タラック

和名:タラック

英名:Tulloch

1954年生

鹿毛

父:コラサン

母:フロリダ

母父:サルマガンディ

豪州のみならず当時世界最良の3歳馬と呼ばれ、2年間もの闘病生活を経て再び最強馬に返り咲いた豪州競馬史上屈指の名馬

競走成績:2~6歳時に豪で走り通算成績53戦36勝2着12回3着4回

19世紀豪州の伝説的名馬カーバイン、謎の死を遂げた豪州競馬の英雄ファーラップと並んで、豪州競馬史上最高の競走馬3頭のうちの1頭に挙げられている名馬中の名馬であり、“Haley’s Comet(ハレーの彗星)”の愛称で知られた。

誕生からデビュー前まで

新国ケンブリッジ州トレローニースタッドの生産馬で、1歳時に新国トレンサム競馬場で行われたセリにおいて、E・A・ハレー氏の代理人トミー・J・スミス調教師により750ギニーで購入され、ハレー氏の所有馬となった。本馬は成長しても体高15.2ハンドにしかならなかった小柄な馬であり、しかも背中が凹んでいるという欠点があったが、ハレー氏は、その血統に加えて、知的な顔立ち、高貴な振る舞いなどに惹かれて、スミス師に購入を指示したという。しかし本馬を購入した当のスミス師自身は「私はこの馬については何も知りませんでした」と語っているから、本馬の素質を見抜いたのはハレー氏だけだったということになる。

馬名はハレー氏の母親の生誕地である、英国スコットランドにある町の名前に由来する。愛称である「ハレーの彗星」は、馬主のハレー氏と、ハレー彗星の軌道を予測した天文学者エドモンド・ハレーの名前を掛けたものである。顔立ちが知的だった本馬だが、気性はあまり宜しくなかったようで、寄ってきた人間に噛み付いたり蹴ろうとしたりする悪癖があったという。豪州競馬においては牡馬を去勢して騙馬にすることは非常に一般的なのだが、小柄で気性が悪かったにも関わらず本馬が騙馬にされなかったのは、血統を気に入っていたハレー氏が種牡馬入りを見越していたからだと思われる。小柄な本馬は、厩舎内では“Little Joe(小さなジョー)”と呼ばれていた。ハレー氏の息子ピーター・ハレー氏は本馬を“Tiny Pony(小さなポニー)”と呼んでいたという。

競走生活(2歳時)

2歳9月にランドウィック競馬場で行われたブリーダーズプレート(T5F)でデビュー。調教で印象的な動きを見せていたために、単勝オッズ4倍の1番人気に支持されたが、豪州のトップ騎手ジョージ・ムーア騎手が騎乗するフライングクラナの1馬身半差2着に敗れた。翌週に同コースで行われたキャノンベリーS(T5F)では、前走で敵だったムーア騎手とコンビを組み、後の好敵手プリンスダリウスを2馬身半差の2着に破って勝ち上がった。メルボルンに移動して出走したグウィンナーサリーH(T5F)では、しばらく主戦を務めるA・ウォード騎手とコンビを組んで、2馬身差で勝利。続くマリビノングプレート(T5F)では、ムーア騎手が騎乗したコンサートスターの3馬身差2着に敗れた。しかしさらに5日後に出走したバイロンムーアS(T5F)では58秒75という好タイムで走破し、頭差で勝利した。

翌年2月のローズヒル2歳H(T6F)では58kgが課せられてしまい、ダイヤモンドビスタの1馬身1/4差2着に敗退。次走のマーソンクーパーS(T6F)もチェレーテの2馬身半差2着に敗れた。しかしVRCサイアーズプロデュースS(T7F)では2着エースハイに半馬身差で勝利した。アスコットヴェイルS(T6F)では57.5kgを課せられて、エースハイの2馬身差2着に敗れた。しかしさらに重い59.5kgを課せられたフェアフィールドH(T6F)では、再びムーア騎手とコンビを組んで、2着プリンスダリウスに1馬身半差で勝利した。

そのままムーア騎手を主戦に迎えて出走したAJCサイアーズプロデュースS(T7F)は僅か3頭立てのレースだったが、残り2頭はこの年に創設された豪州2歳馬最大の競走ゴールデンスリッパーSを勝ってきた同世代の有力馬トドマンと好敵手プリンスダリウスであり、相手にとって不足はなかった。結果は本馬がトドマンを2馬身差の2着に下して勝利した。しかし次走の豪シャンペンS(T6F)では60kgが課せられてしまい、8.5kgのハンデを与えたトドマンの6馬身差2着に敗れた。しかしブリスベンに移動して出走したQTCサイアーズプロデュースS(T7F)は、トドマン不在ということもあって、6馬身差で圧勝。2歳時の成績は13戦7勝だった。なお、本馬と同じく後に豪州競馬の殿堂入りを果たすトドマンとの対戦は3歳時以降には1度も無く、対戦成績は1勝1敗のままだった。

競走生活(3歳時)

3歳時は8月のウォーウィックS(T7F)から始動した。このレースは古馬混合戦であり、後にザメトロポリタンやメルボルンCに勝利するマクドガル、前年のAJCダービー・ヴィクトリアダービーの勝ち馬で後にザメトロポリタンやマッキノンSに勝利するモンテカルロ、ローズヒルギニー・AJCダービー・コーフィールドギニーを勝っていたカランナなど年上の実力馬が目白押しだったが、本馬が2着プリンスジャンボに首差で勝利を収めた。次走のローズヒルギニー(T10F)も2着プリンスダリウスに4馬身差で完勝した。さらにAJCダービー(T12F)では、ファーラップが28年間も保持していた2分31秒25のレースレコードを2秒以上も更新する2分29秒1の好タイムで走破し、2着プリンスダリウスに6馬身差をつけて圧勝した。

その1週間後にはメルボルンに向かい、コーフィールドギニー(T8F)に出走。前走から距離が大幅に短縮されていたが、2着ゲイサバに8馬身差をつけて圧勝した。さらに1週間後には、再び距離を伸ばして古馬相手のコーフィールドC(T12F)に出走。チッピングノートンS・トゥーラックHの勝ち馬マックズアンバーや、ヴィクトリアダービー・シドニーCなどの勝ち馬で後にマッキノンSやワシントンDC国際Sを制覇するセイラーズガイドなどの強敵が対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。レースでは道中で馬群に包まれてしまいピンチだったが、最後は抜けだして、2着マックズアンバーに2馬身差で勝利。勝ちタイム2分26秒9は全豪レコードタイムであり、芝12ハロンでは当時世界第3位の好タイムでもあった。

次走のヴィクトリアダービー(T12F)では、2着プリンスダリウスに8馬身差をつけて圧勝。これらの勝利により、本馬は同年のメルボルンCの大本命に押し出された。陣営も当初は参戦に前向きだったが、最終的には小柄な3歳馬の身でこのレースは厳しいという判断(本馬に課せられる予定だった斤量は53kgであり、コーフィールドCで背負っていた48kgよりかなり重かったことに加えて、やはり16ハロンという長距離が影響したようである)により回避となった。本馬不在のメルボルンCは、ザメトロポリタンを勝っていた5歳馬ストレイトドロウが、プリンスダリウスを首差2着に抑えて勝利している。これは結果論ではあるが、本馬が3歳時にメルボルンCに出なかったのは、豪州競馬史上に残る悲劇であるとされているようである。

代わりに出走したCBフィッシャープレート(T12F)では、セイラーズガイドを5馬身差の2着に破って勝利した。ブリスベンに移動して参戦したクイーンズランドダービー(T12F)も7馬身差で圧勝。しかしブリスベン滞在中に暑さのため皮膚に異常が発生したため、早々にブリスベンを後にした。

翌年2月のセントジョージS(T9F)は3か月の休養明けが響いたのか、1馬身1/4差の2着に敗退。勝ったのは、過去に本馬に1度も先着した事が無かったプリンスダリウスだった。次走のVRCクイーンエリザベスS(T13F)でも、セイラーズガイド、プリンスダリウスの2頭に屈して、セイラーズガイドの頭差3着に負けてしまった。しかしその後は立て直し、VRCセントレジャー(T14F)では2着ツキに12馬身差をつけて大圧勝。さらにローソンS(T9F)でも、カランナを3馬身差2着に退けて勝利。続いて出走したチッピングノートンS(T10F)も、2着バロンボワシエに5馬身差で勝利した。さらにAJCセントレジャー(T14F)では、2着プリンスダリウスに20馬身差という記録的大差で圧勝してみせた。AJCセントレジャーの僅か4日後には、距離が全然違うオールエイジドS(T8F)に出走して、2着となったドンカスターマイルの勝ち馬グルノーブルに3/4馬身差で勝利した。さらに3日後には再び距離を伸ばしてAJCクイーンエリザベスS(T14F)に出て、2着バロンボワシエに1馬身半差で勝利。3歳時の成績は16戦14勝だった。

病気により2年間を棒に振る

この頃には「豪州のみならず世界中で最良の3歳馬」とまで評されるようになっていた(当時の新聞にも“Best in the world”の文字が躍っている)本馬の名声は絶大なものとなっており、売ってほしいという申し出が豪州国外からも相次いだが、ハレー氏はそれを全て拒否した。逆に本馬のほうから英国や米国に遠征しようという動きもあった。

しかし4歳4月に本馬は急激に体調を崩し、食欲不振、消化不良、嘔吐、下痢、脱水などの症状が見られるようになった。スミス師に呼ばれて来た獣医師のパーシー・サイクス氏は、胃にウイルス性の感染症を患っていると診断した(日本では、本馬が患っていたのは回帰熱であるとする資料が多いが、海外の資料には「ウイルス性の胃疾患」又は「下痢や嘔吐を伴う病気」と書かれており、発熱していたと書かれているものは無い。回帰熱はその名のとおり発熱と解熱を繰り返すのが最大の特徴であり、本馬の病状とは異なっている)。病状はかなり重く、一時は生死の境を彷徨った。サイクス氏の懸命な治療により、どうにか生命の危機を脱出したときには、文字どおり骨と皮だけになっていたという。その後も体重がなかなか戻らず、いつしか1年が経ち、2年が経過しようとしていた。

普通であればそのまま引退となってもおかしくなかったのだが、ある日突然本馬の食欲は回復し、猛烈な勢いで食事を摂り始めた。その様子を見たスミス師は、現役続行は可能であると判断し、本馬の調教を再開した。一説によると、本馬にはワインとブランデーを混合したオート麦の粥が与えられていたという。本馬が休んでいる間に、豪州競馬の勢力図は大きく変わっており、本馬と同世代ながら3歳時までは振るわなかったロードが、アンダーウッドS・コーフィールドS2回・CFオーアS2回・豪フューチュリティS・オールエイジドS勝ちなど猛威を振るっており、やはり本馬と同世代馬のトレリオスも前年のアンダーウッドSとマッキノンSを勝つ活躍を見せていた。いくら無敵の最強馬だったと言っても、2年もの空白を経た後の復帰であり、さすがに厳しいのではないかという声も多く挙がった。賛否両論だった復帰の試みは、マスコミ連中の格好の的となり、新聞記者達はまるでミツバチが蜜に群がるかのように本馬陣営の周囲に集まってきて騒ぎ立てた。

競走生活(5歳時):復活

そして5歳シーズンも後半となった1960年3月のVRCクイーンズプレート(T10F)で、1年11か月ぶりに実戦に復帰した。この時期、欧州の大馬産家アガ・カーンⅢ世殿下の息子アリ・カーン王子に認められて渡欧していたムーア騎手は、前年の英2000ギニー・凱旋門賞やこの年の仏ダービーを勝つなど大活躍しており、本馬に騎乗することが出来なかった。そのため、ムーア騎手に代わって、やはり豪州のトップ騎手だったネヴィル・セルウッド騎手が主戦に迎えられた。本馬の復帰戦ということで非常に注目を集めており、フレミントン競馬場には、メルボルンC当日に匹敵する8万人もの大観衆が詰めかけた。しかしファンも半信半疑だったようで、1番人気に支持されたのは本馬ではなく、本馬不在時における最強馬ロードだった。しつこいマスコミ勢の攻撃により、ほとんど精神疾患になる寸前まで参っていたスミス師は「彼が今日勝たなかったら、いったい私は何をどうすればよいのでしょうか」と弱気だった。レースは本馬とロードのマッチレースの様相を呈し、直線でも2頭の大激戦が展開された末に、2頭が殆ど並んでゴールインした。写真判定の結果は本馬が短頭差で勝利を収めており、見事に復帰初戦を飾った。

次走のチッピングノートンS(T10F)では、トレリオスと顔を合わせたが、トレリオスを3馬身差2着に破って勝利した。続くAJCクイーンエリザベスS(T14F)では、コーフィールドCやヴィクトリアダービーを勝っていたサーブリンクとの対戦となったが、本馬が2年前の勝利時より6kg重い斤量を背負いながらも2着サーブリンクに1馬身1/4差で勝利した。さらにオータムS(T12F)も2着プリンスダリウスに6馬身差をつけて圧勝。ブリスベンに遠征して出走したPJオシーS(T10.5F)も、前年のメルボルンCの勝ち馬マクドガルを1馬身半差2着に下して勝利し、5歳時は5戦全勝の成績を残した。

競走生活(6歳時)

6歳時も勿論現役を続行。まずは9月のチェルムスフォードS(T9F)から始動して、2着セカンドアールに短頭差で勝利した。次走のコリンスティーヴンS(T12F)では60.5kgが課せられて、ヴァレリウスの1馬身差2着。次走のジョージメインS(T8F)も、セカンドアールの半馬身差2着に敗れた。しかし次走のクレイヴンプレート(T10F)では、本馬より3歳年下のカンタベリーギニー・AJCダービーの勝ち馬パーシャンリリックを6馬身差の2着に破って勝利した。続いてコックスプレート(T10F)に向かい、翌年のコックスプレートに勝利するコーフィールドSの勝ち馬ダウラギリを半馬身差の2着に破り、2分01秒1の全豪レコードで勝利した。次走のマッキノンS(T10F)では、VRCクイーンズプレート敗退後にアンダーウッドS・コーフィールドSを勝ってきたロードとの対戦となったが、ロードを半馬身差2着に破って勝利した。

次走のメルボルンC(T16F)では、64kgが課せられながらも、単勝オッズ4倍の1番人気に支持された。しかし結果は牝馬ハイジンクスの7着と生涯唯一の着外となった。このレースの敗因は斤量よりもむしろ、一時期は先頭から17馬身(資料によっては60馬身と書かれている)も離された後方を走るというセルウッド騎手の乗り方に問題があったとされており、各方面で“Bad Ride”“Worst Ride”と酷評されている。次走のCBフィッシャープレート(T12F)では、2着ダウラギリに5馬身差で圧勝した。

翌年は、欧州からいったん戻ってきたムーア騎手が再び主戦として迎えられた。まずは2月のセントジョージS(T9F)から始動したが、ダウラギリの1馬身差3着に敗退。次走のVRCクイーンズプレート(T10F)も、ロードの1馬身差3着に敗れた。さらにVRCクイーンエリザベスS(T12F)でもダウラギリの3/4馬身差3着に敗れ、デビュー以来初の3連敗となった。続くインヴィテイションS(T12F)も、パーシャンリリックの短頭差2着に敗れて連敗は4に伸びた。しかしAJCクイーンエリザベスS(T14F)では翌年の同競走に勝つニラルコを4馬身差の2着に下して勝利した。それから3日後に出走したオータムS(T12F)も2着ニラルコに6馬身差をつけて圧勝した。さらに2日後に出走したシドニーC(T16F)では、63kgを課せられてしまい、シャープリーの3/4馬身差2着に敗退。続くカルテックスクオリティH(T12F)でも60.5kgを課せられて、サベージの短頭差2着に敗れた。しかしSJプルマンS(T12F)では4馬身差で勝利した。さらに前年に続いてブリスベンに遠征し、PJオシーS(T10.5F)に出走して、2着アラジンズランプに6馬身差で勝利。次走が現役最後のレースとなるブリスベンC(T16F)となった。過去にこの距離では2戦2敗だった上に、斤量も過去2戦とさほど変わらない62.5kgという厳しいものだった。しかしシドニーCで苦杯を舐めさせられたシャープリーを直線で差し切り、1馬身3/4差をつけて勝利を収め、有終の美を飾った。

6歳時の成績は19戦10勝だった。獲得賞金総額は11万123豪ポンドに達し、豪州競馬史上初の10万ポンドホースとなっている。本馬が出走したレースの今日における賞金額で換算すると、560万豪ドルを獲得した計算になるという。本馬は距離5ハロンから16ハロンまで勝ち星を挙げ、現在GⅠ競走に位置付けられているレースでは合計19勝を挙げている。

血統

Khorassan Big Game Bahram Blandford Swynford
Blanche
Friar's Daughter Friar Marcus
Garron Lass
Myrobella Tetratema The Tetrarch
Scotch Gift
Dolabella White Eagle
Gondolette
Naishapur Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Udaipur Blandford Swynford
Blanche
Uganda Bridaine
Hush
Florida Salmagundi Phalaris Polymelus Cyllene
Maid Marian
Bromus Sainfoin
Cheery
Salamandra St. Frusquin St. Simon
Isabel
Electra Eager
Sirenia
Island Linnet Song Bird Kilbroney The Wag
Innismakil
Grey Linnet Thrush
Marie Legraye
Unawed Markhope Marcovil
Nadejda
Unawares Gipsy Grand
Ambush

父コラサンはビッグゲームの直子で、アガ・カーンⅢ世殿下と息子のアリ・カーン王子の共同生産・所有馬だった。競走馬としてはケンプトンパーククラシックトライアルS・ディーSに勝つなど7戦2勝の成績だった。引退後は豪州の馬産家レナード・S・オットウェイ氏に購入されて、オットウェイ氏が所有していた新国トレローニースタッドで種牡馬入りした。新国で本馬を含めて18頭のステークスウイナーを出すなど成功したことが評価されて、後に米国に輸入されたが、米国ではあまり成功できずに1965年にカリフォルニア州において18歳で他界した。

母フロリダは新国産馬で、現役成績60戦4勝。エイボンデールC・ローソン記念Hに勝ち、ミッチェルソンCで2着2回がある。この3競走はいずれも距離11~12ハロンだったことから、割とスタミナ豊富な馬だったようである。1958年には本馬の活躍により新最優秀繁殖牝馬に選ばれているが、母としては本馬を含めて僅か3頭の子しか産むことが出来ず、ステークスウイナーも本馬のみである。この牝系から出た活躍馬は非常に乏しく、かなり離れてもこれといった馬が出てこない。→牝系:F24号族

母父サルマガンディはファラリスの直子で、英セントレジャー・デューハーストSなどを制したサーモントラウトの半弟で、英1000ギニー馬エレクトラの孫という良血馬だが、競走成績はよく分からない。種牡馬として新国に輸入されて成功を収めている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ハレー氏が所有していたテクーナスタッドで種牡馬入りした。種付け料は500ギニーに設定されたが、これは過去に豪州や新国で供用された種牡馬の中では最高額だった。1963年3月にハレー氏が死去した後は、ハレー氏の息子ピーター・ハレー氏が所有していたオールドゴワングスタッドに移動した。しかし本馬は種牡馬としては人気が出なかった。その理由は、種付け料が高額すぎたこともあるだろうが、自称「馬産における知識人」達の間で、現役中の2年間に渡る闘病生活で、本馬の遺伝的構造に何らかの異常が生じているのではないかという噂が流れたためでもある。もっともこれは後の話であるが、日本でも天皇賞馬メジロアサマが現役時代に患った馬インフルエンザの治療の際に使用された抗生物質の影響で、受精率が大幅に低下した(抗生物質の影響だという確実な証拠は無いが)という例があり、似たような事例が本馬以前の豪州にもあったのかもしれない。数少ない産駒の中から天皇賞馬メジロティターンなどの活躍馬を出したメジロアサマと異なり、本馬は僅か2頭のステークスウイナーしか出すことが出来ず、種牡馬としては失敗に終わった。1969年6月にオールドゴワングスタッドにおいて15歳で他界した。

2001年には、カーバイン、ファーラップ、バーンボローキングストンタウンと共に、初年度で豪州競馬の殿堂入りを果たした。2008年には新国競馬の殿堂入りも果たした(ただしこちらは初年度ではなかった)。母父としてはシドニーコーヴ【カンタベリーギニー】やタルマックス【ジョージメインS(豪GⅠ)】を出しているが、本馬の血を引く馬は今日では殆ど残っていないようである。

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