プリティポリー

和名:プリティポリー

英名:Pretty Polly

1901年生

栗毛

父:ガリニュール

母:アドミレイション

母父:サラバンド

圧倒的なスピード能力を武器に英国牝馬三冠、デビュー15連勝など数々の記録を樹立し、繁殖牝馬としても後世に大きな影響力を与えたサラブレッド史上最高の名牝

競走成績:2~5歳時に英仏で走り通算成績24戦22勝2着2回

300年以上の歴史を誇るサラブレッド史上における最高の名牝の1頭で、“Peerless Polly(無双のポリー)”、“Her Ladyship(貴婦人)”、“Queen of the Turf(競馬場の女王)”など数々の二つ名で呼ばれた。

誕生からデビュー前まで

愛国エアフィールドロッジスタッドにおいて、同牧場の所有者ユースタス・ローダー卿により生産・所有された。1890年代初め頃に20歳代前半の若さで馬主となったローダー卿は、当初は主に障害競走馬を所有していたが、やがて平地競走の活躍馬を所有するという目標を持つようになり、1897年頃にエアフィールドロッジスタッドを購入して馬産を開始していた。

彼は自身の馬産のために愛国カラーで予め何頭かの牝馬を入手していた。450ギニーで購入したアストロロジーは後に5回の北米首位種牡馬に輝くスターシュートの母となったし、500ギニーで購入したコンカッションはヨークシャーオークスの勝ち馬ハンマーコップやエクリプスSの勝ち馬ランギビーの母となった。しかし彼が買った中で繁殖入りして最も活躍したのは、1歳時に510ギニーで購入したアドミレイションであり、その娘が本馬である。

栗毛の馬体と、額にあった星型の流星のコントラストが見目麗しかったために、ローダー卿は「麗しいポリー」という意味の名前を付けた。しかし可愛らしい名前とは裏腹に、その馬体は父に似て非常に骨太で、牝馬とは思えないほど雄大で男性的なものだった。本馬の体高は実は15.2ハンドに過ぎなかったとする海外の資料があるのだが、本馬と人間の男性が一緒に写っている写真を見ると、馬の体高を測る際の基準となる、首の付け根の鬐甲(きこう)部分が男性の頭と同じくらいの位置であるから、その高さが15.2ハンド(約154cm)とはとても思えない。その男性の身長が英国人の平均である175cmだと仮定すると、本馬の体高は17.2ハンドという事になる。これはさすがに少し高すぎるような気がするが、いずれにしてもかなり大きい馬だったのは間違いない。

気性については、母アドミレイションから受け継いだとされる穏やかな一面もあったが、同時に「まるで電撃か何か」と評された気の強さも併せ持っていたという。当初は愛国で調教されていたが、その気性の強さが影響してなかなか調教が上手くいかなかった。引き運動をしていた際に、いきなり手綱を振りほどいて走り出し、採石場に面する小道(脚を踏み外すと40フィート、つまり約12mの崖から転落する危険な道だった)を2度も往復した末にようやく捕獲されたとか、他の牝馬達を率いて牧場のフェンスを飛び越えて脱走したという逸話が伝えられている。そうかと思えば、自身は140ポンドを背負いながら、30ポンドのハンデを与えた同世代の馬を馬なりのまま子ども扱いした事もあり、その競走能力の高さには疑いの余地は無かった。人間であれば、美人で背が高く運動神経も優れているが、大人の言うことには従おうとしない姉御肌の女子生徒といったところだろうか。

本馬の能力の高さと調教困難な気性を考慮したローダー卿は、自身の友人で英国に厩舎を構えていた愛国出身のピーター・ギルピン調教師のところに本馬を送った。ギルピン師が本馬を初めて見たのは、エアフィールドロッジスタッド繋養時代だったのだが、実はそれほど感銘を受けなかったそうである。その理由は馬体が大きすぎて、あまり速そうな印象を与えなかったためだったらしく、ギルピン師は「その時に誰かが私に対して、この馬は偉大な競走馬になりますよと言っていたら、私は鼻で笑っていたことでしょう」と後になって述懐している。実際に調教が開始されてもしばらくは振るわなかったらしい。しかし2歳6月初めの調教において、本馬は23ポンドのハンデを与えた同厩同世代の牡馬ドロネー(2~3歳時にかけて、ゴードンS・チャレンジS・オールエイジドS(現コーク&オラリーS)・キングズスタンドS・ジュライCを勝った短距離の強豪馬)と互角(具体的にはドロネーが短頭差だけ先着)に渡り合うほどの走りを披露して、ギルピン師を仰天させた。

競走生活(2歳時)

それから2週間後の6月下旬にサンダウンパーク競馬場で行われたブリティッシュドミニオン2歳プレート(T5F)で競走馬デビューした本馬は、その能力の高さを今度は万人に見せつけた。単勝オッズ7倍といった程度の評価だったが、フライングのような抜群のスタートから猛然と先頭を飛ばすと、そのまま2着ヴェルギアに10馬身差(ただし当時の写真を精査すると20馬身はあったという)をつけて圧勝したのである。この時3着だったジョンオゴーントは翌年の英2000ギニー・英ダービーで2着する馬(さらに言うと、名馬スウィンフォードの父になる)であり、メンバーに恵まれての勝利ではなかった。

3週間後のナショナルブリーダーズプロデュースS(T5F)では、単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。そして10頭の対戦相手を蹴散らして、6ポンドのハンデを与えた牡馬ボブリンスキーを2馬身差の2着に抑えて勝利した。これ以降のレースにおいて本馬は全て単勝オッズ1倍台の圧倒的1番人気に支持されることになる。

その後はリヴァプール競馬場に向かい、マーシーS(T5F110Y)に出走。対戦相手は僅か1頭しかおらず、1馬身半差で余裕勝ちした。ドンカスター競馬場に移動して出走した英シャンペンS(T5F152Y)では、主戦となるウィリアム・レーン騎手と初コンビを組んだ。レーン騎手はこの年に弱冠20歳だったが、前年には19歳の若さで英国平地首位騎手に輝いた将来有望な若手騎手だった。このレースには、コヴェントリーS・プリンスオブウェールズSを勝っていたセントアマントという同世代の有力牡馬の姿もあった。しかし単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持された本馬が馬なりのまま走り、2着ランカシャーに1馬身半差で楽々と勝利を収め、セントアマントはさらに2馬身差の3着に終わった。

その後はマンチェスター競馬場に向かい、ザ・オータムブリーダーズフォールプレート(T5F)なるレースに出走。ここでも対戦相手は僅か1頭であり、馬なりのまま走り、3/4馬身差で勝利した。次走はチェヴァリーパークS(T6F)となった。チェヴァリーパークSは英国2歳最強牝馬決定戦だったが、この2日後にミドルパークプレートに出走する予定だった本馬にとっては単なる脚慣らしに過ぎなかった。単勝オッズ1.08倍の1番人気に支持された本馬は、デビュー戦で大差にちぎったヴェルギアにゴール前で迫られた。しかし最後まで馬なりのまま走った本馬が、7ポンドのハンデを与えたヴェルギアを3/4馬身差の2着に抑えて勝利を収め、着差以上の実力の違いを見せた。

そして予定どおり2日後のミドルパークプレート(T6F)に出走した。英シャンペンS2着後にインペリアルプロデュースプレートを勝ってきたランカシャー、同3着後にロウス記念Sを勝ってきたセントアマントなど6頭が対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。そしていつもどおりにスタートから先頭を爆走して、そのまま2着セントアマントに3馬身差をつけて楽勝した。

それからさらに11日後のクリテリオンS(T6F)では、3度目の2頭立てレースとなった。対戦相手は、前走のミドルパークプレートでセントアマントから1馬身差の3着だったハンズダウンのみだった。ここでは単勝オッズ1.07倍の1番人気に支持されると、1馬身半差で勝利した。その翌日に出走したムールトンS(T5F)では、同世代の牝馬の中では本馬に次ぐナンバー2と目されていたビッターズが本馬に挑んできたが、本馬がその挑戦を2馬身差で退けて快勝した。このムールトンSの30分前に同じニューマーケット競馬場で行われたライムキルンSでは、本馬より2歳年上の英国クラシック4勝馬セプターが勝利を収めており、ニューマーケット競馬場に詰め掛けたファン達は、名牝2頭の勝利を続けて見ることが出来た幸福に浸ったという。

ムールトンSが本馬の2歳時最後のレースとなり、この年は9戦全勝の成績となった。本馬は残念ながら英ダービーの登録が無かった(ローダー卿やギルピン師はそれを非常に悔やんでいたという)ため、翌年の英ダービーの前売りオッズで1番人気に支持されたのは、デューハーストプレートの勝ち馬ヘンリーザファーストと、本馬と2回戦って2回とも敗れたセントアマントの2頭だった。

競走生活(3歳時:英国牝馬三冠達成まで)

3歳時は英1000ギニー(T8F)で初戦を迎え、単勝オッズ1.25倍という断然の1番人気に支持された。しかし本馬の2歳戦における圧倒的過ぎる強さから、マイル戦でも長いのではないかと懐疑的に思う人も少なくなかったという。彼等は「確かにプリティポリーは私達が見てきた中で最も優れた短距離馬です。しかし血統的には早熟の短距離向きであるのは明らかであり、(2年前の)セプターのようにはいかないことでしょう」と主張していた。確かに本馬の父ガリニュールも母の父サラバンドも2歳戦では強かったが3歳以降は振るわなかったから、血統論的には彼等の主張は正しいと言えるし、スタートから先頭を爆走する本馬のレーススタイルは距離が伸びると不利になるのも事実だった。しかし本馬の能力は、そうした常識的な予想の範疇を遥かに超えるものだった。この英1000ギニーでは1分40秒0のレースレコードを計時して、2着ルーカディアに3馬身差、3着となったチェヴァリーパークS3着馬フランマにはさらに4馬身差をつけて完勝した。なお、この2日前に行われた英2000ギニーでは、ブリンカーを装着して挑んだセントアマントが単勝オッズ3.75倍の1番人気に応えて、2着ジョンオゴーントに4馬身差、3着ヘンリーザファーストにはさらに2馬身差をつけて逃げ切って圧勝しており、その勝ちタイムは本馬の英1000ギニーより1秒も速かった。もっとも、本馬は英1000ギニーで馬なりのまま走っており、単純比較は出来ない。

本馬の次走は1か月後の英オークス(T12F29Y)となった。本馬のあまりの前評判の高さに恐れをなした他馬陣営の回避が相次ぎ、対戦相手は、前年のムールトンSで本馬に屈したビッターズ、ロウス記念Sを勝ってきたフィアンセなど僅か3頭となった。本馬は当然のように単勝オッズ1.08倍の1番人気に支持されたが、本馬がこの距離で折り合えるのかどうかが問題だった。しかしギルピン師には秘密兵器があった。それは本馬の同厩同世代のリトルミススという牝馬だった。後述するが本馬はリトルミススとは非常に仲がよく、一緒にいると常に機嫌が良かった。ギルピン師はこの英オークスにおいてスタート地点に向かう本馬にリトルミススも同伴させ、本馬の気性を落ち着けることに成功。機嫌よく2番手で折り合った本馬は、直線で馬なりのまま悠々と抜け出すと、2着ビッターズに3馬身差をつけて楽勝を収めた。ビッターズもこの年のヨークシャーオークスを勝つほどの馬であり、決して弱い馬ではなかったのだが、本馬にはやはり全く歯が立たなかった。このレースを見ていた人達は、実際の2頭の実力差は3馬身どころではないと感じたという。

次走はコロネーションS(T8F)となった。ここでは、ニューS・ジュライSの勝ち馬モンテム(後にコロンボ、オネストプレジャー、ビッグストーン、キーストン、ミノル、ウイングアローなど数々の名馬を出す名牝系の祖となる)など7頭が立ち向かってきたのだが、単勝オッズ1.25倍の1番人気に支持された本馬が2着モンテムに3馬身差で勝利した。次走のナッソーS(T12F)では、対戦相手はこれといった実績が無い馬2頭だけであり、本馬が単勝オッズ1.03倍の1番人気に支持された。そして2着キングスフェイバーに5馬身差で圧勝した。

夏場は休養に充て、秋の英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。ところで英ダービーの登録は無かったのに、英セントレジャーには登録していた理由はよく分からない。最初から英1000ギニー・英オークス・英セントレジャーの英国牝馬三冠競走のみを狙っていたのだろうか。しかし英ダービーに牝馬が出走するのがさほど珍しくないこの時代だと、本馬より2歳年上のセプターのように、英セントレジャーに登録するような牝馬は英ダービーにも登録するのが一般的だったと思われるのだが。さて、この期に及んでも、本馬がこの距離を克服できるか疑問視する人はいたようだが、それはかなり少数派になっていた。

このレースには、英ダービーを馬なりのまま走り、2着ジョンオゴーントに3馬身差、3着セントデニスにはさらに6馬身差をつけて完勝していたセントアマントが、前年のロックサンドに続く史上11頭目の英国三冠馬の栄誉を目指して参戦してきた。しかしファンが単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持したのは、2年前のセプターに続く史上6頭目の英国牝馬三冠馬の栄誉を目指す本馬のほうであった。

スタートが切られると、セントアマントが先手を取り、本馬がそれを追いかける展開となった。しかし折り合いを欠いていたセントアマントはレース中盤で早々に脱落。代わりに先頭に立った本馬が、そのまま2着ヘンリーザファーストに3馬身差、3着アルムスクリフにはさらに6馬身差をつけて、3分05秒8のレースレコードで圧勝し、英国牝馬三冠を無敗で達成した。セントアマントは6着最下位に敗れ去っていた。

英セントレジャーをレースレコードで完勝したにも関わらず、終始馬なりで走り続けていた本馬に殆ど疲労の色が無いのを見たギルピン師は、本馬を2日後のパークヒルS(T14F132Y)に向かわせた。このパークヒルSは牝馬版の英セントレジャーというべきレースであり、ヨークシャーオークスを勝ってきたビッターズなどが出走していた。ビッターズ陣営にしてみれば、出てくるなと叫びたいところだっただろう。結果は単勝オッズ1.04倍の1番人気に支持された本馬が馬なりのまま走り続けて、9ポンドのハンデを与えた2着ビッターズに3馬身差をつけて楽勝を収めた。英セントレジャーとパークヒルSの連勝は、2年前のセプターですらも失敗していた事であり、結構難しい(本馬以前の達成馬は1873年のマリースチュアートと1878年のジャネットの2頭のみ。本馬以降には1頭もいない)のだが、本馬は易々と達成してしまった。

競走生活(3歳時:悪夢の敗戦とその後)

そして完全に英国内に敵がいなくなった本馬は、パークヒルSからちょうど1か月後に仏国ロンシャン競馬場で施行される、コンセイユミュニシパル賞(現コンセイユドパリ賞)に出走することになった。1893年創設のこのレースは、1863年創設のパリ大賞に次いで2番目に創設された仏国の国際競走であり、賞金額もパリ大賞に次ぐ多さだった。3歳馬限定競走のパリ大賞とは異なり古馬も出走可能なレースであり、時期的に言っても現在の凱旋門賞に相当するレースだった。その凱旋門賞が創設された後は格が下がり、現在はGⅡ競走になっているが、この当時は本馬の次の目標として相応しい欧州屈指の大競走だったのである。

コンセイユミュニシパル賞は過去に勝利したステークス競走の数によっては、3歳馬でも古馬より重い斤量を背負わなければならないシステムであり、本馬の斤量は少々過酷なものになる事が予想されていたが、遠征前の本馬は調教において1歳年上の同父馬ハンマーコップ(ヨークシャーオークスの勝ち馬)を寄せ付けないなど絶好調であり、ギルピン師は自信を持っていた。

しかしこの仏国遠征は、本馬とその関係者にとってまさに悪夢の連続となってしまった。まず、出発前に事件が起こった。長きに渡り本馬の主戦を務めてきたレーン騎手が、レース中の事故で頭部に大怪我を負ってしまったのである(日本の海外馬紹介ウェブサイトには、レーン騎手は英セントレジャーで勝ち戻ってくる途中で本馬から落ちて負傷したと書かれているものがあるが、英セントレジャー2日後にパークヒルSに出走した本馬の鞍上にいたのはレーン騎手である事は海外の公式資料に明記されていたから、英セントレジャーでレーン騎手が負傷したというのは100%誤り。彼が落馬負傷したのはリングフィールド競馬場で行われた、本馬とは無関係の売却競走である)。レーン騎手は一命だけは取り留めたが、彼の騎手生命はこれで絶たれてしまい、本馬に2度と乗ることはできなかった(負傷が影響したかどうかは不明だが、1920年に37歳の若さで死去)。

それでも米国出身の名手ダニエル・マハー騎手をピンチヒッターとして遠征は実行に移される事になり、ギルピン師は本馬を仏国に送るための特別船舶と、仏国到着後にパリに向かうための特別列車も予約していた。ところが予約していた船舶は、急に襲ってきた暴風雨の影響で出発が大きく遅れた。それでも仏国に到着した本馬だったが、今度は予約していた列車が他の列車との離合にやたらと手間取って、予想以上に長時間の列車輸送となった。そして本馬がパリの厩舎に到着したのは予定よりも大幅に遅れており、既にコンセイユミュニシパル賞の発走まで48時間を切っていた。そしてレース前日にパリに降った大雨のためにロンシャン競馬場の馬場は水浸しになってしまい、ただでさえ輸送トラブルで疲労が溜まっていた本馬にとっては厳しい極悪不良馬場となっていた。

それでも出走したコンセイユミュニシパル賞(T2400m)では、ロワイヤルオーク賞を勝ってきた地元仏国のマックドナル(翌年のコンセイユミュニシパル賞を勝っている)に加えて、馬主の死によって英国クラシック登録が無効となり英国三冠競走には不参加だったが、コロネーションCでセプターや同世代の英国三冠馬ロックサンドを撃破して世代最強の座をロックサンドから奪取していた4歳牡馬ジンファンデルも本馬と同じく英国から参戦。ジンファンデルは、既に引退していたために結局本馬とは対戦機会が無かったセプターと本馬の能力差を図る物差しになる存在としても注目されていた。

スタートが切られると、ギシュ賞を勝っていた地元仏国の3歳馬プレストが先頭に立ち、本馬とジンファンデルは揃って好位につけた。先頭のプレストは単勝オッズ67倍という人気薄であり、本馬とジンファンデルは互いを牽制しあうように走った。ところが、それは先頭のプレストをマイペースで逃げさせることになってしまった。不良馬場に乗じて直線で逃げ込みを図るプレストを、本馬とジンファンデルの2頭は一緒になって追いかけた。しかし本馬より4kg、ジンファンデルより8kg軽い斤量を利して逃げるプレストには2頭とも最後まで届かなかった。まさかの逃げ切り勝ちを収めたプレストから2馬身差の2着に敗れた本馬の無敗記録は15でストップ(ジンファンデルは本馬から半馬身差の3着)。

この結末を目の当たりにしたロンシャン競馬場の観衆(英国から来た本馬の応援団だけでなく地元仏国の競馬ファンも含む)は勝ち馬プレストに拍手を贈るのも忘れ、ただ呆然としていたという。本馬敗戦の一報が英国に届いても、それを信じない英国民が多く、彼等は仏国に国際電話を掛けて確認を取ったという。この2年前のパリ大賞においてセプターも一敗地にまみれていた事もあり、英国嫌いの仏国の評論家達は「ああ、英国の馬なんて所詮はその程度か!」と冷笑したと伝えられている(が、その話が載っているのは英国の資料なので、信憑性はある程度割り引くべきであろう)。敗因については色々と取り沙汰され、やはり本馬にはスタミナが不足していたのだとする意見や、マハー騎手の騎乗を批判する意見も見受けられたが、既に書いてきたようにあらゆる悪条件が重なった上での敗戦であり、むしろそれでもジンファンデルに先着する2着だったというのは逆に誉められるべきだというのが筆者の意見である。

英国に戻った本馬は、気を取り直して3週間足らず後のニューマーケットフリーH(T10F)に、マハー騎手鞍上で出走した。このレースは3歳馬限定競走だったために、ジンファンデルの姿は当然無かった(ジョッキークラブCに出走した)が、代わりにセントアマント、プリンスオブウェールズSの勝ち馬でエクリプスS・セントジェームズパレスS2着のライダールヘッド、後のグッドウッドSの勝ち馬ヒズマジェスティの3頭が出走してきた。ここに挙げた3頭は全て牡馬だったのだが、133ポンドのトップハンデを課されたのは本馬であり、セントアマントが130ポンド、ヒズマジェスティが123ポンド、ライダールヘッドが117ポンドに設定された。しかし単勝オッズ1.29倍の1番人気に支持された本馬が2着ライダールヘッドに2馬身差で勝利を収め、セントアマントは4着最下位に沈んだ。なお、ジンファンデルもジョッキークラブCでしっかりと勝利を収めており、この2頭が当時の英国における両巨頭である事が改めて示された。本馬はこのニューマーケットフリーHを最後に休養に入り、3歳時の成績は8戦7勝となった。

競走生活(4歳時)

翌4歳時は6月のコロネーションC(T12F29Y)から始動した。このレースには前年の覇者であるジンファンデルに加えて、リュパン賞・サブロン賞2回・プティクヴェール賞・ダリュー賞・エドヴィル賞・プランスドランジュ賞を勝っていた仏国の強豪馬カイユも参戦してきて、仏国の評論家が言うように英国調教馬は仏国調教馬よりも劣っているのかを確認する格好の機会となった。対戦相手はこの2頭だけであり、本馬が単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された。スタートが切られるとジンファンデルが本馬に先んじて先頭に立ち、カイユがそれを追って先行。このレースで本馬に騎乗したオットー・マッデン騎手は、本馬を無理に先行させずに前の2頭を見るように進んだ。そしてマッデン騎手が本馬にほんの少し合図を送ると、本馬は一気に加速。瞬く間にジンファンデルとカイユの2頭を抜き去り、2着ジンファンデルに3馬身差、3着カイユにはさらに5馬身差をつけて勝利。

勝ちタイム2分33秒8はコースレコード(2分33秒0とする資料もあるがおそらく記載誤りであろう)であり、コロネーションCと同コースで行われていた英オークスや英ダービーのレースレコードよりも当然速いものだった。ちなみに英ダービーのレースレコードは、このコロネーションCの同日直前にキケロが計時した2分39秒6であり、これ以前に英ダービーで2分40秒を切るタイムが出た事は無かった。英オークスのレースレコードは1890年にメモワールが計時した2分40秒8であり、このコロネーションCの翌日に行われた英オークスにおいてチェリーラスが2分38秒0を計時して更新している。前年における本馬の英オークスの勝ちタイムは2分46秒2であるから、この年のエプソム競馬場はやたら速いタイムが出易い馬場状態ではあったようだが、それにしても本馬の勝ちタイムは常識外れに速いものである。コロネーションCは1921年に距離12ハロン29ヤードから距離12ハロンに短縮(英ダービー・英オークスも同時に短縮。ただし後の1991年に実は12ハロンではなく12ハロン10ヤードだったことが発覚している)されて今日まで変わっていないにも関わらず、コロネーションCを本馬より速いタイムで勝ったのは僅か4頭(1928年に2分33秒0で勝ったアッペレ、1975年に2分33秒31で勝ったバスティノ、2010年に2分33秒42で勝ったフェイムアンドグローリー、2015年に2分33秒76で勝ったペザーズムーン)だけである。本馬の時代はまだ電子計測ではなく手動計測だったから、本当に本馬が2分33秒8で勝ったのかは少々怪しい(アッペレも然り。そのために一般的には1936年の英ダービーでマームードが計時した2分33秒8がエプソム競馬場12ハロンのコースレコードとして長らく君臨した事になっている)のだが、それを差し引いてもずば抜けて速かったのは間違いなく、このコロネーションCのレベルの高さを如実に物語っている。

本馬の次走はアスコット金杯が予定されていたが、レース直前になって、濡れた地面で脚を滑らせて筋肉を負傷して、回避となってしまった。なお、本馬不在のアスコット金杯はジンファンデルが制している。また、仏国に戻ったカイユはイスパーン賞を勝利しており、やはりコロネーションCのレベルは高かった事を改めて証明している。

秋シーズンに復帰した本馬は、まずはマハー騎手を鞍上に英チャンピオンS(T10F)に出走した。対戦相手は、ケンブリッジシャーH2回・ロウス記念Sを勝っていた5歳牝馬ハックラーズプライドの1頭のみだった。ハックラーズプライドは牡馬勢より重い斤量を背負ってケンブリッジシャーHを2連覇した強豪牝馬だったが、それでも本馬の相手では無かった。単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された本馬が軽く2馬身差で勝利した。

次走のライムキルンS(T10F)では、新しく主戦となったバーナード・ディロン騎手を鞍上に迎えた。対戦相手は、同月のジョッキークラブSで、勝ったセントアマント、ポリメラスに続く3着だった3歳牡馬モンダミンの1頭だけだった。斤量は本馬が137ポンド、モンダミンが113ポンドに設定され、その差は24ポンドもあった。それでも本馬は単勝オッズ1.02倍の1番人気に支持されると、1馬身差で勝利を収めた。

次走は11月のジョッキークラブC(T18F)となった。このレースには、前年のアスコットゴールドヴァーズ・リヴァプールサマーC・英チャンピオンSや、この年のアスコットゴールドヴァーズ・ドンカスターC・ハードウィックSなどに勝っていた6歳馬バチェラーズボタンという強敵が出走していた。バチェラーズボタンは長距離競走においてはジンファンデルを上回るほどの評判を得ていた馬であり、しかもその鞍上は本馬のことをよく知っているマハー騎手だった。マハー騎手は、本馬をやはり長距離得意な馬とは考えておらず、ここではバチェラーズボタンに絶対的に分があると思っていた。スタートが切られると、ホーンヘッドが先頭に立ち、単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持されていた本馬とバチェラーズボタンは揃ってその後方を追走した。そして直線ではそのまま本馬とバチェラーズボタンの叩き合いとなった。しかし最後はディロン騎手の檄に応えた本馬が半馬身差で競り勝った。しかしレース後の様子は、疲労困憊で勝ち馬表彰式場に向かった本馬とは対照的に、バチェラーズボタンはけろりとしていた事から、マハー騎手は、もう少しペースが速ければきっとバチェラーズボタンが勝っていたと、声高に主張したという。資料には明記されていないのだが、マハー騎手は前年のコンセイユミュニシパル賞の敗因が、自分の騎乗ミスではなく、本馬のスタミナ不足にあったのだと証明したかったのではないだろうか。

競走生活(5歳時)

4歳時を4戦全勝で終えた本馬は、この年に出走できなかったアスコット金杯の制覇を目指して5歳時も現役を続行した。まずは5月のマーチS(T10F)から始動して、馬なりのまま2馬身差で勝利した。次走はコロネーションC(T12F29Y)となった。対戦相手は、本馬に過去4戦全敗のセントアマントと、前年の英シャンペンSを勝っていた3歳馬アキレスの2頭だけ(この当時のコロネーションCは現在と異なり3歳馬も出走可能となっていた)だった。よって、このレースは「プリティポリーの強さを示す展覧会」と評されており、単勝オッズ1.18倍の1番人気に支持された本馬が馬なりのまま走り、2着アキレスに1馬身半差、3着セントアマントにはさらに2馬身差で勝利した。馬なりだったにも関わらず、勝ちタイム2分36秒8は、同日の英ダービーにおいて、マハー騎手騎乗の同厩馬スペアミント(本馬とは併せ馬調教の相手であり、後に本馬との間に何頭かの子をもうけている)が計時した驚異的レースレコードタイムと全く同じであり、本馬の実力は5歳になっても健在である事を示す結果となった。この頃の本馬の評価は「もしかしたらエクリプス以来の名馬なのではないか」というものであり、その名声は留まるところを知らなかった。

そして次走が最大目標のアスコット金杯(T20F)となったのだが、3歳時のコンセイユミュニシパル賞と同様に、敗北フラグ的なものが次々に発生した。まず、本馬ととても仲が良かったリトルミススが体調を崩して競馬場に同行できなかった。そのために最初から機嫌が悪かった本馬は、当日の気温がかなり高かった事や、アスコット競馬場に詰め掛けた大観衆が熱狂的に声援を送ってきた事も相まって、レース前から激しく焦れ込み、スタート地点へ向かうのも嫌がっていた。

対戦相手は、マハー騎手騎乗のバチェラーズボタンを筆頭に、前年の英ダービー馬キケロ、アキレス、そしてバチェラーズボタン陣営がスタミナ勝負に持ち込むためのペースメーカー役として参戦させたプリンセスオブウェールズSの勝ち馬で英ダービー3着のセントデニスの計4頭だった。

スタートが切られると、セントデニスが凄まじいスピードで逃げを打ち、アキレスが2番手、キケロが3番手、本馬とバチェラーズボタンが最後方からの競馬となった。残り6ハロン地点になってセントデニスが失速すると、アキレスが代わって先頭に上がったが、セントデニスを追いかけたアキレスにも余力は無くやがて失速。道中で折り合いを欠いていたキケロにも伸びは無く、勝負は本馬とバチェラーズボタンの一騎打ちとなった。残り2ハロン地点で本馬が先頭に立ち、そのまま押し切るかと思われたが、本馬に馬体を寄せてきたバチェラーズボタンが叩き合いに持ち込んできた。バチェラーズボタン鞍上のマハー騎手が望んだとおりのハイペースのスタミナ勝負となったため、手応えはバチェラーズボタンのほうが明らかに上であった。本馬鞍上のディロン騎手は必死になって本馬に鞭を使ったが、レース前から焦れ込んでいた本馬にはそれに応えるだけの余力は無く、ゴール前で力尽きて、バチェラーズボタンの1馬身差2着に敗退。バチェラーズボタンの勝ちタイム4分23秒2はコースレコードだった。

本馬のスタミナ不足を指摘していた自分の主張が証明できて満足した様子のマハー騎手は意気揚々と引き揚げてきたが、悲しいかな、アスコット競馬場に詰め掛けていた観衆から、バチェラーズボタンとマハー騎手に声援が送られる事はなかった。多くの観衆は涙を流して本馬の敗北を悲しみ、一部はバチェラーズボタンとマハー騎手に対して罵声を浴びせかけた。コンセイユミュニシパル賞の敗北時にロンシャン競馬場を包んだのは沈黙だったが、この日のアスコット競馬場を包んだのは号泣と怒号だったのである。

ギルピン師は、バチェラーズボタンの能力を甘く見た鞍上が仕掛けを急ぎすぎたのだとしてディロン騎手を非難したが、コンセイユミュニシパル賞と同様に、この敗戦はむしろ本馬の能力の高さを示しているのではないだろうか。本当にスタミナが不足している馬であれば、おそらく惨敗していたことであろう。2歳時から超一流のスピードを発揮していた馬が、5歳時に距離20ハロンの大競走で1馬身差2着したのであるから、その適応力の高さは本馬が超一流の馬である事を明確に示している。

最大目標のアスコット金杯を落としてしまった本馬陣営は、次の目標をドンカスターCに設定した。しかしあまりの晴天続きで馬場が異常に乾燥してしまい、脚を痛める懸念があったために回避となった。そしてそれから間もなくして、脚部不安を理由として本馬の現役引退が発表された。5歳時の成績は3戦2勝だった。

余談になってしまうが、本馬を紹介した資料においてはまるで悪役のように書かれているマハー騎手について弁護代わりに少し触れておく。先に書いたとおり彼は米国出身であり、1898年の北米首位騎手に輝くなど元々は米国で活躍していた。しかし19世紀末に米国で反賭博運動が盛んになったため、1901年から拠点を英国に移していた。彼は英国でもすぐに頭角を現し、ロックサンド、キケロ、スペアミントの3頭を英ダービー馬の地位に導き、後の1908・13年には英平地首位騎手にも輝いている。欧米通算で12465戦3192勝、勝率25.6%であるから、騎手としては超一流であった(1955年に米国競馬名誉の殿堂が創設された際にも初年度で殿堂入り)。1918年に結核のため35歳の若さで死去しているが、もっと余命があればおそらく英国競馬史上屈指の名手として名を馳せていたであろう。本馬のアスコット金杯敗戦は、勝負師であるマハー騎手の打倒本馬の執念の前に敗れた側面もあったのである。

競走馬としての評価と特徴

さて、サラブレッド史上最高の牡馬はどの馬なのかについては、各方面で盛んに議論されている。同様に、サラブレッド史上最高の牝馬はどの馬なのかについても、牡馬ほどではないにしてもやはり盛んに議論されている。いずれの議論においても人それぞれ判断基準が異なっており、万人が認める最高の名馬を確定することは出来ないが、本馬がサラブレッド史上最高の牝馬の有力候補の1頭である事に関しては、おそらく異論の余地は無いであろう。2歳戦からフルに活躍できる仕上がり早いスピード、長距離戦でも活躍できるスタミナ、一流牡馬相手でも全く引けを取らない実力、古馬になっても一線級で活躍できた成長力、生涯3着以下無しの安定感、さらに付け加えれば繁殖牝馬として後世に与えた影響力の大きさなど、名牝として相応しい要素がこれほど揃っている馬はちょっと他には見当たらない。

本馬より2歳年上には英国クラシック競走4勝馬セプターがおり、これまたサラブレッド史上最高の牝馬の有力候補の1頭であるために、本馬とはしばしば比較されるが、2歳戦の成績や通算の勝率に関しては本馬のほうが上位である。ただしセプターには、ロバート・シービア氏というあまりにも出来が悪い人物が所有者兼調教師だったというハンデがあった(詳細はセプターの項を参照)し、他の要素においてセプターは本馬に引けを取らない。なお、血統の良さでは本馬よりセプターのほうが上とする意見もあり、確かにそのとおりかもしれないが、そんなものを2頭の優劣の評価基準にするのはおかしい。上で筆者が酷評したシービア氏だが、本馬とセプターの比較については、おそらく最も的確な評価を下してくれている。すなわち「彼女達は2頭とも優秀すぎて比較するほうが間違っている。」

気性が激しい一面があった本馬だが、甘いものが好きという女の子らしい愛嬌も持ち合わせており、レース後にギルピン師の妻から角砂糖を与えられるのが常だったという(ただし英オークスを勝ったときだけは、ギルピン師の妻からではなく、レースを観戦に訪れていた時の英国王エドワードⅦ世から角砂糖を与えられている)。また、何度か書いたように、同世代同厩のリトルミススという牝馬と非常に仲がよく、リトルミススと一緒のときはいつも機嫌が良かった。そのためにギルピン師は本馬をレースに出す際には、スタート地点までリトルミススを同伴させるようにしていたという。そしてレースに勝ち戻ってきた本馬は真っ先にリトルミススの元へと駆け寄って鼻を擦り付け合い、一緒に厩舎へ戻っていったという。

血統

Gallinule Isonomy Sterling Oxford Birdcatcher
Honey Dear
Whisper Flatcatcher
Silence
Isola Bella Stockwell The Baron
Pocahontas
Isoline Ethelbert
Bassishaw
Moorhen Hermit Newminster Touchstone
Beeswing
Seclusion Tadmor
Miss Sellon
Skirmisher Mare Skirmisher Voltigeur
Gardham Mare
Vertumna Stockwell
Garland
Admiration Saraband Muncaster Doncaster Stockwell
Marigold
Windermere Macaroni
Miss Agnes
Highland Fling Scottish Chief Lord of the Isles
Miss Ann
Masquerade Lambourn
Burlesque
Gaze Thuringian Prince Thormanby Windhound
Alice Hawthorn
Eastern Princess Surplice
Tomyris
Eye Pleaser Brown Bread Weatherbit
Brown Agnes
Wallflower Rataplan
Chaperon

父ガリニュールはアイソノミー産駒で現役時代は21戦3勝。2歳時にクイーンエリザベスS・ナショナルブリーダーズプロデュースSなど3勝を挙げたが、その後に呼吸器官を患って鼻出血を発症(これはガリニュールの母父ハーミットからの遺伝ではないかと言われている)するようになり、3歳以降は未勝利に終わった。愛国ブラウンズタウンスタッドにおいて種牡馬入りした当初も鼻出血予防のため交配数は抑えられていたが、産駒は地元愛国を始め英国・独国で大活躍した。当時はセントサイモン一族の全盛期で、英愛種牡馬ランキングの上位はセントサイモン自身や、その父ガロピン、そしてセントフラスキンパーシモン等のセントサイモン直子に占められていたが、ガリニュールは1904・05年と連続して英愛首位種牡馬に輝き(これには本馬の貢献度も非常に大きい)、セントサイモンの系統と互角に渡り合っていた。繁殖牝馬の父としての活躍も素晴らしく、1908・11・18・20年と4度の英愛母父首位種牡馬に輝き、この分野においてもセントサイモンの系統と互角に渡り合っていた。また、ムムタズマハルの祖母アメリカスガールの母父としても後世に大きな影響を残している。

母アドミレイションは前述の通り1歳時にローダー卿によって購入されて彼の所有馬として走った。3・4歳時に愛国の下級ハンデ競走を1勝ずつしたほかに、障害競走でも何度か走っているが、2歳時のリッチモンドSでは着外に終わるなど、ローダー卿が期待したほどの競走成績は残せなかった。しかしアドミレイションは繁殖牝馬としては9頭の勝ち上がり馬を産む成功を収め、その中には本馬の他に、本馬の全妹アデュラ【パークヒルS】、全弟アドミラルホーク【コヴェントリーS】などがいる。

後述するように本馬は世界的な一大牝系を構築しているが、本馬を経由しないアドミレイションの牝系子孫の発展ぶりも相当なものである。

本馬の半姉ヴェネレーション(父ラヴェノ)の子には、英2000ギニーと英ダービーの両方で1位入線しながら、前者は「無能すぎる審判員の」明らかな誤審で2着、後者は婦人参政権論者がレース中に乱入して死亡するという大波乱の中で進路妨害を取られて失格になった、不運の名馬クラガヌール【ミドルパークS・英シャンペンS・ニューS】、グローヴィナ【アスコットゴールドヴァーズ】、ナッソヴィアン【プリンセスオブウェールズS】、曾孫にはセレーサ【AJCオークス・レイルウェイH】、ストラボ【ドワイヤーS】、ダルビーディエップ【ブルーグラスS】、玄孫世代以降には、ホワイハリー【英オークス】、シャーリージョーンズ【テストS・アーリントンメイトロンH・マスケットH】、マルグリートヴェルノー【伊グランクリテリウム・イタリア大賞・英チャンピオンS】、ライムストーンラッド【ハットンズグレイスハードル(愛GⅠ)3回・ワールドシリーズハードル(愛GⅠ)】、サイジングヨーロッパ【クイーンマザーチャンピオンチェイス(英GⅠ)・愛チャンピオンハードル(愛GⅠ)・ティングルクリークチェイス(英GⅠ)・パンチェスタウンチャンピオンチェイス(愛GⅠ)2回・パディパワーダイアルAベットチェイス(愛GⅠ)】などがいる。

本馬の全妹アデュラの子にはノックフィールナ【チェヴァリーパークS・コロネーションS】、曾孫にはクレスタラン【英1000ギニー】、玄孫世代以降には、レムヒゴールド【ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)】、ジュピターアイランド【ジャパンC(日GⅠ)】、グランドロッジ【デューハーストS(英GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅠ)】、ダンシングインシルクス【BCスプリント(米GⅠ)】、日本で走ったパーシャンボーイ【宝塚記念(GⅠ)】などがいる。

本馬の全妹ミランダの子にはキングジョン【愛ダービー】、ゴールデンギニー【リッチモンドS】、曾孫にはテヘラン【英セントレジャー】、アンガイヤール【イスパーン賞・サンクルー大賞】、玄孫世代以降には、アーガー【エクリプスS・クイーンアンS】、ミンシオ【仏2000ギニー・ムーランドロンシャン賞・フォレ賞】、ハードツービート【仏ダービー(仏GⅠ)・仏グランクリテリウム(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)】、フーリッシュプレジャー【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・サプリングS(米GⅠ)・ホープフルS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)・フラミンゴS(米GⅠ)・ウッドメモリアルS(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)】、ミセスマカディー【英1000ギニー(英GⅠ)】、ダンシングメイド【仏1000ギニー(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】、マジェスティーズプリンス【ロスマンズ国際S(加GⅠ)2回・マンノウォーS(米GⅠ)2回・ソードダンサーH(米GⅠ)】、トゥルーヴァージョン【VRCサイアーズプロデュースS(豪GⅠ)・豪シャンペンS(豪GⅠ)・オーストラリアンギニー(豪GⅠ)】、ボルジア【独ダービー(独GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)・香港ヴァーズ(香GⅠ)】、ボリアル【独ダービー(独GⅠ)・コロネーションC(英GⅠ)】、ホワイトハート【チャールズウィッティンガムH(米GⅠ)・ターフクラシックS(米GⅠ)】、ジャージーガール【エイコーンS(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)・テストS(米GⅠ)】、テンペラ【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)】、ジターノエルナンド【グッドウッドS(米GⅠ)・シンガポール航空国際C(星GⅠ)】、日本で走ったアドマイヤコジーン【朝日杯三歳S(GⅠ)・安田記念(GⅠ)】などがいる。

本馬の半妹ミラモンド(父デズモンド)の孫にはコピ【愛ダービー】、玄孫世代以降には、ミラーマジック【WATCダービー(豪GⅠ)・パースC(豪GⅠ)】などがいる。

本馬の半妹アデンダ(父スペアミント)の子にはボンベイダック【リッチモンドS】、ベンロモンド【グッドウッドH】、シルヴィウス【マッキノンS】、曾孫にはフォーエヴァーユアーズ【アーリントンラッシーS】、玄孫世代以降には、プロミストランド(スペクタキュラービッドの母父。サンデーサイレンスの母父父)【ピムリコスペシャル・サンフアンカピストラーノH】、アワニューリクルート【ドバイゴールデンシャヒーン(首GⅠ)】などがいる。

このように世界的名牝系の祖となったアドミレイションであるが、それではアドミレイションの母系が優秀だったのかというと、それほどでもないどころか、全く活躍馬が見つからない。アドミレイションの4代母シャペロンの半兄に、北米首位種牡馬4度のリーミントンの名前を見つけるのが筆者には精一杯だった。つまりアドミレイションは突然変異的に登場した名繁殖牝馬だったことになる。→牝系:F14号族①

母父サラバンドはアスコットバイエニアルS・ニューS・ハーストボーンS・ブリーダーズプロデュースS・ロウス記念S・チェスターフィールドC勝ちなど12戦8勝。かなりの素質馬だったが、同世代に生涯無敗の英国三冠馬オーモンドがおり、英2000ギニーではその引き立て役になってしまった不幸な馬でもある。種牡馬としては1893年の英1000ギニー馬シッフルユーズを出す(これは、ローダー卿が同年にアドミレイションを購入する一つの決め手となったという)など英国でも実績を残し、後に独国に輸出されて1902・03年と2度の独首位種牡馬に輝いた。サラバンドの父ムンカスターはドンカスター産駒の英2000ギニー2着馬で、本馬と同世代の英2000ギニー・英ダービー勝ち馬セントアマントの母父でもある。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷のエアフィールドロッジスタッドで繁殖入りした。繁殖入り初年度の6歳時はラヴェノと交配されたが不受胎。7歳時はスペアミントと交配されたがまた不受胎。8歳時は再びスペアミントと交配され、今度は受胎したが、翌9歳時に産んだ子は双子で流産してしまった。繁殖入りして数年間の本馬は、現役時代にある程度有していた気性の穏やかさが完全に影を潜め、常に神経質に振る舞うようになってしまっており、それも本馬の繁殖生活を阻害したとされている。

本馬がなかなか子を産めない状況を知ったギルピン師は、半ば本気で本馬の現役復帰をローダー卿に提案したらしいが、冷静なローダー卿はその提案を却下した。この9歳時は三度スペアミントと交配され、翌10歳時に事実上の初子となる牡駒ポリーゴナムを産んだ。初めて子を産んだ後に本馬の気性はようやく落ち着き、この年以降は立派な繁殖牝馬として毎年のように子を産むようになった。このポリーゴナムは競走馬となって9戦したが1勝に終わり、3歳の若さで他界してしまった。11歳時には2番子の牡駒ポリーカープ(父セントフラスキン)を産んだ。ポリーカープは2歳時に1戦のみしたが、その年のうちに他界してしまった。12歳時には3番子の牡駒シピリー(父スペアミント)を産んだ。シピリーは英国では3戦未勝利に終わり、豪州に競走馬として輸出されて1勝だけ挙げたが、そのレース中に故障してそのまま豪州で種牡馬入りした。しかし種牡馬として成功は出来なかった。

13歳時には初の牝駒となる4番子のモリーデスモンド(父デスモンド)を産んだ。モリーデスモンドは本馬の子の中で競走馬として最も活躍した馬であり、チェヴァリーパークSの母子制覇を達成している。14歳時には5番子の牝駒ダッチマリー(父ウィリアムザサード)を産んだが、その競走成績は定かではない。15歳時には6番子の牡駒パッシェンデール(父ポリメラス)を産んだ。パッシェンデールは英国では未勝利に終わり、ベルギーに輸出されたが、その後の競走成績は定かではなく、種牡馬入りした記録も無い。16歳時は休胎のため産駒がおらず、17歳時に7番子の牝駒ポリーフリンダース(父ポリメラス)を産んだ。ポリーフリンダースはナショナルブリーダーズプロデュースSを勝っており、本馬の子の中ではモリーデスモンドに次ぐ成績を残した。

18歳時は8番子の牡駒クラックマンナン(父ロモンド)を産んだ。クラックマンナンは本馬の牡駒の中で唯一の活躍馬と言える存在で、名のあるレースの勝利は無いが、同着1回を含む7勝を挙げた。そしてクラックマンナンが引退後に種牡馬として輸出された先は、実は日本である。日本においてクラックマンナンはかなりの活躍を示し、ロビンオー、クラックアスト、クラックミンテン、フクボシ、マッチレース、ミラクルユートピアと6頭の帝室御賞典勝ち馬を送り出し、1933・34年には全日本首位種牡馬に輝くなど、日本競馬の黎明期に大きな足跡を残した。また、マンナという名前で繁殖入りしたロビンオーの牝系子孫からは、トキツカゼ、オンワードゼア、オートキツ、トウメイ、クモノハナ、ヤシマベル、ミナガワマンナ、フェアマンナ、セルローズ、テンメイ、ウメノファイバー、ヤマカツスズランといった多くの八大競走・GⅠ競走勝ち馬が登場しており、日本の名牝系の1つとして名を残しているから、クラックマンナンは本馬の牡駒の中で唯一現在もその血が残っている馬である。

19歳時は9番子の牡駒テューダーキング(父スウィンフォード)を産んだ。テューダーキングは平地競走では12戦未勝利に終わり、障害競走でようやく1勝を挙げた程度だった。半兄パッシェンデールと同様に後にベルギーに輸出され、その後の消息は不明である。20歳時はロモンドを不受胎だったため産駒がおらず、21・22歳時も休胎のため産駒はいなかった。23歳時に10番子の牝駒ベイビーポリー(父スペアミント)を産んだ。ベイビーポリーの競走成績も資料に記載が無く不明である。この23歳時にスペアミントと交配されたが不受胎だったため、これを限りに繁殖牝馬を引退。1931年に老衰のため30歳で大往生し、遺体はエアフィールドロッジスタッド内に埋葬されていたスペアミント(1924年に他界)の隣に埋葬された。

後世に与えた影響

本馬の繁殖成績は、その競走成績からすると明らかに物足りなかったと評されており、特に牡駒の成績は失望的だったと言われている。牡駒の中では一応一番の活躍馬だったクラックマンナンが日本に輸出されたという事実も、裏を返せば欧州に置いておくほどの価値が無いとみなされたわけである。普通なら競走成績が今ひとつでも、これだけの名牝の牡駒であれば種牡馬入りの機会が与えられそうなものなのだが、欧州で種牡馬入りした牡駒がいないというのが、いかに期待外れだったかの一つの証拠と言える。

しかし本馬の牝駒4頭は揃って繁殖牝馬として成功を収めた。モリーデスモンドは、スパイクアイランド【愛2000ギニー・愛ダービー】、ゾディアック【愛ダービー・愛セントレジャー】を産んだ。ダッチマリーは、クリストファーロビン【セントジェームズパレスS】、ドゥッチアディブオニンセーニャ【伊1000ギニー・イタリア大賞】、スペルソーネ【愛セントレジャー】を産んだ。ポリーフリンダースは、アラベラ【クイーンメアリーS・英シャンペンS】を産んだ。ベイビーポリーは、コロラドキッド【ドンカスターC】、フェアベアン【プリンセスオブウェールズS】を産んだ。

さらに本馬の牝系子孫は発展を続け、世界各国で著名な馬が次々登場して、本馬は世界有数の名牝系の祖として認知されるに至った。

もっとも発展したのはモリーデスモンドの子孫で、ガーサント【仏2000ギニー・フォレ賞・ガネー賞】、ニアークティック【サラトガスペシャルS】、セントパディ【英ダービー・英セントレジャー・エクリプスS】、グレートネフュー【ムーランドロンシャン賞】、リュティエ【リュパン賞・ジャックルマロワ賞】、ルーシーロウ【コロネーションS・ナッソーS・サンチャリオットS】、ブリガディアジェラード【英2000ギニー(英GⅠ)・ミドルパークS・サセックスS(英GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)2回・エクリプスS(英GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)】、ノーザンテースト【フォレ賞(仏GⅠ)】、フライングウォーター【英1000ギニー(英GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)】、バッズワースボーイ【クイーンマザーチャンピオンチェイス3回・カッスルフォードチェイス】、アーティアス【エクリプスS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)】、ゴージャス【アッシュランドS(米GⅠ)・ハリウッドオークス(米GⅠ)・ヴァニティ招待H(米GⅠ)】、ヴィンティージクロップ【愛セントレジャー(愛GⅠ)2回・メルボルンC(豪GⅠ)】、スウェイン【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)2回・コロネーションC(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)】、ゴールデンアトラクション【スピナウェイS(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)・フリゼットS(米GⅠ)】、ケープクロス【ロッキンジS(英GⅠ)】、ディクタット【モーリスドギース賞(仏GⅠ)・スプリントC(英GⅠ)】、ファンタスティックライト【BCターフ(米GⅠ)・マンノウォーS(米GⅠ)・香港C(香GⅠ)・タタソールズ金杯(愛GⅠ)・プリンスオブウェールズS(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)】、ルシアンリズム【英1000ギニー(英GⅠ)・コロネーションS(英GⅠ)・ナッソーS(英GⅠ)・ロッキンジS(英GⅠ)】、ワークフォース【英ダービー(英GⅠ)・凱旋門賞(仏GⅠ)】、ダンク【BCフィリー&メアターフ(米GⅠ)・ビヴァリーDS(米GⅠ)】、シーズシンセーショナル【ザビールクラシック(新GⅠ)・新国際S(新GⅠ)・オークランドC(新GⅠ)・スプリングクラシック(新GⅠ)】、タービュレントディセント【ハリウッドスターレットS(米GⅠ)・サンタアニタオークス(米GⅠ)・テストS(米GⅠ)・バレリーナS(米GⅠ)】、日本で走ったフェートノーザン【帝王賞】、アドラーブル【優駿牝馬(GⅠ)】、ノーザンレインボー【中山大障害春】、マイネルラヴ【スプリンターズS(GⅠ)】など、膨大な数の活躍馬が出ている。

ダッチマリーの子孫からは、デレアナ【伊1000ギニー・伊2000ギニー・イタリア大賞】、ドッサドッシ【伊グランクリテリウム・伊1000ギニー・伊オークス】、ドナテロ【伊グランクリテリウム・伊ダービー・イタリア大賞・ミラノ大賞】、ドーミエ【伊グランクリテリウム・伊ダービー・伊ジョッキークラブ大賞】、シジュウム【英ダービー】、ドン【仏2000ギニー】、アンライヴァルドベル【BCレディーズクラシック(米GⅠ)】、シュートアウト【ランドウィックギニー(豪GⅠ)・AJCダービー(豪GⅠ)・チッピングノートンS(豪GⅠ)2回・ジョージメインS(豪GⅠ)】、日本で走ったハッピールイス【中山大障害秋】、マサラッキ【高松宮記念(GⅠ)】などが出ている。

ポリーフリンダースの子孫からは、シュプリームコート【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS】、1965年の英愛首位種牡馬コートハーウェル、オンリーフォアライフ【英2000ギニー】、ハンターコム【ミドルパークS・ジュライC・ナンソープS】、ダブルフォーム【キングズスタンドS(英GⅠ)・アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)】、マーウェル【チェヴァリーパークS(英GⅠ)・キングズスタンドS(英GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)・アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)】、ユナイト【英オークス(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)】、マーリング【チェヴァリーパークS(英GⅠ)・愛1000ギニー(愛GⅠ)・コロネーションS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)】、テンビー【仏グランクリテリウム(仏GⅠ)】、リヴォーク【サラマンドル賞(仏GⅠ)・仏グランクリテリウム(仏GⅠ)】、インヴァソール【BCクラシック(米GⅠ)・ドバイワールドC(首GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)・ドンH(米GⅠ)】、シンプリーパーフェクト【フィリーズマイル(英GⅠ)・ファルマスS(英GⅠ)】、ソルジャーオブフォーチュン【愛ダービー(愛GⅠ)・コロネーションC(英GⅠ)】、ポストポーンド【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)】、日本で走ったカツラギエース【ジャパンC(GⅠ)・宝塚記念(GⅠ)】、スターキングマン【東京大賞典(GⅠ)】などが出ている。

ベイビーポリーの子孫からは、シーパロット【ヨークシャーオークス・ナッソーS】、ヴィエナ(ヴェイグリーノーブルの父)、キャロルハウス【凱旋門賞(仏GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)】、イレヴンシス【新1000ギニー(新GⅠ)・キャプテンクックS(新GⅠ)】、フェニックスリーチ【加国際S(加GⅠ)・香港ヴァーズ(香GⅠ)・ドバイシーマクラシック(首GⅠ)】などが出ている。

本馬の牝系子孫から登場した活躍馬はここに記載した以外にもたくさんいるが、多すぎて書き切れないので主だったところだけ載せたのだが、それでもこの数である。英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が出した“A Century of Champions”においては、20世紀において最も成功した牝系は、本馬を始祖とするファミリーナンバー14-C族であるとしており、それ故に本馬こそが20世紀最高の繁殖牝馬であると評価している。繁殖牝馬としてはそれほど活躍できなかった本馬が、世界的名牝系の祖となった科学的な理由は不明である。本馬の血統に惹かれてブリガディアジェラードを誕生させるに至ったジョン・ヒスロップ氏の著書「ザ・ブリガディア」には、その辺りの研究結果が載っているらしいが、筆者はこの本を持っていないから内容は分からないし、ブリガディアジェラードを種牡馬として失敗させた最大の要因ともされる素人馬産家のヒスロップ氏が、机上の血統論に対して極めて懐疑的な筆者を納得させるほどの内容を書いているとも思われない。

本馬の功績を記念して、1948年に愛国カラー競馬場でプリティポリーSが創設され、現在ではGⅠ競走として施行されている。また、1962年には英国ニューマーケット競馬場でも本馬の名を冠したプリティポリーSが創設され、現在も続いている。こちらはリステッド競走であるが、英オークスの重要な前哨戦の1つであり、ここをステップに英オークスに向かう馬も多く、ダンファームリンやウィジャボードなどが本番も勝利している。

TOP