プリンスローズ

和名:プリンスローズ

英名:Prince Rose

1928年生

鹿毛

父:ローズプリンス

母:インドレンス

母父:ゲイクルセイダー

一時は衰退していたセントサイモンの直系を復活させたベルギー競馬史上の最強馬だが第二次世界大戦に巻き込まれて非業の死を遂げる

競走成績:2~4歳時に白仏で走り通算成績20戦16勝3着2回(異説あり)

ベルギー競馬史上最強馬と言われ、かつベルギー調教馬としては唯一、競走馬としても種牡馬としても国際的影響力を残した名馬である。しかし、その競走成績については不明の点も多く(特にベルギー国内)、通算成績17戦16勝としている資料も“Thoroughbred Heritage”など数多く存在しており、はっきりしない。

誕生からデビュー前まで

本馬は英国の政治家である第4代ダーラム伯爵フレデリック・ウィリアム・ラムトン卿によって生産された英国産馬だが、本馬が1歳時の1月にラムトン卿が73歳で死去したために、本馬を含む彼の所有馬は同年12月にニューマーケットで行われたセリに出された。本馬はここでヘンリー・コッペズ博士という人物に安く買われ、ベルギーに送られてそこで競走馬となった。

競走生活

2歳時の成績は7戦4勝であると言われているが、本馬の競走成績が17戦16勝だとするならば、2歳時は無敗でなければ辻褄が合わない(3歳時に確実な敗戦が1回あるため)。本馬の競走成績が不明なのは2歳時の出走履歴がはっきりしないためでもあるのだろう。

3歳時はベルギーの主要競走ブリュッセル大賞(T2300m)に出走して勝利。さらにオステンド大賞も勝利した。ベルギーの国際競走であるオステンド国際大賞(T2200m)では、ヘロド賞・ロベールパパン賞・モルニ賞・ロシェット賞・仏1000ギニー・仏オークス・ミネルヴ賞・ジャックルマロワ賞・ヴェルメイユ賞を勝っていた仏国競馬史上に名を残す名牝パールキャップ(繁殖牝馬としても英ダービー馬パールダイヴァーを産んだ)や、サブロン賞(現ガネー賞)を勝ちアルクール賞を2連覇することになる強豪アンフォルタなどの仏国遠征組を一蹴して勝利を収め、国内外の名声を高めた。なお、本馬は3歳時にベルギー三冠(Belgian Triple Crown)を達成したと書かれている資料があるが、具体的にどのレースがベルギー三冠競走なのかが調べてもよく分からない。おそらく、ブリュッセル大賞・オステンド大賞・オステンド国際大賞の3競走をもってベルギー三冠としているのだとは思うが、まったく確証は無い。ベルギーは現在もあまり競馬が盛んではない(有名なクリストフ・スミヨン騎手はベルギー出身だが彼は仏国で騎手デビューしている)ので、探しても資料が出てこないのである。

また、オステンド国際大賞の後には、ベルギー調教馬として史上初めて凱旋門賞(T2400m)に挑戦している。レースでは、ベルギーの競馬場にはあまり無いらしい坂の上り下りに苦戦しながらも、先行してよく粘り、勝ったパールキャップから2馬身半差、2着アンフォルタから1馬身差の3着と健闘。英オークス・ペネロープ賞の勝ち馬で翌年のカドラン賞を勝つブルレット(4着)、パリ大賞2着馬で後にバルブヴィル賞・ラクープ・アルクール賞を勝つタクソディウム(5着)、仏ダービー・リュパン賞・グレフュール賞・オカール賞を勝っていた後の名種牡馬トウルビヨン(6着)、イスパーン賞・プランスドランジュ賞の勝ち馬で前年の仏ダービー・エクリプスS2着のラヴレースなどに先着した。

4歳になり本国でオステンド大賞など3連勝した後に挑んだ仏共和国大統領賞(T2500m・現サンクルー大賞)では、バルブヴィル賞・ラクープを勝ってきたタクソディウムを大外からかわして首差で勝利を収め(コンデ賞の勝ち馬で後にカドラン賞・ユジェーヌアダム賞を勝つグリぺルルが3着)、その名声を不動のものとした。さらにオステンド国際大賞(T2200m)の連覇を果たしたが、その後に故障を発生したため、4歳限りで競走馬を引退した。ちなみに、オステンド国際大賞は、後に本馬の功績を讃えてプリンスローズ大賞に改名されている。

血統

Rose Prince Prince Palatine Persimmon St. Simon Galopin
St. Angela
Perdita Hampton
Hermione
Lady Lightfoot Isinglass Isonomy
Dead Lock
Glare Ayrshire
Footlight
Eglantine Perth War Dance Galliard
War Paint
Primrose Dame Barcaldine
Lady Rosebery
Rose de Mai Callistrate Cambyse
Citronelle
May Pole Silvio
Merry May
Indolence Gay Crusader Bayardo Bay Ronald Hampton
Black Duchess
Galicia Galopin
Isoletta
Gay Laura Beppo Marco
Pitti
Galeottia Galopin
Agave
Barrier Grey Leg Pepper and Salt The Rake
Oxford Mixture
Quetta Bend Or
Douranee
Bar the Way Right-Away Wisdom
Vanish
Barrisdale Barcaldine
Wharfedale

父ローズプリンスはプリンスパラタインの直子で、現役時代はシザレウィッチH・クイーンアレクサンドラSなど5勝を挙げた中級競走馬だった。しかし祖母ローズドメイが仏1000ギニー・仏オークスの勝ち馬という毛並みの良さもあり、種牡馬になった。本馬以外の代表産駒は、サラマンドル賞・フォレ賞を勝ったムッソンであり、それほど成功したわけではない。

母インドレンスは現役成績5戦1勝、メイカーフィールドHというレースを勝っている。インドレンスの半姉リーフ(父ロチェスター)の子にラトリンザリーファー【リッチモンドS】、牝系子孫にラインゴールド【凱旋門賞(仏GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)2回・ガネー賞(仏GⅠ)】が、インドレンスの全妹ヘレスポントの孫にエアボーン【英ダービー・英セントレジャー】、牝系子孫に、チロル【英2000ギニー(英GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)】、シングルエンパイア【伊ダービー(伊GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)】、エリシオ【凱旋門賞(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)2回・ガネー賞(仏GⅠ)】、クラシックフラッグ【ダーバンジュライ(南GⅠ)・SAクラシック(南GⅠ)・トリプルクラウン1600(南GⅠ)】、テイクザポインツ【セクレタリアトS(米GⅠ)・ジャマイカH(米GⅠ)】などがいる。→牝系:F10号族②

母父ゲイクルセイダーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ベルギー王国の所有となり、ベルギーで種牡馬入りした。後の1938年の繁殖シーズン最中に、本馬の能力を評価していたラウディ・L・ローレンス氏(彼についてはプリンスキロの項で紹介している)により仏国にリースされて、同年からチェフルヴィーユ牧場において供用開始された。ベルギー史上最強馬である本馬が仏国に移動する事をベルギー王国が了承した背景には、当時のベルギーは中立国であったにも関わらず、その地理的状況などもあって、隣国である独国を支配していたナチスの脅威を受け続けていたため、本馬を仏国に逃がした側面もあったのではないかと言われている。そして1939年に独国軍がポーランドに侵攻して第一次世界大戦が勃発。翌1940年5月には独国軍が予想どおりベルギーを始めとするベネルクス三国に侵攻。ベルギー軍は奮闘したものの、衆寡敵せず6月に降伏を余儀なくされた。ベネルクス三国を突破した独国軍は続いて仏国に侵攻し、仏国もまた瞬く間に独国軍に占領されてしまった。ローレンス氏は本馬の代表産駒にして筆頭後継種牡馬となるプリンスキロを事前に国外に逃がしていたが、本馬は仏国に残ったままであり、仏国を占領した独国軍に接収されて、仏国内の別の牧場に移された。

本馬が仏国で出した産駒がデビューしたのは翌1941年のことだった。繁殖牝馬の質が高くないベルギー繋養時代は、ドーヴィル大賞を勝ったテールローズを出した程度(もっとも、ベルギーの首位種牡馬に輝いているらしいから、ベルギー国内限定の活躍馬は出していた模様)だったが、仏国供用時代の産駒からは活躍馬が続出。米国に亡命していたプリンスキロが1943年のジョッキークラブ金杯を勝ち、1944年にはプリンスビオが仏2000ギニーに勝利した。しかし本馬はこの1944年に16歳で他界した。その死の経緯については諸説あり、6月のノルマンディー上陸作戦において、連合国軍が実施した空爆に巻き込まれて焼死した説と、独国軍兵士の誤射によって死亡した説があり、いずれが正しいのかはっきりしないが、いずれにしても第二次世界大戦の犠牲となったのは間違いない。しかし本馬の死後も残された産駒達は活躍を続け、忌まわしき第二次世界大戦がようやく終了した翌年の1946年には、仏ダービーやリュパン賞などに勝利したプリンスシュヴァリエの活躍により仏首位種牡馬に輝いた。

後世に与えた影響

本馬の後継種牡馬としては、プリンスキロ、プリンスビオ、プリンスシュヴァリエの3頭がいずれも米国や仏国の首位種牡馬になって成功した。プリンスキロについては当馬の項を参照、プリンスビオについてはシカンブルの項を参照してもらう事とし、ここではプリンスシュヴァリエとその代表産駒シャルロットヴィルについて触れておく。

プリンスシュヴァリエは現役成績14戦7勝。仏ダービー・リュパン賞・サラマンドル賞・グレフュール賞・ノアイユ賞・コンデ賞に勝利し、パリ大賞・凱旋門賞・ロワイヤルオーク賞・仏グランクリテリウム・オステンド大賞で各2着、ロベールパパン賞で3着している。種牡馬としてはシャルロットヴィルを筆頭に、英ダービー馬アークティックプリンス、凱旋門賞・伊ジョッキークラブ大賞の勝ち馬ソルティコフ、ガネー賞・仏グランクリテリウムの勝ち馬ボウプリンス、愛1000ギニー馬ロイヤルダンスーズ、愛1000ギニー馬ブティアバ、セントジェームズパレスSの勝ち馬シェヴァストリド、セントジェームズパレスSの勝ち馬パイレートキング、ヨークシャーオークスの勝ち馬インディアントワイライト、ロッキンジSの勝ち馬プリンスミッジ、ジョッキークラブSの勝ち馬コートハーウェル、ブッフラー(日本の二冠馬コダマの父)などを出し、1960年の仏首位種牡馬に輝いた。

プリンスシュヴァリエの代表産駒シャルロットヴィルは現役成績9戦6勝。仏ダービー・リュパン賞・パリ大賞・プリンスドランジュ賞・サンパトリック賞を勝っており、仏国競馬史上でも有数の名馬とされる(だが、資料が少ないため、この名馬列伝集において独立した項目立ては出来なかった)。種牡馬としては、英ダービー・コロネーションCの勝ち馬シャルロットタウン、愛オークス馬ガイア、伊ダービー・伊2000ギニー・イタリア大賞の勝ち馬ボンコンテディモンテフェルトロ、バーデン大賞・ミラノ大賞の勝ち馬ストラトフォード、サセックスSの勝ち馬カールモント、そして持ち込み馬として日本で走り目黒記念を勝ったメジロサンマンを出した。メジロサンマンは、メジロイーグル、メジロパーマーと日本で直系を伸ばした。

しかし、欧州でも日本でもプリンスシュヴァリエの直系は現在ほぼ途絶えている。プリンスキロやプリンスビオの直系も現在ほぼ途絶えており、本馬の直系はほぼ絶滅してしまった(南米や東欧で僅かに残っているという話もあるが)。

ここから先は余談であるが、本馬の血統構成は、父系がガロピンセントサイモンの系統で、母父ゲイクルセイダーがハンプトンの系統である。これはゲイクルセイダーの父であるベイヤードや、ゲイクルセイダーと並ぶベイヤードの代表産駒であるゲインズボロー、そしてゲインズボローの代表産駒であるハイペリオン、そしてやはりハンプトン直系の名種牡馬であるサンインローと逆の組み合わせになっている(この4頭は全て母父がガロピン直系)。英国でセントサイモン系が猛威を振るっている間は目立たなかったハンプトン直系は、セントサイモンの悲劇の後に再び表舞台に姿を現し、ベイヤード、サンインロー、ゲインズボロー、ハイペリオンの4頭は全て2回以上英愛首位種牡馬になり、セントサイモン系が姿を消した英国競馬界を長年に渡りリードした。本馬はハイペリオンの2歳年上で、種牡馬としての活動開始時期はほぼ同じである。本馬は白国や仏国で種牡馬供用されたため、英国で種牡馬生活を送ったハイペリオン産駒との直接対決は少なかったはずだが、本馬の直系子孫からは英愛の大レース勝ち馬も多く出ている。一時期英国で滅亡したセントサイモンの血も、代を経て血の飽和状態が緩和され、このように復活している。サラブレッドの血統史を紐解くと、一時期身を潜めていた血統が復活を遂げる事例は数多い。果たして今後の世界、そして日本において次代を担う血統はどこから出現するのだろうか。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1935

Terre Rose

ドーヴィル大賞

1940

Princequillo

ジョッキークラブ金杯・サラトガC

1941

Prince Bio

仏2000ギニー・フォンテーヌブロー賞・ノアイユ賞

1943

Prince Chevalier

仏ダービー・リュパン賞・サラマンドル賞・コンデ賞・ノアイユ賞・グレフュール賞

1943

Prince Ki

パース賞

1944

Procureuse

アスタルテ賞・ヴェルメイユ賞

1945

Vic Day

ジョッキークラブC2回・キングエドワードⅦ世S

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