キャリーバック

和名:キャリーバック

英名:Carry Back

1958年生

黒鹿

父:サギー

母:ジョッピー

母父:スターブレン

ケンタッキーダービーやプリークネスSなどで見せた怒涛の追い込み劇により米国競馬ファンの絶大な人気を獲得した雑草血統の持ち主

競走成績:2~5歳時に米仏で走り通算成績61戦21勝2着11回3着10回

いきなりだが、1968年に日本で産まれたヒカルイマイという馬の事を知っているだろうか。父シプリアニは無名種牡馬で母セイシユンは未勝利馬、しかも牝系はサラブレッド系種と、血統的には三流以下(実際にはシプリアニは後に女傑トウメイなども出した名種牡馬であり、牝系はサラ系と言っても筆者が日本屈指の名牝系だと思っているミラ系であるため、それほど貧弱な血統ではない。あくまでも当時の一般的な評価である)であり、しかも気性が激しくて買い手がなかなかつかず、ようやく現れた買い手からは肋骨の欠落を指摘されて捨て値同然の値段をさらに値切られたヒカルイマイだったが、超弩級の追い込み戦法で1971年の皐月賞と東京優駿の二冠を制覇した。特に直線だけで20頭以上をごぼう抜きにした東京優駿のレースぶりはもはや伝説となって語り継がれている。菊花賞には出走できずに引退したため三冠馬にはなれなかったが、競馬ファンからの人気は高く、種牡馬廃用後には有志により基金が結成されて余生が守られた。2000年に日本中央競馬会が実施した「20世紀の名馬大投票」においても第63位に選出されており、三冠馬ミスターシービーと並んで昭和を代表する追い込み馬として知られている。

このヒカルイマイがこの世に生を受けるちょうど10年前の1958年に米国で誕生した本馬の経歴は、ヒカルイマイと非常によく似ている。父は無名種牡馬で母は未勝利馬という血統の悪さと貧弱な馬体から当初の期待は皆無だったが、徐々に実績を積み重ね、遂にはケンタッキーダービーで伝説的な追い込み劇を見せて優勝し、プリークネスSも制覇して二冠を達成した(米国では「二冠」という表現は使わないが)が、三冠馬にはなれなかった。種牡馬としても不成功に終わったが、心臓が止まるような衝撃的な追い込み劇を披露する姿により競馬ファンからの人気は高く、米国競馬史上においても有数の追い込み馬として現在も語り継がれている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選においても第83位に選出されている。“The People's Choice(人々の選択)”なる愛称からしても、本馬の人気の程が伺える。ちなみにもう一つの愛称は頭文字を取って“C.B.(シービー)”であるから、これはこじつけだがミスターシービーの大先輩でもある。

誕生からデビュー前まで

前置きが長くなり過ぎたので、そろそろ本馬の経歴に話を移す。本馬は米国フロリダ州オカラスタッドにおいて、ジャック・A・プライス氏により生産された(生産者名義は妻のキャサリン・プライス夫人になっている)。米国北東部にあるオハイオ州クリーブランド出身のプライス氏は、第二次世界大戦中に工場経営者として成功する傍ら、ドーチェスターファームステーブル名義で小規模の馬産も行っていた。その後プライス氏は自分の兄弟に工場を売り渡し、自ら生産した馬を自ら調教して走らせるオーナーブリーダー業を始めていた。

プライス氏はあまり競馬界の名誉や伝統などには拘らない現実主義的な人物であり、競馬をあくまでも金銭獲得の手段として考えていた。ケンタッキーダービーなども単なる金蔓としか考えていないとするその率直な言動は、しばしば人々の顰蹙を買ったようである。1957年にプライス氏はオハイオ州に所有していた牧場を売却してフロリダ州に移り住んだが、その移動途中のメリーランド州ベルレアスタッドにおいて友人の提案により、オハイオ州出発前に借金のかたとして入手した当時8歳の繁殖牝馬ジョッピーを、種付け料500ドルだった当時12歳の無名種牡馬サギーと交配させていた(プライス氏は連れていた牝馬3頭全てをサギーと交配させる代わりに種付け料を1頭400ドルまで値切った)。そしてフロリダ州到着後にジョッピーが産んだサギー産駒が本馬である。

父が無名種牡馬だった上に、母は未勝利馬、近親にも活躍馬は見当たらないという貧弱な血統の持ち主だった。血統が悪いだけでなく、成長しても体高は15.1ハンドという小柄な見栄えがしない馬でもあったようである。キャサリン夫人の名義で競走馬となり、プライス氏自身が調教を実施した。

競走生活(2歳時)

デビューは非常に早く、2歳1月に地元フロリダ州のハイアリアパーク競馬場で行われたダート3ハロンの未勝利戦だった。結果は勝ち馬オーパスから9馬身1/4差をつけられた10着だった。しかし5日後に同コースで行われた未勝利戦では、2着カルミアに首差で勝ち上がった。1週間後に同コースで行われた一般競走では、フェイディングスカイの3馬身半差4着だった。次走のフロリダブリーダーズS(D3F)では、マイオールドフレイムの1馬身3/4差2着と好走した。その後はガルフストリームパーク競馬場に場所を移して、ダート3ハロンの一般競走に出走したが、ここではオーパスの4着に敗れた。次走のダート4.5ハロンの一般競走も2着に敗退。しかしダート5ハロンの一般競走では、ガルフストリームパーク競馬場のコースレコードとなる57秒6を樹立して、2着ソングオブワインに3馬身半差で勝利した。5月には北上してニュージャージー州ガーデンステート競馬場で行われたチェリーヒルS(D5F)に出走したが、アイアンレールの19馬身差10着に大敗した。6月にはモンマスパーク競馬場に向かい、ダート5.5ハロンの一般競走に出たが、グローブマスターの6馬身半差5着に敗退。

次走のタイロS(D5.5F)では、この年の好敵手となるユースフルSの勝ち馬ヘイルトゥリーズンとの初顔合わせとなった。結果はヘイルトゥリーズン(5着)には先着したものの、チンチラとソングオブワインの2頭に後れを取り、チンチラの3馬身差3着に敗れた。次走のクリスティアーナS(D5.5F)では、イッツアグレートデイの半馬身差2着。続くグレートアメリカンS(D5.5F)では、トレモントSを勝ってきたヘイルトゥリーズンと2度目の対戦となった。しかし今回はヘイルトゥリーズンが勝利を収め、後のサラトガスペシャルS勝ち馬ブロンズルーラが2着に入り、本馬はヘイルトゥリーズンから2馬身差の3着に敗れた。次走のドーバーS(D5.5F)では、キスコキッドの1馬身3/4差2着。

続いて出走したサプリングS(D6F)では、サンフォードSを勝ってきたヘイルトゥリーズンと3度目の対戦となったが、勝ったヘイルトゥリーズンから3馬身差、2着に入った後のブリーダーズフューチュリティS勝ち馬ヒーズアピストルからも2馬身半差の3着に敗れた。次走のシーショアS(D6F)では、イッツアグレートデイの6馬身半差5着に敗退。次走のワールズプレイグラウンドS(D7F)では、イッツアグレートデイに加えて、サプリングS・ホープフルSを勝ってきたヘイルトゥリーズンも出走してきて、本馬と4度目の対戦となった。結果はヘイルトゥリーズンが勝利を収め、本馬は4馬身1/4差の4着に敗れた。このレース後にヘイルトゥリーズンは出走過多のためか種子骨を故障して引退。

そのため次走のカウディンS(D7F)にはヘイルトゥリーズンは不在だったが、代わりにピムリコフューチュリティの勝ち馬ガーウォルという有力馬が参戦してきた。ここでは後方待機策から追い上げて直線を3番手で向くと、2着グローブマスターに1馬身半差をつけて勝ち、10戦ぶりの勝利を挙げた。しかし次走のシャンペンS(D8F)ではスタートに失敗して、勝ったローヴィングミンストレルから13馬身差をつけられた9着最下位と惨敗。これを受けてプライス氏は本馬にスタート特訓を課した。しかし、主戦となるジョン・セラーズ騎手と初コンビを組んで出走したガーデンステート競馬場ダート8.5ハロンの一般競走は、インテンシヴの3/4馬身差5着と惜敗した。

続いて、賞金総額28万7千ドルと当時米国有数の高額賞金競走だったガーデンステートS(D8.5F)に、追加登録料1万ドルを支払って参戦した。不良馬場で行われたレースでは、出走15頭中14番手という後方を進んでいたが、外側を通って位置取りを上げていき、残り半ハロン地点で先頭に立つと突き抜けて、2着となったサラトガスペシャルS2着馬アンビオポイズに3馬身半差をつけて快勝した。続くレムセンS(D8F)も鮮やかな追い込みを決めて、2着ヴァイパーホールと3着アンビオポイズ以下に半馬身差で勝利を収め、2歳時を締めくくった。

2歳時の出走回数は同世代のヘイルトゥリーズンの18戦を上回る21戦で、勝ち星は5勝だった。米最優秀2歳牡馬の選考においてはヘイルトゥリーズンの次点だったが、ヘイルトゥリーズンが既に引退していた事もあり、翌年のケンタッキーダービーにおける有力候補として認められた。これは当初の低評価と比べると相当な出世ぶりだった。もっとも、この時点においても本馬の馬体は貧相なままで、3歳になっても馬体重は970ポンド(約441kg)足らずであり、AP通信社の記者から「小さくて痩せた馬」と評された。

競走生活(3歳前半)

3歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたバハマズS(D7F)から始動したが、ヴァイパーホールの5馬身1/4差4着と取りこぼした(後に好敵手となるワシントンパークフューチュリティ・ハイビスカスSの勝ち馬でアーリントンフューチュリティ2着のクロジールが2着)。しかし次走のハイアリアパーク競馬場ダート8.5ハロンの一般競走では、2着トライキャッシュに2馬身差で勝利。さらにエヴァーグレーズS(D9F)では、「炎のような」追い込みを決めて、2着となったピムリコフューチュリティS3着馬シャーラックに半馬身差で勝利した(クロジールは3位入線だったが進路妨害で降着になっている)。続くフラミンゴS(D9F)でも、シャーラック、クロジールとの対戦となった。今回も本馬は直線の追い込みを決めて、ゴール直前でクロジールをかわして頭差で勝利した。次走のファウンテンオブユースS(D8.5F)では、アーリントンフューチュリティ3着馬ボウプリンスとクロジールの2頭に屈して、ボウプリンスの3馬身差3着に敗れた。しかしフロリダダービー(D9F)では、2着クロジールに頭差、3着ボウプリンスにはさらに3馬身1/4差をつけて勝ち、米国東海岸における3歳最強馬としての名声を不動のものとした。次走のウッドメモリアルS(D9F)では単勝オッズ1.95倍という断然の1番人気に支持されたが、追い込みが不発に終わり、単勝オッズ15倍の伏兵扱いだったグローブマスターの3馬身1/4差2着に敗れた(アンビオポイズが3着だった)。

このように安定感に欠ける走りではあったが、その強烈な末脚が評価されて、ケンタッキーダービー(D10F)では単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持された。ダービートライアルSを勝ってきたクロジールが2番人気、サンタアニタダービーの勝ち馬でダービートライアルS2着のフォーアンドトゥエンティとサンフェリペSの勝ち馬でブルーグラスS2着のフラッタービーのカップリングが3番人気、エヴァーグレーズS2着後にブルーグラスSを勝ってきたシャーラックが4番人気、ダービートライアルS3着馬ドクターミラーが5番人気、グローブマスターが6番人気、アンビオポイズが7番人気、アーカンソーダービー1位入線失格のバスクレフなど3頭のカップリングが8番人気と続いた。

スタートが切られると、グローブマスターがフォーアンドトゥエンティやクロジールを引き連れて先頭に立ち、外枠から普通にスタートを切った本馬はすぐに後方に下げて15頭立ての11番手を追走した。先頭を争う3頭が4番手集団以下を大きく引き離して逃げたため、向こう正面入り口で本馬は先頭のグローブマスターから16~18馬身も離された。さすがのプライス氏もこの状況から本馬が前に追いつけるとは思わなかったという。しかし向こう正面途中でセラーズ騎手が仕掛けると、外側を通って位置取りを少しずつ上げていき、6番手で直線を向いた。それでも直線入り口時点では逃げる3頭まではかなりの差があった。直線に入ると逃げる3頭の中からクロジールが抜け出して快調にゴールを目指した。ところがそこに後方外側から本馬が猛追し、ゴール前でクロジールを一瞬にして抜き去ると、2着クロジールに3/4馬身差、3着バスクレフにはさらに2馬身差をつけて優勝した。このケンタッキーダービー史上に残る凄まじい豪脚は、実況をして「破壊的な追い込み」と言わしめた。フロリダ州産馬がケンタッキーダービーを制したのは1956年のニードルズ以来5年ぶり史上2頭目だった。この勝利により、本馬はネイティヴダンサー以来最も人気がある馬と言われるようになり、プライス夫妻のもとにはファンレターや贈り物がどんどん届くようになった。

次走のプリークネスS(D9.5F)では、チャーチルダウンズ競馬場よりも小回りで直線が短いピムリコ競馬場だけに、追い込み馬である本馬には不利であるという論調もあったが、それでも1番人気に支持された。レースでは、もはやお馴染みとなった後方待機策を採り、やはり一時は先頭から15馬身も離されたが、前走同様に劇的な末脚で追い込み、2着グローブマスターに3/4馬身差、3着クロジールには4馬身差をつけて勝利した。

フロリダ州産馬初の米国三冠馬誕生がかかった次走のベルモントS(D12F)では、単勝オッズ1.4倍という大本命に支持された。ベルモントパーク競馬場には三冠馬誕生の瞬間を見ようと、ドワイト・デヴィッド・アイゼンハワー前大統領を始めとする5万1586人の観衆が詰め掛けた。レースはやはりグローブマスターが先頭に立って馬群を先導したが、前2走と比べるとスローペースだった。それでも本馬は後方を追走したが、今回は追い込みが不発に終わり、先行抜け出しの競馬で勝った単勝オッズ66倍の伏兵シャーラックから15馬身差の7着に敗退し、大偉業は成らなかった。道中で本馬が左前脚を負傷していたことがレース後に判明しており、これも敗因であると推察された。プライス氏はケンタッキーダービーやプリークネスSの時と同様に、今回もレース後の記者席にシャンペンを届けたが、今回は「あなた達は以前私の勝利を祝ってくれましたが、今回は私の敗戦のために乾杯してください。-キャリーバック」と書かれたカードを添付した。

競走生活(3歳後半)

その後は3か月足らずの休養を経て8月に復帰し、アトランティックシティ競馬場ダート7ハロンの一般競走に出て、5歳馬レアライスを首差抑えて勝利。次走のジェロームH(D8F)では、シャーラック、ケンタッキーダービーには参加していなかったトラヴァーズS・アメリカンダービーの勝ち馬ボウプリンス、やはりケンタッキーダービーには不参加だったガーウォルなどが対戦相手となった。本馬には128ポンドが課せられたが、例によって後方から追い込んで、ゴール前4頭一団の大接戦を制して、2着ガーウォルに頭差で勝利した。

しかし次走のユナイテッドネーションズH(T9.5F)では初芝だった影響もあったのか、ホープフルS・サンタアニタダービー・ブルーグラスS・トラヴァーズS・マリブSの勝ち馬トンピオン、サンタアニタH2着馬オインクといった古馬勢の前に屈して、オインクの3馬身3/4差7着に敗退。

次走のウッドワードS(D10F)では、メトロポリタンH・サバーバンH・ブルックリンHのニューヨークハンデキャップ三冠競走に加えて、ジェロームH・ジョッキークラブ金杯・ホイットニーH・ディスカヴァリーH・ローレンスリアライゼーションS・ホーソーン金杯Hも勝っていた4歳馬ケルソという超強敵が出現した。結果はケルソが2着ディヴァインコメディに8馬身差をつけて大勝し、本馬はさらに半馬身差の3着に敗れた。さらにローレンスリアライゼーションS(D13F)では、シャーラック、ケンタッキーダービー12着後にジャージーダービーを勝っていたアンビオポイズの2頭に後れを取り、シャーラックの9馬身1/4差3着に終わった。ベルモントSで負った脚の怪我が癒えていないのではないかという声が多く、それでも本馬を走らせ続けるプライス氏は「肉屋」と酷評された。

それでも、アンビオポイズ、ベルモントフューチュリティS・ピムリコフューチュリティ・ウィザーズS・ジェロームH・トボガンHを勝っていた一昨年の米最優秀短距離馬インテンショナリーとの対戦となったトレントンH(D10F)では、8頭立ての6番手追走から追い込んで、インテンショナリーを半馬身差の2着に抑えて勝利し、3歳シーズンを16戦9勝で終えた。米年度代表馬の座こそケルソに譲ったが、米最優秀3歳牡馬のタイトルを満票で獲得した。なお、トレントンHの終了後に、納税に困ったプライス氏は本馬の権利の49%を他者に売却している。

競走生活(4歳前半)

4歳時も地元フロリダ州で早々に1月から始動した。まずはパームビーチH(D7F)に出走。ここでは、インテンショナリー、トレントンHで3着だったアンビオポイズとの対戦となった。斤量は本馬が124ポンド、インテンショナリーが126ポンド、アンビオポイズが122ポンドに設定された。しかし一番斤量が重かったインテンショナリーが勝利を収め、本馬は1馬身3/4差の2着に敗退した。次走のセミノールH(D9F)では、これが引退レースだったインテンショナリーの渾身の走りの前になすすべなく8馬身差の2着に敗れた。インテンショナリーが引退したことにプライス氏は胸を撫で下ろしたという。

次走のワイドナーH(D10F)では、パームビーチHで3着だったアンビオポイズ、セミノールHで3着だった前年のワイドナーH勝ち馬ヨーキーとの対戦となった。しかし結果はヨーキーの首差2着に敗れた。続くニューオーリンズH(D9F)でヨークタウンの3馬身1/4差3着に敗れると、プライス氏は本馬の主戦をマヌエル・イカザ騎手に交代させたため、セラーズ騎手は本馬の鞍上からしばらく離れる事になった。しかし次走のガルフストリームパークH(D10F)でも、ヨーキー、ドンHを勝ってきたジェイフォックスの2頭に後れを取り、1位入線2着降着のヨーキーから2馬身差の3着に敗退。その後はアケダクト競馬場に向かい、ダート8ハロンの一般競走に出走。ここでは2着ガーウォルに5馬身差で圧勝した。グレイラグH(D9F)では、アンビオポイズ、ボウプリンスなどとの対戦となったが、アンビオポイズの2馬身半差2着に敗退。

古馬になった本馬には重い斤量が課せられることが多く、先着を許した馬の大半は軽斤量馬であった。しかし、ケルソと2度目の対戦となった次走のメトロポリタンH(D8F)では、ケルソの133ポンドに対して本馬は123ポンドとハンデを貰う側になった。シーズン初戦だったケルソはここでは6着と凡走し、騎乗停止中のイカザ騎手からジョニー・ロッツ騎手に乗り代わっていた本馬が2着メリールーラーに2馬身半差をつけて、1分33秒6のコースレコードタイで勝利した。この勝利により本馬の獲得賞金総額は100万ドルを突破し、サイテーションナシュアラウンドテーブルに次ぐ米国競馬史上4頭目の100万ドルホースとなった。

次走のサバーバンH(D10F)でも、ケルソとの対戦となった。斤量差は前走より4ポンド縮まっていたが、それでも本馬の斤量が6ポンド軽かった。しかし今回はさらに軽量だったボーパープルが勝ち、2馬身半差の2着がケルソ、3着がガーウォルで、本馬はボーパープルから7馬身1/4差の4着最下位に敗れた。

続くモンマスH(D10F)でも、ケルソ、ボーパープルとの対戦となった。今回もケルソより本馬は6ポンド斤量が軽かった。本馬はパドックで暴れる仕草を見せていたが、それでも後方待機策からレース中盤で早々に先頭に立って直線を押し切るという、この年最高の走りを披露し、2着ケルソに3馬身差をつけて2分00秒4のコースレコードを樹立して勝利した。

次走のブルックリンH(D10F)ではケルソは不在であり、ボーパープルが主要な対戦相手となった。しかし10ポンドのハンデを与えたボーパープルから5馬身差をつけられた4着と完敗した。次走のホイットニーS(D9F)では、前走ブルックリンHで2着だったガーウォル、本馬とは久々の顔合わせとなるクロジールなどが主な対戦相手となった。本馬には130ポンドが課せられた。ロッツ騎手が騎乗停止中だったため、鞍上には久々にセラーズ騎手の姿があった。最内枠発走だった影響もあったのか、ここでは珍しく馬群の好位を追走した。そして三角で外を通って位置取りを上げると、直線で先に抜け出したクロジールを楽々とかわして2馬身差で勝利した。

競走生活(4歳後半)

続くウィルダネスH(D8F)では133ポンドが課せられたが、復帰したロッツ騎手を鞍上に、2着ニッケルボーイやボーパープル以下に8馬身差で大勝した。次走のアケダクトS(D9F)では、クロジールに加えて、フロリダダービー・ブルーグラスS・アーリントンクラシックSを勝ちケンタッキーダービーで3着、プリークネスS・トラヴァーズSで2着していた前年の米最優秀2歳牡馬ライダンが参戦してきた。本馬はクロジールの4着最下位に敗れたが、勝ったクロジールとの着差は僅か1馬身だった。

次走はなんと欧州に遠征しての凱旋門賞(T2400m)となった。ケンタッキーダービー馬の凱旋門賞出走は史上初めて(現在でも唯一の例)であり、極めて異例の遠征だった。過去にはパロールレイカウントオマハなどの米国調教馬が欧州に遠征して結果を残した例はあったが、これらの馬達は欧州到着後にある程度の期間をかけて地元の環境に慣れた上で活躍したものであり、レース3週間前に仏国に到着した本馬には、そうした準備期間は殆ど残されていなかった(初の右回りを克服する必要もあった)。それでも本馬は、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・ロワイヤルオーク賞・サンクルー大賞の勝ち馬マッチ、フォワ賞を勝って臨んできた翌年の凱旋門賞馬エクスビュリという歴史的名馬2頭に次ぐ単勝オッズ6.5倍の3番人気と期待を集めた。この時期に本馬の主戦だったロッツ騎手に代わり、本馬には4年前の凱旋門賞をバリモスで制した豪州出身の英平地首位騎手アーサー・“スコビー”・ブリースリー騎手が騎乗した。その理由は、この年に引退した米国の名手エディ・アーキャロ騎手を始めとする多くの人が、平坦な競馬場ばかりで乗っている米国の騎手では起伏が激しいロンシャン競馬場で好結果を出すのは厳しいという見解を述べたためであるという。プライス氏はブリースリー騎手に対して「不利を避けるために、先頭の馬を見るように好位を維持するように」という、今までの本馬のレースぶりとは異なる指示を出していた。ブリースリー騎手はスタート直後こそ指示どおりに本馬を3番手につけたが、やがてどんどん位置取りが下がっていき、後方馬群に包まれてしまった。ようやく直線で馬群を抜け出して猛追したが、ラスト1200mが1分10秒台という上がりの競馬になった事も災いして届かず、勝った単勝オッズ41倍の伏兵ソルティコフから5馬身半差の10着に敗れてしまった。

慣れない右回りの芝競走でこの着差なら健闘した部類に入るという意見も多かったが、自分の指示どおりの走りが見られなかった結果に不満を抱いたプライス氏は、凱旋門賞上位4頭(ソルティコフ、英オークス・ヴェルメイユ賞の勝ち馬モナード、仏ダービー馬ヴァルドロワール、フォレ賞の勝ち馬スノッブ)の所有者達に2週間以内に同じコースで再戦を受けて立つように申し込んだ。しかし再戦の申し出を受けたのはモナード陣営のみだったため、結局欧州では2度と走ることなく帰国した。

帰国後は距離が長いと思われたジョッキークラブ金杯を回避し、代わりにマンノウォーS(T12F)で3度目の芝コースに出走した。このレースには、モンマスH2着後にウッドワードS・ジョッキークラブ金杯などを勝っていたケルソ、ボーパープル、プライス氏の再戦申し込みを受諾した凱旋門賞2着馬モナード、アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・ユナイテッドネーションズH・ワシントンDC国際Sを勝っていた前年の米最優秀芝馬ティーヴィーラーク、翌年の同競走を勝つサンマルコスH・ワシントンバースデイH・ニッカボッカーHの勝ち馬ジアクスなどの強豪馬が終結していた。結果はコースレコードで走破したボーパープルがケルソを2馬身差の2着に下して勝ち、本馬はボーパープルから12馬身差の5着に終わった。

その後はトレントンH(D10F)に出走して、11ポンドのハンデを与えたモンゴ(翌年の米最優秀芝馬)の鼻差2着と好走。そしてワシントンDC国際S(T12F)に参戦した。このレースでは、ケルソ、ボーパープル、凱旋門賞で5着だったマッチ、日本から来た天皇賞馬タカマガハラなどが対戦相手となった。このレースでは凱旋門賞の反省ゆえか、珍しく後方待機策を捨てて、ボーパープルを押しのけてケルソと激しい先行争いを演じた。直線に入っても先行争いを続けていたが、そのうち後方から来たマッチに差され、ケルソにも後れを取り、マッチから6馬身差の3着に敗れた。この年18戦5勝の成績で、年度代表馬の座は再度ケルソに譲る形となってしまった。

競走生活(5歳時):種牡馬入り後の競走馬復帰

4歳12月にいったん現役引退が発表され、フロリダ州トロピカルパーク競馬場で引退式が行われた。これは本馬が公式の場に登場する最後の機会であるとされていたため、競馬場には1万人の人々が詰め掛けて、雷鳴のような拍手を本馬に送った。

そして翌5歳時にオカラスタッドで種牡馬入りして26頭の繁殖牝馬を集めた本馬だったが、種付けシーズン終了後の5月にプライス氏は本馬の競走馬復帰を検討している事を公表した。そして7月に本馬をベルモントパーク競馬場に移動させて調教を再開し、遂に現役復帰した。プライス氏の元には、それは無茶だとする意見が多く寄せられたという。

公式戦復帰前にはサラトガ競馬場で、この年のケンタッキーダービー・ベルモントSを勝っていたシャトーゲイとの調教と称した非公式マッチレースに出走した。しかし結果は5馬身差をつけられて敗れた。

公式戦復帰初戦となった8月のバックアイH(D9F)では、ガッシングウインドの5馬身差2着だった。その後のワシントンHに向けた調教中に、かつてベルモントSで負傷した左前脚に剥離骨片がある事が判明した。当初はこのまま引退せざるを得ないほどの負傷だと思われたが、X線検査の結果、そこまで重度の負傷ではないとされた。そして翌9月にはアトランティックシティ競馬場で行われた芝8.5ハロンの一般競走に出走して、2着プリンスオピルセンに6馬身差をつける圧勝を収め、復帰後及び芝競走における初勝利をマークした。

しかし次走のユナイテッドネーションズH(T9.5F)では、モンゴと、ベルモントフューチュリティS・シャンペンS・カウディンS・フラミンゴSの勝ち馬でケンタッキーダービー2着・プリークネスS3着の前年の米最優秀2歳牡馬ネヴァーベンドの2頭に後れを取り、モンゴの2馬身3/4差3着に敗れた。

次走のウッドワードS(D10F)では、ネヴァーベンド、ピムリコフューチュリティ・クラークH・サンフェルナンドS・チャールズHストラブS・マサチューセッツH・ミシガンマイルアンドワンエイスH・ワシントンパークHを勝っていた一昨年の米最優秀2歳牡馬クリムゾンサタンに加えて、ガルフストリームパークH・ジョンBキャンベルH・ナッソーカウンティS・サバーバンH・ホイットニーS・アケダクトSと6連勝中だったケルソも出走してきた。ケルソの強さは既に誰にも手の付けられない領域に達しており、2着ネヴァーベンドに3馬身半差をつけて完勝。本馬はケルソから11馬身差をつけられた4着と完敗を喫した。

その後は再度凱旋門賞に向かう予定があったが、ウッドワードSで怪我の具合が悪化していたために断念。それでも国内では走り、マンハッタンH(D12F)に出走したが、勝ったスマートから16馬身差をつけられた11着と惨敗した。このレース後、プライス氏の元には本馬を引退させるよう要望する手紙が150通ほど送られてきたという。

それでもガーデンステート競馬場に向かい、トレントンH(D10F)に出走。スマート、モンゴ、ウッドワードSで3着だったクリムゾンサタンといった強敵が対戦相手となった。本馬の鞍上には、前年のホイットニーS以来久々となるセラーズ騎手の姿があった。そしてレースでは2着モンゴに2馬身半差で勝利した。プライス氏は、これで(現役復帰計画が正しかった事が)立証されたとして、これを最後に本馬を完全に引退させ、ガーデンステート競馬場で2度目の引退式を実施した。5歳時の成績は6戦2勝だった。

本馬が競走馬を引退した後のプライス氏は競馬界の伝統を軽視するかつての姿勢を改め、毎年のようにチャーチルダウンズ競馬場を訪れてケンタッキーダービーを観戦していたが、1995年に87歳で死去した。セラーズ騎手は2786勝を挙げて1977年に騎手を引退し、2007年に米国競馬の殿堂入りを果たした後、2010年に72歳で死去した。なお、セラーズ騎手が持っていたケンタッキーダービー優勝トロフィーは1970年代に彼の家から盗まれたが、1999年になって発見されて返却されたという。

血統

Saggy Swing and Sway Equipoise Pennant Peter Pan
Royal Rose
Swinging Broomstick
Balancoire
Nedana Negofol Childwick
Nebrouze
Adana Adam
Mannie Himyar
Chantress Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Surbine Bachelor's Double Tredennis
Lady Bawn
Datine Roi Herode
Cyrilla
Joppy Star Blen Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Starweed Phalaris Polymelus
Bromus
Versatile Chaucer
Verve
Miss Fairfax Teddy Beau Teddy Ajax
Rondeau
Beautiful Lady Fair Play
Mileage
Bellicent Sir Gallahad Teddy
Plucky Liege
Whizz Bang Sunstar
Waterwillow

父サギーは現役成績14戦8勝で、ウェイクフィールドS・ラルパーS・イースタンショアS・アバディーンS・チェサピークトライアル・ERブラッドリー記念Hなどを勝った中級競走馬。チェサピークトライアルでは後に16連勝を達成する米国三冠馬サイテーションに3歳時唯一の黒星をつけたことで歴史に名を残している。他にも2歳時のアバディーンSでダート4.5ハロンの世界レコード51秒8を樹立している。種牡馬としては本馬の他にマザーグースS・ベルデイムSを勝ったアウタースペースなどを出し、1972年に27歳で他界した。サギーの父スウィングアンドスウェイはエクワポイズ産駒で、現役成績は29戦7勝。ホイットニーS・エンパイアシティH・ダイアモンドステートSを勝ち、ブルックリンH・カーターHで2着している。種牡馬としてはサギーが代表産駒という程度の成績だった。

母ジョッピーは7戦したが2着が2回あるだけで未勝利に終わり、獲得賞金総額は325ドルだった。スタートが非常に悪い馬で、あまりの酷さにレース出走を禁止されために競走馬を引退したという経歴の持ち主で、頑丈さだけが売りだったという。競走馬引退後に150ドルの食費代やその他費用150ドルの合計300ドルの支払遅滞の代償としてプライス氏に譲渡された。近親には活躍馬は皆無であるが、ジョッピーの6代母フルーレットの1歳年上の全姉が米国顕彰馬フィレンツェ【ジェロームH・ガゼルH・モンマスオークス・マンハッタンH・モンマスH】で、フルーレットの叔父が19世紀米国最高の名馬の1頭である米国顕彰馬ヒンドゥー【ケンタッキーダービー・トラヴァーズS・クラークH】であるから、19世紀末には優れた牝系と言える母系だった。→牝系:F24号族

母父スターブレンはブレニムの直子。通算成績52戦4勝という平凡な競走馬で、種牡馬としても成功はしていない。

競走馬引退後

競走馬を完全に引退した本馬は引き続きオカラスタッドで種牡馬生活を送った。8歳時にいったんケンタッキー州に移動しているが、その後にオカラスタッドに戻っている。種牡馬としてはそれほど活躍できず、産駒のステークスウイナーは12頭に留まった。もっとも、産駒284頭のうち7割近い194頭が勝ち上がっており、勝ち上がり率は悪くは無かった。また、繁殖牝馬の父としては31頭のステークスウイナーを出した。1975年に米国競馬の殿堂入りを果たした。1983年には同じフロリダ州産のケンタッキーダービー馬であるニードルズとの合同誕生会が企画されていた(この2頭は当時存命する最年長のケンタッキーダービー馬だった)が、誕生会1か月前の3月に癌と診断され、25歳で安楽死の措置が執られた。遺体は火葬され、いったんはオカラスタッドに埋葬されたが、後にチャーチルダウンズ競馬場にあるケンタッキーダービー博物館に移され、“The People's Choice”の愛称が刻まれた墓碑と共に眠っている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1964

Back in Paris

ギャロレットH

1964

Spire

オーキッドH・スワニーリヴァーH

1966

Taken Aback

ブラックヘレンH・スピンスターS

1967

Toter Back

オーキッドH

1971

Sharp Gary

ギャラントフォックスH(米GⅡ)・ミシガンマイル&ワンエイスH(米GⅡ)・イリノイダービー(米GⅢ)・ディスプレイH(米GⅢ)

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