本馬の後継種牡馬ノーフォークの代表産駒エンペラーオブノーフォーク産駒のアメリカスは、アメリカスガールの父となり、そのアメリカスガールはレディジョセフィンを経てムムタズマハルを誕生させた。また、本馬の牝駒メイドンの牝系6代後には大種牡馬ネアルコが出現しているから、本馬の血を有さないサラブレッドは現在まず存在しないはずである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1861

Kentucky

トラヴァーズS・サラトガC2回

1861

Norfolk

1862

Maiden

トラヴァーズS

1863

Lancaster

サラトガC

1863

Merrill

トラヴァーズS

1863

Watson

ジェロームH

1865

Bayonet

ジェロームH・サラトガC

1865

General Duke

ベルモントS

1865

The Banshee

トラヴァーズS

1867

Kingfisher

ベルモントS・トラヴァーズS・ジェロームH

1867

Preakness

ディナーパーティーS

1868

Harry Bassett

ベルモントS・トラヴァーズS・ジェロームH・リユニオンS・サラトガC

1868

Salina

モンマスオークス

1870

Tom Bowling

トラヴァーズS・ジェロームH・ディキシーS

1871

Acrobat

ジェロームH

1872

Tom Ochiltree

プリークネスS・ディキシーS・サラトガC

1873

Charley Howard

ジェロームH

1873

Fiddlesticks

ウィザーズS

1873

Neecy Hale

ケンタッキーオークス

1873

Shirley

プリークネスS

1873

Sultana

トラヴァーズS

1875

Duke of Magenta

プリークネスS・ベルモントS・ウィザーズS・トラヴァーズS・ジェロームH・ディキシーS

代表産駒プリークネスについて

なお、本馬の代表産駒の1頭プリークネスは、米国三冠競走の第2戦プリークネスS(優勝馬の馬主には、本馬の姿が彫られた花瓶が贈られる)の名の由来となった馬であるが、独立した列伝を立てるほどの資料が無いため、本馬の項に追記して紹介する。プリークネスとは、ニュージャージー州の先住民族の言葉で「鶉の森」を意味する“Pra qua les(プラ・クア・レス)”が縮まったものと言われる。米国の馬主ミルトン・H・サンフォード氏が所有していた牧場の場所が、先住民族が「鶉の森」と呼んでいた所にあったため、彼は牧場をプリークネスと呼んでいた。サンフォード氏は、1867年に産まれた本馬産駒を当時史上最高額となる2000ドルで購入し、その馬にプリークネスと名付けた。

1870年にピムリコ競馬場が初めて開催したステークス競走であるディナーパーティーS(現ディキシーS)にプリークネスが勝利したため、それを記念して1873年にプリークネスSが創設された。プリークネスはその後も8歳まで走り、ウエストチェスターC・マチュリティS・マンハッタンH・グランドナショナルH・ロングブランチS・ジョッキークラブH2回・サラトガC・ボルチモアCなどを勝利した。

なお、プリークネスについては以下の有名な話がある。「引退したプリークネスは英国で種牡馬入りしたが、年を取って気性が悪くなったため、所有者のハミルトン公爵は癇癪を起こしプリークネスを銃殺してしまった。この事件を契機に英国で動物の取扱いに関する法律が改正された。」というものである。しかし筆者はこの話の信憑性には疑問を抱いている。まず、第11代ハミルトン公爵は1863年に死去しているため、この話に出てくるハミルトン公爵は第12代ハミルトン公爵ということになるが、彼について調べてもそのような話は出てこない(ただし彼が馬主で放蕩家だったのは事実)。また、英国の動物保護法の歴史を調べたが、英国で「動物虐待防止法」が成立したのは1822年である(これには馬も含まれている)。第12代ハミルトン公爵の時期に、英国で成立又は改正された動物保護に関する法律は、1876年の「犬や猫に関する動物実験の規制に関する法律」くらいであり、これには馬が関係しているとは書かれていない。しかも1876年はプリークネスが9歳の時(つまり引退の翌年)であり、「年を取って気性が悪くなった」という話と整合性も取れない。また、英国では20世紀に入っても、アリシドンのように用済みになった馬を銃殺する事が普通に行われていた事実もある。有名な話(海外の資料も含めて各所に載っている)なので記載はしたが、以上の理由から、筆者は少なくとも「この事件を契機に英国で動物の取扱いに関する法律が改正された」という部分の信憑性は低いと考えている。

TOP