リグレット

和名:リグレット

英名:Regret

1912年生

栗毛

父:ブルームスティック

母:ジャージーライトニング

母父:ハンブルグ

彼女が勝ったからこそケンタッキーダービーが米国最大の競走となったとまで高く評価された史上初の牝馬のケンタッキーダービー馬

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績11戦9勝2着1回

1875年に米国ケンタッキー州チャーチルダウンズ競馬場で創設されたケンタッキーダービーは現在、米国競馬に携わる者なら誰もが勝ちたいと思う米国最大の競走となっている。本馬はそのケンタッキーダービーを牝馬として史上初めて優勝した馬という表現で紹介される事が多いのだが、本馬が勝ったからこそケンタッキーダービーの地位が向上し、米国最大の競走までになったのだという言い方も出来る。それほどの名牝である。

誕生からデビュー前まで

米国ニュージャージー州ブルックデールファームにおいて、同牧場の所有者だった名馬産家ハリー・ペイン・ホイットニー氏により生産・所有された。父ブルームスティックはホイットニー氏が種牡馬として購入した名馬で、母ジャージーライトニングはケンタッキーオークスや記念すべき第1回アメリカンダービーを制した名牝モデスティの孫という血統から、誕生前からホイットニー氏の期待は大きかった。ところが産まれたのが牝馬であったため、牡馬を期待していたホイットニー氏は失望。そのため英語で「残念・後悔」を意味する“Regret”という言葉を本馬に名付けた。

もっとも、ホイットニー氏が失望したのは牡馬を期待していたからであり、別に本馬の馬体が劣っていたわけではない。当時としてはかなり大柄な牝馬であり、牡馬を圧倒する雰囲気を漂わせていたという。本馬を預かったのは、20世紀初頭における米国最高の調教師の1人サー・ジェームズ・ロウ師だったが、ロウ師もまた本馬を見た瞬間に何か特別なものを感じ取ったらしいと海外の資料に書かれている。管理馬をとても大切に取り扱う人物として知られていたロウ師は、本馬に関しても無駄な使い方はせずに目標レースを確実に取るスケジュールを組むようにした。主戦はジョー・ノッター騎手が務めた。

競走生活(2歳時)

2歳8月にサラトガ競馬場で行われたサラトガスペシャルS(D6F)でデビュー戦を迎えた。初戦がいきなり2歳戦を代表する競走だったというところに陣営の自信の程が垣間見える。1901年の同競走創設以来、牝馬が勝った事は1度も無かったのだが、事前の調教の動きが良かったこともあり、出走8頭中唯一の牝馬だった本馬が1番人気に支持された。そして本馬は期待を裏切らず、スタートから先行すると、2着ペブルス(この年にメイトロンS・イーストビューSなどを勝ち米最優秀2歳牡馬に選ばれる)に1馬身差をつけて、1分11秒6のコースレコードタイで勝利した。着差はそれほど大きくなかったが、本馬自身は何の努力も要していない楽勝だったという。

次走は1週間後のサンフォードS(D6F)となった。本馬には前走より8ポンド重い127ポンドが課せられた。この時期の2歳牝馬にはかなり過酷な斤量だったのだが、2着ソリーに1馬身半差をつけて、1分13秒4のレースレコードで勝利した。ゴール前で鞍上のノッター騎手はまったく追っておらず、本馬はまるで散歩を楽しむかのように走った上での勝利だったという。

続いて1週間後のホープフルS(D6F)に出走。米国では用いない表現だが、日本で言うところの3連闘である。斤量は前走と同じく127ポンドであり、しかも前夜に降り続いた雨の影響で、馬場は泥だらけの不良馬場だった。この馬場状態に脚を取られたのか本馬は先頭に立つ事は出来ず、道中で馬群に閉じ込められる場面もあったが、13ポンドのハンデを与えた2着アンドリューエムとの競り合いを半馬身差で制して勝利した(ペブルスは3着だった)。

これで本馬はサラトガスペシャルS・サンフォードSと合わせて、サラトガ競馬場で行われる主要2歳ステークス競走3戦を全て勝利したことになった。この3競走を全て制した馬は本馬が初めてで、以降も1916年のキャンプファイヤー、1993年のデヒア、2000年のシティジップしか存在しない。もう出るレースが無いとばかりに2歳戦は3戦全勝で終了。後年になって、この年の米最優秀2歳牝馬に選出されている。

競走生活(3歳時)

3歳時は5月のケンタッキーダービー(D10F)から始動した。ニューヨーク州を本拠地とする本馬が、直線距離で約1000kmも離れたケンタッキー州のレースをシーズン初戦として選択した事は米国競馬界に衝撃を与えた。この時期のケンタッキーダービーは既に高額賞金の大競走ではあったが、現在のように米国最大の競走という評価は得ておらず、軽視する者も少なくなかった。しかし、ニューヨーク州に本拠を置く本馬がわざわざケンタッキー州まで出向いて参戦した事で、この年のケンタッキーダービーは全米中から注目され、後のケンタッキーダービーの地位向上に大きく寄与したと言われている。

遠征競馬になるため、ロウ師とノッター騎手はレース1週間前から本馬の馬屋に寝泊りして万全の体制で出走できるように配慮したという。過去にケンタッキーダービーに参戦した牝馬14頭は全敗だった(前年も2頭が参戦したが3着と7着最下位)上に、シーズン初戦、しかも過去に6ハロンを超える距離のレースで走った経験無しという状況だったのだが、それでも出走16頭中の紅一点ながらペブルスなどを抑えて単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持された。レースではスタートからゴールまで淡々と先頭を走り続けて、2着ペブルスに2馬身差をつけて優勝した。

前述したように、ケンタッキーダービーを牝馬が勝ったのは史上初の事で、次に牝馬が勝つのは65年経った1980年のジェニュインリスクを待たねばならず、この2頭の他には1988年に勝ったウイニングカラーズの計3頭しか牝馬のケンタッキーダービー馬は存在しない。なお、ニュージャージー州産馬がケンタッキーダービーを勝ったのも本馬が初めてだった。

チャーチルダウンズ競馬場の所有者マット・ウィン大佐は後年になって「ケンタッキーダービーの宣伝を海岸沿いの州に対して行うために唯一必要だったのは、リグレットの勝利でした。リグレットは私達を失望させませんでした。今日のケンタッキーダービーの地位を作ったのはリグレットなのです」と述懐している。

レース後に呼吸器疾患を発症してしまった本馬は翌週のプリークネスSには出走せず(このプリークネスSは牝馬ラインメイデンが勝利している)、復帰したのは8月にサラトガ競馬場で行われたサラナクH(D8F)だった。このレースには、ベルモントS・ウィザーズSの勝ち馬でこの年の米最優秀3歳牡馬に選ばれるザフィンも出走していた。ザフィンの斤量は126ポンド、本馬の斤量は123ポンドとなっていた。しかし3ポンド程度の斤量差ではザフィンが本馬を負かすことは出来なかった。トラヴァーズSで1位入線するも最下位に降着となっていたフラッシュSの勝ち馬トライアルバイジュリー(後にジェロームH・カーターHを勝利)を1馬身半差の2着に、そのトラヴァーズSを2位から繰り上がって勝ってきた牝馬レディローサを3着に、ザフィンを4着に退けた本馬があっさりと逃げ切って勝利してしまった。

3歳時は僅か2戦のみだったにも関わらず、後年になってこの年の米年度代表馬・米最優秀3歳牝馬に選出されている。

競走生活(4・5歳時)

4歳時は7月のサラトガH(D10F)で約1年ぶりの実戦を迎えた。この年のベルモントS・ブルックリンH・サバーバンH・サラトガCの勝ち馬で後にこの年の米年度代表馬に選ばれるフライアーロック、マンハッタンH・ジェロームH・メトロポリタンH・サバーバンHを勝っていたストロンボリ、トレモントSの勝ち馬でケンタッキーダービーでは本馬の10着に終わっていたエドクランプなどが対戦相手となった。しかし本馬はあまりにハイペースで飛ばしたため失速してしまい、勝ったストロンボリから16馬身差の8着最下位に終わってしまった。次走のサラトガ競馬場ダート8ハロンの一般競走では立て直して、フェアプレイの全弟フリッターゴールドを1馬身半差の2着に下して勝利。4歳時の成績は2戦1勝だった。

5歳時は5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート5.5ハロンの一般競走から始動した。本馬には128ポンドが背負わされ、他馬とは10~22ポンドの斤量差があったが、2着ヤンキーウイッチに8馬身差で圧勝した。

続いてアケダクト競馬場に移動し、ブルックリンH(D9F)に出走した。このレースには、当時の米国競馬界で最強クラスの馬達が勢揃いしていた。3年前のケンタッキーダービーの覇者で、長期休養明けのこの年にクイーンズカウンティH・カーターHなどを勝ち、後にこの年の米年度代表馬及び米最優秀ハンデ牡馬騙馬に選ばれることになるオールドローズバド。サラトガスペシャルS・カーターH・ブルックリンダービー・トラヴァーズS・クイーンズカウンティH・エクセルシオールHなどの勝ち馬で、後年になって3年前の米年度代表馬及び米最優秀3歳牡馬騙馬、並びに一昨年及び前年の米最優秀ハンデ牡馬騸馬に選ばれることになるローマー。この年のケンタッキーダービーの覇者で、後にトラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションSも勝って米最優秀3歳牡馬に選ばれるオマールカイヤム。英国でミドルパークプレートなどを勝った後に米国に移籍し、後年になって3年前の米最優秀ハンデ牡馬騸馬に選ばれることになる同厩馬ボロー。前年のサラトガHで本馬を破ったストロンボリ。シャンペンS・ブルックリンダービーを勝ち、後に1929年の北米首位種牡馬及び1942年の北米母父首位種牡馬に輝く同厩馬チクル。後にサバーバンHを勝つブーツなどが出走していた。レースではお互いに最大の強敵と見定めた本馬とオールドローズバドが先頭を争う展開になったが、本馬を追いかけたオールドローズバドは直線で失速。しかし本馬もハイペースが祟って、5ポンドのハンデを与えていたボローにゴール前でかわされて鼻差の2着に敗れた(オールドローズバドが3着に粘った)。ボローの勝ちタイム1分49秒4は全米レコードであり、敗れたとは言え、異世代のケンタッキーダービー馬2頭を含む最強クラスの牡馬騸馬達に先着した本馬の実力は高く評価された。

なお、このレースには以下のような逸話がある。ホイットニー氏はここに本馬、ボロー、チクルの3頭出しで臨んでいたが、その中では本馬に勝って欲しいと考えていた。ボロー鞍上のウィリー・ナップ騎手にもその旨を伝え、直線で決して本馬を抜くことが無いように指示していた。ボローがオールドローズバドをかわして2番手に上がったところまではホイットニー氏の考えどおりだったが、ボローとナップ騎手は勢い余って本馬までも差し切ってしまった。勝ち馬表彰式場でナップ騎手はホイットニー氏の指示に反してしまった結果を悔やんで大粒の涙を流したという。

その後はガゼルH(D8.5F)に出走し、この年に創設された記念すべき第1回CCAオークスを勝利していたウィストフルと対戦した。斤量は本馬が129ポンドで、ウィストフルは105ポンドと、24ポンドものハンデ差があった。結果は本馬が2着ベイベリーキャンドルに3馬身差をつけて楽勝し、ウィストフルは3着だった。

夏場は出走せず、9月にアケダクト競馬場で行われたダート7ハロンのハンデ競走に出走。このレースには本馬の他にインアフランクという馬しか出走しておらず2頭立てだった。レースではインアフランクより18ポンド重い127ポンドを背負った本馬が1分24秒2のコースレコードを計時して3馬身差の完勝。このレースを最後に、5歳時4戦3勝の成績で現役引退となった。後年になってこの年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれている。

本馬は現役時代を通じて牝馬に先着を許した事は一度も無かった。しかしケンタッキーダービー直後に発症した呼吸器疾患はどうやら現役時代を通じて完治しなかったらしく、本馬が当時の米国競馬の常識に照らして出走レース数が少ないのは、そのためでもあるらしい。

ホイットニー氏のお気に入り

誕生直後の本馬に対して失望の念を抱いたホイットニー氏だが、そうした思いはかなり早い段階で彼の脳裏から取り除かれ、ホイットニー氏は本馬を殊のほか愛するようになっていたようである。ブルックリンHで本馬に勝たせたいと考えた逸話の他にも、次のような逸話が伝わっている。

本馬のケンタッキーダービー制覇から12年後に、ホイットニー氏はウィスカリーで2度目のケンタッキーダービー制覇を果たした。この時期にはケンタッキーダービーの地位はかなり向上しており、米国競馬有数の大競走としての地位を確立していた。その夜に行われた祝勝会で、息子のコーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニー氏がふと外を見ると、家の外の焚き火を眺めながら1人で歌を歌っている父ホイットニー氏の姿があった。あえて父に声を掛けなかったコーネリアス氏は、父は焚き火を眺めながら、顔に炎のような流星が走った本馬の事を思い起こしていたのだろうと推察している。

血統

Broomstick Ben Brush Bramble Bonnie Scotland Iago
Queen Mary
Ivy Leaf Australian
Bay Flower
Roseville Reform Leamington
Stolen Kisses
Albia Alarm
Elastic
Elf Galliard Galopin Vedette
Flying Duchess
Mavis Macaroni
Merlette
Sylvabelle Bend Or Doncaster
Rouge Rose
St. Editha Kingley Vale
Lady Alice
Jersey Lightning Hamburg Hanover Hindoo Virgil
Florence
Bourbon Belle Bonnie Scotland
Ella D
Lady Reel Fellowcraft Australian
Aerolite
Mannie Gray Enquirer
Lizzie G
Daisy F. Riley Longfellow Leamington
Nantura
Geneva War Dance
La Gitana
Modesty War Dance Lexington
Reel
Ballet Planet
Balloon

ブルームスティックは当馬の項を参照。

母ジャージーライトニングの競走馬としての経歴は不明。その産駒には、本馬の全弟サンダラー【ベルモントフューチュリティS】、半弟ヴィヴィッド(父オールゴールド)【シャンペンS】がいる。ジャージーライトニングの半妹ゴールデンロッド(父オールゴールド)の孫にスパッツ【スカイラヴィルS・ダイアナH】がいる。ジャージーライトニングの祖母モデスティは、ケンタッキーオークスと第1回アメリカンダービーを制した名牝。→牝系:A1号族

母父ハンブルグは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ホイットニー氏がケンタッキー州に新しく創設したホイットニーファームで繁殖入りして、11頭の子を産んだ。ブルックリンHで対戦経験があるチクルとの間にもうけた2番子の牡駒リベンジがステークス競走(名称不明)を勝ち、セントジャーマンズとの間にもうけた8番子の牡駒レッドレスが174戦22勝の成績を挙げているが、全体的に繁殖成績は期待を下回るものだった。1934年4月に22歳で他界し、ホイットニーファームに埋葬された。

1955年に米国調教師協会がデラウェアパーク競馬場において実施した、米国競馬史上最も偉大な牝馬はどの馬かを決める調教師間の投票においては、ギャロレットトワイライトティアーに次ぐ第3位となった。1957年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第71位。

本馬の直子には特筆できる活躍馬はいないが、孫世代以降には活躍馬が登場。不出走だった3番子の牝駒ネメシス(父ジョーレン)の子にアヴェンジャー【ガゼルH】、アヴェンジャーの孫にレペトワール【ウッドメモリアルS】が、22戦3勝だった6番子の牝駒ルーフル(父セントジャーマンズ)の子にファーストフィドル【グレイラグH・クイーンズカウンティH・マサチューセッツH2回・トレントンH・サンアントニオH】が、不出走だった7番子の牝駒メアキュルパ(父セントジャーマンズ)の孫にディヴァインコメディ【サラナクH・ローマーH】がいる。ルーフルの牝系子孫は今世紀になっても残っており、ブラジルのGⅠ競走ブラジル共和国大統領大賞の勝ち馬アイジャーが出ている。また、1980年代に日本の公営競馬で活躍したガルダン【浦和記念・関東盃・報知オールスターカップ】の6代母もルーフルである。もっとも、本馬の血は牝系よりもむしろ種牡馬入りした孫のファーストフィドルによって後世に受け継がれている部分が大きい。天皇賞馬メジロアサマの母の父はファーストフィドルなのである。という事は、メジロマックイーンの父父母父母母は本馬という事になる。当然オルフェーヴルやゴールドシップにも本馬の血は少しだけ入っているわけである。

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